十四
暁闇である。日の射す前のいっとう深い暗闇が鼻孔から侵入して肺腑に染みいる。叢で獣の蠢く気配がする。
鬼狩りは努めて薄明の間際に行われる。鬼にとって最も脅威となるのは鋼の刀でも練り上げた剣技でもなく太陽の光であるからだ。
件の門前町には宿泊施設がない。あったとしても鬼が潜んでいる可能性のある場所に寝泊まりするわけにもいかない。白瀬は稀血であった。綿密な調査をせずとも鬼を引きずり出すことは出来る。白瀬自身はそういう戦法を好みはしなかったが。
簗は前を行く白瀬の翻る上着を眺めた。染み一つ無い白の地に、濃淡の青で波が染められている。それが歩くたびにゆらゆらと揺れて、簗は一瞬生家を思い出し妙な気分になる。鼻を鳴らすと白瀬はふと簗の方に視線をくれた。
「私との任務は気にくわないか」
言われ、簗は鼻の頭に皺を寄せた。
「思い上がるなよ」
白瀬は口を噤む。言葉が少なく短い様子を思慮深く言葉を吟味していると賞されるそれが、考え込むと単純に黙ってしまうだけだと言うことを簗は知っていた。簗の知る白瀬はもう少し――面白い奴だった。簗の蛮行には眉をひそめたし、乏しいなりに表情も変わった。簗が「そりゃねえだろ」と零してしまうような皮肉や嫌味を言うこともあった。水柱に就いた白瀬は冴え渡る剣技と隊士達の尊敬と引き替えに、そういうものを削ぎ落とした。簗が脚を失ったのと同様に。
深々とした横顔は端正なだけに何か深謀遠慮があるように見えた。だが本当に白瀬に何か深い考えがあるか、簗には分からない。白瀬は簗よりずっと学があり、短慮でもなかったが、簗よりずっと破滅的に生きている。少なくとも簗はそう思っていた。
「俺ァ誰と組むのも嫌いなんだ」
「そうか」
「みんな死ぬからな」
簗は己より一枚も二枚も落ちる相方を庇いながら戦えるほど器用な男ではなかった。組んだ相手は大抵死んだ。そうでなくとも鬼殺隊士は花びらが落ちるように死んでいくものだ。己のせいだとは思わない。だが良い気分はしない。
白瀬は唇の端に笑みめいたものを浮かべた。薄い唇が「わかるよ」と囁いた気がした。
簗は顔をしかめた。頬の傷が大きく引き攣る。白瀬は組んだ隊士を庇えるだけの実力があるはずだ。
「てめえには分かんねえだろ」
簗は前を見たまま吐き捨てる。白瀬がちらとこちらを見る気配があった。
白瀬が簗の機能が失われた足を見て「これで傷付かずに済む」と言ったことをそのときの怒りと共に思い出す。
「分かんねえよ、てめえには」
低く繰り返す。
脚を失ったから戦わずに済むなどということは、簗にはあり得ない。学もなく、頼れる親族もなく、気性の荒い簗には暴力以外で食っていく術がない。今さらチンピラに戻るのは厭だった。前線から身を退き産屋敷からの温情で細々食いつなぐことも考えられない。
簗にとって鬼殺は活計だった。それ以上でもそれ以下でもなく、生きていくには身を削って鬼を斬るしかなかった。それを辞めればその暴力は人間と己に向くだけだ。それが鬼殺隊内で反感を買っていることも承知していた。だが簗にしてみれば、憎しみや仇討ちで鬼殺に命を賭ける方が余程道楽じみている。
己を目の敵にする隊士どもが簗には身食いする家畜のように見えた。簗は誰のためにも剣を振らない。己のためだけだ。それは正気を失わぬ一線であり、ささやかな矜持であった。
「分からないか」
「分かってたまるかよ」
