ついてくる雨の音(二)
胡蝶しのぶは簗のことが恐ろしかった。崩壊した顔貌も、粗暴な態度も、雷鳴のような怒声も、手の早さも。人好きのする人間ではなかった。柄の悪い長屋の周辺でも遠巻きにされているようで、簗の客人であるしのぶもまた遠巻きにされた。どちらかといえば関わり合いになりたくない類の人間が多かったので、それはしのぶにはありがたかった。
はじめのうち、しのぶは簗にいい印象を抱くことは出来なかった。抱けという方が難しいだろう。簗自身もしのぶに好印象を与えようとしなかったし、それはしのぶもそうだった。そういう男と進んで交わりを持とうとした理由が、しのぶにはよく分からなかった。利用したかったのかもしれない。それが最も合理的な理由であった。だが簗はしのぶが何度頼み込んでもしのぶに稽古をつけることはしなかった。しのぶは怒ったり、喚いたり、甘えたり、しおらしくしてみたり、ありとあらゆる手を使ったが願いが聞き入れられることはなかった。そのうちしのぶは簗に勝手に奇襲をしかけその体捌きを見て盗もうとしたが、それも気取られ簗はされるがままにしのぶの殴打を受け入れるようになった。別にしのぶは簗を殴ってやりたいと思っているわけではないので、それはすぐにやめた。それにしのぶの渾身の打擲も簗にとっては仔犬にじゃれつかれたも同然らしかった。それも腹立たしかった。しのぶは簗に教えを乞うのを早々に諦めた。それでも訪問は定期的にしていた。なぜ、と自問したが、己でもよく分からなかった。
簗は緩やかに、だが明確に病んでいた。しのぶが訪問しなければ長屋の一室でひたすらぼんやりと窓の外に目を向けていた。そこに何があるのかとしのぶも窓の外を覗いたが、湿った路地裏と溝板があるだけだった。しのぶが木戸を叩くと、ふっと午睡から醒めたように隻眼に淡い光が差す。跛足をひきずり木戸を開け、簗は嬉しそうな顔こそしないが追い返すようなことはなかった。来るな、と言うことはたまにあった。だがその理由は「鬱陶しいから」ではなく「そのうち殺しそうだから」であった。しのぶの思い上がりでなければ、多分簗もしのぶと顔を合わせることはそう厭わしく思っているわけではなかった。むしろ、気が付けば夜が来るような壊れた生活で、しのぶの訪問を心待ちにしている風でもあった。
そういう簗を、しのぶは子供心に可哀想だと思ったのかもしれない。父母の教えに倣ったのかもしれない。誰かに私たちと同じ思いをさせないように、という姉の願いがしのぶにそれをさせたのかもしれない。
「簗さん、これお土産」
しのぶが差し出した口の広い薬瓶を簗は怪訝そうな顔をしながら受け取った。しのぶは簗の部屋を積極的にどうこうしたりはなかったが、訪問のたびに窓を開け放ち忙しなくぱたぱたと歩き回るので、埃や塵はいつの間にか部屋の隅や屋外に吹き溜まっていた。根本的な解決には至らないが、以前よりはいくらかマシだ。しのぶは簗の家に行くたび足袋を念入りに手洗いしなくて済むようになった。
簗は瓶の蓋を開け、鼻を近付ける。
「食いもんじゃねえな」
そう言うと興味なさそうに蓋を閉めようとしたので、しのぶは「ちょっと!」と唇を尖らせた。
「簗さん、よく古傷がひび割れて痛そうだから」
「あ? これか?」
簗は爛れた顔から頚に、おそらく胸の方にまで繋がっているであろう傷をなぞる。大小の傷が入り混じり、どれがどれとも判別がつかない。
「それだけじゃない。全部」
「別に痛くねえよ」
簗は指先で傷を掻いた。伸びた爪で引っ掻かれ、傷の上に赤い蚯蚓腫れがのたうつ。しのぶは顔をしかめた。
「慣れてるだけじゃない?」
「どうかね」
ふ、と簗は唇に笑みめいたものを浮かべる。しのぶは簗の手から薬瓶を取る。三本の指だけで支えられた瓶はいかにも不安定そうで今にも床に転げ落ちそうだった。
