ついてくる雨の音(四)



 木戸の前に立つしのぶの足下を、簗は無言で指差した。
 簗が移り住んだ山裾の庵は小さく鄙びていたが、かつての湿った長屋よりは遙かに住みやすそうだった。周囲に人気は少ないが少し歩けば街道に行き当たる。交通の便は悪くない。
 しのぶはその佇まいを見て安堵を覚えた。あの長屋では健康な人間も気がふさぐだろう。しのぶは宣言通り、任務を終えた後簗のもとを訪れた。簗は木戸を開けるなり指先をちょいちょいと動かししのぶに「どけ」と合図する。しのぶは眉をひそめて自身の足下を見下ろす。何の変哲もない土を踏み固めた通用口だ。雨でも溜まっていたのか、少し湿っている。

「なに?」
「それションベンだから踏まねえ方がいいんじゃねえの」
「えっ、うわっ、簗さん……」
「ふざけろ、俺じゃねえ」

 しのぶは湿った土から飛び退り、草履の底を乾いた地面で拭う。簗は前髪を掻き上げると「上がってくのか」と呻いた。

「履き物は脱ぐから」
「そうじゃねえ。上がっても何もねえぞ」
「いつもじゃない」
「それもそうか」

 簗が戸口の向こうに消えていく。しのぶは湿った地面を飛び越え簗の後を追った。一人で住むには広めの庵だ。ふすまで区切られていくつか部屋があるのは、おそらく弟子を受け入れ住まわせるためだろう。本当に育手をしているのか、としのぶは目の当たりにして初めてそれを信用せざるを得なくなる。噂には聞いていたが、何かの間違いではないかと思っていた。
 だが、庵には簗以外の人間がいる気配はない。出かけているのとも違う。そもそも同居人のいる気配がない。

「簗さん、お弟子さんいないの?」

 育手なのに、としのぶが問うと、簗は縁側に腰掛けながら「さっきまでいた」と答える。しのぶはその隣に座りながら簗の横顔を見上げた。

「新顔がさっき来たんだが、俺のツラ見てひっくり返ってションベン漏らして逃げ帰った」
「……うそでしょ」

 しのぶは思わずそう言うのだが、玄関先の水溜まり跡を思い出して顔をしかめる。

「失礼な奴。私だってそんなことしなかったのに」
「選別で死ぬよかここで赤ッ恥かいた方がマシだろうよ」

 しのぶは簗の表情を盗み見ようとしたのだが、ちょうど左側に座ってしまったのでそれは叶わなかった。しばらく自身の膝を眺め、荷の中から薬瓶をいくつか取り出す。
 こつ、こつ、と簗と己の間の床に置いていく。簗はしのぶの方に大きく首を巡らすと「こっち座れ」と己の右隣を顎で示す。

「どうして」
「そっちから話しかけられても何言ってるかよく分かんねえ」

 しのぶは簗の大きく欠けた左の耳殻を見た。そうだったのか、と思う。簗はそれを他人に気取らせなかった。それを伝えられたことは一線を越えることを許されたようで少し嬉しい。しのぶは立ち上がり、簗の右隣に座り直す。庭は稽古用のためか広く造られていたが、植木も庭石もない。見るべきもののない庭に、二人でぼんやりと視線をやった。
 しばらくすると簗は思い出したように薬瓶を拾い上げる。褐色の瓶の蓋を開け、白い半透明の軟膏に鼻先を寄せ、深く息を吸う。

