一
山繭白瀬は齢十五で全てを失った。文字通り命以外の全てだ。帰る家も、愛する家族も、財産も思い出も尊厳も、幼い頃祖母にもらった端切れで作った小さな手玉でさえ。魔を避けるようにと赤い小豆を詰めた手玉は、煉獄の如き炎で跡形もなく焼けてしまったものであろうか。焼け落ちる家屋を見ながら、白瀬はぼんやりとそんなことを思っていた。
鬼と呼ばれるものが説話や伝承の類ではなく事実存在するということを白瀬はそのときはじめて知った。絵本の挿絵のように赤い膚と牛の角を持ってはいない。涼し気な薄墨色の着物を着た、すらりとした青年だった。女のように長い黒髪を背に垂らし、色の白い細面に狐のような笑みを浮かべていた。端正な顔を血で汚し、芋でも食うのと変わらぬような気軽さで白瀬の妹を齧っていた。今年で六つになる可愛い末の妹は、半身を食らわれながら片方しか残らぬ大きな瞳でぐるりと白瀬を見た。薄桃色の脳味噌を啜られながら、妹は確かに白瀬を見たのだ。妹の白目には油膜のように薄い赤の液体が張っていた。中から押し出された眼球が瞼を押し上げ今にも零れ落ちそうだった。震える舌が口腔であったであろう場所でうねうねと物言いたげに蠢いていた。
稀血、と鬼は言った。それが鬼にとって仙薬の如き効を発するものであるということを白瀬が知るのは後の話である。それが己の身体に巡っていることも。家族が己の血を目当てに惨たらしく殺し尽くされ、汚らしく食い散らかされたことも。遺骨も思い出も残らず焼き尽くしたのが血鬼術と呼ばれる不可思議な血の業によるものであったことも。
白瀬は知らなすぎた。己の血が鬼という絶大な力を持つ生き物に対してどういう影響を与えるかについて無知であった。だがそれを只人として生きてきた白瀬は知る術もないのだ。ある日突然圧倒的な力で蹂躙され尽くされ気が付く。己の血は――己は、存在すべきではなかった。生きていれば鬼を誘い引き寄せ、死ねば鬼の糧となる。家畜にすら劣る肉の袋が己であった。
鬼の首を落とした男が言うことには、全てを失った白瀬に残された道は二つきりしかなかった。鬼の滋養となる前に自ら死を選ぶか、鬼に喰われる前に殺すか。失意に沈み絶望に暮れ己を呪う白瀬は後者を選んだ。敵討ちか。そうではない。己と同じような思いをする者を一人でも減らしたいか。そんな崇高な大義であるものか。白瀬はただ、奪われた分だけ奪いたかった。
白瀬は老いた男のもとへ連れられ、剣の稽古を始めた。生まれてこの方真剣など握ったことがなかった。剣戟など芝居か読み本でしか見たことがなかった。だが白瀬には天賦の才があった。帯刀禁止令が国の果てまで遍く知れ渡り、戦場では強大な重火器が使われている。鬼と遭遇することが無ければ、死ぬまで腐らせ続けていたであろう才だ。皮肉なものだ、と白瀬は思った。
育手のもとで異様な速度で剣技を身に付ける白瀬に周囲は士族の子だ、鬼殺の家の末裔だ、と囁き交わした。だが白瀬は裕福ではあったが変哲ない絹問屋の子でしかなかった。白瀬が知っているのは質のいい生糸の見分け方と、帳簿の付け方くらいのものであった。艶やかな絹糸と筆ばかりを持っていた手は、あっという間に節くれ立ち傷だらけになった。厭いはしなかった。そう感じる情緒は家とともに焼け落ちた。白瀬の心の虚を埋めるのは、正確な足運びの永遠にも思える反復稽古と骨が軋み肉の裂ける痛みだけであった。
稽古を始めて半年もすればそのとき育手のもとにいた者の中で白瀬にかなう者はいなくなった。しかし白瀬の育手はその年の最終選別に白瀬を推薦してはくれなかった。古木のような育手は曰く「技と体が成っても心が成っていない」と。白瀬はそれを承知した。同時に育手が求めるような心構えを己が得られることはないことも受け入れた。育手も次の一年でそれを知らしめられたのか、今年何も言わずに白瀬を選別に向かわせた。
