ついてくる雨の音(終)
嫋やかで優しい姉の真似事が板につくにつれ、しのぶの毒は毒性と苛烈さを増した。鬼の強力な肉体をほぐし、死に至らしめる毒が完成するに至り、しのぶは柱の座を手に入れた。姉に倣った花柱でも、教えを受けた水柱でもない。鬼に素早く効率的に毒を打ち込む剣技を、しのぶは自ら蟲の呼吸と名付けた。蟲の呼吸の蟲柱。しのぶはその名を己に冠した。
しのぶは毒を練り上げるに至り数多の小動物の命も利用した。それは毒を抽出するためであり、毒の効果を確認するためであった。しのぶは虫毒を、そしてそれを体に秘めた虫を好んだ。無駄のない機能美を、感情のない複眼を、反射で生きる簡素さを。己もそうありたいと願いさえした。
しのぶはかつて己の毒の非情さを苦に思いもしたが、今はそんなこと忘れてしまった。今やしのぶの毒は鬼殺隊になくてはならないものになった。その効果の是非を問う者などいない。鬼に優しさをと唱える者もいなくなった。
木戸を叩扉すると中から呻くような億劫そうな返答があった。ずるずると脚を引きずる音と共に木戸が開けられる。簗は爛れた顔を剽軽な動物の面で隠していた。あれは狐だろうか。猫か狢のようにも見える。面が妙に可愛らしかったので、しのぶは楚々と振る舞うのを一瞬忘れて目を丸くした。
「あ、なんだお嬢かよ」
簗は言うなり面を外す。変わらず異形じみた凶相がそこにあった。
「どうされましたか、そのお面は」
「鱗滝の爺さんにもらった。俺のツラが怖すぎるとよ」
鱗滝にもらったということはあれは狐なのだろう。しのぶは簗の手の内で口角をきゅっと上げる面に視線をやる。簗はぽーんぽーんとそれを弄んだ。扱いが雑だ。
「上がっても茶は出ねえぞ。今誰もいねえから」
「構いませんよ、期待もしておりません」
しのぶは簗の後について庵に上がり込んだ。庵は簗が住んだ年数だけ生活感が増している。広い庭に反復稽古の足捌きのために土が抉れた箇所がある。何があったのか庭木が折れて立ち枯れている。
簗はいつもと同じように縁側に腰掛けた。しのぶはその右隣に座る。晴れた空にはうっすら雲がかかっていて、風の無いすごしやすい日だった。
「蟲柱を拝命いたしましたので、そのご報告に参りました」
少し時間が経ってしまいましたが、としのぶは断りを入れる。簗は動かぬ脚に肘を置き頬杖をつく。隻眼がじろりとしのぶを見た。
「なんで俺に」
「お世話になっているので」
「世話した覚えはねえな」
しのぶは口元に苦笑をたたえた。しのぶは己が立ち居振る舞いを変えることで周囲の接し方も変わることを身を以て知った。今のしのぶに、周囲はカナエに接するように接する。美貌の実力者。蝶屋敷の主。九柱の一。気が強い跳ねっ返りのじゃじゃ馬娘に接するのと変わらぬままの態度であるのは、もう簗だけになってしまった。
柱となったしのぶに、弱いところを見せられる誰かはいなくなった。隊士達は庇護すべき者となり、岩柱さえ支え合う同志だ。簗だけがしのぶを甘ったれのお嬢として扱う。苛立たしくもあり心地よくもあり、切なくもあった。しのぶは姉のことを思う。姉には甘えられる誰かがいただろうか。己ではなり得なかったことが、悲しく口惜しい。
「実は簗さんにご相談があって」
しのぶの言葉に簗は眉を上げた。
「面倒を見てほしい子がいるのです」
「いやだね」
間髪入れずに返ってくる。詳細すら聞かないその姿勢は相変わらずで、しのぶはふと物懐かしさを覚えた。しのぶは「そうおっしゃらずに、隊士を育ててくれというのではありませんので」と小首をかしげる。簗は思い切り舌打ちをした。
「挨拶なんておかしいと思ったんだよ。お嬢、ハナからそのつもりだろ」
簗の忌々し気な視線にしのぶはくすくすと笑った。しのぶは最近蝶屋敷に配属された少年のことを話す。もとは隊士志望であり選別も突破したが鬼の恐ろしさに心が挫けてしまい裏方に回されることになった。背は高く体格にも恵まれたがどうにも気が弱く、蝶屋敷でも血を見ては真っ青になって昏倒し少女たちに看病される始末である。本人もそれを気に病みどんどん憔悴していて見るに堪えない。それを聞いた簗は「はァ?」と呆れた声を上げる。
