二
白瀬が目を覚ました時、視界に飛び込んできたのは清潔な白い布団であった。育手の山小屋の虫食いと黴だらけの煎餅布団ではない。やっと布団を買い替えたのか、と天井の木目をぼんやりと眺めた。それから桶の水があふれるように記憶が蘇った。四足の鬼、最終選別、呼吸の稽古、中で虫が蠢くように皮が引き伸ばされ臓腑を食らわれる妹の白い腹。
白瀬の喉元に酸っぱいものがこみ上げた。ぐ、ぐ、と嘔吐きながらそれを飲み下す。もがいたせいで白い布団に皺が寄った。口元を押さえてぼうとしている白瀬に看護人が寄ってきて吸飲みで水を飲ませた。何か味のついた水であったが、白瀬にはそれを何かと思う余裕もない。貼りつく喉に水を押し込み、硬くなった喉で「簗は、」と問えば白いお仕着せの看護人は無言で隣の寝台を指差した。
簗の日に焼けて生気に満ちていた皮膚は艶と張りを失い言いようのない不吉な雰囲気を纏っている。息は基礎正しく静かで、それが一層不穏であった。
「死ぬのか」
短く白瀬は口にする。親しいとは言わないが共に死線を彷徨った仲だ。死の淵の絶望と高揚は白瀬に常であれば関わり合いになりたくない性質の男へ興味を持たせるには十分であった。どういう男であったろう。何を失って鬼殺を求めたのだろう。凶相じみた四白眼が開くことがあれば、聞いてみてもいいと思った。
「こわい」
ぽつりと囁かれた言葉は己のものではない。白瀬はぐらぐらする視線を看護人の方に向ける。顔色の悪い若い女だった。幼いと言ってもよかった。糊のきいた白い袖から見えるほっそりとした手首の先に、歪な形の手が付いていた。右手の薬指と小指がない。左手は親指以外何もなかった。巻木綿で分厚く覆われた手は、端切れで作った人形か何かのようだった。白瀬はそれを見て、次いで女の顔をまじまじと見る。最終選別で指を失っていた女だった。やはり隊士にはなれなかったらしい。
「あの人、強かったのよ。選別で見た。それが、それがあんな、たった一回で、あんな」
しゃっくりのように女は切れ切れと言葉を重ねる。幼子の譫言のようにこわいと繰り返す。白瀬はそうだなあと答えた。
人の身のなんと脆いものであろうか。皮膚は容易く刃を通し、指の一本さえ欠ければ再生することはない。足は遅く、爪も牙も冗談のように柔い。脆弱でひょろひょろとした醜い生き物だ。地虫のように光を求め這いずるだけであれば如何ほど救われたものか。だが人には形容しがたい心の働きがあって、それは天の運行とは異なっていて正確でもなければ合理的でもなかった。世の理を捻じ曲げ抗おうとする心と裏腹に、人間の体で出来ることは少ない。
「わたし、家族がいないの。鬼に殺されちゃったから」
聞かれもせずに女は呻いた。右手の人差し指で不器用者が作った布人形のような左手を撫でながら言う。白瀬は女の旋毛を見ていた。最終選別では長い髪を結わえていたのを、ばっさりと肩のあたりで切り落としていた。右耳の上に毛髪の薄い部分があって、頭皮に大きな傷が引き攣れているのが見えた。
「父ちゃんと母ちゃんと、弟の仇を討ちたかった。そのためなら死んでもいいと思ってたの。本当よ」
女はそう言いながら、しつこく左手の巻木綿を撫でていた。
「でも今はこわい。だって鬼がこんなに強いなんてね、知らなかったの。知っていたけど、でも頑張ればどうにかなるって思ってた。注意深く冷静でありさえすれば少しは勝機があるんだって、思ってたのね。誰もそんなこと言わなかったのに。不思議ね」
女は痙攣のように笑う。白瀬は胸の傷を撫でながら「うん」と答えた。指先に血を吸った縫合糸がごわごわと触れる。
「死んでもいいって思ってたのに、指が六本無くなったらもういやだって思っちゃったのよ。おかしいでしょ」