「簗さん、それあげるから教えて」
「ああ、向いていない奴の方か?」

 しのぶは首を横に振り簗の言葉を遮る。聞けるとなると怖くなった。向いていないと言われた姉はどう腐されるのだろう。それを思うと、まだ少し先延ばしにしたくなった。

「好きな食べ物は?」
「……卵だな」

 そうなんだ、としのぶは呟く。簗は答えたはいいものの、不可解そうにしのぶを見た。

「そんなこと聞いてどうする」
「今度お土産に持ってくる」
「ガキが気を遣うんじゃねえよ」

 簗は舌打ちを一つする。しのぶは何もない庭を眺めた。もとは砂で均されていたのだろうか。今はぽつぽつと草が生えている。

「簗さん、一人で寂しくない?」
「別に、気楽でいい」
「人といるのは嫌い?」
「人が俺を嫌いなんだ」

 いくつ聞くんだよ、と簗はしのぶを睨む。

「犬を飼ったらいいよ」
「犬は嫌いだ」

 わがまま、としのぶは唇を尖らせた。上空を飛ぶ烏がしのぶの肩に舞い降り、次の任務の用務地を叫ぶ。しのぶはそれを聞き、荷物をまとめた。


******


 しのぶは機会があれば簗のもとを訪れた。だがしのぶの階級が上がり忙しくなるにつれ、自ずと顔を合わせる頻度は減る。
 鬼を殺す薬はまだ完成していなかったが、上手くはいっていた。動きを止めるだけでなく、苦痛を与え体の一部を損壊し得る効果も付与することが可能になった。しのぶはそれを嬉しく思う。だが嬉しく思ってはいけないような気もした。
 姉が花柱に就任したのはその頃のことであった。しのぶはそれを誇らしく思った。誰からも憐れみを向けられ、鬼殺隊などなるべきではないと諭された姉が自ら掴んだ柱の座だ。誰かを守りたいと望んだ姉は、柱として人々を助け、隊士の支えとなる。だが、姉自身は誰が守ってくれるだろう。己では力不足で、しのぶにはそれが泣き叫びたくなるほど悔しい。

 しのぶは久しぶりに簗の庵を訪れることにした。長いこと訪ねていなかったのに、様子は何一つ変わっていない。さあさあと雨が降っていて、目に映る景色全てがけぶっている。しのぶは濡れた手で木戸を叩いた。しばらく何の音もせず、留守かと落胆すると突然戸が開いた。びしょ濡れの少年が顔を覗かせる。雨の中傘を差して歩いてきたしのぶより濡れそぼり、顔は真っ白で唇は青ざめている。

「お客様ですか」

 少年は震える唇でそう問う。しのぶは一瞬訪ねる家を間違えたかとたじろいだが「簗さんはいらっしゃいますか」と尋ねる。少年は小さく首肯するとしのぶを中に招き入れた。
 少年はしのぶと同じくらいの年頃に見えた。前を行く少年は背こそしのぶより高いが、痩せて頼りない印象を受ける。濡れて重くなった木綿の着物が薄い肩に貼り付いている。
 短い廊下を渡った先に簗の部屋がある。少年はふすまの向こうに声を掛けた。中から低い返答がある。少年がふすまをひくと、簗は縁側に腰掛け外を眺めていた。雨だというのに雨戸も何も開け放してある。

「幽霊か」
「幽霊じゃない」

 簗は唇の端を上げ、次いで少年の方に視線をやる。

「茶、熱いの。あと何か拭くもん用意してやれ」

 消え入りそうな声で少年は答え、一度奥に引っ込むと手拭いを数枚持って戻ってきた。それを受け取り礼を言うしのぶに少年は会釈をするとどこかに消えていった。しのぶはその姿を見送り、ふすまを閉めながら簗の方に向き直る。

「お弟子さん?」
「まあ、そうだ。――どう思う?」
「弱そう」
「は、さすが見る目が違ェ」

 賞賛か皮肉か簗はそう言うとしのぶの方に上体を向け、呻き声を上げる。

「雨の日はあちこち痛む」
「平気?」
「慣れた」

 簗は無言で手のひらを差し出し、しのぶはそこに薬瓶を落とす。簗は薬瓶の蓋を開けにおいを嗅いだ。
 しのぶは簗の右隣に座る。膝にぽつぽつと雨樋から水滴が落ちてくる。風が吹くと細かい雨粒が頬を撫でた。これでは拭くものなんていらないな、としのぶは思いながら、ぽつぽつと水の滴り落ちる髪を拭う。

