ついてくる雨の音(一)



 古びた長屋の一室に男が座っていた。顔は細く開けられた窓に向けられている。室内には必要最低限の調度しかなかった。
 室内には埃っぽい、うっすらと饐えたようなにおいが満ちている。薬師の家に生まれたしのぶには、そのにおいに覚えがあるような気がした。なんのにおいだろう、としのぶは眉をひそめる。

「簗殿、ご無沙汰しておりました」

 悲鳴嶼が戸口の先で挨拶をした。簗、というのが男の名であるらしかった。
 薄暗がりにいた男がのろのろとこちらに顔を向ける。ひ、としのぶは小さな悲鳴を飲み込んだ。男の顔の半分は黒く爛れ波打っている。擦り傷でも火傷でもない。奇妙で不吉な傷であった。しのぶは部屋に満ちる饐えた臭気の原因に思い至る。それは傷が膿み腐るにおいに似ていた。傷病人のにおいだった。

「悲鳴嶼か」

 簗は低く唸った。しのぶは思わず悲鳴嶼の背後に隠れ、上着の裾をゆるく握る。
 悲鳴嶼は履き物を脱ぐと埃の目立つ床板を踏む。悲鳴嶼の大きな素足の下で、古びた床板が悲鳴を上げるように鳴った。

「ふざけんな、テメエが乗ったら床抜ける」

 簗はぎくしゃくと立ち上がる。脚が悪いのか、としのぶはその姿をじっと見つめた。ぎょろり、と白目の目立つ眼がしのぶの方を見る。しのぶは後ずさりそうになったが、ぎゅっと唇を噛んで男の顔を睨み返す。簗は意外そうに眉を上げたが、傷だらけの顔はしのぶには歪に引き攣ったようにしか見えなかった。

「何の用だ」
「ご機嫌伺いです。いけませんでしたか」
「土産があるなら置いて行けよ、ねえなら帰んな」

 悲鳴嶼はしのぶの方に顔を向けた。しのぶは道すがら買い求めた手土産の風呂敷包みを簗に差し出す。

「三萬堂のあんぱんです。私が選びました」

 簗はしのぶの顔を一瞥し鼻を鳴らした。

「賢しらげにしゃしゃり出てくるガキだな。テメエの娘か?」

 しゃしゃり出てくる、と言われしのぶは恥ずかしさにさっと顔を赤らめた。悲鳴嶼はやや肩を落とし溜息交じりに答える。

「故あって預かっている子です」
「弟子です。弟子の胡蝶しのぶと言います」

 つんと顎を上げてそう宣言するしのぶに悲鳴嶼は一瞬咎めるような沈黙を落としたが、それ以上何も言わなかった。

「弟子の躾がなってねえな」

 簗はそれだけ言うと顎をしゃくり二人に上がるよう合図した。しのぶの選んだ土産は簗の眼鏡に適ったようであった。

「茶は出ねえぞ」

 簗の言葉に悲鳴嶼は「期待しておりません」と答えた。埃っぽい床にしのぶは手巾を敷いて座った。悲鳴嶼はそれを固唾を飲んで見守っていた。かつての簗であれば少女相手でも無礼だと怒り狂ったであろう。二人まとめて追い出されたかもしれない。だが簗はしのぶのその様子をじっと見ていたが、特段気分を害した様子もなかった。

「お元気そうで何よりです」
「元気そうだと? テメエの目は節穴かよ」
「そうですが」
「そうだったな」

 簗は自身の空の目の周りを指先で掻いた。

「十分に恢復されたと聞き及んでおります」
「辛うじて死んでねえ、それだけだ」

 簗は短くそうだけ言うと菓子の包みを開けた。こんがりときつね色の、手のひらほどの大きさのあんぱんを取り出す。その手に指が欠けていた。しのぶは見てはいけないようなものを見た気がして、すと目を逸らす。
 あんぱんが裂けた口で囓り取られるのを伏し目がちに盗み見ていると、簗は無言で菓子の箱をしのぶの方に差し出した。行儀よく並んだあんぱんを鼻先に突きつけられ、しのぶは目を丸くする。
 膝に手を置き固まったままのしのぶに、簗は顔の傷を引き攣らせる。