「簗さんが痛くなくても、見てる私が痛い」
「そりゃ悪かったな、面でも袋でも被ろうか」
多少気分を害したらしい簗が鼻を鳴らしてそう言った。しのぶは気にせず薬瓶の中の軟膏を指で掬う。天竺葵の甘い香りがふっと漂った。
「座って」
しのぶの居丈高にも聞こえる言葉に簗は意外なほど大人しく従った。引き攣れ爛れた恐ろし気な顔が、しのぶの視線の高さに下りてくる。しのぶが簗の顔の傷に軟膏を塗ろうとすると、簗は低い唸り声をあげて身をのけぞらせた。
「おい待て、ンなこと自分で出来る」
「簗さん、そのまま忘れそうだから。せっかく私が作ったの。ちゃんと使ってよ」
作ったのかよ……と簗は呻いた。しのぶの手から薬瓶を取り上げる。もう一度鼻先を瓶に近付け、継ぎ接ぎの顔をくしゃりとさせた。
「なんか女みてえなにおいだなァ」
「いい香りでしょ?」
「まあ……うん、そうだなァ……でもよぉ……」
簗の強面に甘く爽やかな天竺葵の香りは似つかわしくなかった。しのぶがくすくすと笑うと、簗は軟膏を指で掬い左半面に雑に塗りたくる。
「これでいいのかい。まあ多少はスウっとすんな」
「うん、使ったほうがいいよ。傷に優しいし、あと簗さんくさいし」
しのぶの言葉に簗はぎゅっと眉をひそめる。擦り切れた単衣に鼻先を押し当てた。
「くさくねえよ」
「くさいわよ。部屋は不衛生だし、あと傷も洗わず放置してるから」
「クソ生意気な小娘だな、梁から吊るすぞ」
簗は荒っぽくそう吐き捨てた。しのぶはきょとんとすると、眉のあたりや傷の溝に半透明の軟膏が溜まっている簗の顔を見つめた。
「なんでそんなことをするの? 修行か何か?」
「テメエにゃ稽古はつけねえよ。何度言えば分かる。なんでって……仕置きだよ、父ちゃん母ちゃんにされなかったか」
父母のことを話題に出され、しのぶはくっと胸が詰まる。簗は大抵そういうところに思いやりがなく、だがしのぶには腫れ物に扱われるように接されるよりは気楽な気もした。しのぶは優しい父母のことを淡く思い出し、簗のほうに視線を戻す。
「されないわよ、そんな野蛮なこと」
「野蛮で悪かったな、なんだいおめえお嬢かよ」
そんな気はしてたけどよ、と簗はしのぶの小さな白い顔をじろじろと見る。しのぶはなんだか気恥ずかしくなって顔を背けた。裕福かそうでないかといえば、しのぶの家は裕福だった。大金持ちとは言わないが食うに困るということはなかったし、毎年正月には着物を誂えてもらった。それが恵まれた環境だと知ったのは、悲鳴嶼のもとに転がり込んでからだ。
「別にお嬢様なんかじゃない」
「そうかいそうかい」
簗は手に残った軟膏を着物で拭った。しのぶはその武骨で大きな傷だらけの手を見つめる。
「お嬢様じゃ隊士になるのは無理? だから簗さんは私に稽古をつけてくれないの?」
しのぶの問いに簗は鼻を鳴らす。
「知らねえよ。他に食い扶持があるのにこんな因業な稼業しようってェ酔狂は俺には計り知れんがね」
食い扶持、と言われしのぶは幾度も投げかけられた言葉を思い出す。親戚の元に身を寄せて、どこかにお嫁に行き、子をもうけ、全て忘れて幸せを享受する。誰もがしのぶにそれを勧めた。しのぶはそれを優しさだと知りつつ、向けられるたびに薄氷で胸の内を引っ掻かれるような気分になる。理由はよく分からなかった。
「――簗さんは、どうして鬼殺隊士になったの?」
しのぶは沈黙に耐え切れずそれを聞いた。聞いてから、思えば自分は自分の事情を喚くばかりで簗のことを聞いたことがほとんどなかったことに気が付く。それに気が付くと尋ねてみたいことが山ほどあった。刀の刻印のこと、傷のこと、脚のこと、こんなところに住んでいる理由、頑なに育手にならないこと。胸のあたりまで疑問がせり上がってくる。矢継ぎ早に何か聞いてきそうなしのぶの顔を見て、簗は蓬髪を掻きまわす。
「……財布を掏った相手が育手でよォ」