「簗さん、あのね」

 しのぶが口を開くと、簗は隻眼をしのぶに向ける。簗が右隣に座ることを要求するのは、声の聞き取りやすさに加えて視界の広さもあるのだろう。

「鬼を殺す毒、もう少しで完成するかも」
「そりゃすげえな」

 簗の返答は簡潔だった。もう少し大袈裟に褒めてくれてもいいのに、と思う。しのぶは姉にこの話をしたときに、優しく頭を撫でられたことを思い出す。姉はこの薬が鬼を救うことを期待していると、しのぶは知っていた。首を落とすことでしか殺せぬ鬼を、優しく、苦痛なく、眠るように殺せる。しのぶもそうあろうとした。姉がそう望むなら。
 だがその意に反して、しのぶの精製する毒物は鬼に多大な苦痛を与える。皮膚を腐らせ、骨を軋ませ、筋をほぐし、内臓を溶かす。どれほど鎮静鎮痛効果のある薬を混ぜ込んでも駄目だった。鬼は暴れ、血を吐き、全身をぶよぶよと鬱血させ、穴という穴から体液を漏らしながらのたうち回る。こんなもの、姉には見せられなかった。
 簗さん、としのぶは小さな声で囁く。鼻を啜る音は、きっと雨音にまぎれて聞こえなかっただろう。

「でも、それが鬼を……すごく苦しめる薬だとしたら、簗さんはどう思う?」

 簗は左脚を抱え引き寄せ膝を立てると、そこに顎を乗せる。

「俺がか? 別にどうも思わねえな」
「でも、本当にひどい、可哀想な死に方をするんだとしたら……」
「お嬢、お嬢はどう思う」

 問われたしのぶは一瞬模範的な回答をしようと考えを巡らせたが、簗の顔を見てそれを諦めた。己の中の目を背け蓋をし続けてきた昏い感情が頭をもたげる。

「ザマ見ろって思う」
「じゃあいいだろ、それで」

 いいのだろうか、としのぶは膝の上で指を絡める。己が鬼殺隊士になったのは、何かに怒りを向けていないと気が狂いそうだったからだ。鬼狩りに没頭している間は、鬼のことを忘れられた。それを誰にも言ったことはない。姉にさえ。言えば姉は悲しむ気がした。
 簗は眠たげな半眼をけぶる庭に向ける。

「他人様は好き勝手言うぜ。一ツ足で刀振ってりゃ物狂いだ喧嘩馬鹿だと。知ったことかよ、なァ、こっちは刀振ってねえと人間でいられねえんだ」

 しのぶは簗の横顔を見た。比較的傷の少ない右半面は顔色があまり良くない。目元に疲労が滲んでいる。

「自分のために鬼を殺すのは――」

 下卑た行いに思えてしまう。誰かのために刀を振るう姉や、家族や散った先達の思いを胸に戦う仲間を見ていると。項垂れるしのぶに簗は鼻を鳴らして「上等だろ」とだけ言った。
 ふすまが開けられ、湯気の立つ湯飲みを携えた少年が入ってくる。少年は目礼だけしてお茶を置いていく。その後ろ姿に簗は声をかけた。

「まだやんのかい」
「……はい」

 少年は消え入りそうな声で呟き、幽鬼のように消えていく。簗は熱い茶を呷ると「今のナシ」と渋い顔をした。


「説教クセえな、ジジイかよ。ったく、育手なんかやってるから老いぼれる」
「ちょっと先生っぽくて良かったよ」
「よせ、柄じゃねえ」

 手のひらで額を押さえる簗の向こうで、ばしゃんと水溜まりを踏む音がした。来客だろうか、としのぶは音の方を見ようと首を伸ばす。件の少年が木剣を片手に庭に立っていた。雨足はさっきより強くなっている。屋根に雨粒のあたる音がざあざあと反響する。
 少年はその場で型稽古を始める。薄い肩に容赦なく雨が降り注いだ。しのぶはぎょっとして簗に視線を向ける。簗は自身の脚を抱くようにして、溜息をつく。

