終
――大正某年某月某日、分厚い雲から絶え間なく霧雨が降る午のことである。
纏わりつくような蒸し暑さであった。息をするのも辛くなるような、そういうむっとした湿気が体を重くした。炎柱、煉獄杏寿郎の葬儀は数日前にしめやかに執り行われた。あの日はまるで杏寿郎の為人を表すかのような抜けるような快晴であった。参列者は多くはなかった。葬儀は身内だけで行われた。身内といっても鬼狩りの一族は全国を転々としているために急な葬儀に駆け付けられる者は多くなかった。
多くの隊士に尊敬され、慕われた炎柱の最期にしては、寂しいものであっただろうか。千寿郎は細く開けられた雨戸の隙間からけぶる庭をぼんやりと眺めながらそんなことを思った。それを口惜しくは思わない。兄にはその志を継ぐ若い隊士がいて、それだけで千寿郎には十分であった。父も隊士に叱責を受け、兄の遺言を受け取り、思うところがあったのか、近頃は酒量も減り、古い資料を繰ったり木剣に手をかけることもあった。己も剣への未練を断ち切ることができた。時機を逸し歪ではあるが、いい方に向かおうとしているような兆が見られた。
どん、と低い音がした。はて、落雷でもあったものであろうかと千寿郎は顔を上げる。どん、と二度目の音でそれが短く素っ気ない叩扉だと気が付き慌てて表へ向かった。来客の多い家ではない。千寿郎のもっと幼い頃は元炎柱に教えを請いに来る人間が僅かながらにいたが、全員追い返すうちにそれもなくなってしまった。千寿郎の物心もつかぬ頃には、庭には稽古に励む炎の呼吸の隊士が大勢いたのだという。静まり返った二人きりの邸では想像もつかなかった。
「はい、どなたでしょうか」
木戸を引き開けると、杖をついた男が立っている。千寿郎は男の顔を見て言葉を失った。顔は継ぎ接ぎを施したように大小の傷が走っている。口元の大きな傷は唇を捲れ上がらせ、獣じみて犬歯を剥き出しにしている。それでさえ恐ろしいのに、顔の左半分は黒く大きな痣のようなもので覆われていた。閉じられた左目は落ち窪み黒い骸骨のようだ。
はくはくと口を開けたり閉じたりする千寿郎に男は構わず開いた右目を細めた。
「ああ、千寿郎坊ちゃんじゃないですか。驚いた、杏寿郎坊ちゃんにあんまり似てるもんだから――線香あげる相手を間違えたのかと」
そう言う声音は想像していたより遥かに若かった。杖をついているから老齢かと思い込んでいたが、痣のない右半面や声は三十前後の男のものだ。上体を屈めて千寿郎の顔を覗き込む。針のように鋭い目は、だが昏く沈むような色をしている。
しばらく呆けていた千寿郎ははっとして言葉を継いだ。
「え、あ、申し訳ありません、以前どこかで――」
「あ? いや、ここで……とは言っても千寿郎坊ちゃんは豆粒みてえに小さかったですからね。覚えてねえでしょう」
男はかつての炎の呼吸の隊士であるらしかった。体格に恵まれた父兄よりもさらに上背がある。立ち姿だけでそれなりの技量があったことを窺わせた。今はどうなのだろう。千寿郎は湿った庭の砂に残る不均衡な足跡をちらと見た。
家の奥から足音がした。この家にはもう千寿郎以外には槇寿郎しかいない。槇寿郎は千寿郎に「誰が来ているんだ」と声をかけながら顔を出し、千寿郎同様男の姿を見て言葉を失った。
「どうも、ご無沙汰してます。杏寿郎坊ちゃんのことは――残念でした。葬儀には来られませんでしたが、手を合わせに来ました」
「――簗」
ぽつりと零れたそれが、男の名であるらしかった。簗と呼ばれ、男は笑みめいたものを顔に浮かべた。だがそれは男の顔を大きく引き攣らせただけだった。
「…………痩せたな」