山繭白瀬は十七歳になろうとしていた。
最終選別を突破した山繭白瀬が見たのは、東の空を薄赤に染める日の出と、片手で数えられる程度まで人数の減ってしまった受験者の姿である。白瀬は生き残った受験者をなぞるように見分していく。地面に座り込み、或いは立木に寄り掛かって息を切らしている受験者たちに無傷の者は一人もいない。指の大半を失いすすり泣く女の姿を見て、あれでは生き残ったとて剣士となることは叶うまいと低く息を吐く。
白瀬は鉤裂きになった袴を指先で弄る。童女姿の少年が、穏やかな微笑みを浮かべて生き残りの数を数えていた。ほっそりとした指が、つ、つ、と一人一人を指していく。最後に白瀬を指した指が、次いで白瀬の背後を指した。
他に突破者はいなかったはずである。白瀬は眉をひそめて背後に首を巡らせる。深く濃い暁闇から、日に焼けた腕がぬっと突き出した。血と土で汚れた指が、真っ直ぐに生き残りの一人を指差す。
「テメエ! そこのテメエだよ! 分かってんだろ!? そう、テメエだテメエ!」
雷が落ちたような怒声であった。それが耳元で炸裂したのだから堪らない。声の主は白瀬とそう歳の変わらぬ男であった。まだ辛うじて少年と呼んでも構わない年の頃に見えた。どこか幼さの残る顔をしているが、その顔を怒りで引き攣らせている。日に焼けた顔の目立つ白い歯が怒りでかちかちと音を立てた。
「おい」と苦言の一つも呈してやろうとする白瀬を歯牙にもかけず、男は指差した相手に詰め寄ると問答無用で憔悴しきった顔に蹴りを入れた。
めき、と聞くに堪えない音がする。あれは頬骨がいかれたぞ、と白瀬は顔をしかめる。その見立て通り、蹴りを入れられた男の顔はみるみるうちに腫れ上がっていった。
「テメエ俺を囮に逃げやがったな! あやうく死ぬところだぞ!」
立て続けに顎を殴られ、腹に蹴りを入れられた男は、反撃する余力もないのかぐったりと地面に蹲っている。誰もが生気を失っていた。この状況下で顔を真っ赤にし息を荒げて怒り狂うことの出来る男の方が異常なのだ。
白瀬は男の襟を掴んで引き剥がす。男は血走った眼を白瀬に向けた。
「ンだ、てめえもぶん殴られてえか!?」
「おまえ、名前は?」
「あ゛ァ!?」
白瀬は男の頭から爪先を見る。打撲、裂傷、挫傷、疲れ果ててはいるが、他の人間よりは遥かに軽傷だ。
「おまえみたいな熱くなりやすい奴はすぐに死ぬ。せめて同期の私が名前くらいは覚えておいてやる」
そう言われた男は目を丸くし、次いで哄笑した。
「おまえ、面白いけど業腹だなァ!」
言うのと同時に胸倉を掴み上げられそうになったので、白瀬はそれを避けて足払いをかける。後頭部を強かに地面に打ち付けた男は白目をむいた。気を失う寸前、震える黒目で白瀬を力なく睨んだ男は一言「簗」と呻いた。どうやらそれが男の名であるらしかった。
選んだ玉鋼から鍛刀された日輪刀が手元に来たのは、選別から二十日後のことであった。
りん、りん、と耳慣れぬ硬質な音を聞いた。途端に鎹鴉がけたたましく鳴き喚く。何事かと表に出れば、長い包みを負った男がこちらへ向かってくる。目深に被った三度笠で人相までは見えないが、体つきや足の運びから歳の頃は二十半ば程であろうと白瀬は判断した。
男は迷いのない足取りで白瀬の眼前まで近寄る。笠の縁にぐるりとつけられた風鈴が、動くたびに音を立てる。三度笠の下にはどういう理由であるかは知れぬが火男の面をつけていた。ぎょろりとした大きな目はどこを見ているのか判然とせずに不気味である。正体とも思えぬ姿であるが、白瀬は眉をひそめただけで何も言わなかった。鬼に家族を鏖殺されてからこちら、多少の「奇妙」に心が漣立つことはなくなった。