「そうだな、まだ四本あるのにな」
白瀬がそう答えると、女は視界の端に節の多い虫を見つけたような顔をした。
「あなたは……どうして鬼殺隊になろうとしたの?」
「復讐かな」
「鬼に?」
「分からない」
麻酔薬が残っているせいか、まだ頭がぼんやりしていた。女は「そう」とだけ言うと足早に病室を去ろうとする。白瀬はその背中に声をかけた。
「なあ、こいつは死ぬのか」
「解毒は済んでる。あとはその人の体力気力次第って」
女の言葉に白瀬はそうかと答えた。それならばすぐにでも目が覚めるような気がした。
その思惑は当たらなかった。白瀬が目覚めた時点で任務の日から丸二日程経っていたが、それから十日経っても簗は目を覚まさなかった。宛がわれれば水を飲み、液状のものならば嚥下する。だが目が開くことはなく、意識も戻らない。その間に白瀬は寝台から起き上がれるようになり、回復訓練を受けるように指示を受けていた。
医師はこれ以上簗の容態が良くならないのであれば、治療は中止すべきだと考えているらしかった。施療院はいつでも満員御礼で、人手も寝台も足りなかった。毒に侵され死んでいくだけの鬼殺隊士――それも大して実績も上げていない者のために寝台を埋めておくわけにもいかない。
悪びれなく言い交わされる相談を聞きながら、白瀬はいっそう喉仏が目立ったように感じる簗の喉を見下ろす。十日余りでかなり痩せた頬に指先で触れる。痩せたのに水膨れたようにぶよぶよしていた。寝台で眠っているだけで痩せ続けるなんて勘定が合わないと思った。
白瀬は日課となった施療院の中庭の散歩をし、軽く走り、病室に戻る。病室には看護人ではなく二人の男の姿があった。二人とも田舎臭い袴姿に火男面で桐の刀箱を携えている。ア、と思うより前に白瀬の眉間に刃物の切っ先が突き立てられそうになる。白瀬はとっさにそれを避けた。胸の傷が激しく痛んだ。
よろめく白瀬を鋼鐵塚は蹴倒し、仰向けに転げた白瀬の腹の上に馬乗りになる。大きな手が白瀬の喉をがりがりと引っ掻く。
「テメエ!!! 俺の刀を折ったな!!! 折ったなァ!!!」
鋼鐵塚が血を吐くようにがなり立てながら再び包丁を振り上げる。
「ころしてやるぅ!!!!」
もう一人の火男面が泡を食って鋼鐵塚を背後から羽交い絞めにした。
「蛍くん、いけません! それはいけない!」
「ウルセエ、ウルセエ、ウルセエ!!! 蛍って呼ぶんじゃねえ! くんを付けんな! まとめてブッ殺してやる!!!」
「に、逃げてください山繭殿! ここは私に任せ――」
「グアアア離せ!!!」
「あいたぁっ!」
腹の上でドタンバタンとやられるたびに、やっと塞がりかけていた胸の傷がぶちぶちと千切れていくのを感じる。白瀬は息も絶え絶えに呻いた。傷が裂けるのを覚悟で全集中の呼吸を発しようとしたが、肋骨が痛んで上手く息が出来ない。腹の上で大の男が二人も暴れているのだ。
せめてもう一人の方だけでも退いてはくれぬか、と白瀬はぜえぜえと喘鳴する。
「ガアアアアアア!!!!! うぅぅるせえなァ!!!!!!!」
罅割れた叫び声とともに腹の上から鋼鐵塚がすっ飛んでいく。鋼鐵塚は何もない病室の床をごろごろと転がり、寝台の脚にぶち当たって止まった。白瀬の腹の上を病衣の簗がぴょんと飛び越えていく。
呆気にとられる白瀬をよそに、簗は床に転がる鋼鐵塚に追い打ちの蹴りを入れる。それは相変わらず鋭く容赦がなかったが、最終選別を突破した男の頬骨を砕いた蹴りの半分の威力もなかった。遠慮をしたのではない。毒に侵され十日以上眠り続けた身体には力が入らないからだ。
簗は半ば寄り掛かるように鋼鐵塚の胸倉を掴み上げる。