「食わねえのか」
「……いただきます」

 しのぶはそろそろと菓子を一つ手に取った。あんぱんは好きだった。だがこの男の手に一度渡った菓子を口にするのがなんだか恐ろしくて、しのぶはあんぱんを膝に置いたままそれを見下ろし続けた。

「お館様から打診があったものと思いますが――」

 悲鳴嶼の言葉を遮るように簗は舌打ちする。

「ウブヤシキの坊がご立派になったもんだな」
「……聞かなかったことにしておきます」

 産屋敷を強く尊敬する悲鳴嶼は眉をひそめてそれを言外に咎めた。しのぶは二人の男の顔を交互に見比べる。簗は苛立たしげに頸の傷を掻いた。

「育手なんかやらねェよ。俺の気性は知ってんだろ。向いてねえし、柄じゃねえ」

 育手、と聞いてしのぶははっと顔を上げた。産屋敷と悲鳴嶼は目の前の男に育手の依頼をしているらしかった。この男もかつては隊士であったのであろうか。では、この体の大小の傷は、欠けた指は、空の眼窩は、部屋に満ちたいやなにおいは、重たげに引きずられる跛足は、醜く引き攣れた顔は――それを思い、しのぶはぞっとして身を震わせた。

「私もあなたが向いているとは思いません。しかし人手が足りないことも事実」

 ここ数年で育手の襲撃が増加している。かつて呼吸を修めたとはいえ、育手は簗同様体を傷めて引退した者が少なくない。人目を忍び人里離れた場所に住むことの多い育手は、鬼の格好の餌であった。
 人手ねェ、と簗は鼻で笑う。それからしのぶに隻眼を向けた。

「おまえ、歳はいくつだ」

 急に問われしのぶは面食らう。十二、と答えると簗は目を剥き「じゅうに、」と鸚鵡返しした。簗はしのぶを指さす。

「立て」
「な、なんで……」
「立てっつってんだ、さっさと立たねえか!」

 怒鳴り上げられしのぶは弾かれるように立ち上がった。簗は蛇が鎌首をもたげるように立ち、しのぶを見下ろす。眼前に立ちはだかる簗は、悲鳴嶼の長躯をやっと見慣れたしのぶにさえ大柄に感じられる体躯をしていた。
 簗はしのぶの額を指で小突く。それだけでしのぶは二、三歩よろめいた。

「俺の知らねえうちに娑婆じゃ大の男は死に絶えたかよ、悲鳴嶼。怒鳴られ慣れてもいねえクソチビの小娘捕まえて人手とは笑わせる」
「誰しも事情はあります。熟慮の上です。詮索は無用」

 悲鳴嶼は淡々とそう言った。己を弟子にしたことで悲鳴嶼が責められていることを悟ったしのぶは、よろめいた脚でしっかり床を踏むときっと簗を睨んだ。

「私が決めたの、鬼を倒すって、私たちと同じ思いをもう誰にもさせないって……悲鳴嶼さんは、悪くない」

 語尾を震わせながらそう言うしのぶに簗は呆れたように表情を歪めた。

「すっこんでろ、俺ァそういうお涙頂戴めいた戯言は嫌いなんだ」
「なんですって……!」

 姉の悲痛な覚悟を戯言と一蹴されたしのぶはかっとなって手にしていたあんぱんを簗に向かって投げつけた。それは簡単に避けられ、しのぶが力一杯投げたあんぱんより何倍も素早く簗の腕がしのぶの胸倉を掴み上げる。
 簗殿、と悲鳴嶼が諫めるように男の名を呼ぶ。血走った眼がしのぶを見、空の眼窩がひくりと脈打つ。

「俺にションベン漏らしそうなチビが鬼狩りの役に立つかよ」
「立ってみせる!」

 しのぶは喉を締め上げられ喘ぎながらそう叫び返し、簗の顔に唾を吐く。簗の手が一瞬弛んだ隙に拘束から抜け出すと、不自由な方の脚の向う脛を思い切り蹴飛ばした。
 しのぶの目論見と裏腹に簗は体の均衡を崩しさえしなかった。蹴られた脛を見下ろし「今日ほど脚の感覚がなくて良かったことはねえ」と嘯くと、しのぶの襟を掴んで乱暴に引きずった。振り回されたしのぶは悲鳴を漏らさぬように唇を噛む。口の中で血の味が滲んだ。

