ついてくる雨の音(三)



 最終選別を終えたしのぶは疲労困憊し丸一日眠り続けた。目を覚まし白湯をすすった頃にやっと生き延びた実感が湧き、腫れた手首がずきずきと痛んだ。しのぶは選別で多少の傷を受けたが大事には至らず、鬼殺隊本部の施療院で手当を受けそれからずっと眠っていた。
 カナエはしのぶより早く目を覚ましていた。しのぶが目を覚ましたのを見て「よかった」と微笑んだ。

「しのぶが会いに行っていた人、簗さんって言うのね」

 粥を口に運ぶしのぶに、カナエは言った。しのぶは椀の中の濁った水面に視線を落とし「どうして知ってるの」と聞いた。

「ここに入院しているの。しのぶが寝ている間に少しお話ししたわ」

 しのぶはカナエの顔を覗き見、おそるおそる尋ねる。

「どうだった……?」
「少しびっくりしたけど……」

 カナエの表情がわずかに曇る。誰のことも悪く言わない姉には珍しい態度であった。だがしのぶとてカナエの知り合いだと簗を紹介されたらそういう態度にはなる。

「大丈夫? 殴られなかった? ひどいこと言われてない?」

 詰め寄り矢継ぎ早に問うと、カナエは苦笑した。もしもカナエに何かひどいことをしていたら、しのぶは簗を許せない。カナエが首を横に振るので、しのぶは最後におそるおそる付け足した。

「……簗さん、元気だった?」
「ええ、少し疲れてるみたいだったけど」

 それを聞いてしのぶは安堵し息をつく。痛みにのたうつ簗の姿を、しのぶは明確には思い出せない。頭が真っ白になって立ち尽くすばかりの己を、しのぶは不甲斐なく思った。思い返すたびに己に出来ることがもっとあったのではないかと歯噛みする。
 しのぶは枕元の着替えに手を伸ばした。寝台の脇で着替え、誰に言うでもなく「挨拶してくる……挨拶だけ」と言い訳する。カナエは唇で弧を描きそれに応えた。しのぶは後ろめたさを感じながら病室を後にする。
 廊下で看護人に簗の病室の場所を聞く。「顔に大きな傷のある、」と言うなり看護人はすぐに部屋の場所を教えてくれた。
 教えられたとおりの部屋に赴き、中を覗くが空の寝台があるきりであった。しのぶは部屋番号を確認するが、教えられた番号と相違ない。出直すか、中で待つかとまごまごしている間に「おい」と背後から声を掛けられた。
 病衣のままの簗が杖を片手に立っている。丈の足りぬ病衣から足首が出ており、空いた片手には包みを提げていた。

「幽霊か」
「幽霊じゃない」
「そうかい」

 簗はしのぶの傍らをすり抜け、寝台に包みと杖を投げ出す。溜息交じりに寝台に腰掛けた。簗は蓬髪を短く切っていた。顔の傷は露わになっていたが、清潔感の点で言えば今の方が見られる外見である。しのぶはそのとき初めて、簗の左の耳殻が大きく欠けていることを知った。

「髪、切ったんだ」
「暇だったからな」
「そっちのほうがいいよ」
「まあな」

 簗は前髪を掻き上げる。寝台に投げ出された包みをほどくと、中には炊き込みご飯の握り飯が数個入っている。簗はそれを食べながら、一つをしのぶに投げ渡した。

「ここの飯は昔から味は薄いし量は少ねえし食った気がしねえ」

 しのぶは簗の枕元にある小さな椅子に腰掛けると、手からこぼれ落ちそうな大きさの握り飯に口をつけた。起きてから白湯と薄い粥しか口に出来ていなかったのでありがたい。
 簗は早々に一つを胃の中におさめる。しのぶは二つ目の握り飯で簗の口が塞がる前に慌てて口の中の物を飲み込んだ。