「テメエ、テメこのひょっとこ顔のスカポンタン!!! 朝からガタガタギャアギャアうるせえんだ!!! 俺が寝てんのが見えねえのかい!!!」
「知るかボケナスゥ!!! いいかあのバカは俺の刀をブチ折ったんだ! 同じだけ大腿骨の一つも折ってやらにゃ気が済まねえ!!!」
「おうおう知るかよ好きにしろ!!! 俺ァな、ただ静かにやれって言ってんのよ、それがそんなに難しいかアホンダラ!!!」
「分かった! 今から静かにあいつの脚の骨を折る! 見てろボケ!」
折られてたまるか、と白瀬は慌てて立ち上がる。大声で喚く鋼鐵塚よりさらに大きな声で何かを喚き返そうとした簗は、怒鳴り声の代わりにごぼごぼと赤黒い血を吐き出した。さすがの鋼鐵塚もぎょっとして大人しくなる。
「っと、なんだこりゃ、あ? ああ? 血、あ? そっか、俺死にかけてたんだな」
簗は病衣の胸を汚す血を茫然と見下ろし、それからげらげらと笑った。ついていけない、と顔をしかめる白瀬に、火男面の男が「ついていけません」と独り言のように言った。
看護人によって着替えさせられ体を拭かれた簗は水と見分けのつかない薄い粥を二秒で飲み干した。鋼鐵塚はぶつぶつと恨み言を吐きながら白瀬を睨んではいたが、包丁を振りかざしはしなくなった。もっともそれが包丁を鉄穴森という男に取り上げられたからなのだが。
鋼鐵塚を制止し、白瀬を庇おうとした男は鉄穴森と名乗った。剽軽な面の目穴から覗く双眸は温厚である。年の頃は四十がらみの、穏やかな口振りの男だ。
「全く、駆け出しの癖に矜持ばかりが高くてどうするんです。折れるような鈍を打った君が悪いんだ」
その言葉に鋼鐵塚はキッと火男面を上げたが、鉄穴森に睨まれ悔しそうに黙り込んだ。鋼鐵塚は肩を怒らせふーっ、ふーっ、と荒い息を面の縁から漏らす。大丈夫かこの男、と白瀬はそれを横目に盗み見た。
病床の簗は先程まで寝付いていたとは思えぬ調子で鉄穴森に詰め寄る。
「おい、おっちゃん、俺の刀ァ鬼の背中に入りもしなかったぞ! これこそ鈍じゃねえかよ!」
言うなり鉄穴森ではなく鋼鐵塚が簗の髪を引っ掴んで火男の口吻が刺さるほど簗にガンを付けた。
「あ゛? 鉄穴森の日輪刀が鈍だ? もっぺん言ってみろ」
「ああ、ああ、もうよしなさい蛍くん」
鉄穴森の制止で鋼鐵塚は憤懣やるかたない様子で引き下がる。鉄穴森は簗に向き直った。
「簗殿。日輪刀で鬼が斬れなかった理由が知りたいですか?」
「そりゃ、知りてえよ」
「あ、そうですか。それはね、君が下手だからですよ」
淡々とした調子で鉄穴森が言う。当の簗は「お、」と言ったきり動かなくなってしまう。鉄穴森はそれを一顧だにせず刀箱から手入れされ拵えを新たにした簗の日輪刀を取り出した。
すらりと鞘を払えば、緋い一線の迸る刀身が光を反射する。美しい刀であった。白瀬の目にも業物に見える。鉄穴森は刃の先をついついと指で示す。
「いいですか、ここが物打ち。最もよく切れる部分です。それで、君の使った日輪刀が一番刃毀れしていたのはここ」
鉄穴森の口調と裏腹にごつごつとした指が刃の中ほどを示す。
「棍棒じゃないんですから、やたらめったら振り回したって鬼の首は斬れません。育手に指摘されませんでしたか?」
鉄穴森に言われ、簗はもごもご言いながら肩を竦める。
「そうだって俺が一番強かったんだぜ」
「訓練ではそうでも、鬼の首が斬れなきゃ話にならない。たとえまぐれでも鬼の胴体から頭を切り離さなくては土俵にも乗りませんねえ」
口調の割に辛辣な物言いである。簗は言葉を詰まらせたまま何も言わなくなってしまった。