「簗殿!」

 振り上げられた拳を悲鳴嶼が掴みねじり上げていた。ふ、ふゥ、と簗は荒い息を吐きながらしのぶから視線を外さない。

「十二の小娘と喧嘩をして恥ずかしくないのですか」
「ねえな、放っとけ」

 簗はそう言い乱暴に悲鳴嶼の手を振り払ったが、しのぶから顔を逸らすと床にどかりと座り込んだ。

「それで、なんだ。テメエら俺に喧嘩売りに来たのか?」
「育手の件、了承していただけませんか」

 簗はそれには答えず、しのぶが尻に敷いていた手巾で顔を拭き、投げ捨てられたあんぱんの埃を払い口に放り込んだ。

「しねえ」

 取り付く島もない様子であった。しのぶは切れた唇を指先でなぞりながら簗を睨み付ける。こんな男が育手など出来るわけがない。
 簗は熱病じみた怒りの冷めた昏い目をしのぶに向ける。簗は何か言いかけ唇を薄く開けたが、結局何も言わなかった。無言のまま、菓子箱からあんぱんを二つ取るとしのぶの膝の上に落とした。

「…………いらない」

 強い力で振り回された恐怖に、体の痛みに、口の中の血の味に堪えながらしのぶは唸る。空気の漏れるような音が聞こえた。

「そんなだから小せえんじゃねえのか」

 嘲笑めいた声音にしのぶは簗の顔を見ぬまま勢い良く立ち上がり、踵を返した。「先に表で待ってるから」と悲鳴嶼に言い残し、あんぱんを抱えてがたつく木戸から外に飛び出す。
 しのぶは木戸を閉じると戸板に背を当て地べたに座り込み、声を殺して泣いた。聡い少女は悲鳴嶼が簗に己を引き合わせた理由がなんとなく分かっていた。恐ろしげに引き攣れた顔貌を、不具となった体を、しのぶが見れば、隊士になることを諦めると目論んでいたのではないか。
 しのぶが泣いたのは、簗が恐ろしいからではない。悲鳴嶼が、胡蝶カナエの覚悟を、そして己の怒りを、その程度だと見くびっていたということが許せなかった。
 しのぶは歯を食いしばり小さな拳が真っ白になるまで握る。手の中で小さなあんぱんが潰れて形を失った。そこにぽとぽとと涙がこぼれていく。
 しのぶは袖で涙を拭った。いいだけ泣いて呼吸を落ち着かせた頃、見計らったように悲鳴嶼が長屋から出てきた。悲鳴嶼はしのぶの真っ赤に腫れた目にも手の内でぐちゃぐちゃになったあんぱんにも気が付いたはずだが、何も言わなかった。

「帰るぞ」
「…………うん」

 しばらく歩いたあと、悲鳴嶼は「依頼を請けてはもらえなかった」と呟いた。しのぶはきゅっと眉根を寄せると「あんな人、育手なんてできるわけない」と怒気を含んで答える。

「そうかもしれないな」

 優しく悲鳴嶼が囁く声がした。しのぶは「そうよ、そうに決まってる」と言うと、通りがかった小川に潰れたあんぱんを投げ込んだ。食べ物を粗末にすることに厳しい悲鳴嶼が、このときだけは何も言わなかった。


******


 数日後、しのぶは悲鳴嶼に何も言わずに家を出た。記憶を頼りに簗が住む長屋を探し当て、白茶けた木戸を叩く。あたりはあまりガラの良くない土地である。木戸の前で立ち止まる身なりのいい少女を、得体の知れない男たちが品定めするような目で見ていた。
 何度目かの叩扉の後、あまりに音沙汰がないのでしのぶが諦めかけた頃、突然木戸が引き開けられた。

「寝てた」

 木戸の隙間から顔を出した簗は一瞬何もない宙を見、それから視線を落とす。そこに小柄な少女が立っているのに気が付き顔をしかめた。
 明るい日の光の下で見る簗の傷だらけの顔は強烈だった。しのぶは肺いっぱいに空気を吸い、まっすぐに簗の顔を見つめた。簗がそれ以上何か言う前に、風呂敷包みから出した菓子箱を差し出す。