「簗さん、私のこと、鬼殺隊士に向いてるって、どういう意味」

 しのぶが言うと簗は思い切り顔をしかめる。

「なんだそりゃ」
「言ってた。あの、……選別の、前に」

 しのぶが遠慮がちに声をひそめると簗は「ああ」と溜息と変わらない声を漏らした。

「さあな、覚えてねえ」

 でも、と言い募るしのぶを簗は睨んで二の句を継がせなかった。

「おまえのアネキ」

 ぽつり、と簗は言う。

「えらい綺麗なもんで、観音様かと思った。とうとうお迎えが来たもんかと」

 何それ、としのぶは噴き出して笑う。カナエの美貌を褒め称える言葉はいくつも聞いてきたが、そんな言い様は初めてだった。
 簗は笑うしのぶを見て鼻を鳴らす。

「俺の迎えに観音様が来るわけもねえ。地獄行きよ」

 しのぶの唇から笑みが消えた。簗の凪いだ隻眼がしのぶを見る。

「おまえのアネキは、隊士には向いてねえな」

 そんなこと、としのぶは思う。背が高く、呼吸を使いこなし、しのぶがいなければカナエはもっと容易く選別を突破しただろう。誰もが胡蝶姉妹が鬼殺隊士になることに難色を示した。カナエの可憐さに、しのぶの稚さに眉をひそめる。だが簗の口振りはそういうものとは毛色が違った。冷ややかで無味乾燥で、しのぶの耳には死の予言のようにさえ聞こえた。

「姉さん、強いのよ。そうは見えないかもしれないけど」

 知らず震えた声になる。しのぶは叱られた子供のように膝の上で指を絡めた。簗はそれ以上その話に言及しなかった。握り飯を咀嚼する音だけが病室に響く。簗は米粒の付いた手指を舐めながら、俯くしのぶに視線をやる。

「俺のツラにションベン漏らしてたお嬢が隊士たァ偉くなったもんだ」
「も、漏らしてない!」
「クソッタレな稼業にようこそ」

 簗はそう言って鼻で笑った。しのぶは簗の顔をきっと睨んだ。

「簗さんはずるい」

 簗はひくりと眉を引き攣らせた。狂暴な隻眼がしのぶを食い殺しそうな目で睨み、それから小馬鹿にしたように唇を歪める。

「何がだよ。俺の立っ端がバカでかくて力があることか? それとも誰彼構わず喧嘩吹っ掛ける気性か? 俺の知ったことか」

 ちがう、としのぶは呻く。

「簗さんは、鬼を殺すことがどういうことか知ってる。どういう人が向いているのか、向いていないのか。失う……覚悟も。それなのに、それを誰にも教えてくれない。混ぜっ返してばかにしてるだけ。それってずるい」

 たとえば簗がカナエの育手であったなら。一言、優しい姉に「おまえは隊士に向いていない」と言っていたならば。ちがう。簗は悪くない。それでも思わずにいられない。悪いのは姉を止められなかった己ではないか。悔しさに目に涙をためるしのぶを、簗は溜息交じりに指先で呼び寄せる。うかうかと近寄るしのぶの肩先を簗は杖で思い切り突く。しのぶはもんどりうって尻餅をついた。左の肩がもげたのかと錯覚するほど痛む。悲鳴も上げられず床に丸まり喘ぐしのぶを簗は容赦なく蹴り転がした。

「知るかよ、甘ったれのクソガキが、テメエの不幸は誰のせいでもねえ。不運に理由を求めるのはよせ。受け入れられねえんなら隊士なんかやめちまえ」

 しのぶはよろよろ立ち上がると簗を睨みつける。

「それでも防げる不幸はあるはずでしょ!」
「ねえよ!!」
「ある!!」

 しのぶはかっとなって簗に食ってかかる。組み付いてくるしのぶの小さな手を簗は蚊を遣るより他愛なく振り払う。それでもがむしゃらに簗に組み付くしのぶの手のひらが、ばちんと音を立てて簗の左頬を張った。しのぶの右手に妙にひんやりとして張りのない皮膚の感触が残る。
 あ、としのぶは狼狽する。簗は張られた頬に手を当てぽかんとしていた。簗は認めないとはいえ、しのぶは一応簗のこともある種の師として一定の敬意を払っているつもりだった。その横面を思い切り張ってしまった。青ざめるしのぶと裏腹に簗の顔は真っ赤に紅潮していく。

「ご、ごめんなさい!」

 混乱したしのぶはそれだけ言い残し病室から走って逃げた。背後から簗がめちゃくちゃに暴れる音と怒声が聞こえる。あまりに大きな音に看護人たちがぎょっとして簗の病室に殺到していく。彼らとすれ違いながら、しのぶは彼らにも心の中で「ごめんなさい」と謝っておく。あれほど激昂する簗をどうしたら止められるだろう。しのぶには見当もつかなかった。
 しのぶはそれ以降、院内で簗に会うことはなかった。もう会うことはないのかもしれないとさえ思っていた。初任務から三つ四つ任務をこなし、鬼殺隊士の隊服が馴染んだ頃、しのぶは簗が育手になったのだという話を耳にした。