「そうは申しましても私はただの刀鍛冶ですから、良い刀を打つだけです。それをあなたは使うだけ」
鉄穴森は鋼鐵塚に目配せする。
「さて、蛍くんも日輪刀をお渡しして帰りましょう。なに、そんなに腹を立てるもんじゃありませんよ。一本余計に刀が打てたんだと思いなさい」
鉄穴森に促されるまま鋼鐵塚は刀を白瀬に差し出した。白瀬はそれを受け取り抜き放つ。打ち直された鋼色の刀身はぞろぞろと青鈍に染まっていった。鉄穴森が感嘆の声を漏らす。
「美しい色だ。落ち着いて深みのある水の呼吸らしい色をしている」
そう頷く鉄穴森にを簗は悔しげに下唇を噛みながら睨んだ。
「どうすれば鬼が斬れる」
「さて、私は刀鍛冶ですから。――そうですね、あなたの刀は炎の呼吸に強い適性を示していますから、炎の呼吸の使い手に師事を乞うてはいかがでしょうか」
鉄穴森がそう言うと、簗は口の中で「炎の呼吸」と呟く。鉄穴森と鋼鐵塚が帰ってからも簗は寝台の上で時折「炎の呼吸」と呟いた。
己の刀を見分していた白瀬は何度目ともつかぬ呟きに顔を上げた。
「強くなりたいのか」
「そうだな」
「なぜ」
「なぜ?」
簗は小馬鹿にしたように白瀬の言葉を繰り返す。
「簡単なこった。強けりゃ死なねえ」
「死にたくないのか?」
「おまえは死にたいのか?」
「死んでもいいとは、思っている」
「ハ! そりゃ結構なこと!」
白瀬は目の前の男を眺めた。目覚めたら聞きたいと思っていたことを思い出す。この粗野で無頼な男は誰を、何を、失ったものであろうか。そのために鬼殺の道を選んだのだとしたら、物語のようだと思った。
「どうして鬼殺隊に入ろうと思った」
「入ろうとしちゃいねえ。脅され賺され嫌々やってる」
簗は漁村に産まれた。漁師の息子であった。血の気の多い漁師連中の中でも簗の気性の激しさは群を抜いていた。幼い頃から喧嘩っ早いたちで親を煩わせた。父親は鉄拳で簗を押さえ込み制御しようとしたが、それはあまりに脆い軛であった。簗が長じ腕力がつけば、簗は父親に対して仕返しのように気を失うまで殴り返した。
やがて十四の頃には村のヤクザ者を殴って地元にいられなくなり上京したが、そこでも生来の癇症が仇となって喧嘩を繰り返した。仕事もろくに続かない。あちこちで騒ぎを起こしてどの町にもいられなくなり、伝手を頼りに大阪にでも逃げようと考えていたときのことである。
簗は町外れで中年の女から財布を掏ろうとしていた。そして実際、懐に手をねじ込んだ。その手は女に捻り上げられる。簗はその手を振り払おうとしたのだが、万力のように締め上げて離れない。
悪態をついて逃げようとする簗を女はしたたかに数発殴って大人しくさせた。簗は人の十倍も二十倍も喧嘩の場数だけはこなしていたが、これほど重く激しい殴打を受けたことはなかった。
女は育手であった。育手は簗を脅し、殴り、尻を蹴飛ばし、呼吸を叩き込むと選別に放り込んだ。意志や覚悟など関係ない。簗には才能があった。暴力の才能だった。逆に言えばそれしかなかった。簗はその一年間、喧嘩をする暇さえなかった。それ程長い間喧嘩をしなかったのは、簗が掴まり立ちをして以来はじめてである。
「無理強いされて鬼殺隊に入ったのか」
白瀬は呆れてものも言えなくなる。「気でも違っているのか」と呻けば、簗は鼻を鳴らした。
「無理強いもされねえのに望んでこんなことやってる方が気が違ってると思うがね」
簗はあっけらかんとそう言った。そういうものだろうか、と白瀬は思う。
「それに、バケモノ相手に喧嘩張ってりゃこんな俺でも堂々と金がもらえるんだ。良い商売とは言えねえが、最悪じゃあねえ。これで金が溜まったら郷の母ちゃんに送ってやるのさ」
「最悪ではないか」
「死ななけりゃな」