思いもよらぬ答えにしのぶは「はぇ、」と腑抜けた声をあげた。
「脅されてなった。幻滅したか?」
唇の端を上げて簗は言う。しのぶは咄嗟に何を言ったらいいか分からず、着物の袖を握った。
「どうして……」
やっとそれだけ言うと、簗は脚を引きずりながら窓辺の定位置に戻った。脚を器用に畳みながら座り込み、しとしとと雨の降る路地裏に目を向ける。水はけの悪い湿った路地裏は些細な降雨で簡単にぬかるんだ。
「こういうのでしか食えねえ奴ってのはいるんだ。そういう奴らは好んでこんな話しねえがな」
食えない、としのぶは小さく呟く。そんなこと、と一瞬思い、その傲慢さに慄然とする。しのぶは神妙な顔でささくれた床板に膝をつき、簗の傍らににじり寄る。
「簗さんは、私が嫌い?」
「嫌いだな」
簗は湿った壁にごつりと頭を当てた。
「私が女で、小さくて、子供で、お嬢だから?」
だから、皆、己を持て余す。しのぶは強く奥歯をかみしめた。簗は隻眼を閉じる。空の眼窩は緩んで半開きのままであった。
「あのよ、誰でも鬼よりは小せえし弱ェのよ。そんなこといつまでも愚図愚図言ってるんなら隊士なんてさっさと諦めろ。俺だってそうだし、悲鳴嶼もそうだ。鬼にしてみりゃ蟻か蠅かよ。体のデカさなんかどうにもならねえんだ、どうにかなることだけ気にしてろ」
「どうにかなることって、何?」
「俺に聞くな。俺ァ大抵のことは体のデカさでなんとかしてきた」
なにそれ、としのぶは顔をしかめた。やはりこの男は育手には向いていない。簗は微睡むように項垂れる。体調が優れないのだろうか。
「俺の知ってるうちで一番強い奴は――俺よりずっと細っこかった」
伸びた前髪の間から、右の眼がしのぶを見た。いつか見た昏い目だった。そこまで言うと肺が潰れるような深く長い溜息をついた。
「雨の日は嫌いだ。体があちこち痛む。もう帰れ」
いつもは渋るしのぶは気圧され素直に頷く。しのぶが頷くのを見た簗は億劫そうに立ち上がった。手を貸そうとするが、うるさそうに振り払われる。簗はいつもしのぶを表通りまで送ってくれた。玄関先に投げ置かれた杖を手渡すと、簗はそれを受け取る。右のこめかみのあたりにじっとりと汗をかいていた。左半面はもう汗もかけない。ただ黒く爛れていた。
しのぶは、その一番強い隊士の話が聞きたいと思った。だがなんとなくやめた。
表はサアサアと霧雨が舞っていた。傘もいらぬ程度の雨だった。しのぶの和毛の生えた頬にふわりと水の気配が当たる。しのぶは着物の裾を片手で少し持ち上げ、ぬかるみを避けながら歩く。その後ろを簗は泥を掻くようにしながらついてきた。擦り切れた錫色の着物は、元はもっと濃い色であっただろうか。裾に泥が跳ねていた。その姿を振り返り振り返りしのぶは歩いた。思えば簗は稽古は拒否しながら、しのぶが隊士になることに表立って口を出したことはなかった。
表通りに出る寸前にひときわぬかるむ一帯があった。しのぶはどうにか乾いた地面がないかとうろうろしたが見当たらず、意を決して一歩踏み出そうとする。そのとき簗に背後から襟を引っ張られた。しのぶは後ろにのけぞる。暗い曇天を背景に簗の顔が見えた。なに、と言う前に腹のあたりに腕を回され、肩に担ぎあげられる。ひゃあ、としのぶは短い悲鳴をあげた。
「履物汚したくねえんだろ、ったくお嬢はこれだから……」
跛足であるのに、しのぶ一人を抱えた簗の足取りは平時とそれほど変わらない。しのぶは少しだけむっとし、簗の垢じみた着物に顔を押し付ける。
「簗さんみたいに力が強かったらよかった」
「あ、そ。俺ァおまえみたいに健康で、頭が良くて、家族に可愛がられて、おまけに別嬪なら、他に何もいらなかったよ」