「炎柱は太りました」
というかそれ以外にいろいろ変わったところあんでしょうよ、と簗は頬を撫でながら笑声を漏らした。槇寿郎は眉根を寄せて言葉に詰まる。
「千寿郎、上がってもらえ」
槇寿郎はそれだけ言うと奥に戻っていった。千寿郎は足の不自由な簗に手を貸そうとするが、簗は玄関先に杖を置くと器用に履物を脱いで上がり框に足をかける。差し伸べようとしたまま宙ぶらりんの、上を向いた千寿郎の手の平を簗は二度叩く。その手に指が欠けていた。
「ご立派になられました」
簗はそれだけ言うと千寿郎を置いてさっさと奥に向かってしまった。勝手知ったる様子であった。千寿郎は妙にひんやりとした感触の残る手を見下ろし数度握った。
湿った空気を線香の煙が重たく立ち上っていく。仏壇の前で手を合わせる簗の横顔を槇寿郎は幽霊でも見るかのような目付きで眺めた。簗が左目と戦友を失って、両の手が必要な程の年月が経っていた。もっとも簗の手では数え切れるか怪しいが。
簗は数年療養と称してどこかに引きこもった。その間の消息は槇寿郎も知らない。その頃の槇寿郎は妻を亡くし、他所事に意識を向ける余裕はなかった。簗は不思議な門下生だった。門下生なのか、と言われるとそうでもないような気もした。元はといえば素行不良で炎の呼吸の隊士に片端から因縁をつけて回るので槇寿郎が目付となったのだ。それがいつの間にか槇寿郎の門下でも屈指の技量の持ち主となっていた。全盛期の、簗の狂奔めいた、鰐の顎の如き剣を躱せたか、槇寿郎でさえ自信がなかった。
目の前の男は記憶の中の姿より二回りほど小さくなっていた。それでも只人よりは体格に恵まれているが、長大な野太刀を体の一部のように自在に扱っていた肉体は見る影もない。かつて烈火の如き怒りを宿していた目は、黒々と位牌に注がれていた。
「愚かと思うか」
槇寿郎が言うと、簗は位牌への合掌を解く。隻眼が槇寿郎の方を向いた。何を、と簗は短く問うた。
「早々に散った杏寿郎を、止められなかった俺を」
「――ああ、うん、まあ……どうかな、昔ならそうだと言った気もしますがね」
「今は?」
「今は……分かんねえな。俺ァさっさと一抜けちまった」
己の膝に語り掛けるような姿であった。
「少し時間はあるか」
槇寿郎が尋ねると、簗は肩をすくめる。
「生憎と時間だけなら腐るほどありますよ」
「そうか、少し付き合ってくれ」
酒ではなく茶にはなるが、と言えば簗は首肯する。思えばこの男は、素行こそ悪いが酒の席で暴れるようなことはなかった。
「茶で十分です。どういう傷め方したもんか、飲むと体中あちこち痛んでいけねえ」
「酒に溺れるよりずっといい」
己が酒で辛苦に満ちた現実から目を逸らし続けたことを思う。感情を鈍麻させ時間を忘れなければ、槇寿郎は一番辛い時期を乗り越えることは出来なかったかもしれない。この男は酒に逃げることさえ出来ぬ体にされてしまった。哀れだと思った。だが幸運でもあっただろうか。或いはすでに取り返しがつかぬのかもしれない。
簗は口元の傷を指先でなぞる。
「それに飲むと古傷が真っ赤に腫れるもんだから見苦しくって」
「そうか、遠慮してくれて良かった。これ以上千寿郎を怯えさせるな」
「……そんなつもりはなかったんすけど」
濡れ縁にさあさあと雨のかかる気配がする。簗の来訪は鈍った槇寿郎に否応なく往時の緊張を思い出させた。
隊士時代は何かというと話の種になった簗も、入れ替わりの激しい鬼殺隊士にあってはすでに過去の人間だ。そういう奇骨な隊士がいたのだという話すら聞かなくなった頃に、槇寿郎の酔ってぐずぐずの耳に跛足の育手の噂が入るようになった。