「松日庵の羊羹です。私が選びました」

 今度は「賢しらげにしゃしゃり出てくる」とは言われなかった。簗はしのぶの剣幕に押し切られるように箱を受け取る。

「先日のご無礼をお詫びに来ました。許してもらえるとは思ってないけど、私の気持ちです!」

 しのぶは一息に言うと簗の答えも待たずに踵を返し走り出そうとした。簗はその襟を掴む。しのぶの足は空を蹴り、その場で行き場なくばたついた。

「お、おい、ちょっと待て、……待てって、このへん女子供が一人でうろつくところじゃねえんだよ。表通りまで送ってやるから待ってろ」

 簗はそう言って木戸の奥に引っ込んで行く。引っ込んですぐに右眼が木戸の隙間から覗いた。

「食うか」

 羊羹を片手でぶらぶらさせながら簗が言う。しのぶは首を横に振った。

「いらない」
「なんでだよ、ガキは大抵甘いモン好きだろ」
「好きだけど……あなたのことは嫌い」

 しのぶが面と向かってそう言うと、簗は口を大きく開けて笑った。爛れた頬が罅割れ痛々しい。

「あ、そお。俺だってテメエなんか嫌いだ」

 しのぶはむっとして口を噤む。簗は脚を引きずりながら部屋の隅で何かを拾い上げた。それを無言で突き出され、しのぶは両手で受け取る。先日投げ置いたまま忘れていった手巾であった。

「持って帰れ。そんなもん使わねえ」

 くしゃくしゃになった手巾を見下ろし、しのぶは眉根を寄せた。洗濯してくれたっていいのに、と思う。だが男の暮らしぶりを見ればそんな余裕があるとも思えなかった。履き物を脱いだ足の裏は埃や塵でざらざらした。室内の空気は澱み、湿っぽい。例のいやなにおいもした。
 しのぶは口の中で礼とも文句ともつかぬことを呟くと、手巾を畳んで袂にそっとしまい込む。簗は羊羹の包装を乱暴に引き剥ぎ、黒く艶々としたそれをぽきんと二つ折りにした。何をするのかと眺めていれば、折った片割れにそのまま齧り付いている。もう片割れを差し出され、しのぶはぎょっとした。

「羊羹って切り分けて食べるのよ、知らないの?」
「知ってる。包丁がねえ。日輪刀ならある」

 簗は部屋の隅に置かれた日輪刀の方を顎で示した。旗魚のように長大な刀であった。必要な物すらない室内で、そればかりが奇妙に存在感がある。

「……日輪刀で羊羹を切るの?」
「ンなことするか。殺される」

 誰に、としのぶが尋ねると、簗はふっと遠いところを見るような目をして「うるせえ」と零した。理不尽だ、としのぶは思った。

「見てもいい?」
「勝手にしろ」

 簗は早々に飽きたのか羊羹を包装に戻す。歯形の付いた羊羹が無残に放り出された。体を引きずるようにしながら薄暗がりの凝る部屋の隅に戻っていった。そこで膝を折り、座り込む。
 しのぶは刀の傍らに膝をつく。両手で持ち上げようとし、その重量に唖然とする。しのぶの細腕では柄をわずかに床から離すしか出来ない。しのぶは簗の恵まれた体格と膂力を思い、己の非力さに歯噛みする。ずるりと鞘から滑り出た刀身に悪鬼滅殺の文字が刻まれている。その意味を、しのぶは知っていた。
 部屋の隅で所在なさげに座る男の姿を見る。屈強そうな、だが隅々まで破壊し尽くされた体を。

「――簗さん」

 返事はなかったが、暗がりが蠢く気配がした。

「私に戦い方を教えてくれませんか」

 ひゅうる、と空気の漏れるような奇妙な音がする。

「いやだ」

 間髪入れずに短い返答があった。しのぶは着物が汚れるのも構わず、殴られるのを覚悟で簗に詰め寄る。
 しのぶは悲鳴嶼が胡蝶姉妹の弟子入りを認めても、しのぶには稽古の手が弛むのを分かっていた。幼く小柄なしのぶを容赦なく追い込めるほど、悲鳴嶼は酷薄ではない。