簗はぬかるみを越えるとしのぶを投げるように地面に落とした。しのぶはよろめき、寸でのところで転ばずに済む。詰めが甘い。しのぶは納得いかない気持ちになりながら、小さく「ありがと」と囁く。簗は「ン」と短く答えると、やはり腹のあたりでひらひらと手を振った。しのぶもそれに手を振り返した。
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悲鳴嶼邸のひらけた裏庭で、胡蝶カナエが刀を振るっていた。誰かのおさがりだという日輪刀は淡い菫色をしている。穏やかで優しい刃色を見るたびに、しのぶはその刀の前の持ち主のことを思う。そうするとどうしてか簗の不均衡な足音や裂けた唇から漏れる息の音を思い出してぞわぞわとした気分になった。
菫色の刃が空を切り、鋭く巻藁を抉る。カナエは悲鳴嶼の指導の下みるみる実力をつけていった。もとより才能があったのかもしれない。カナエは呼吸のコツもいち早く掴み、悲鳴嶼に何を言われずともそれを長時間維持することが出来た。ほっそりとしたなよやかな体では岩の呼吸は扱えず、かわりに水の呼吸に重点を置いて修練することを求められた。悲鳴嶼邸には悲鳴嶼と懇意だという水柱とその門弟達が入れ替わり立ち替わり胡蝶姉妹を指導しに来た。
幾人かの若い門弟はカナエの白百合の如き花貌にのぼせ上がり「か弱いあなたが刀を取らずとも、己があなたのかわりに仇をうとう」と世迷い言を吐きカナエに苦笑され、しのぶに鼻であしらわれた。年嵩の者は幼く小柄で抜刀すらままならぬしのぶを見て「復讐に燃えるよりまっとうに生きた方がいい」と訳知り顔で諫めてきた。そういうとき、カナエはしのぶを庇ってはくれない。そう言う者の顔を見、次いでしのぶの表情を窺い見る。一瞬期待するような顔をし、だがしのぶが頑なに首を横に振ると悲しそうな顔をした。
カナエが着実に力をつけていく一方で、しのぶは相変わらず抜刀さえままならない。身の丈の小さいしのぶには鞘を払うための腕の長さが足りなかった。いつかの誰かが使っていた蒲公英のように鮮やかな黄色の刀は、常に抜き身で扱われることになった。
姉に比べれば体格にも恵まれず、才能もなく、だがしのぶは死に物狂いで刀を振り続けた。天賦のものを努力で埋めようとしたのではない。何かに没頭していないと気が狂いそうだった。ふとした瞬間に飛び散る血と臓腑を思い出す。家族を守ろうと飛び出した父はあっという間に熟れて割れた無花果のようになった。降り注ぐ脳漿と胃の中身が皮膚にまとわりつく温度。しゃっくりのような母の悲鳴。鬼の生臭い吐息。しのぶの手を握る血でぬるついた姉の冷たく震える手。無心で刀を振るっているか、記憶を頼りに薬を調合しているか、そうしていないとしのぶは血濡れた記憶に簡単に突き落とされた。そこから這い上がるのは容易ではない。
幼いしのぶの凄惨な無聊を慰められるのは、記憶を超える暴力を手に入れることと、記憶に縋り反復作業を行うことだけだった。
カナエの踊るような体捌きは水の呼吸も越えつつある。優しく、柔らかく、繊細な呼吸。華麗な身のこなし。風に翻弄されながら凜と立つ花木のようなしなやかさ。しのぶは己に長身と腕力があってさえ、そういう刀が振るえるとは思えなかった。
「しのぶ」
軒先に立ち尽くすしのぶに気が付いたカナエが刀を下ろし微笑む。玉のような汗がなめらかな額に浮かんでいる。汗で濡れた前髪が額と頬に貼り付いていた。
しのぶはすらりと刀を納めたカナエに近寄る。カナエの白魚のようであった手は肉刺と傷だらけになっていた。綺麗に伸ばされ磨かれていた桜貝のような爪が琴の上を滑っていくのを見るのがしのぶは好きだったが、それも短く切り詰められている。
「姉さん、血が出てる」
幾分か荒れた、だが美しい手をしのぶは取る。恐慌のさなかにあって、震えながらもいたわるようにしのぶの手を握ってくれた優しい手。傷だらけになっても変わらず、しのぶにとっては世界で一番好きな手だ。