そうか、と言ったきり白瀬は黙り込んでしまう。気まずい沈黙が下りた。簗はそれに耐えかね「あのよ」と声を上げる。その先はろくに考えていなかった。
「柱になりやがったな」
苦し紛れに言う。白瀬は羽織の袖を摘まんだ。
「そうだな」
「もう少し誇ってもらわねえとこっちの立つ瀬がねえよ」
門前町への行程は中程まで来ていた。二人とも素人ではないので緊張は高まる。それを感じさせぬ穏やかさで白瀬は笑った。
「やることは変わらない。ただ期待だけが重い」
「俺から鉄穴森さんかっさらいやがってノヅラ晒しやがる」
「――まだ根に持っているのか。何年前の話だ」
簗は律儀に数えようとし、馬鹿馬鹿しくなって己の手の甲を眺めた。拳胼胝は薄れ、そのかわりに無数の切り傷が出来ている。いくつかの指は痺れて上手く動かない。
「十年後だろうと噛み付いてやる」
ふ、と白瀬は息を漏らした。
「本当にやりそうで恐ろしいな」
言うなり白瀬は刀を抜き放った。青鈍の刀身が闇に融ける。一拍遅れて簗も刀を抜く。放り投げた鞘ががらんと音を立てた。
凝る闇がゆるりと蠢く。それに向かって先陣を切ったのは簗であった。打ち合わせはしていない。だが相手の手の内の分からぬうちに一太刀を入れるならば、己が適任であった。己が傷を受けても鬼の出方が分かれば白瀬にはやりようがあった。白瀬は簗を庇いながら撤退の選択肢もとることが出来る。逆はなかった。
振り下ろした重い刀の先が何かに埋まった。その瞬間背筋に悪寒が走る。粘つくそれは今まで斬ったどんな鬼とも違う感触であった。ずぶずぶと奈落の底まで沈みそうな刃ががつんと地面にあたった。
「ア痛、ご挨拶だなあ」
男が立っていた。淡い色の髪が星明かりに光を帯びる。纏う着物は肩から腹までざっくりと裂けていたが、その下から覗く皮膚には一筋の傷もない。男は己に刀を振り下ろした簗に見向きもしなかった。そのかわり、刀を正眼に構える白瀬に気安く指をさした。
「君、そう君だよ。あんまり良い香りがするから教団を飛び出してきてしまった」
鬼は柔和な顔に底知れぬ笑みを浮かべた。血の気のない唇に薄い舌がぬるりと這う。
簗の頬を冷気が撫で、古傷がちりちりと痛む。感覚を失ったはずの脚が奇妙に疼いた。あ、こりゃ無理だ、と簗は彼我の力の差を感じ取る。屈託のない笑みを浮かべる人の形をしたそれが、今まで対峙したどの異形よりも恐ろしい。一人であればとうに刀を投げ出して逃げている。
ちらともこちらに向かぬ油膜のように光を反射する目玉には弐の字が刻まれていた。首魁を除けばこの世で二番目に強い生き物と相対している
頼みの白瀬に視線だけを向ければ、魅入られたように立ち尽くしている。黒く濡れた瞳がぼうと虚無を見ていた。色付いた長い爪がそろりと喉元にかけられようとしていた。
「白瀬!」
簗は名を叫びながら日輪刀を担ぎ上げ、男のうなじに向かって真一文字に斬り付ける。土埃を巻き上げ風を捩る剛剣を、男は羽虫をうるさがるような動きですいと避けた。空を切る刀を返し、袈裟に斬り下ろす。剣先が地を抉った。男はまばたきの間に目の前から消えていた。すでに手の届かぬ位置で興味深そうに簗を眺めている。
湿った土を踏んで白瀬が宙に躍った。青鈍の刀身が星明かりに煌めいた。正確無比な剣は男の喉に切っ先だけかかる。ぴ、と飛沫のように血が噴き出し、すぐに無かったことになる。