******


「簗? ああ……その名前、久しぶりに聞いた。まだ死んでなかったのね……あ、こんな言い方良くないね、ごめんなさいね」

 そう言ったのは隠の女であった。歳は三十を超えていて、もう十年以上隠をしているのだという。隠さえ人の入れ替わりの激しい鬼殺隊にあって、彼女は古参に近い立ち位置にある。彼女は胡蝶姉妹のことを気にかけ、何くれとなく面倒を見てくれた。聞けば姉妹揃って任務にあたることを提言したのは彼女で、その補助にいつも手を挙げてくれていたらしい。新人の、それも幼い少女の助役など誰もが忌避した。練達の隠である彼女に補佐してもらえることは、胡蝶姉妹にとってありがたいことであった。
 鬼を追う道すがら、ものの話にしのぶは簗のことを尋ねた。藤の紋の家でのことである。カナエは他の用事で部屋を空けていた。
 しのぶは簗のことを何も知らない。何が彼の体をあれほど傷付けたのか、彼の言う隊士への向き不向きが何であるのか、それを言うとき彼は誰の幻影を追っているのか。少し知りたいと思った。

「彼が引退したのは……三年くらい前かな。まだそれしか経っていないのね。ここにいると三年なんて大昔に感じてしまう」
「どんな隊士でしたか」

 彼女は何か言いかけ、それから不思議そうにしのぶを見る。

「どうしてしのぶちゃんが簗のことを知っているの?」
「悲鳴嶼さんのところに身を寄せている頃に会って」
「ああ、そう。岩柱様がいらっしゃったなら安心ね。岩柱様なら簗も止められるでしょうし」

 女の口振りで、女の中で簗がどういう立ち位置にあるか察したしのぶは苦笑いした。

「恐ろしく強かった。あれでもう少し気性がまともだったら難なく柱になっていたんでしょうに」

 女の口から、しのぶの知らない簗の話がぽつぽつと零される。しのぶが知るのは恵まれた体躯を寂れた長屋で日がな持て余す跛行の男だった。
 女の薄い唇から紡がれる簗は別人のようだ。剣技にあっては野太刀と見紛う長刀を腕の先のように自在に操り、初太刀を疑わぬ烈火の如き剛剣を振るう。性質にあっては良く言えば剽悍無比、有り体に言ってしまえばとにかく気性が荒く行く先々で揉め事を起こさずにいられない。当然連携など取れるわけもなく、常に単独任務に就いた。隊士でなければ間違いなく人を殺していた、と女は簗を称す。
 しのぶは縁側に腰掛け、枝ぶりのいい紅葉の木を眺めた。てのひらの形をした葉の縁がうっすらと色づきかけていた。小さな池に朱色の鯉が泳いでいる。緑色の水面に陽光がきらめく。

「そんなに強かったのに引退したのは――」

 やはり、あの跛足のせいであろうか。しのぶは簗の痛々しく足をひきずる様を思い出す。女は首を傾げた。

「理由は……なんだったのかな、もう色々と限界だったのかもしれない。彼の顔見たでしょう? ひどい有様で……ああなる前はね、多少は見られる男ぶりだったよ。今じゃ見る影もないけど」

 しのぶは眉をひそめて尋ねる。

「脚のせいじゃないの?」
「脚……ああ、脚ね。そう、あの人は途中で脚を悪くして、それでも鬼を狩ってた。鬼気迫る様子でね、正気の沙汰とも思えず、大抵の隊士は簗を遠巻きにしてた」
「あなたも?」

 どこかから澄んだ音色で鳴く小鳥の声がした。女はふと懐かしむように目を細める。

「私は……一度しか任務で一緒になったことがなかったから。悪い噂ばっかり聞いていたけど……それよりは案外まともだと思ったかも。でもとにかく喧嘩ばかりしてた。――思い出した、確かその任務で簗は脚を駄目にしたのだった。一緒だった水柱がひどく気に病んで……見ていられなかった」

 水柱、としのぶは口の中で反芻する。単独任務を優先的に回される簗が、当代の水柱とだけは不思議と馬が合ったのか共同戦線を張ったのだという。

「その水柱も殉職してしまって……それもあったのかな、でもあの男がそんなことを気にする風にも思えないけど」
「その、水柱って……」
「もう何代前だったか……名前は……ごめんね、忘れちゃった」

 しのぶは縁側に腰かけたまま、脚をぶらつかせる。姉がいたら行儀が悪いと窘められただろう。しのぶの知らない簗は、だがたった三年前の話だという。現実感がないような気もしたし、己が明日にもそうなるような気もする。しのぶはふと簗に謝りたいと思った。
 女は深々と溜息をつく。

「あのチンピラが育手になったなんて世も末だね。いくら鬼殺隊が人手不足だって……。しのぶちゃんたちがあの男の弟子にならなくて本当によかった。一体どんなひどい目に遭わされていたか」