男は負った荷を下ろすなり白瀬の目の前に突きつける。桐刀箱が鼻先にぶつかりそうになり、白瀬は上体を仰け反らせた。男は白瀬の困惑に構わずに白瀬を睨む。
「早くしろ」
挨拶の一つもなく男は言った。
「何が」
白瀬が問えば、男は面越しにでさえ分かるほど苛立たしげな様子になった。
「何が? 呆けてやがるのかお前は。刀を抜けよ。それ以外に何がある」
男はその場で刀箱を開けた。一枚板の上等な蓋も箱も構わず地面に落とされる。まだ漆の匂いのするような鞘を突きつけられた。
「早く抜け、俺が打った刀だ」
「――あなたが?」
白瀬は目の前の男を見た。鍛冶師よりは芸人に見える。芸人よりは狂人に見えた。ちりんちりんと風鈴が激しく鳴る。たとえばその奇矯な風体で以て余人の目を逸らすことが目的ならば成功しているといえるのかも知れない。
「そうだ。俺が打った」
「そうですか」
「鋼鐵塚だ」
「――何が」
「俺がだ」
「ああ」
白瀬は刀を受け取りするりと抜刀した。陽の光を浴びて白く鋭い輝きを帯びていた刀身が、濡れたように青鈍に変じていく。男――鋼鐵塚はそれを見て鼻を鳴らした。
「辛気臭い色だ。だが悪くねえ」
白瀬は青みを帯びた刀を見てわずかに安堵する。日輪刀が己の呼吸の適正に合わせて色を変ずるのは知っていた。白瀬の育手は水の呼吸の使い手で、貸し与えられた刀の刃も澄んだ瑠璃色をしていた、白瀬は水の呼吸が己の肌にあっていると感じていた。だから水の呼吸に適正のある色が刃に顕れたことは、素直に嬉しい。
「鋼鐵塚殿と申されましたか」
「お前、なんだかひ弱そうだな。そんなんで俺の刀を振るえるのかよ」
「あなたは刀鍛冶と――」
「ああ、くそ、ようやく担当を任されたと思えばひょろいガキじゃねえか」
「……私の話を聞いてはくれませんか」
「ああ!? ごにょごにょぐちゃぐちゃうるせえな! なんなんだよ!」
白瀬は口を噤む。これを職人気質で片付けていいものであろうか。どうやら相当に気性の激しい男であるらしい。白瀬はふと先日の選別で顔を合わせた男を思い出す。
「もしも育手から教えを受けた呼吸と日輪刀に顕れた適正が別物であればどうなりますか」
白瀬が問うと、鋼鐵塚はいかにも興味なさそうに肩をすくめた。
「さあな、刀鍛冶の知ったことかよ」
ぎゃあ、ぎゃあ、と鎹鴉が啼く。地名と任務の由を何度も繰り返す。黒い翼が白瀬の頬を打った。急かされるままに育手に挨拶をし旅装を整えている間に鋼鐵塚の姿はなくなっていた。礼のひとつも言い損ねた、と白瀬は思う。次に会うときは礼を言わねばならぬと心に留め置いた。
西多摩郡の外れ、見渡す限りの山並みと僅かな平地にささやかな田畑が張り付いている。裕福な村とは言い難い。頼るようにと言い付けられた藤の家があるような様子もなく、宿がありそうにもない。
鎹鴉のどこか要領を得ない喚き声によれば、事の始まりは四年ほど前に遡る。何のことはない、山に入った人間が、一人二人と帰らなくなる。獣の仕業かと山に入った猟師の一団が消え、犬だけが帰ってきたときに村の者はこれは尋常ならざる者の所業ではないかと言い交わし始めた。とはいえ林業と炭焼を生業とする村で山に入れないことは村ごと干上がることを意味していた。何かも分からぬ捕食者の目を盗むように細々と山に入り、無事に帰る者もいれば二度と姿を見せぬ者もいる。やがて人の消えるごとに人心は麻痺していく。二ヶ月に一人で済めば「最近はおとなしい」とどこか安穏とした空気さえ漂うようになる。山間の小さな村のことである。警察も本腰を入れて捜査することはなかった。せいぜいがおざなりに聴取をして家出人として登録される程度である。