男は簗を見てことりと首を傾げる。人形めいた動作であった。
「君、脚が悪いのか」
簗は歯を食いしばり虚勢じみて顎を上げた。
「だからなんだ。手合割りだクソッタレ」
気が付けば男は簗の背後に立ち、抱きすくめるように簗の右脚を撫で上げていた。隊服の分厚い生地ごしにさえその手は凍てつくように冷たかった。首筋に柔らかく吐息がかかる。簗は全身が総毛立つのを他人事のように感じた。
「かわいそうに。哀れなカタワ者に刀を持たせるなんて、鬼殺隊はなんてひどいことをするんだ」
心臓が強く全身に血液を送る音が頭の中で響く。指先が痺れ感覚を失っていく。身に染みついた呼吸だけが平静を保っていた。
「万世極楽教ではそんな扱いはさせないぜ」
どさりと足下に何かが落ちる。脚を撫で回していた両の腕が脚に沿う形のまま切断されて転げ落ちていた。男と入れ替わるように立っていた白瀬は血曇り一つ無い刀と鋭い目を男に向けた。男の両腕は何事もなかったかのように肩の先に存在し、簗の足下の腕はぼろぼろと崩れ塵と化していく。
「俺は君みたいなかわいそうな人達を大勢救っているんだ。君も、俺のことは教祖様なんて堅苦しく呼ばずに、気安く童磨様と呼んでくれよ」
ドウマ、と簗は口の中で呟く。童磨は無感情に微笑んで簗の目を覗き込んだ。
簗はぶらりと下げていた刀を力任せに振り上げる。分厚い切っ先が下顎から鼻先までを砕いた。
「よく回る舌だなァ!」
勢いづいた刀をそのまま振り下ろす。童磨は懐から扇を取り出し、その側面で平然と刀を受け止めた。ぐ、と簗は息を詰まらせる。花の描かれた優美な扇で、重い鋼の刀を止められた。体重をかけ押せどもびくともしない。
隙を縫うように白瀬の刃が童磨の頸に迫る。それをも、もう片方の手に持った扇で防がれた。童磨は表面に水分をたたえた虹色の瞳で白瀬を見る。
「あんまり近付かれるとうっかり殺してしまいそうだ。君はそんなうまそうなにおいをさせて、よく生き延びてきたな。立派立派」
白瀬は一瞬色をなしたが、それを押し隠した。簗は一度刀を退き、仕切り直そうとする。その瞬間、扇がひらめき鋭い縁が簗の胸を裂く。噴き出した血液が扇に彫り込まれた蓮の花弁の溝を伝った。白瀬は息つく間もない連撃を童磨に浴びせる。童磨はそれを片扇だけで凌いだ。唇には薄笑いさえ浮かべていいる。
「君の考えていることは手に取るように分かる。俺に東の空を見せないようにしながら払暁を待っている。そうだろ?」
白瀬は短く息を吐くと童磨の頸を突く。童磨は踊るように仰け反りそれを避けると、日輪刀の先端を手で掴み捻り上げた。あっという間に白瀬と童磨の立ち位置が入れ替わる。
童磨の視線の先で夜闇に稜線が深く沈む。その縁がうっすらと青みを帯びていた。
「夜明けまでは四半刻? もっと?」
囁く童磨に簗は背後から斬りかかった。刃が肩甲骨と背骨を割る。ぞぶぞぶと腐った肉を裂くような感覚であった。斬った端から繋がり合い引き合う肉に刀を絡め取られる。肉のうちにすっぽりと飲み込まれた刀は、押しても引いても動かない。
胸に簗の刀を納めたまま、童磨はなめらかな頬にほろほろと涙をこぼす。
「人間の身で血の滲むような努力の果てに剣技を得て、土壇場で出来ることは足留めだけとは――」
肉がぬかるみ刀が開放される。急に放り出された簗は刀ごと地面に転がる。動かぬ脚を引きずり刀と片脚だけを頼りに跳ね起きる簗を童磨は涙の浮かんだ双眸で見下ろした。