はじめは、まさかあの男に育手など務まるまいと思っていた。脚を悪くし引退した別の隊士であろうと気にもとめなかったが、その育手にまつわる噂が悪評ばかりなものでなんとなく嫌な予感がした。隊士志望の少年達を脅し賺して追い返し、ろくろく後進の育成もせず産屋敷からの禄を食んでいるという話を聞いたときに、それは間違いなく簗だと確信した。
「育手になったと聞いた」
「真似事ですよ。二つ足で刀振ってた頃のことなんかみんな忘れちまいました」
「良い噂は聞かないぞ」
「そりゃお互い様でしょう」
妻を失い柱を辞し酒に逃げた己のことがどのような形で簗の耳に届いたのか、恐ろしくて問い質すことが出来ない。
「――志願者を残らず追い返すともっぱらの噂だ」
「あ、そりゃあ誤解です。俺のツラ見てガキどもが勝手に逃げ出すだけの話で」
簗は頬の傷を引き攣らせて笑う。
「鱗滝の爺がね、俺の顔があんまり怖えってんで面を拵えてくれたんですよ。それをつけて入れ込んでるガキに会って、何日かシゴいて俺のツラを見せると真っ青になって逃げていく。これで俺はタダ飯が食えるって算段で」
けらけらと笑う簗に槇寿郎は呆れて肩をすくめた。そこに千寿郎が現れ、二人分の硝子器を置いていった。黄金色の冷茶がなみなみと注がれている。槇寿郎がそれに口を付けると、簗も倣って茶を啜った。細かな血管の目立つ瞼が水面に向けて伏せられた。
「あいつら馬鹿だから、敵討ちのためなら死んでも良いと思ってる。だけど体が欠けて動かなくなって、二目と見られねえ伊達になって、それでも生きなきゃならねえなんて考えたこともねえんだ」
槇寿郎は一瞬息を詰め、それからゆるゆると吐き出す。
「――馬鹿、か」
「馬鹿でしょ。俺ァ馬鹿の相手はしねえ」
「おまえに言われちゃおしまいだな」
「おしまいっすよ」
簗は茶器を呷り中身を空にする。器の底にこびりついた茶葉の破片を、簗は熱心に眺める素振りを見せた。
「十に一人はそれでも聞かねえ奴がいます。俺みたいな、それでしか生きていけねえっていう大馬鹿がね。それだけは面倒見ます。余所にやったって世間様に迷惑しかかけねえような奴らですから。でもまあ俺ァ教えるの上手くねえから、大抵はモノにならねえっす。あらかた死んだ」
簗は放り投げるように茶器を置いた。絶え間ない雨の音を遮るようにかちゃんと硬質な音が耳朶を打つ。そんなものだろう、と槇寿郎が囁くと、簗はそんなものですか、と短く言った。
「ならば今は一人住まいか」
「この脚なもんで、一応小間使いみたいなのが一人。――これがどうにも頭のぬくい奴で、世話されてんのか世話してんのか分かりゃしねえ。鬼が怖くて隊士になれず、血が怖くて蝶屋敷からも追い出されたっていう筋金入りのヘタレ野郎でね」
「気に入っているのか」
「まあ、ちっとは」
思えば簗は隊士の頃から爪弾き者や鼻摘まみ者にはよく慕われていた。簗自身がそうであったということに加えて、癇症で人好きしない簗がそういう者には多少態度を軟化させた。似たような境遇への憐れみかも知れず、ひょっとすると優しさだったのかも知れない。だが簗のことだから、どうしようもない人間を見ているのが面白かっただけかも知れない。
「それと隊士志願のガキが一人」
簗の言葉に槇寿郎は目を丸くする。
「おまえの顔を見て逃げ出さなかったとはな」
「肝が据わってんのか、何も考えてねえのか知りませんが、どっちにしろ大馬鹿っすわ」
簗はそう言うと苦笑するように唇を歪めた。その顔を眺めて、丸くなったなと槇寿郎は口にせずともそう思う。この男が誰かと――それも少年達と生活を共にする日が来るなど思いもしなかった。簗はとにかく気性が荒く、些細なことで激昂しては喧嘩をせずにいられないたちであった。
