黒い糸杉(悲鳴嶼行冥)
※男主
己の邸の一室は、昨晩まで一人の男が寝起きしていた。継子を持たぬ己には継子同然であり、弟子のようであり、また同士でもあった。
正しい剣を使う男であった。大太刀がひょうと空を斬る音に似て、強く、潔く、清々しい男であった。
ナマエの気配に満ちていた室内は伽藍堂と化し、きっちりと畳まれた布団と隊服、そして日輪刀だけがぽつんと残されていた。触り慣れた隊服の生地を指に引っ掛け拾い上げる。体温を失った着物はだらりと力無く垂れた。ぽと、ぽと、と涙が零れる。
「鬼殺隊を辞そうと思っております」
意思の決まった声でナマエは言った。そうか、としか答えることが出来なかった。ナマエは温厚ではあったが、己で決めたことをおいそれと覆すようなことはない。その声音を聞けばそれが鋼の如き決意のもとに発されたことは確かであった。
「悲鳴嶼殿に一番に聞いて頂きたかった」
「それは、なぜ」
ふ、と息を吸う音がした。
「わかりません」
そうか、とまた呟く。
「お館様には、」
「いいえ、まだ」
「急ぎ言うべきだ」
「――はい」
ナマエは強かった。五年、鬼殺隊に属し続けたことがその証であった。体格と剣の才に恵まれていた。それに驕ることなく鍛錬も欠かさなかった。凄絶な剣を振るう男であった。研ぎ澄まされた蛤刃が鬼の筋繊維を断ち骨を砕く音が美しかった。
「――辞めるのか」
呻くように悲鳴嶼が問うと、ナマエの衣擦れの音がする。
「理由を聞いても構わないか」
ナマエの頸がこちらに捻られる気配がした。
「急に恐ろしくなりました」
「何が――」
「私の行っていることは、果たして正しいのか」
「鬼を殺し、人を助くことが?」
「そうせよと、うないを唆すことが」
悲鳴嶼は見えぬ目を閉じる。
「そうせねば救われぬ者もいる」
「ええ、分かっております。私もそうでした」
婚約者を喰らわれた昏い怒りが、ナマエの端正な剣戟にはいつでも滲んでいた。それを感じられなくなったのは、いつの頃からであろうか。
それを悲鳴嶼はうっすらと感じていた。だが認めたくはなかった。それを認めては、己の腹の底で怒りが焦げ付いていることが、無性に虚しく浅ましく感じられてしまうからだ。
「私の中の阿修羅の如き怒りが、薄まり淡くなってしまったのは時薬のせいでありましょうか。それとも私自身の弱さの為せる業でしょうか」
囁くような言葉には自嘲に似た笑みが滲む。
「お前が弱いなどということは――」
そんなことはない。この男が弱いはずがなかった。五大流派の中でも頑強な肉体をこそ求められる岩の呼吸を研ぎ澄ませたナマエが、弱いなどということはあり得ない。
盲いた己にさえ感じさせる分厚い肉体の存在感、落ち着いた呼吸、透徹な判断力。どれをとっても次代の柱足り得た。願わくば、どうか己と並び立ってはくれぬか。その願いを、この男も承知しているものだと思っていた。
私は、とナマエは悲鳴嶼の言葉を遮る。それは悲鳴嶼が覚えている限り、初めての事であったように思う。
「――私には復讐心を糧に火を燃やし続けることは出来なかった」
「許嫁は――」
悲鳴嶼がそれを口にすると、ナマエは痙攣のように息を吸った。
「美津のことを――!」
呼吸が乱れ、冷えた汗のにおいがした。
「思わないことはない、片時も」
絞り出すように紡がれた言葉に、く、と胸の奥が痛んだ。
「それでも、私は日々忘却していく。あれほど慕った彼女の声は、もう思い出せない。死んだ人間なのです、過去の人だ、悲鳴嶼殿、私にはそれが分かっていなかった。怒りが目を晦ませていた。死んだ人間のために多くの少年を死に追いやった。死んだ頃の美津と変わらぬ歳の少女もいた」
「必要なことだった、ナマエ……」
「私のやったことです。私と――悲鳴嶼殿のやったこと。鬼のせいではなく、我々の咎ではありませんか。我々にはそれを負う義務があり……私はそれに耐えられなくなった」
面倒見のいい男であった。後輩に慕われ、剣士となれぬほどに幼い子供たちにもよく好かれていた。彼はきっと頬の大きな傷を笑い皺と見分けがつかなくなるほど顔をくしゃくしゃにして笑いながら子供を見ていたのだろう。
「悲鳴嶼殿、悲鳴嶼殿は、鬼への怒りを絶えず燃やしていらっしゃるのですか」
そうだ、と短く答える。水っぽい息を吸う音がした。
「私はあなたのように強くはあれなかった。しかし、これが弱さだというなら――私は弱くていい」
水の匂いがする。矜持が高く、不器用で、感情を思う侭表立つことを良しとしない彼が己と交感したのは、己が盲目であったからではないだろうか。悲鳴嶼はふとそう思う。
二人でいるときのナマエは、皆に言われている程出来た男ではなかった。純朴で感受性が強く傷付きやすい、ともすれば精神的に脆く神経質な面さえあった。だが悲鳴嶼はナマエのそういう部分をも、好ましく思っていた。
「お前を失うことは、鬼殺隊にとって大きな痛手になるだろう」
それは悲鳴嶼の偽らざる本心である。
「それは私を引き留める言葉には成り得なくなってしまいました」
痛みを堪えるような声音が、殊更冷ややかにそう答えた。
「――育手には、ならないのか」
数多の鬼を斬り、その血の匂いと猩々緋鉄鋼の匂いが骨の髄まで染み付いた人間が、丸腰で野に放られて無事でいられるはずがなかった。それは緩慢だが確実な自死の念慮であった。
己の死を、仲間の死を厭わぬ己が、彼の死を遠ざけようと願うのは賎陋であろうか。
いいえ、と小さく呟く声がした。そうか、と小さく応えた。
「顔を――」
「はい」
「触れさせてはくれぬか」
戸惑うような沈黙。悲鳴嶼はゆるりと手を持ち上げる。冀うように、縋るように、大きな掌を差し出す。
「お前の顔を忘れないように」
ふ、と空気が緩む。男が笑う気配がした。きっと顔の傷が分からなくなるほど、顔をくしゃくしゃにして笑っている。或いは、泣いているのかもしれない。
空にぽっかりと浮いたままの手を、厚く大きな手で握られる。隊服の擦れる音がして、指先に固く引き結ばれた唇が押し当てられる。
「どうか私のことは忘れてください」
そう囁いた男の湿った息を、その温度を、今際の際まで忘れずにいたいと願った。
企画「鬼も寝る間に」提出
お題「さよならのキス」