簗はいまだ浮腫んで動かしにくい手を握ったり開いたりしながら簗に視線を向ける。
「おまえは?」
「なにが」
「どうしてこんなクソッタレな稼業を始めようと思った」
白瀬は手の内の美しい刀身を眺める。
「全てを失った。私の血が、稀血だから。親兄弟を残らず殺され、正月の大皿みたいに食い散らかされた」
「へえ、敵討ちかい?」
「分からない」
「はん、おまえ、読本の主人公みてえだ」
簗は大して興味もなさそうにそう
言った。白瀬は一人眉をひそめる。やはりこういう男はあまり好かないと思った。
二月あまりを機能回復訓練に費やした。医師はかつて剣士であったらしく、白瀬に回復ついでとばかりに常中を教えた。医師は「そういうやり方もある」という程度に伝えたつもりであったのだが、白瀬があっという間にそれを我が物としたので目を見張った。
常中を会得した白瀬の傷は間を置かずに治癒した。簗はいまだわずかに痺れの残る右手で器用に剣の稽古をしながら悔しがった。だが白瀬はこの業が決して人体に益為すものでないことがなんとなく分かる。呼吸によって血を滾らせ肺腑に鞭打ち肢体を駆動させる。それは基礎能力の底上げなどという生易しいものではない。人間の肉体が耐えうる働きの限界を超えている。紛れもなく命の前借りだった。幸福かもしれない未来を質に入れ、泥沼の闘争に費やしている。白瀬はそういう道を望んで選び取った。
「俺にもそれを教えてくれよ」
鉄穴森の打った美しい刀で素振りをしながら簗は言った。鉄穴森の苦言がよほど堪えたのか、簗は剣の稽古に熱心に取り組んでいた。だがやりようが独特で、施療院に入院した、或いは見舞いに現れた者が炎の呼吸の剣士であると知れば誰彼構わず喧嘩を吹っ掛ける。それではものになるまいと白瀬は思ったのであるが、予想に反して簗は炎の呼吸を身に付け始めていた。
「いやだ」
短く白瀬は答える。簗はぎゅっと眉をひそめ、途端に目を剥いて白瀬に噛みつきそうな顔をする。剣稽古に起きている時間のほとんどを捧げていても、呆れるほどに気の短い男だった。この男には沈思黙考の静謐な心構えは終生身に付かないのだろう。
「なんだと! テメエ一人で強くなろうって魂胆か!」
白瀬はしばらく考えて「そうだ」と答える。簗はますますカッカとして白瀬に詰め寄った。
「いいぞ、見てろよ! 今にテメエより強くなってやる!」
「それでどうなる」
「どうなる? さあな、でも鼻面に一発は入るだろ!」
「なんだ、そんなことか。殴りたいなら構わない。私は避けないから、どうぞ」
白瀬がついと顎を上げてそう言うと、簗はたじろいで口を噤む。
「ちげえよ……そうじゃねえだろ」
言い返す言葉に力がなかった。簗は自覚しているのかしていないのかは別として、丁重で穏やかな物言いには強く反駁しにくいらしかった。白瀬はそれに、鉄穴森と簗のやりとりを見ていて気が付いた。
鉄穴森は幾度か他の隊士に刀を届けるために施療院を訪れた。簗はいたく鉄穴森に懐いていて、他の人間には目があえば喧嘩を売りつける簗が鉄穴森のことは「鉄穴森さん」と呼んで神妙な顔つきで来訪のたびに刀を見せていた。鉄穴森はその刀を受け取ると刃や柄を見て、簗の剣についてまるで稽古を見ていたように指摘する。
白瀬が指摘すれば「うるせえ!」と怒鳴られることも、鉄穴森が言えば簗は「はい、はい」と聞き入れる。納得がいかない、と白瀬は思う。鉄穴森は鋼鐵塚の面倒もよくみているようであったから、案外ああいう癇の強い男のあしらいが上手いのかもしれない。
簗はじりじりとした様子で白瀬を睨む。
「俺には教えたくないか」
「そうだな」
「なんでだ」