「俺はやれと言ってねえぞ」
「だって……こんな雨で……」
「堪らんよなァ、付き合ってられねえ」

 簗はうんざりとした調子で吐き捨てる。しのぶは少年が刀を振る姿を見つめた。しのぶの記憶が正しければ火の呼吸の型を一から順に行っている。お世辞にも達者とは言いがたい。呼吸も整わず、剣は鈍く、踏み込みは覚束ない。

「旅芸人の母親を食い殺されて地縁も血縁もねえんだと。ま、ここじゃよくある話だな」

 冷ややかな言葉にしのぶはきっと簗を睨む。何か言ってやろうと思って口を噤んだのは、付き合っていられないと言いながら簗が体の痛みを押して吹きさらしの縁側で彼を見ていたことに気が付いたからだ。

「毎日百回型稽古するって決めたらしくてな、それをこなせねえと泣きながらうろつくんだ。病気だろ。俺ァ医者じゃねえからよ、見てる他ねえ」
「あの人、選別に出るの?」
「出さねえわけにはいかねえよ」

 でも、としのぶは言いよどむ。己の言葉を彼に聞かせたくない。簗は苦虫を噛み潰したような顔をする。

「いい、言ってやれ。俺は何度も言ってんだ。あんな屁っ放り腰じゃ鬼の餌もいいとこだろ。でもよ、選別に出ねえとあいつは気がすまねえんだ。ばかだねェ」

 しのぶは雨に滲む少年の姿を見る。

「でも、死んじゃうよ……。簗さん、諦めさせなくていいの? いつもみたいに追い返せばいいのに」

 簗は隊士候補達を次々追い返してしまうのだという。噂には聞いていたし、その悪評通り簗の弟子は大抵長続きしない。簗の風貌に、破壊された体に、雷鳴のような怒声に、耐えきれずに皆逃げ出してしまう。

「追い返してどうなる。あれがまっとうに生きられるように見えるか。もうぶっ壊れちまってんのよ。そのへんで野垂れ死ぬだけだ」

 簗はしのぶに顔を向けた。落ちくぼんだ眼窩の溝を、雨粒が流れていった。

「同じ死ぬんなら、ちっとマシな死に方を選びてえだろ」

 しのぶは隠の言葉を思い出していた。遙か昔にすら感じられる「簗さんは、自分に似た人には少しだけ優しい」という言葉の意味を、しのぶはずっと考えてきた。ほんの少しだけ分かったような気もした。だがそれが正しいかは分からなかった。
 しのぶは帰り際、少年がぬかるんだ土を踏む弱々しい足音を聞き堪らず彼に駆け寄ると、その薄い胸に手のひらを当てる。体温らしい体温の感じられない体だった。

「ここの深いところまで息を吸うの。吸って、吐いて、血を全身に行き渡らせる」

 少年は曖昧に頷く。目は虚ろに雨雲を見ていた。少年は息を吸う。しのぶの手の下で肺が膨らむ。ごほごほごほ、と少年は咽せ、痩せた体を折り曲げる。しのぶはその姿をどうしようもなく見下ろした。けぶる視界の端で簗が退屈そうに片足をぶらぶらさせていた。