農道をとぼとぼと歩く白瀬はもう半刻あまり誰ともすれ違うことはなかった。点在する家屋から夕飯の炊事の煙が上がっていた。日が暮れるまでどこに身を寄せようかと考える白瀬の背後で殺気が膨れ上がった。鬼か、と刀に手をかけた白瀬の目に飛び込んできたのは、鬼殺の隊服に身を包んだ簗の姿である。固めた拳を振り上げて、抜かれた白瀬の刃に臆すことなく踊りかかってくる。どうしてここに、と思うより早く振り上げられた拳が真っ直ぐ白瀬の方に飛んできた。顔を合わせたのは二度目であるが、相変わらず引き絞られ放たれた矢のような男だ。
白瀬は柄で簗の拳を受け、勢いのまま振り払う。拳を逸らされた簗は前のめった体を勢いよく反転させ、白瀬の頬に裏拳を入れた。白瀬はそれを手のひらで受ける。じん、と肘まで痺れた。どこの流派かは知らないが、剣の腕を抜きにしても喧嘩慣れした男である。家族を殺されるまで人を殴ったことさえなかった白瀬とは年季の入り方が違う。
「そのスカしたツラに一発入れようと思っていたのによゥ!」
簗は受けられた拳を忌々しげに睨みながら吐き捨てる。白瀬は刀を納めて簗を睨んだ。
「隊士同士の諍いは規律に反する。あんまり強く頭を打ち付けたせいで忘れっぽくなったか」
「白瀬っつったな! へへ、他の奴に聞い――おい、今、俺のこと馬鹿にしたか!?」
馬鹿にしたつもりはなかった。だが――賢い男とは思えない。白瀬はそうは言わなかったが、簗は顔を真っ赤にして怒りだす。
「舐めたこと言いやがるなあ、おい! 俺ァこの場で鬼殺隊なんざ辞めてテメエを袋にしたっていいんだ!」
「そうか、好きにしろ」
白瀬は簗を無視して歩を進める。簗は鎹鴉より騒がしく喚き立てながら白瀬の後をついてくる。どこかへ行ってはくれぬか、と白瀬は内心で辟易とする。体を休める場所を探して木の陰をうろつく白瀬に、簗は訝しげな目を向ける。
「何やってんだよ」
「休む場所を探している。おまえも好きな場所を探せよ」
「は? おまえ、外で寝るのか?」
眉をひそめる白瀬に、簗は唇の端を上げた。
「ふうん、育ち良さそうなのになあ」
にやにやと笑う簗は白瀬を蹴飛ばし立たせると「ついてこい」と顎をしゃくった。なんだとは思うが突っぱねる理由もない白瀬は、諾々と簗の後に続く。
簗は竃の煙を細く上げる民家の前に立つと、遠慮なくその木戸を叩いた。初老の女が戸を開ける。余所者を見る目が簗を、次いで白瀬を見た。洋装の奇妙な二人組みに女は不審げな顔を隠そうともしなかった。
「なにか――」
「どうもぉ、俺は簗って者なんですけど。実はこの辺に用事があったのに迷っちまったんです。良ければ軒先なんか貸していただけりゃ、そこで静かに寝るんで。どうかよろしくおねがいします」
「は、はあ……?」
「あっ、怪しいと思ってるでしょ? まあしょうがねえよなあ、でもまあ俺がカワイイ女の子だってなら話は別だろ? 今夜ばっかりは俺をカワイイ女の子だと思って軒下貸してくれねえかい」
白瀬は「何を言っているのだこいつは」と目の前の簗の後頭部を凝視する。女は目を丸くして「何言ってんだいあんたは」と呆れたように言う。簗はへらへらと笑った。そうしていれば歳相応に可愛げがあるように見えた。女にとっては息子より若いような歳の頃である。
女は溜息をひとつついた。
「軒先なんかうろつかれちゃ困りますよ。裏に納屋があるからそこを使っていいよ」
「へへ、そりゃありがてえ。あ、いい匂いだなあ! 何の汁? これ鳥?」
「雉だよ。いやしい奴だねえ。ほら、分けてやるからさっさと納屋に行きなよ。全く、日が落ちてからうろついていたらももんがあが出るんだよ」
女は簗に小鍋に移した汁と握り飯を押し付ける。白瀬はすでに小鍋に夢中になっている簗を押しのけた。
「ももんがあというのは――」
女は言いよどんで肩をすくめる。