「でも、そのはかなさを、ままならなさを、惨めさを、俺は愛そう」
「そうかい! そりゃどうも!」
低い姿勢のまま簗は童磨の膝下を薙ぐ。右脚は逃したが左脚を切断した。吹き飛ばされた膝下は地を滑っていくうちに塵となって消える。隙を突いて白瀬が刃を童磨の頸にかけた。
刃は皮膚を裂き骨を断ずる。童磨の表情が初めて切迫したものになった。童磨は蓮華の対扇を鋭く振るう。金属のかち合う音がして、青白い火花がぱっと散った。
簗は扇で止められた白瀬の刀の反対側から刀を振るう。鼻先を冷気が掠めた。それに気が付いたときには緋色の一線が奔る刀身に霜がおり、簗の右手の指は凍りついていた。簗は咄嗟に刀を投げ捨て飛び退る。右手の薬指と小指は凍りつき、刀の柄に貼り付いたままであった。血も滴らぬ傷口に簗は唇を当てる。ひんやりと硬かった。
白瀬は――と、簗は視線を走らせる。
力無く刀を下げた白瀬の左腕はびっちりと白い霜に覆われ、その下に黒紫色に変色した皮膚が透けていた。より童磨の近くにいた白瀬は冷気をもろに吸い込んだらしく、口の端と鼻からとめどなく血を流している。呼吸が浅く、乱れていた。
「ああ、ほら、せっかくの血肉が目減りしてしまうじゃないか。君、新鮮な肺の味を知らないんだろう? だからそんなもったいないことが出来るんだ」
白く淡く輝く目に見えないほど小さな氷の粒があたりに漂っている。
「生きたまま抜いた肺はふわふわと柔らかくて、絞ると血がたっぷり滴るんだよ」
そう言った童磨は思い出したように顔をほころばせた。簗は地面に唾を吐く。
「――おい、」
ごぼごぼと血の泡を吐きながら白瀬は刀を凍った左手から毟り右手に持ち変える。凍り付いた指が二三破片となって地に落ちた。
「狙いは私か」
凪いだように静かな瞳が真っ直ぐに童磨を見つめている。童磨は顎に手を当て首を傾げた。
「君じゃない。君の血だ」
「そうか。ならば殺すのは私だけにしろ」
簗は目を剥いて白瀬を睨む。冗談ではない。こんな場面で情けをかけられみっともなく命乞いをするくらいなら死んだほうがマシだった。怒りのせいか失血のせいか視界がぐらぐらと歪んだ。
童磨は眉尻を下げ、我侭を言う子を諭すような顔をする。
「どうして俺が君のお願いを聞いてあげなきゃならないんだい」
白瀬は下顎を乱暴に手で拭った。
「ならばこの体が腐り果て血の残り一滴を失うまで暴れてやる」
肩で息をする白瀬に対して童磨は余裕のある芝居じみた笑みを浮かべる。
「ああ、そりゃあ困るよ。せっかくのご馳走が――」
童磨が言い終える前に簗は獣のように四足で童磨に飛びかかる。地に落ちた日輪刀を拾い、上体を捻り童磨の頸を狙った。
切っ先が頸にかかる前に童磨の手が簗の顔を掴む。強烈な冷気が顔面を灼く。手のひらに覆われた左の眼球が凍りつき眼窩の中でからころと鳴った。皮下組織を失っている顔の傷は骨まで凍てつく。痛みすら感じない。
簗はその場に膝をつく。血流を抑えられなくなった胸の傷からどっと血が溢れた。呼吸を整えるたびに胸が痛む。
白瀬の声が地面に蹲る簗の耳朶を打った。
「そこの食い手だけはありそうな男と私の残り滓を啜るだけでいいのか。まるで残飯を漁る豚のようだな」
「安い挑発だなぁ。なんでそんなに必死なの?」