あら、とカナエは自身の手のひらを見下ろした。肉刺が破れ血が滲んでいる。
「じゃあ、しのぶに手当てしてもらおうかしら」
カナエは穏やかに笑って首を傾げた。しのぶは溜息をついて見せながら、いそいそと小物入れから傷薬を取り出す。
縁側に並んで座り、しのぶはカナエの手を清水で洗い流した。剥けた皮膚を鋏で丁寧に取り除き、かわりに軟膏をそっと乗せる。上から巻木綿を巻くと、カナエは「こんな大袈裟にしなくてもいいのに」と肩をすくめた。
しのぶは巻木綿の上からカナエの手を握る。ほっそりとした手は、だがしのぶより二回りほど大きかった。
「姉さんは大袈裟にしておかないと、すぐまた怪我をするから」
隊士を志す二人にとって、肉刺など傷の内にも入らない。しのぶの手にも大小の肉刺が出来、無茶な稽古をしては血を滲ませていた。しのぶはその治療はろくにしなかった。乾いた皮膚が剥がれ落ちるに任せ、傷付いた手のひらは分厚くなっていく。
カナエは天竺葵の香りの漂う手のひらをしのぶの頭に乗せた。
「しのぶは優しいのね」
しのぶはそれを心地よく思うのと同時に、泣き叫び出したくなる。己は決して優しくはなかった。どう頑張ってもカナエのようにはなれない。
カナエはきっと、己が姉の志に賛同し、同じ願いを抱いていると信じている。だがしのぶは他の誰かの――まして鬼の幸福など願いはしない。しのぶの心にあるのはただ姉の幸福と己の怒りだけだ。鬼殺など反吐が出る。しかし鬼のことを思い、怒り、刀を振るっていなければ、しのぶは正気を保っていられそうになかった。
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簗の長屋の木戸は相変わらず腐りかけて地面の方から黴が生えていた。二度、三度と強く叩扉するが、返事はない。日も高いというのに眠っているのか、としのぶは立て付けの悪い木戸を引く。相変わらず何もない室内にはしのぶが暇つぶしに持ち込んだ本草学の本や書き物が前回置いていったままに積まれている。それはいつもと変わらず、ただ異なるのは部屋の主がどこにもいないことであった。
狭く物のない部屋に隠れる場所はない。あったところであの長躯を隠しきるのは難しい。外出だろうか、としのぶは思う。だが何度も訪問した中で、簗が外出していたことは一度もなかった。必要最低限の必需品は隠が届けているらしい。簗は文字通り、生きているだけだった。
しのぶは室内をうろうろと歩き回り、一つの最悪な想像にたどり着きぞっとする。裏手の共同井戸、町外れの枝振りの良い立木、帰りしなに目にする川、そういう場所を順に思い浮かべながら慌てて表に飛び出そうとすると、木戸ががらりと開けられた。しのぶは驚きつんのめり躓いて、そこに立つ人に顔から突っ込んでしまった。顔を庇うように差し出した腕の尖った肘が、木戸の前に立つ簗の腹に思い切り刺さった。
簗は呻いてその場に崩れ落ちる。小柄な少女とはいえしのぶの全体重のかかった予期せぬ肘打ちは、油断しきっていた簗に少なからぬ衝撃を与えた。
「はァ゛……? ふっざけ……くっそ、なんだよ、テメエ、帰れ……」
切れ切れと唸ると簗は血走った隻眼でしのぶを睨んだ。しのぶは驚くやらほっとするやらでその場にへなへなと崩れ落ちる。しのぶの様子を見て簗はぎょっとしたように口を開けた。杖を片手に立ち上がり、後ろ手に木戸を閉める。
「簗さん、死んだかと思った」
「なんでだよ、死なねえよ」
「だ、だって、……部屋にいないから」
しのぶは自分でそれを言っておかしな話だと思った。簗も不可解そうに頸を巡らせ、崩れ落ちた拍子に投げ出された手拭いを杖の先に引っかけて器用に拾い上げた。
「顔洗ってたんだよ」
「なんで……」
「俺だって顔くらい洗う」