 しのぶはそれを聞きながら、縁側の床板の傷に指を這わせた。曖昧な苦笑いを浮かべるしのぶの頭を、女は慈しむように撫でた。


******


 隊士となって半年余り、しのぶは幸運にも大きな怪我に見舞われることもなく任務をこなした。しのぶは鬼の頚を刎ねる膂力がない代わりに知力でそれを補った。鬼が藤の花の香りを嫌うことに着想を得て、藤花の精油を抽出しいくつかの毒物を配合して鬼の動きを鈍らせる薬品を作った。とどめには至らずとも、足止めにはなる。強大な鬼には通用しないが、今しのぶが相手取る強さの鬼には十分な効果を得られた。
 鬼の動きを制圧可能な多彩な薬品を操る腕を買われ、姉とは別の任務に就くこともある。別任務を終えたしのぶを迎えたカナエはいつもしのぶの指の一本まで以前の通りにくっついているかを確認した。しのぶはそれがくすぐったくもあり、愛しくもあり、だが寂しくもなる。己はいつまでたっても姉の心労の種の一つだった。
 姉とは別の任務を終えたしのぶは次の任務に備え、また姉と合流するために岩柱邸に逗留することとなった。久しぶりに会った岩柱は相変わらず大きい。岩柱はしのぶを見下ろすと「相変わらず豆粒のように小さい」と溜息をついた。しのぶはそれを笑って「悲鳴嶼さんから見たら大抵の人はそうでしょう」と答えた。
 岩柱はしのぶと入れ違うように任務に出ていった。しのぶは継子のいない邸内で細々と家のことをしてささやかな余暇を過ごしていた。のんびりしているよりは何かをしているほうが性に合う。
 その日もしのぶは薪置き場の薪を整理し、その後貸し与えられた客間で本を読んでいた。勝手口の方で物音がしたので、姉か或いは鬼殺隊からの使いかと様子を見に行く。乱暴に木戸が叩かれていることを確認し、姉ではないとしのぶは確信する。悲鳴嶼が留守の今、勝手に出てもいいものかとしのぶが逡巡しているうちに、木戸がこじ開けられた。呆気にとられるしのぶは、戸口の向こうに簗が立っているのを見てさらに目を丸くする。
 簗はしのぶの姿を認めるなり「悲鳴嶼は」とぶっきらぼうに言った。しのぶは口を開けたり閉じたりする。

「悲鳴嶼はって聞いてんだよ。どこだ、任務か、クソ、入れ違いかよ」

 簗はそうだけ言うとがりがりと自身の髪を掻きまわす。少し髪が伸びていた。

「……任務、だけど」
「そうならさっさと言わねえかい」

 簗は息を吐くと、しのぶを頭のてっぺんから足元までじろじろ見る。居たたまれなくなって項垂れるしのぶに簗は鼻を鳴らした。

「幽霊か」
「…………幽霊じゃない」
「そりゃよかった」

 簗はそう言うと踵を返そうとする。しのぶは慌てて簗の袖に縋りついた。

「あ、あの!」
「なんだよ」
「…………ごめんなさい」
「何が」
「顔、叩いちゃって」
「は?」

 簗は不審げな顔をして己の頬を撫でる。しのぶは眉をひそめて「半年前」と付け足した。簗はもう一度「はァ!?」と大きな声を上げる。

「ンな大昔のこと俺がグズグズ根に持ってるわきゃねえだろうが舐めてんのか?」

 しのぶは唖然として簗の顔を見上げる。

「お嬢にツラつつかれたくらいじゃ痛くも痒くもねえよ」

 簗はそう言うとけらけらと笑った。しのぶは簗がそういう風に笑うのを初めて見た。

「だって、すごく怒ってたし……」
「まあ、そりゃ、そんとき多少はな」

 簗は気まずげに肩をすくめる。
 しのぶは簗の姿を見つめた。相変わらず杖をつき半面は爛れていたが、以前の倦み疲れたような顔つきではなくなっている。覇気のあるとは言い難いが、少しは元気そうに見えた。事実こうして悲鳴嶼の家まで赴いている。

「簗さん、元気そうでよかった」
「このナリが元気そうに見えんのか。お嬢よォ、だいぶ鬼殺隊で揉まれたな」

 簗はそう皮肉気に唇を歪めると杖で己の脛を叩いた。しのぶはちょっと笑って「簗さん、お茶飲んでいく?」と尋ねる。簗は「茶じゃ腹膨れねえ」と答える。目に見えて落胆するしのぶに簗は神妙な顔をすっと近付けた。