******


 姉である花柱が元あった施療院を引き取り内部の改革に手を付け半年余り、いつしか施療院は蝶屋敷と呼ばれるようになっていた。それは施療院の主である胡蝶姉妹が蝶の翅の意匠をことさら好んだためである。隊士に復帰できぬと見定められた者は容赦なく見放された施療院時代とは異なり、胡蝶カナエは死にゆく者にも献身的であった。隊士として生きることは不可能でも、せめて命は繋がるように。それが無理なら最期の一瞬はどうか安らかに。胡蝶カナエは忙しい任務の合間を縫って患者の手を握り、死にゆく者を見送る。胡蝶カナエが不在ならば、妹のしのぶが。二人ともいなければ孤児となった少女たちが。
 評判の悪かった味が悪く量も少ない病院食は、カナエの奔走と本部の糧食班長が交代になったことで劇的に改善した。糧食班長はカナエの食餌に対する細かな要求に必ず応えた。ときには新たな献立の提案もする。頼もしい仕事仲間だった。強いて欠点を挙げるならば、働きぶりのいい蝶屋敷の少女を厨房係に執拗に引き抜こうとすることだった。
 任務を終え蝶屋敷に顔を出したしのぶは、相変わらず忙しそうなカナエに声をかける。カナエはしのぶを見るなり顔を輝かせ、しのぶの華奢な体を抱きしめた。

「お帰り、無事でよかった。怪我はない?」

 カナエはいつもそう言ってしのぶを迎える。しのぶは笑って「ないよ、姉さん心配しすぎ」とそれに答えた。

「これでも最近はちょっとやるんだからね」
「はいはい、そうだったわね。頼もしい妹で嬉しいわ。――じゃあ、頼もしいついでにこれお願いしちゃおっかな」

 カナエはにっこり笑って大量の薬箋をしのぶに示した。しのぶはそれを順に確認していく。傷薬、化膿止め、痛み止めがほとんどだ。しのぶは蝶屋敷で使用される薬の大部分を調合していた。

「こんなに!? 姉さん、薬使いすぎじゃない?」

 しのぶが眉を上げると、カナエはおっとりと微笑む。

「用法用量は守ってるから平気よ」
「あんまり薬代かけると出納係にまた嫌味言われるんだから……」
「嫌味を言われるのは平気だけど、しのぶが十倍も百倍も言い返すものだから出納係が可哀想になるのよね……」

 カナエがのんきに笑うので、しのぶは肩をすくめる。ああそういえば、とカナエがしのぶの方に向き直った。

「簗さん、今入院してるわよ」
「また!?」

 しのぶは思わず大きな声を上げてしまう。簗は施療院が蝶屋敷と呼ばれるようになってから度々入院を繰り返していた。もとより健康な部位のない男であるので仮病詐病の類ではない。入院しようと思えばいつでも入院できる体である。だが簗は食事目当てで入院している節があった。そのうえあの体格なので人の倍は食べる。簗の顔や態度を少女たちが怖がる。部屋を勝手に抜け出しぶらぶらする。入院中の現役隊士と喧嘩をする。と、悪行は挙げれば枚挙に暇がない。

「簗さんのね、お弟子さんが亡くなられたんだって」

 だから少しだけ優しくしてあげて、とカナエは眉尻を下げる。しのぶはかっかとしていた頭に冷や水をかけられたような気分になった。しのぶは半年ほど前に見かけた少年の痩せた背中を思い出す。わかった、と口の中で小さく呟き踵を返す。
 簗がいつも入院している病室には誰もいなかった。しのぶは寝台に手を置き、布団が冷たいことを確認する。しばらく部屋を空けているらしい。厠ではなさそうだ。溜息をつくしのぶの背後で「幽霊か」と低い問いかけがあった。しのぶはきゅっと眉をひそめ振り向く。

「幽霊じゃないったら」
「しぶといな」

 杖に体を預けた簗が戸口の木枠にごつんと頭を寄りかける。少し痩せた。光の加減のせいか顔色も芳しくないように見えた。簗は額にうっすら浮いた汗を手のひらで拭う。しのぶは簗に向けて手のひらを差し出した。簗はその傷と肉刺だらけの、だが小さく可愛らしい手のひらを見下ろし顔をしかめる。