簗の傷だらけの顔はほとんど髭が生える健康な皮膚も残っていなかったが、それでも顎のあたりや耳の下あたりには不揃いの無精髭が生えていた。それが綺麗に剃られている。しのぶはそれを不躾なまでにまじまじと見る。
「簗さんにも人間っぽい肌があったのね」
「失礼な奴だな」
簗は右の手で右の頬を撫でた。髭を剃ったあとの肌は思ったより若々しかった。予想していたより歳が下なのかもしれない、としのぶは思う。
「そろそろお嬢が来るかと思ったから身だしなみ整えてやったのに」
「私? どうして?」
「だっておまえうるせえだろ、きたねえのくせえのと」
「気にしてたの?」
「別に気にしちゃいねえが」
気にしてたんだ、としのぶがくすくすと笑うと簗は顔をしかめて定位置に戻っていった。
しのぶはきゅっと唇を噛むと、床に膝をつき真剣な顔で簗に向き合う。簗はちらりとしのぶに視線を向けたが、すぐに逸らした。
「簗さん、私最終選別を受けることになった」
「そうかい、わざわざ俺に義理立てするこたねえだろ」
簗は冷ややかに答えた。しのぶは一年あまりの修行を経て、多少体つきもしっかりし、刀も扱えるようになったが、それでも鬼の頸を切断するに至る膂力を得ることは出来なかった。そのかわり、素早い身のこなしで鬼を翻弄することは出来る。選別にはまだ早いと悲鳴嶼は多少の難色を示したが、姉妹二人で選別を受け互いを補い合うということで了解を取り付けた。
「だから、もう会えないかも」
しのぶは言うと大きめの薬瓶を三つ、簗の方に差し出す。
「大切に使って。花でなくて檜と檜葉の精油にしたから、簗さんも使いやすいと思う」
簗は瓶を取り蓋を開け鼻先に近付ける。しのぶの鼻にも清涼感のある針葉樹の香りが届いた。
「おまえが死んでも俺は悲しまねえよ」
ぽつりと簗が言った。しのぶの胸はちくりと痛んだが、別に悲しんでほしいわけではないので苦笑して「うん」と答える。
「おまえが死のうが俺のせいじゃねえ」
しのぶはまた「うん」と答える。簗は両手で顔を覆い項垂れた。それきり動かなくなってしまう。しのぶはしばらくじっとその姿を見ていたが、簗が顔を上げる気配がないので音がしないようにそっと立ち上がった。
******
「しのぶ、いつも誰に会いに行っていたの?」
最終選別を目前に控えた晩、カナエは長い髪を梳りながら言った。視線は母の形見の鏡台に落とされている。
布団の支度をしていたしのぶは顔を上げ、それから枕に視線を戻す。
「なんのこと?」
「ふふ、私に隠し事は出来ないんだから」
カナエはしのぶを抱きしめ、勢いよく布団に飛び込む。しのぶの頬にカナエの柔らかな髪の毛がかかった。天竺葵の甘い芳香がふと香る。
「お友達?」
問われ、しのぶは首を横に振る。間違っても簗は友達ではなかった。とはいえ師でもなく、では何であっただろう。
カナエは微笑みながらしのぶの顔を覗き込む。
「じゃあ、男の子?」
しのぶは面食らって仰け反り、次いで顔をしかめる。おとこのこ、と口の中で繰り返す。確かに男性ではあるのだろう。だが姉が言うような意味ではないことはなんとなく分かった。
カナエはしのぶの小さな、だが幾重にも肉刺が潰れ硬くなった手を握る。
「しのぶ、本当に隊士になってもいいの? 普通に生きていれば、楽しいことや幸せなことがたくさんあるのよ」
「たとえば?」
己の口から発せられた言葉が思いの外棘のある声音になり、しのぶははっとする。カナエはそれを咎めもせず、だが答えもしなかった。無言でしのぶを抱きしめ、しのぶの旋毛に頬を寄せる。
「本当はね、私はしのぶに隊士になってほしくないの」
ずきん、と胸が痛んだ。しのぶは涙を堪えながらカナエの背中に腕を回す。
「…………そんなの、むり」
それだけ答えると、カナエは「そうね、ごめんね、こんなこと」と囁いた。