童磨の呆れ声に、白瀬は唇の端に笑みめいたものを浮かべる。笑みというには痛々しかった。赤い血があっというまに黒くなり顎と胸のあたりで粘ついている。
「私はね、自分には優しく出来ないけれど、おまえには優しくなれる」
白瀬の視線は童磨に向いていたが、言葉は確かに簗に向いていた。簗は血のにおいのする息を何度も短く吐く。体は指の先からじんわりと痺れて動かない。
「ふうん、なんでもいいけど」
滲む視界の端で童磨は瓶を覗くように身を屈めた。湿った生木をへし折るような音がした。それからずるずると何か引きずる音が。
簗は地面に蹲り、右しか残らぬ目玉で白みかけた空を見ていた。薄曇りのかかる簗の視界に、ぬっと童磨の顔が現れる。手は夥しい血で濡れていた。小脇に抱える奇妙な形の肉の塊は、目を凝らせど凝らせど輪郭がはっきりしない。童磨は天を仰ぎ口を開け、口内に何かを絞り入れる。
簗の顔にぽたぽたとぬるい液体が落ちてきた。手の内でくしゃくしゃになった絞り滓を、童磨はぽいと口の中に放り込む。さも美味そうに舌鼓をうち、咀嚼嚥下すると肉の塊からまた何かを毟った。
「どうしてこんなことをしたんだろう。だって全く意味がないじゃないか。人の身でありながらここまで成るにはたくさん頑張ったんだろうにね。君もかわいそうだなぁ。不具なのに戦って、こんなにぼろぼろで死にかけてる。というかもう死んでる? あ、生きてるか」
ぼり、ごり、と耳障りな音がした。簗の顔に温かく柔らかい湿ったものが落ちてくる。冷えた顔に心地よかった。
「鬼に身内を殺された? それとも他の理由? 何にせよそんなことは忘れたほうが幸せに生きられたのに。いい娘見つけてさ、子供が産まれて、額に汗して働いて、生きて、死ぬんだ。退屈で陳腐で、幸せってそういうことだろ?」
淡い紺青の空にひときわ輝く星があった。簗はそれをぼんやりと眺めていた。
「脚は役立たず、指も落っことしちゃって、目ももう駄目だろ? 君はまあ、頑張ったよ。弱くて、地虫みたいに惨めに地面に這い蹲ってるけど、俺だけは君の健闘を認めるよ。素晴らしかった――いつまでもこうして讃えあっていたいけど、もう時間だ」
童磨は咀嚼を繰り返しながら絶え間なく喋り続けると簗の視界から滲むように消えていった。
東の空が明るくなる。輪郭すら曖昧になった視界が白くなっていく。簗は藻掻く力もなく、頬を温める朝日に「ちくしょう」と喘鳴のように呻いた。
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施療院の寝台で目を醒ました簗は鬼殺隊に長く勤める医師をして「生きていることが奇跡だ」と言わしめた。大量の血液と指を失った。眼球は腐り落ちたので摘出する他なかった。壊死した左半面の皮膚は黒く爛れ醜く波打つ。耳は途中から欠け落ちた。幸か不幸か簗の体は丈夫だった。継ぎ接ぎだらけのぼろぼろの肉体に、生命力だけは満ちていた。
隊士の誰もが上弦の鬼と対峙し生き延びた簗に話を聞きたがったが、簗は意識がある限り暴れた。跛足の怪我人のどこにそんな力があるのかというほどに相手が柱であろうが産屋敷であろうが目を血走らせ血を吐きながら恐水病の犬のように荒れ狂う。
簗は眠っているか、鎮静剤で眠らされているか、ぼうと天井を見ているかのどれかだった。誰かが簗のことを生きたまま死んでいると言った。否定する者はいなかった。