「子供騙しじゃないんだよ。信じられないだろうけど、このへんじゃ夜中に山に入った人間はももんがあに攫われちまう。正体は破落戸か獣かは分からないがね、あんたたちも気をつけなさい。悪いことは言わないから、明日発つのは日が高く上がってからになさいな」
「その、ももんがあというものは、山を下りることはないのですか?」
「さあねえ、あたしには分かりませんよ」
「姿を見たものは」
「いないね、みんなそっくりいなくなるんだ。声を聞いたやつもいない」
白瀬は話を聞いているのかいないのか握り飯を頬張る簗を横目に、女に問う。
「最後に村人が消えたのは」
「三月は前だねえ。きっと奴も腹を空かせているだろうよ」
それを聞いた白瀬は簗を睨んだ。
「さっさとその小鍋をお返ししろ。おまえは一体何をしにここに来たんだ」
白瀬は小鍋を簗から奪うと丁重に女へと返す。
「御厚意大変痛み入りますが、急な用事ができました。御暇させていただきます」
名残惜しげに鍋を見ている簗を追い立てるように山の方へと足を向ける。女は心配そうな視線を二人に向ける。簗は不満げに鼻を鳴らした。
「なんだよ、今日の宿と飯を用意してやろうってのに」
「おまえはここに物見遊山で来たのか? 鬼は夜に出るんだ。雉鍋食べて寝ているつもりだったのか?」
それに、と白瀬は言い募る。
「おまえのやっていることはたかりだぞ」
「だからなんだ。俺は飯炊き覚える前に飯をたかることを覚えたんだ」
「胸を張って言うことか」
白瀬は眉をひそめる。釣瓶落としのように早々に暮れる日を見た。地平線が淡い茜色に染まり、夜の帳が落ちてくる。鬼の蠢く時間が来る。白瀬は息を詰め、山中に分け入る。強張る背中に簗が声を投げかけた。
「おい、言っておくが俺だって何も考えてねえわけじゃねえんだぞ。こっちは鬼の情報もねえし、居場所もわかんねえんだ。飯を食って英気を養ってから作戦を練った方が良いだろ。無策で広い山ン中うろつく気か?」
ただの阿呆というわけでもないのだろうか。白瀬は簗の顔をまじまじと眺める。
「あ、おまえ今失礼なこと考えてるだろ」
「そうでもない」
「そうでもない?」
白瀬は暗い山道を登る。談笑する気にもならず黙々と足を動かした。背後から簗の浅い息遣いが聞こえる。呼吸を修めているにしては、浅く軽い呼吸だった。
はじめての任務だ。喉の奥が貼り付いたようになって、息をしているはずなのに息苦しいような気がする。緊張している、と白瀬は己の胸を押さえる。対して簗は、白瀬にはあまり緊張していないように見えた。
「簗、任務は初めてではないのか」
「あ? ああ、一件片付けてきたんだ。でもまああれならヤクでブッ飛んだバカのほうがよっぽどこわい」
「分からない喩えを出すなよ」
「そうかい、そりゃ悪いね」
ふん、と簗は鼻を鳴らす。
「鬼の首落とすより鬼を探すほうが難儀したぜ」
「それに関しては問題ない。私に策があるよ」
白瀬は足を止めあたりに視線をやる。人の気配はない。目を伏せしばらく考え、日輪刀を抜くとその鋭い切っ先で手の甲を浅く裂く。じわり、と血が滲んだ。簗は不審げに目を細める。
「それが策か?」
「私は稀血だ。こちらから探さずとも、この血の匂いで鬼はいてもたってもいられなくなる」
「ふうん、便利でいいねえ」
気のない口振りで言いながら簗も刀を抜いた。冷たい鋼の色をした刀の峰に、一筋緋色の線が走っている。
便利と言い放った簗を白瀬は見つめる。この血のせいで家族を失ったことを知ったら、この男の気楽そうな表情はどう歪むのだろうかと思った。
「便利か」
「便利じゃねえのか」
「どうだろうな」
木立がざわめく。夜風がなまぐさいにおいを孕んだ。簗はせわしなく刀を持ち替えている。喉仏の目立つ首がごくりと生唾を呑んでいた。それを見た白瀬の緊張はわずかに緩む。