背中に回したしのぶの腕に、カナエの長い髪が触れる。しのぶはそれを無意識に指先で弄んだ。それに気が付いたカナエはくすぐったそうに笑う。
「長くて邪魔ね、選別の前に切ってしまおうかしら」
しのぶは前髪の隙間から姉の顔を見上げた。
「いや、だめ、切らないで」
カナエの美しい長い髪。艶々と重たげで、夜より黒い。揃いの蝶の飾りがよく映える。しのぶはそれが好きだった。しのぶの言葉にカナエは眉を下げて笑う。
「この髪が邪魔にならないように、しのぶが私を助けてくれる?」
「……うん」
「ありがとう」
しのぶは姉が好きで、姉から頼られることも好きだ。のんびりしてお人好しすぎる姉のことを、いつでも助けてやらねばと思っていた。
だがもしかすると、己は姉が思うような、己が思うような、良い子ではないのかもしれない。しのぶはそれが、恐ろしかった。
******
藤襲山への出立の前日の朝、しのぶはそっと悲鳴嶼邸を抜け出した。今日ばかりは稽古を免除され、明日以降に向けて心身を整えるようにと言われた。やるべきことがないのはしのぶにとって苦痛であった。明け方に邸を出れば、無理のない時間に帰ってこられると踏んだ。
しのぶは最後に見た簗の様子を思い出す。憔悴するでも、打ちひしがれるでも、呆れるでもなく、いったいあれは何であっただろう。しのぶは本当の最後の最後にもう一度簗に挨拶をしたかった。
朽ちそうな木戸を叩くが返事がない。以前のようにどこかに出かけているのだろうか、としのぶは思う。だがもしかすると寝ているのかもしれない。木戸に耳を当てると息づかいが聞こえた。人のものよりも獣のもののような音だった。しのぶは驚き、木戸を開ける。室内をぐるりと見渡すと、窓辺の定位置に簗が天井を仰いで壁に寄りかかっていた。
汗のかける皮膚にはびっしりと汗をかき、胸が大きく上下している。食いしばった歯の隙間から、いびきのような呻き声が絶えず漏れていた。
しのぶは声も出せずに簗に駆け寄り、手首を取る。脈が速く、熱もある。しのぶは簗の肩を叩きながら声を掛け、意識の有無を確認した。
「簗さん、簗さん、私の声が聞こえる?」
簗は薄く目を開けると朦朧とした眼でしのぶを睨み、ぜえぜえと荒い息の合間に「うるせえ、聞こえてる、騒ぐな」というようなことを言った。
「よかった、今、人を呼ぶから……」
立ち上がろうとしたしのぶの手首を簗が掴む。手首が千切れそうなほど握りしめられ、しのぶは悲鳴を上げる。簗の手が力なくしのぶの手首を開放した。しのぶの手首には真っ白な手の跡が残った。
「いらねえ」
「いらないって……調子が悪そうだし、熱も……」
いつものことだ、と簗は呻き、ずるずると床に崩れると体を丸める。
「簗さん、どこか痛むの?」
「痛む」
「どこ」
「もう分からなくなった」
そう言われるとどうしたらいいか分からなくなって、しのぶはその場に立ち尽くした。薄暗い室内に、簗の苦しげな息づかいだけが響く。
しのぶは簗の大きな体が赤子のように丸まり震えているのを呆然と見下ろした。しのぶの殴打もものともしない巨躯が力なく床に横たわっている。鬼に受けた傷のせいか。それは人間の体をこうも傷つけるのか。しのぶは死ぬかもしれないという覚悟は決めていた。だが、終生癒えることのない傷を心身に抱え、それでも生きていくことは思いもよらなかった。
しのぶはそろそろと簗の顔の横に膝をつく。引き攣るような濁った息の合間に、簗は「おい」と誰かを呼んだ。虚ろな隻眼が宙を見ていた。
「育手の真似事を、する気はねえ、テメエの面倒は、見ねえ」
それが己に向けられた言葉だとわかり、しのぶははっとして簗の顔を見た。
「だが……俺は、おまえを、隊士に、向かねえとは、思ってねえ。テメエは……ひでえ癇癪持ちの、我が儘で、甘ったれた、お嬢だから……」
ぐうう、と獣の唸るような声がして、しのぶは途方に暮れながら簗の肩の辺りをさすった。簗の傷だらけの頸の後ろを、汗がつうと落ちていく。