寝ては起き、起きては暴れ、薬で眠らされ、それを繰り返すうちに時間の感覚も失われた。簗は水面のように波打つ硝子窓の外を見ていた。傾いた日が朝のものか夕のものかもわからない。
廊下の床板を踏む音が聞こえたが、聞こえただけだった。蹴破られるように扉が開けられ、簗はやっとそちらに目を向ける。火男面にほっかむりの、いつもの姿の鋼鐵塚が立っていた。
「おう」
鋼鐵塚が短くそうだけ言うと簗は寝台の上でずるずると身を起こした。
「なんだ、誰の顔を見てもキチガイみたいに暴れ回るって聞いてたのに随分おとなしいじゃねえか」
鋼鐵塚はそう言って鼻を鳴らし、適当な椅子をひいて簗の枕元に乱暴に腰掛ける。丸くくり抜いた目穴の向こうに爛々と光る目があった。鋼鐵塚は簗の顔をじろじろと見たあと、唐突に「目は駄目か」と言った。
それを聞いた簗は低く笑う。
「見ろ、空っぽだ」
閉じたままの左瞼をこじ開けると、ぽっかりと空洞が鋼鐵塚を睨む。鋼鐵塚は一片の怖じ気も見せない。ただ左瞼をこじ開ける手に指が三本しかないのを見て顔をしかめる。
「指までどっかにやっちまったのか。まあ右手の小指と薬指ならどうにでもなるだろ」
げほ、と簗は咳でそれに答える。鋼鐵塚は簗の左手を取り、全ての指がついていることを触って確認した。
「あとはどこが駄目だ。何を落とした」
「なんだろうな」
何か決定的なものを、簗はあの場に落としてきた。
力なく呟く簗の膝に、鋼鐵塚は簗の日輪刀を落とす。滑りずれた鞘の下、緋色の線の奔る刀身に「悪鬼滅殺」の字が刻まれている。簗はそれを見て心臓が冷たく跳ねるのを感じた。それは柱が一人死んだことを意味している。目の当たりにしても、何度も言葉で諭されても、受け入れ難かったそれを無理矢理腹の底に押し込まれ息が詰まった。
簗は震える息を吐き、天井を見上げる。鋼鐵塚は悄然とした簗の様子に苛立たしげに火男面を毟り、簗の胸倉を掴みあげた。簗の体は無抵抗に振り回される。
「指がなかろうが振れる剣はある。俺の目をくり抜いて使ってもいい。頼む。頼むから、俺に柱の刀を打たせてくれ」
簗は鋼鐵塚の顔をしばらく眺めた。長く一緒にいたはずなのに見慣れぬ素顔だ。思えば家族以外でこれほど長い時間を共にした人間は他にいないかもしれない。簗の癇症は簗の好悪に関係なく周囲の者を傷付ける。傍に置くなら糞野郎がよかった。
簗は細く長く溜息をつく。ひりひりと肺が沁みた。
「いやだ。もうしまいだ。もういやになった。俺はもう俺だけのために戦えねえ」
簗が言うと、鋼鐵塚は何も言わずに簗の顔を殴った。大きな岩のような拳が容赦なく頬骨を打つ。鼻の奥から熱い血が噴き出した。病院着と布団がみるみる赤く染まっていく。己の体の中にこれほど血が残っているとは思わなかった。
「てめえにゃがっかりだ」
絞り出すように鋼鐵塚は唸った。怒りに満ちた声音とともに、大きな瞳からぼろぼろと大粒の涙がこぼれる。
鋼鐵塚は手ぬぐいで乱暴に顔を擦ると火男面で全て覆い隠した。肩だけがわなわなと震えている。簗はたまらなくなって、消え入りそうな小さな声で「ごめん」と囁いた。鋼鐵塚はそれが聞こえたのか聞こえなかったのか、足音高く病室を出て行った。
部屋には簗と刀だけが残される。
簗はしばらく刀を見下ろし、そのうち気を失うように眠りについた。重しを乗せられた膝は痺れたが、悪夢を見ることはなかった。