どこからともなく誰かが囁き交わすような声が聞こえる。木々の擦れ合う音にも似ていた。がさ、がさ、と下草を踏み分ける音が聞こえる。一人の足音ではなかった。二人か、と白瀬は息を詰める。それからすぐに呼吸を整えた。
一瞬風が止み、全ての音が聞こえなくなる。鬱蒼と茂る灌木から何か黒い塊が白瀬に飛び掛かってきた。白瀬はそれを刀で防ぐ。それの釘のように鋭い歯が、刃にぶつかってぎょりぎょりと厭な音をたてた。腐敗臭の漂う湿った息が白瀬の肺腑を犯す。あまりの悪臭に呼吸が乱れた。傍らの簗が気合の声とともに刀をそれに振り下ろす。黒い塊は全身をしならせ飛び退った。日輪刀が空を斬る。それは距離を開けてこちらを嬲るようにぐるぐると周囲を回り始める。
鹿だ、と白瀬は思う。四つ足の獣だ。だが上に伸びた長い頸の先に頭がない。つるりと丸められたような頸の先に人間の腕が二本、鹿角のように生えている。前肢の間に逆さまになった女の顔が埋もれていて、虚ろな目で白瀬を見ていた。乱杭歯の並ぶ汚い口元がぼそぼそと何かを呟く。まれち、まれち、と罅割れた唇が繰り返していた。
「強烈だな」
簗が誰に言うでもなく呻く。白瀬は刀を構え直して漫ろな返事を返した。ひひ、ひひひ、と鬼は笑った。過剰に生えた歯が顎からはみ出している。血の混じった唾液が糸を引いていた。
「なあ、あれ――」
簗の声に焦りがにじむ。おそらく簗は白瀬と同じことを危惧している。
「どこが首だよ」
鹿に似た巨躯が躍り上がる。短い毛で覆われた体が降り掛かってきて、白瀬は刀でそれを受け止めた。腕が痺れ圧し潰されそうな衝撃に奥歯を噛む。鹿角の双腕が振り回される。黒く長い爪が白瀬の前髪を切った。
白瀬はその二本の腕を切り払う。腹のあたりで乱杭歯ががちがちがちがちとせわしなく鳴る。そちらに気を取られている間に腕は元通りに生えている。鋭い爪が白瀬の胸を裂いた。ひんやりとした感覚が一瞬あり、またたく間に焼け付く痛みに変わる。肋骨は無事か、肺はどうだ。白瀬は素早く胸の傷に意識を走らせる。
鬼の背後から飛びかかった簗が斑模様の背に飛び乗り日輪刀を突き立てる。ぎゃ、と短く悲鳴をあげた鬼は身をくねらせ簗を振り落とした。地面に叩きつけられた簗はばねのある動きで跳ね起き、前肢を薙ぐ。鬼は巨躯を傾かせたが、二、三歩よろめいた後には快復していた。
「どこ狙う!?」
一旦退いて体勢を整えた簗が喚くように白瀬に叫ぶ。呼吸で出血を抑えた白瀬は刀の柄を両手で絞りながら額に冷たい汗を感じていた。
「分からない」
「テメエ頭良さそうなツラしといてそんなんありか!?」
首があるべき場所には腕が生えている。人の顔らしきものが胴に埋まっている。腕は斬り落としても何事もなかった。では胸の顔か。四足獣の背中の分厚い筋肉、肩甲骨と背骨と肋骨を割り、頭を分断することが出来るか。胴体に比べれば小枝のような腕を斬り落としただけでじりじりと痺れる腕を見下ろす。月の光をなめらかに映していた青鈍の刃が欠けてきらめいていた。ふー、と白瀬は低く息を吐く。
「胴を割る。背から前肢まで」
「…………おまえ、やれるか?」
「分からない」
引き攣るように息を飲む音が白瀬の耳朶を打った。それが白瀬のものであったか簗のものであったか判然としない。簗の声には困惑と怯えよりも怒りと苛立ちが滲む。
「それで殺せるんだな!?」
「分からない」
そうかよ! と怒鳴るなり簗が踏み込み鬼の背に刀を振り下ろす。唐竹割に真っ直ぐと振り下ろされた刃は、白瀬には体重の乗った見事な一太刀に見えた。いけるか、と白瀬は淡い期待を抱く。だが身をよじる鬼の背に触れた刃は上滑りしてあらぬ方向に向かう。緋色の線の入った刀身が弧を描きながら弾き飛ばされる。