「誰かの、ために、刀を、振るのは、下の下だ。そういう、奴らは……引き際を、知らねえ」
しのぶは気圧され、その場から動けなくなる。簗がそのまま死んでしまうような気がして怖かった。人を呼ばねば、と思う。だが簗は呼ぶなと言う。どうすればいいのか分からなかった。
ふー、ふー、とやや落ち着きを取り戻した呼吸の音が耳朶を打つ。
「テメエは、テメエの、ために……テメエの、正気の、ためだけに……戦える……」
途切れ途切れで言葉が入り乱れながら、簗はそういうようなことを何度も違う言葉で譫言のように繰り返した。しのぶはそれを半分真っ白になった頭で聞いていた。
痺れたような意識でぼんやりとしていると、木戸が音もなく開けられた。何度か行き違ったことのある隠の姿がそこにある。しのぶはその瞬間目が覚めたように隠に駆け寄り「簗さんが……人を……病院に……」と支離滅裂に喚いた。
隠は何も言わずとも察したのか、簗に歩み寄ると顔の横に膝をつき懐から取り出した瓶から何かを口に含ませる。簗はその大半を唇の端から零したが、必要なだけは口の中に入れられたようだった。簗の瞼がとろとろと閉じ、呼吸が穏やかになる。浮き上がっていた血管が目立たなくなった。
「簗さんは、平気?」
しのぶが隠に問うと、隠は口布の下で「わからない」と答えた。細く開けた窓から烏を飛ばす。
「人を呼んだ。この人は……私一人では運べないから」
隠はそう言って頭巾の合間から覗く目を細めた。姿は見知っていたが、言葉を交わしたことはない。隠らしく風景に同化するような物静かな男だ。脚が悪いのかぎこちない歩き方をしていた。
「きみは……」
「しのぶです、胡蝶しのぶ」
「知ってる。悲鳴嶼殿のお弟子さんだろう」
しのぶは「はい」と俯く。悲鳴嶼に黙って邸を出て行っていたことがばれてしまう。男は口布の下で小さく笑った。
「いいよ、誰にも言わない。多分簗さんもきみが叱られることは望んでいないはず」
「簗さんは……」
しのぶの不安を受け止めるように男は小さく頷いた。頭巾がひらひらと揺れる。
「たまにこういうことがあるんだ。古傷のせいかもしれないし、本人は認めないだろうけど、もしかしたら心の傷のせいかもしれない。それでも最近は頻度が減っていたんだけどね。――きみが遊びに来るようになって、簗さんはずっと元気になった。知ってた?」
しのぶは曖昧に首を傾げる。
「簗さんのことは好き?」
また、曖昧に首を傾げる。すると男は苦笑して肩をすくめた。
「僕はね、結構好きなんだ。簗さんは本当に手がつけられないほど気性が荒くて、思いやりはないし、粗暴だけど、でも僕らみたいなのにはちょっと優しい」
僕らみたいなの、と言われ、しのぶは目を丸くして男の顔を見た。男は手の甲が隠れるほど長い袖を捲った。露わになった指は奇妙な形に折れ曲がり、腫れ上がっている。木の瘤のような手にはところどころ赤いまだら模様がある。
「顔は見せないよ。怖がらせたくないから」
目を細める男の瞼は、見れば不自然に引き攣っていた。
「簗さんは自分に似た人にはちょっとだけ優しい。同病相憐れむってやつかもしれないけどね」
同病相憐れむ、としのぶは口の中で繰り返す。しのぶは己のすべすべとした頬をするりと撫でた。
「私、簗さんに似てる?」
「さあ、僕にはそう見えないけどな。そろそろ行った方が良いよ。助っ人が話の分かる奴とは限らない」
しのぶは簗と男の顔を数度見比べ「よろしくお願いします」と男に頭を下げる。男は「もしきみが選別を突破できたら、また簗さんの顔を見に来てあげて」と言った。しのぶは「はい」と小さく答えると、小走りで帰路についた。
同病相憐れむ、としのぶはもう一度口の中で唱える。しのぶは簗の譫言の意味を、道すがらずっと考えていた。