燻る死



※「黒い糸杉」プロトバージョン


 □□□□は鬼殺隊士であった。階級は甲、狩った鬼は五十と幾何。その中には眼球に数字を彫り入れられたものもあった。次期柱として誰が有力かと問われれば、隊の者は一番手か二番手に名前を挙げた。謹厳実直で温厚篤実、鬼を前にすれば勇猛果敢。後輩に慕われ先輩に信頼篤く、まさに全ての隊士が手本にすべしと称される剣士であった。
 そして今日をもって鬼狩りを辞す。隊服を畳み、日輪刀をその上に置く。小さく息を吐く。
 体格と知覚と剣の才に恵まれていた。単純な剣の腕、足捌き、呼吸の確かさでは九柱をも上回っているという自負があった。十五で婚約者を鬼に殺され、それから五年、ただ鬼を滅することだけを考えてきた。
 人を喰らう悪辣な怪物。血と臓腑の悪臭が漂う、汚らしい、醜い、貪婪で、卑怯な、狂悖な、暴戻な、返せ、戻せ、あの人を、己の平穏を、あるはずであった未来を、光を――それだけを考えて五年。己の中の狂おしい憎悪が、衝動が、熱狂が、薄れていると気が付いたのはいつの頃であっただろうか。
 復讐心は熱病のようなものだ。赫と体を熱くし、何でも成し得るような夢心地になる。己の体が望外に動く。それを己の実力と幻覚する。ぼうとして物事を器用に考えられなくなり、差し伸べられた手に赤子のように縋ってしまう。その手の主の思惑を如何とする判断力は失われている。
 だが熱病のようであるから、それはいずれ癒される。復讐の達成か、人か、物か、環境か、忘却か、己にとってそれは時間だった。それだけのことであった。
 自暴自棄になったのではない。己の腕の中で冷たくなった愛する人のことを忘れたわけではない。ただ、ふと、己はそれでも生きているのだと気が付いた。腐臭漂う血だまりの周囲をぐるぐると回っているつもりが、いつの間にか前を向いて歩いていた。
 それに気が付いた時に愕然とした。己は生きようとしている。それではいけなかった。鬼殺は常に死兵でなければならない。明日を望んで鬼に切っ先は届かない。
 そして己の背後にかつての己のような目をした子供たちが付き従っているのを見て、苦いものが込み上げた。熱に浮かされたような、朦朧とした、ただ憎悪に濡れるだけの目であった。
 隊士は皆若い。十五か、十六か、中には立志も済まぬような子供さえいた。それが櫛の歯が欠けるように死んでいく。肉の欠片と化した仲間を前に、遺された若い隊士たちがまた復讐を誓う。
 鬼殺隊士は、素直で、生気に満ち溢れ、柔く、脆く、染まりやすい子供ばかりであった。これは何だ、と思った。何人もの後輩を指導し戦場に送り出した。半分以上が死んだ。悪鬼滅殺の旗印の下、必要な犠牲だと信じていた。
 家族を、愛する人を、日常を喪い錯乱し惑う子供に、復讐を果たせと囁き、憎悪を煽り立て、刀を握らせることが、果たして正しかったのか。一人鬼を倒せば多くが救われるか。それをする者が体も心も成っていない子供である必要があるか。分からない。分からなくなってしまった。
 熱狂から覚め、己の頭で考え、判断し、当然に疑義を挟むようになった時、鬼殺の剣は鈍る。ここでは成った者から死んでいくのだ。小童の軍隊。無頭の兵士。幻惑の指揮官。死の行軍。吐き気がした。
 だから、刀を置くことにした。
 逃げか。そうではない。贖罪か。それも違う。ただこのままではいられなかった。衝動か。おそらくそれが一番近い。
 退役を決めた己に、誰も驚きを隠さなかった。そうであろう。その前の晩に強力な鬼を討ち果たしていた。部下は六人死んだ。二人が再起不能になった。人の手を借りねば生きていられぬ体になった。多くが大小の傷を受けた。己も傷を負った。だが戦えないほどではなかった。当然次も戦うものだと期待された。
 喜ばしいのだろうか、己が欠けることは鬼殺隊にとって何がしかの損失になるだろう。ある者は「怖気付いたか」と責めたて、ある者は「一時の気の迷いだ」と宥め、ある者は「考え直せ」と説得にかかった。心は変わらなかった。
 特に己を後継足り得ると考えていた柱は怒り、嘆き、口惜しんだ。分かっているのだろうか、己が後継となるときは九柱の誰かが斃れた時だ。それが己かもしれないという恐怖は無いのか。それとも無いのは想像力なのか。
 己にとって柱はもはや柱足り得なかった。憎悪の詰まった空箱であった。その止め処ない憎しみは、狂乱は、悪意は、いったいどこから湧いてくるのだ。彼らは赤子のようだ。一片の曇りなく、無垢で、素直で、健やかで、豊かな湧き水のように滾々と厭忌を垂れ流している。ぞっとした。
 筋肉を纏い、剣技を極め、鬼を殺戮する赤子に己は成りたいか。成り得るのか。あれもまた一つの才覚ではないのか。己に足りぬのは恭順の心か。産屋敷への、鬼殺への、憎悪への。
 人はそうまで一つのことを思い続けられるのか。己は無理だった。それが弱いというならば、弱くていい。
 もう何年も袖を通していなかった着物と羽織に袖を通す。五年の間に時代遅れになってしまっただろうか。それすら分からなかった。見送りはなかった。それで良かった。
 育手にならないか、と己の意志が固いことを知った柱が言った。最も年嵩で、一番己に目をかけていた男であった。己は首を横に振った。育手となり、弟子を取らぬことも出来る。己はそれを良しとしなかった。
 長く鬼殺に身を窶し、鬼の血と猩々緋鉄鋼のにおいが染み付いた己が、丸腰で門を出ればどうなるか。そんなことは考えずとも分かった。緩慢な、だが確実な自死であった。