白瀬は絶望的な気分でそれを見ていた。筋肉だ骨だという懸念の何と愚かしい事であろうか。我々の刃は皮を傷付けることすら叶わず、むなしく硬い毛皮の上を滑る。
ひゅうぅ、と鹿の泣き声に似た甲高い音を鳴らしながら鬼が簗に襲い掛かった。簗は徒手である。間に割って入ろうとする白瀬を後目に、簗は逃げるでも避けるでもなく一歩前に出るとにやにやと無感情な笑みを浮かべる鬼の顔に拳を叩きこんだ。一瞬怯んだ隙を逃さず簗は身をかがめて鬼の四つ足の間に体を滑り込ませると刀を拾い上げ、ついでとばかりに後肢の間を蹴り上げると脱兎のごとく逃げ出す。
「おい!」
「退け退け、どうにもならねえだろこんなもん!」
白瀬は一瞬迷ったが、踵を返して簗の背中を追う。簗は悲鳴を上げる。
「テメエがこっち来たら鬼も来るだろうが!」
「言っておくが、私が食われたら鬼は強化されるぞ!」
「あああああクソッタレ!!!」
走りながら簗は白瀬を睨む。
「おまえあれ斬れるか!?」
「考えはある」
「なんだよ言ってみろ、聞くだけ聞いてやる!」
背後に荒い息遣いとひひひ、ひひひ、と笑うような声が迫っていた。
「腹から斬る」
動物は大抵腹のほうが柔らかい。鬼を動物として勘定していいかは分からないが。簗は走りながら喚き声を上げる。速度は落ちていないので全集中の呼吸は乱れていない。器用だな、と白瀬は妙に冷静に思った。
「そうかいそうかい今からあの犬コロにチンチンでも仕込むかい! 阿呆かテメエは!」
「じゃあおまえに案があるのか!?」
「テメエを餌に逃げる!」
「真面目に考えろ!」
白瀬が一喝すると簗は毒突き腰に手をやる。片手で素早く鞘を佩いている紐を外した。鞘が落ち、音を立てて転がっていく。
鞘を固定する目的のため以上に長い、布を硬く縒った紐である。細い縄くらいの強度がありそうだった。簗はそれの片側を輪にすると、背後に迫る鬼を睨んだ。鬼はすでに余裕の表情を浮かべて、猫が鼠をいたぶるように付かず離れずの位置を駆けていた。
「死んだらブッ殺してやるからな!」
言うなり振り向きざまに日輪刀を一閃させ、鬼の前肢を斬り落とす。つんのめった鬼の後肢に紐をかけると、刀の柄に紐の反対側を結わえて木立に向かって投げた。太い木の枝を跨いで超えた紐の先端を簗は縋るように掴んだ。それから、渾身の力をこめて地に向かって曳く。
鬼の後肢が持ち上がり、薄黄色の毛の生えた腹が剥き出しになる。白瀬は上段に構えた刀を袈裟懸けに斬り下ろした。皮が裂け赤い血が噴き出す。祈るような気持ちで体重をかけた刀身が、ごり、と硬いもので止まる。九割方斬り進めたというのに、無情にも胸椎が刃を阻んだ。
一度退いて斬り直すか、とよぎるが傷口はすでに繊維が糸引くように癒着を始めている。このままいくしかない。白瀬は鬼の胴体に埋まった日輪刀の切っ先を地面に突き立て、峰を足で強く踏みつけた。短く鋭い音とともに胸椎が砕かれ、刃が通る。体の均衡を崩した白瀬の足の下で刀身が音を立てて折れた。崩れ行く鬼の体の上に倒れ伏すと、簗が地面を這うように白瀬に近寄ってくる。
「おまえ、すげえ! やるな! スゲエ技だ! どこの流派だ!」
「み、水だ、が――」
「そうか、俺も風はやめて水にするかな!」
こんなやぶれかぶれの滅茶苦茶なやり方など修めてはいない。水の一門の名誉のためにもそう反駁しようとしたのだが、体に力が入らない。考えることもどんどん不明瞭になっていく。見れば胸の傷からどくどくと止め処なく血が溢れてる。
助けを呼んでくれ、と言いかけ簗を見上げると、簗は蒼白な顔で鼻と口から血を流している。鬼の顔を殴りつけた右の拳がどす黒くぶよぶよと腫れ上がっていた。唾液に毒があったものであろうか。
「あ、まずい」
簗はそれだけ呟くと白瀬に折り重なり昏倒する。白瀬は助けを求めてもがいたが、甲斐なく後を追うように気を失った。