「なんだい、小遣いでもよこせってか。ふざけんな」
「違う。出して。巻き上げたもの」
「…………なんも巻き上げちゃいねえよ」
「出して」

 しのぶがきりと簗を見上げると、簗は溜息をつき短髪を掻きまわす。その手をそのまま懐に突っ込み、小銭とくしゃくしゃの紙幣をしのぶの手のひらの上に落とした。

「これだけ? 袂のそれは」
「目敏いな! 犬かテメエ!」

 簗は不満げに唸りながら袂から菓子袋を出ししのぶに明け渡す。

「言っておくが巻き上げたわけじゃねえ、指南料だ」
「院内で規定外の金銭及び物品のやり取りはこれを固く禁ずる」
「あーはいはい、うるせえったら」

 簗は寝台に勢いよく座る。木製の寝台が壊れそうに軋んだ。しのぶは枕元の小さな椅子を簗の右隣に移動させ腰かけた。

「どうして大人しくしてられないの、いい大人なのに」
「してるだろ」
「全然。姉さんに迷惑かけないで」
「かけちゃいねえよ、俺ァお嬢のアネキは苦手なんだ。だからこうして逃げ回ってる」

 しのぶは簗の顔を見る。しのぶはカナエを苦手だという人間は見たことがない。男ならばなおさら。簗はしのぶの困惑げな顔を見て鼻を鳴らした。

「お嬢のアネキは俺が死んだら泣きそうだな。そういう真っ当な神経の持ち主は嫌いだ」
「なにそれ……」
「その点お嬢はいいねェ、俺が死んだら墓に唾かけてくれんだろ」
「そ、そんなことしない!」

 声を荒らげるしのぶに簗はけらけらと笑った。しのぶは膝の上で組んだ指を、簗の顔を、順に見る。聞いてみたいことを聞こうとして、踏ん切りが付かずに別の話題を口にする。

「簗さん、姉さんに気があるからしょっちゅう入院してるんだと思ってた」
「馬鹿言うなよションベンくせえガキが雁首揃えて、その気にもなりゃしねえ」
「――簗さん、」
「なんだよ」
「あの子、死んだんだね」

 しのぶの言葉に簗は「ああ」と答えたきり黙り込む。しばらくして細い息だけが裂けた唇から吐き出された。

「奴も本望だろ」
「そうなのかな」
「そう思うしかあるまいよ」

 簗は隻眼をゆるりと閉じる。祈るようにも見えたし、ただ疲れ果てただけのようにも見えた。

「皆が皆、必要な才能が身についているとは限らねえ。おかしな話でね、俺は喧嘩が張れるよりも笛や太鼓が達者なほうがいくらか足しになったと思ってんだ。ここにいちゃ誰もそんなこと分からねえみてえだがな」

 うん、としのぶは小さく返事をする。簗は皆が言うほど喧嘩好きでも戦闘狂でもない。どうしようもなく気性が荒く喧嘩っ早いのはそのとおりだが。あれほど諫められた姉も己も気が付けば同期がぼろぼろと欠けている。生き残っているのは、運か、それも含めた才能か。