問われ、今度は白瀬が口を噤む番であった。どうしてだろう、と首を捻る。
「おまえ、母親が生きてるんだな」
「ああ? 母ちゃんもおやじも生きてるよ。姉貴も、弟も。それがどうした」
これは、そういう者が得ていい技術ではないと、傲慢にも白瀬は思うのだ。
「おまえには、教えないよ」
「ンだよ、いじわるか!」
「いじわるだ」
ふふ、と白瀬は笑う。簗は片眉を上げて白瀬の顔をまじまじお見つめた。
「おまえ、笑うのか」
「……面白ければ笑うさ」
「ふうん、鬼殺隊の奴らは揃いも揃って辛気臭い顔してやがる。笑うなって規則があるのかと思ってたぜ」
家族に仕送りをしたいだけなら、下級隊士の給金で十分なはずだ。この男の機転と勝負強さがあれば、下級隊士に割り振られるような鬼相手ならば長く保つだろう。良いだけ稼ぎを得て、丁度良くどこかを傷めて引退し、恩給とともに家族の待つ家に帰る未来を失ってほしくなかった。それは白瀬がとうに失ってしまったものだからだ。
「なあ、簗、鉄穴森さんがいらしていたよ。遠目にお見かけした」
「あ、なんだよ、早く言えよ。顔出さなきゃァな」
簗は腹を立てていたのも忘れていそいそと刀を鞘にしまう。白瀬はたった二か月でこの癇癪玉のような男の扱いに慣れた己の手腕に感心する。同時に二つも三つもものを考えられぬ男だ。コツさえ掴めば付き合いにくい男ではなかった。付き合いやすくもなかったが。
表の方へ走ろうとする簗を呼び止めたのは鉄穴森その人であった。声をかけられた簗は「お疲れ様です」と最敬礼する。
「いやあ、相変わらず簗殿は腰が低いですね」
「そんなことねえよ」
簗が腰の低いのは鉄穴森に対してだけであるから、その言は間違ってはいない。そう言ってやろうかと悪戯心も湧いたが、カワイソウな気がしたので黙っていた。鉄穴森に遅れて歩いてきた鋼鐵塚は白瀬に火男面を向けた。表情は窺えぬが好意的でないのは確かである。刀を折ったことをまだ根に持っている。
「山繭殿は近く次の任に発つと聞き及びました。日輪刀を調整できればと思ってお声をかけたのです」
鉄穴森はそう言った。白瀬が礼を言う前に鋼鐵塚がずいと前に出てきて無言で手を差し出す。鋼鐵塚と簗はどちらも病的に短気であったが、白瀬はどちらかといえば簗のほうがまだ付き合いやすかった。それは簗が短気で癇症だがそれ以外は単純でからりとした男であったからだ。鋼鐵塚の顔を覆う木の面が必要以上に白瀬に威圧感を与えたのかも知れない。そのくりくりと大きく描かれた目を前にすると、どうにも居心地の悪いような気がした。
「あっ、おまえ、その面あれだろ、なんだっけ、ほたる」
簗の何気ない言葉に鋼鐵塚はぎゅるんと勢いよく顔を簗の方に向ける。今にも飛びかかりそうな勢いに見えたが、白瀬の刀を抱えているためにそれはしなかった。
「二度と蛍と呼ぶな」
「あ? 間違えてたかよ、そりゃ悪かったなオイ」
「……その名前はいやだ」
「ンだそりゃ舐めてんのかテメエ!」
簗が鋼鐵塚の胸倉を掴み上げようとしたので白瀬は間に入って簗に足払いをかける。綺麗に転がされた簗は恨めしげに白瀬を見上げる。
「くそ、おまえじゃなかったらぶん殴ってる」
懇意だからやり返さないのではない。結局敵わないからだ。
鋼鐵塚は白瀬の刀を持ってさっさと施療院の中に引っ込んでいってしまった。鉄穴森もそれを追っていった。中庭に残された二人はしばらく手持ち無沙汰でいたが、簗はぱちんぱちんと鯉口を鳴らしながら「おい」と白瀬を横目に睨んだ。
「近く発つのか」
「烏が鳴けば」
そうかい、と簗は違和感の残る右手を握り、見つめる。
「次会うときは、俺のほうが強い」
「どうかな。生きて会えればそうかもな」