「あれ用立ててくれねえか」

 簗の風体と振る舞いでそういう言い方をされると完全によろしくない取引だ。怪訝な顔で黙り込むしのぶに簗は己の頬を指さす。

「あれはいいもんだ」

 選別の前に簗に渡した軟膏を思い出す。確かに簗からはさっぱりとした木の香りがする。しのぶは弛む口元を必死で抑えた。

「ふうん、……効く?」
「効く」
「へへ、そうなんだ」
「にやにやしやがって、ムカつくな」

 そう言われたのでしのぶは遠慮なくにやにやすることにした。簗は顔をしかめて顎を上げる。

「もし時間があるなら、今作ってあげようか」

 しのぶは言う。簡単な傷薬の材料は常備していた。簗は間髪入れずに「頼むわ」と答える。しのぶはにまにましながら客間に簗を案内した。
 簗は黙ってしのぶの後に続き、促されるままに床に座る。しのぶは馬油といくつか精油の瓶を卓上に並べていく。簗はそれを興味深そうに眺める。しのぶにはその視線が心地よかった。芝居がかって瓶をいくつか光に透かすと、簗は感心したように声を上げる。

「本当に自分で作ってたのか」
「まあね」
「鬼狩りにしとくにゃ惜しい頭だな、手足すっ飛ばしても頭は守っとけ、もったいねえから」

 しのぶは得意になりながら乳鉢に材料を入れていく。しのぶはまだ誰にも言っていない考えを簗に言ってみたくなった。まだ姉にも、悲鳴嶼にも言っていない。それはおそらく簗がしのぶを応援も激励もしないかわりに否定も制止もしないからだ。

「鬼を殺せる薬を作りたいの」
「へえ」
「できるかな?」
「知らねえ、俺ァ頭が悪いんだ」

 身も蓋もない返答を得て、しのぶは苦笑する。望んだ返答であっただろうか。よく分からなかった。だが無理だと窘められたり、お為ごかしにきっと出来ると言われるよりはマシだった。
 いつもより丁寧に軟膏を混ぜ合わせながらちらと簗のほうを見ると、簗は座って腕を組んだままうたた寝をしていた。しのぶはむっとして「簗さん!」と少し大きな声で簗を呼んだ。簗の肩がぴくりと揺れる。

「ンだよ」

 不機嫌そうにそう返される。しのぶは軟膏を硝子瓶に移しながら、ずっと聞いてみたかったことを聞いてみようと思った。

「この薬あげるかわりに教えてよ。簗さんの言う隊士の向き不向きってなんなの」

 しのぶの問いに簗は「向いてる奴と、向いてねえ奴、どっちが知りたい」と問い返した。しのぶは少し考え「どっちも」と答える。簗は首を横に振った。なんで、とむくれるしのぶに簗は乳鉢の中身を顎で示した。

「こいつがなくなって次が必要になったら教えてやる」
「じゃあ……向いてる方」
「馬鹿かキチガイ」

 簗は短くそうだけ答えると、しのぶの手の中から瓶詰めを終えた軟膏をすいと取り上げた。取るものを取ってさっさと帰ろうとする簗の後をしのぶは慌てて追いかける。簗がぴたりと立ち止まり、しのぶは勢いあまってその広い背中に顔からぶつかった。相変わらずしのぶがぶつかった程度ではびくともしない。しのぶは鼻を押さえてその場に屈みこんだ。鼻の奥がツンと痛む。
 蹲って呻くしのぶを簗は見下ろす。つやつやとした黒髪の、星のような旋毛を見る。

「なんだいお嬢、せわしねえな」
「やなさんが、きゅうに、とまるから」

 簗は溜息交じりにその場に膝をつく。脚の悪い簗の座り方は、しのぶには天井が落ちてくるように見えた。簗の爛れ崩れた顔が、しのぶの顔を覗き込む。

「ツラ見せてみろ。鼻折れてねえだろ。……鼻血出てんじゃねえか、傑作だな」

 しのぶははっとして己の顔に触れる。ぬるりと指先にぬるい液体が触れた。しのぶは慌てて手拭いで鼻を押さえる。しのぶは血が滲んでいく布越しに簗を睨んだ。

「じゃあ簗さんって、馬鹿でキチガイだったわけ?」
「今でもそうだ」

 事も無げにそう言って、簗は杖を頼りに立ち上がる。しのぶはその背中を見送りかけ、勝手口の方に消えていく簗に「次の任務が終わったら、薬届けに行くから!」と大きな声をかける。簗は振り向きもせず、耳の横あたりで指の欠けた手を二度ほど振った。