「あの馬鹿を憐れむなよ。あいつはテメエのために死んだんだ。よそからワアワア言われる筋合いはねえ」

 簗はそう言うが、隻眼は昏く足元に注がれている。しのぶは己の最期を思う。しのぶは己のために死ぬ覚悟はできていた。だがしのぶが死ねばカナエは悲しみに暮れるだろう。それは嫌だった。しのぶは、もしそういうことになってもカナエには泣き暮れて欲しくない。
 しのぶは己自身が死ぬ覚悟はできていた。だが己より先に姉が死ぬなど、思いもよらなかった。美しく強く優しい姉。花柱となった姉。いつも己の手を握ってくれた温かな繊手が冷たくずるりと手の内を滑り落ちていく。胡蝶カナエが死んだ。しのぶは己の腕の中で冷たく硬くなっていく姉を抱きしめ続けてさえその実感が得られずにいた。己が死ぬ覚悟は出来ていた。出来ていたのに。
 胡蝶カナエが荼毘に付され、しのぶは姉の羽織に袖を通した。憧れた蝶翅の模様の繊細な羽織はしのぶには大きすぎた。袖は手の甲を隠し、裾は膝に迫る。軽やかに翻る姉の羽織はぞろりとしのぶの体に纏わりついた。カナエの死後、人が変わったように姉の立ち居振る舞いを真似するしのぶに少女たちは怯え、ときにしくしくと泣いた。アオイははじめのうちはおずおずとそれを諫めようとしたが、そのうち諦めたようだった。カナヲはただ悲しそうな顔をするだけだった。しかしそれが一番堪えた。
 しのぶは少女たちを怖がらせることは本意ではなかった。だが己の行為を止める事も出来なかった。それを覚悟と呼ぶのならばその通りで、無駄な足掻きと呼ぶのならばその通りだった。癲狂だと呼ばれたならば、やはりそれもその通りだ。
 しのぶはその日、姉の墓の前に立っていた。しとしとと雨の降る午後のことだった。傘も差さずに立ち尽くすしのぶの羽織が徐々に雨を含んで重くなっていく。よう、と背後から声をかけられた。聞き覚えのある遠慮のない声音であった。

「――簗さん」
「薬もらいに来た。そしたら小せえのにお嬢はここだと。傘持って行ってくれとよ」

 簗はしのぶに傘を差し出した。己の傘は持っておらず、いつものように杖だけ片手に携えている。しのぶは差し出された傘をぼんやりと見下ろす。こうなってしまった己を、簗にだけは見られたくなかった気がした。それは簗が鬼殺から一歩退いた立ち位置にいるからかもしれず、こういう感傷めいた行為を忌み嫌いそうであったからかもしれない。しのぶはゆるゆると凍える唇で微笑む。

「……すみません、脚が悪いのに、こんなところまで来させてしまって」

 姉ならそう言うだろうと思った。簗は驚いて目を丸くするだろうか、狼狽えるであろうか、それとも怒るか、馬鹿にするか。しのぶは簗の崩れた顔をぼんやりと眺めた。しのぶの予想に反して簗は何も言わなかった。表情を変えさえしない。もっとも、傷だらけで黒く爛れ引き攣れた顔では元より表情は分かりにくかった。

「おめえのとこのガキどもの躾はどうなってんだ。客に使いをさせるたァいい根性だな」
「ふふ、私から言って聞かせます」

 姉ならきっとこう答える。しのぶは傘を受け取ったが、開き方を忘れたように傘を両手で抱えたまま立ち尽くした。

「――簗さん、」
「なんだよ」
「姉さんが……姉が亡くなったんです」
「知ってる。聞いた」

 しのぶはいつかの簗の言葉を反芻する。己のために戦える。己の正気のために。その意味を、しのぶはずっと咀嚼出来ないでいた。だが今の己が簗に一定認められた状態のままでないことは分かっていた。しのぶは己の不甲斐なさに、簗への申し訳なさに唇を噛む。

「簗さん」
「なんだ」
「ごめんなさい、私、正気でいられなかった」

 簗の表情が見られず俯くしのぶの手から傘がもぎ取られた。簗は片手で器用に傘を開く。ばさ、と雨音を遮る鋭い音がした。

「皆そうだ」

 しのぶは濡れた前髪の間から簗を見上げる。顔の前に傘を差し出され、簗の姿は見えない。しのぶが傘を受け取ると、簗は杖に寄りかかりながらしのぶに背を向ける。ぬかるむ地面を漕ぐようにしながら墓石の間をすり抜けていった。しのぶはその背中が白くけぶる向こうに行ってしまうのを眺めていた。