簗の業火のような荒々しさを、烈しさを、槇寿郎は持て余しつつも愛してもいた。優秀な隊士は他にもいた。剣技の冴えで勝る隊士も大勢見てきた。だが槇寿郎にとって良くも悪くも最も印象深い隊士が、まるで細々とした余燼のようであった。落ち着きが出たと喜ぶべきであろうか。だが槇寿郎には寂しさばかりが募った。
「国には帰らなかったのか」
槇寿郎は長く簗が実家に仕送りをしていたことを承知で尋ねる。簗は欠けた手指で己の頬を撫でた。
「このツラじゃあ帰ったって誰か分かんねえでしょう」
槇寿郎はぎゅうと眉をひそめる。
「分かる。それが親というものだ」
槇寿郎の言葉に簗はわずかに微笑んだ。それだけだった。
「鋼鐵塚は――」
槇寿郎が言いかけると簗は途端に顔色を変えた。隻眼が泳ぎ、両の手のひらが顔を覆う。伸びた髪が掻き上げられ、大きく裂けた耳殻が露わになった。
「会ってない――っすね」
「……そうか」
仲が良かっただろう、と言いかけてそれを飲み込む。仲が良い、というのも違う気がした。半身と言っても良かった。鋼鐵塚なくして簗の剣技はなかった。簗なくして今の鋼鐵塚の技術もない。
「会いたくねえな……多分まだ怒ってる」
手のひらの下で簗は呻く。槇寿郎は「そんなことないだろう」と言おうとしてやめた。鋼鐵塚に限れば「そんなことがある」からだ。まあ、とか、うん、とか口の中でぼそぼそ言う槇寿郎に、簗は険のある目を向ける。その目がかつての色をしていて、槇寿郎は息を呑んだ。簗の奥歯がきりきりと音を立てる。
「それで、あのボケは元気にやってるんですか。俺の見立てじゃキレすぎて血管ブチ破っておっ死んでるか、隊士に返り討ちにされて野垂れ死んでるかどっちかなんすけど」
口振りも荒々しさを帯びる。槇寿郎は茶器に口をつけ、その姿を器越しに見た。
「あの男は変わらんなあ。つい先日も隊士を包丁で以て追いかけ回していたらしい」
「……あいつ、今年いくつでしたっけ」
「さあ、三十七、八じゃないか。多分」
「ばっかだなあ、いい歳して! 俺だってそんなことしねえよ!」
簗は声を上げて笑った。壊死した皮膚が引き攣れ罅割れる。だがその笑顔は悪童めいて、まるで二十そこそこの小僧のようだ。日に焼けた目尻に皺が刻まれる。空の眼窩に涙が滲む。槇寿郎はそれを見て、乞うように呟く。
「顔を見せてやれ」
「――いやぁ、どうですかね。あいつ俺のツラなんか忘れてます」
「そんなわけあるか、忘れ難い顔だ」
簗は鼻を鳴らした。火のような怒りを宿した隻眼が槇寿郎を射抜く。
「分かってねえな、あいつはな、刀を打つ相手以外どうでもいいんだ。ろくに刀も振るえねえ俺なんか、とうに忘れてる。キチガイ鍛冶屋が」
そうだけ言うと、ふと憑き物が落ちたように瞳が凪いだ。
「長居しすぎました。帰ります。この脚じゃ行き帰りも時間がかかってしょうがねえ」
槇寿郎は立ち上がろうとする簗に手を貸そうと膝を立てかけたが、簗は少し目を離したすきにすでに立ち上がり槇寿郎を見下ろしていた。肩を傾げ足を引きずりながら歩く簗を玄関先まで送る。簗は萎えた足に下駄をひっかけ杖を手にした。霧雨とはいえ傘の一つもさしてこなかったらしい。
「道中気をつけてな」
「腐っても野盗の類にゃ遅れは取りませんよ」
「まあ、そうか」
飛び石を踏む簗の背中に槇寿郎は声をかける。
「山繭の墓には――」
簗は肩越しに答えた。
「あそこにはなんにもありゃしねえ」
簗は会釈を一つ残して門を潜り、白くけぶる霧雨の中に消えていった。