「お願いします!」

 床に額を擦りつけるも、返ってきたのはうるさげな溜息だけだった。

「いやだっつってんだろ」
「なんで! 私が女で、子供で、小さいから!?」

 しのぶが掴み掛かると簗は鬱陶しげにその手を振り払った。荒波にもまれる木の葉のように容易くしのぶは吹き飛ばされる。

「あ゛ァ? 俺そんなこと言ったか?」

 しのぶは床板に体を叩き付けられ、身を丸めて咽せながら簗を見上げた。

「知らねえよ、テメエの事情なんか」

 冷ややかに告げられる。息苦しさで目に涙がにじんだ。簗は舌打ちして、床で丸くなるしのぶを蹴飛ばす。しのぶの華奢な体はごろごろと転がり、壁にぶつかって止まった。全身が痛み、息が出来なくなる。堪えていたはずの涙が目の端から埃っぽい床に流れていく。簗が苛立たしげにがちがちと歯を鳴らす音がした。

「ひいひい泣くな! うるせえ! 鬱陶しい! 息をしろ! 悲鳴嶼に叩き込まれたろ、呼吸だよ! オラ、しろよ、やめるな! 出来ねえなら死ね!」

 簗は必死に息を吸おうとするしのぶの胸倉を掴み上げた。殴られる、と身を固くするしのぶを、簗はずるずると玄関先に引きずっていく。

「やだ、いやだっ! 帰らないから!」
「テメエがデカい男だろうが育手の真似事なんか御免だね! さっさと帰れ!」

 履き物の上に投げ出され、しのぶはきりと簗を睨み上げる。簗は威嚇する獣のように犬歯をむき出しにした。

「テメエで草履履いて帰るか、表まで俺に引きずられるか選べ!」
「表まで引きずられる!」
「ふざけんな、こっちはカタワだぞ! 余計な手間かけさせんな!」

 しのぶはぎりぎりと簗を睨みながら時間を掛けて鼻緒に足の指を通した。雪駄を突っかけた簗に「行くぞ」と顎で示され、しのぶは怪訝な顔をする。

「表通りまで送ってやるって言っただろ」
「……私のことボコボコにしたくせに」

 しのぶが恨みがましく言うと、簗は鼻を鳴らして木戸の脇に放り出された杖を拾い上げた。

「こんなんボコボコの内に入らねえよ。精々ぽことかそんなところだ。悲鳴嶼の弟子に何かあってみろ、合わす顔がねえ」

 行けよ、と背中を杖で押される。硬い木の杖の先が打ち付けた背中を突き、痛かった。しのぶは高い位置にある簗の顔を見上げる。肩に掛かるほど伸びたぼさぼさの髪の下で、片方きりの目玉がしのぶを見下ろす。
 訪問のときにしのぶをじろじろと見ていた男がまだ軒先にいたが、簗の姿を見るなり鼠のように路地裏に消えて行った。
 不承不承しのぶが歩き始めると、簗はその後ろをついてきた。ざり、ざり、と重たく脚を引きずる音がする。

「簗さん」
「なんだ」
「簗さんは、あそこで何をしてるの?」

 何もない薄暗い長屋。包丁の一本もない。読み本も、楽器も、手慰みになるようなものもない。隣人があれでは人の行き来があるようにも見えない。前回も今回も急に押しかけたのに簗は在宅していた。
 はァ、と簗は溜息をつく。

「別に、なんもしてねえよ」
「何も?」
「寝て、起きて、ぼうっとしてりゃまた夜が来る」

 辛うじて死んでねえ、と簗が悲鳴嶼に告げた言葉を思い出す。きつい冗談の類いだと思っていたそれが、急にひんやりと恐ろしくなった。

「私、簗さんの家に羊羹置いてきちゃった」

 ぽつりと言うと、簗は「ああ、」と呻く。

「日持ちするだろ。そのうち俺が食う」
「あれは私の分だから、また食べに行く」

 は? と気の抜けた声が背後からした。

「包丁と、あとお茶を持って行くから」
「やめとけ、そのうち殺しちまう」
「次は避けられる」

 しのぶが言うと、背後からは沈黙しか帰ってこなかった。しばらく脚を引きずる特徴的な足音だけが聞こえた後「勝手にしろ」と吐息混じりの答えがあった。
 表通りが見えた頃に、簗はぴたりと足を止める。裏通りの湿っぽい暗がりに身を置いたまま、まるでそこに境界線があるかのようにうごかなくなる。

「悲鳴嶼によろしく言っといてくれ」

 しのぶが「さよなら、また来ます」と頭を下げると、簗は戸惑いがちに腹のあたりで小さく手を振る。指の欠けた方の手だった。三本指の歪で大きな手がしのぶに向かって振られるのが少し面白かった。