「知らねえよ、そんなヘタレどうにもなんねえだろ。血が怖ェなら厨房係か掃除番にでもしちまえ」
「力はあるので簗さんの看護人にちょうどいいかと思いまして」
「鱗滝だって一人でやってんだ、介護なんかいらねえよ」
「鱗滝さんはしっかりしていらっしゃいますけど……」
「俺はしっかりしてねえってか」
黙って微笑むしのぶに簗は顔をしかめる。お茶を淹れてくれますよ、と嘯くと簗は鼻を鳴らした。簗の言うように、彼を他の仕事に回してもよかった。だがしのぶは少年が己を責め続けていることを知っていた。しのぶには少年の気持ちが痛いほど分かる。己の望む姿に成るには能力が欠けている。努力しても己のなりたい姿にはなれぬ。気持ちに体が、体に気持ちがついてこない。だが己自身の亡霊が己を呪うのだ。この道以外ないのだと耳元で囁き続ける。
「あの子も、あのままじゃ駄目になってしまいそうで」
「俺の知ったことかよ」
「いい子ですよ。ぼうっとしてますけど」
「なんで俺なんだよ」
「簗さんの顔を見たらびっくりして少しはしゃんとするんじゃないかって」
しのぶが言うと、簗は眉を上げそれからにっと笑った。
「生意気言いやがるな」
もうそんな言葉をかけられることも、ここ以外ではなくなってしまった。
******
蝶屋敷の主となり、蟲柱となり、分かったことがいくつかある。色々あるが、そのうちの一つは簗が入院するときは食事目当てではなく、本当に体調を崩しているということだ。それでももとが丈夫なのだろう、大抵は二、三日も養生すれば自力で帰っていった。
じりじりと暑い夏の盛りのことであった。蝶屋敷の門前が騒がしいので何かと思えば、看護人の少年に肩を貸されなかば引きずられるように連れてこられた簗が門扉の前で蹲っていた。そのわきでおろおろするばかりの看護人が立ち尽くしている。簗の顔は真っ青で、暑さのせいでない汗が絶えず流れ落ちている。ふ、ふ、と浅い息を繰り返している。しのぶは簗を診察室に運ぶように指示した。着物を緩め呼吸と脈を確認する。簗は手負いの獣のようにしのぶを睨んだ。しのぶは堪えきれずに泣き出してしまった看護人に「暑気中りと……疲労ですね。鎮静剤を投与して少し休んでもらいましょう」と言った。少年はほっとしたのかまたぼろぼろと泣いていた。
簗は「この程度で情けねえ」と唸ったが、それは看護人に対してではなく己に対しての言葉に聞こえた。しのぶが鎮静剤を投与すると簗の呼吸は徐々に穏やかになり、汗もひき、浅いながらも眠りについたようであった。
しのぶは眠る簗の枕元で目元をふやけさせている看護人に簗の脚を動かしてやるように教えた。薬でままならぬのをいいことに、毛布の下から簗の脚を引っ張り出す。自力で動かせぬ右の脚は無惨に痩せ細り衰えている。太さは左脚の半分もなく、内転してひねこびていた。しのぶは溜息交じりに弛緩した脚の筋に触れた。簗が抗議の音を帯びた寝言をこぼすのを黙殺する。
簗はだらしなく身だしなみもいい加減で自堕落な生活を送っていたが、着るものだけはいつもきっちりと裾を合わせていた。脚を見られたくないのだ。自身も見たくないのだろう。
医師として多くの隊士の傷を、死を見てきたしのぶには、簗の傷がどれほどの凄惨さであったのかを想起することが出来る。目の前に簗の古傷が生々しく口を開き血を流した状態であったならば、医師としてしのぶは「最大限苦痛を取り除く処置」をしただろう。だがしのぶの知らぬいつかの医師は、簗に命を繋ぎ止めさせた。限りなく破壊され日常生活を送れなくなってさえその肉体には兵士としての価値があっただろうか。それとも簗自身が生きることを望んだだろうか。理由は分からねど、簗の頑健な肉体は傷に、治療に耐えきった。それが幸運か、喜ぶべきことか、しのぶには分からない。
だが目の前で目の縁を赤くし洟を啜りながら簗の脚を懸命にさすり動かす少年を見ていると、しのぶは傲慢にも簗が生きることに執着してくれて良かったと思う。そして簗自身も、生きていて良かったと思ってはくれぬかと願うのだ。
どこかからコノハズクの柔らかな鳴き声がした。しのぶはその声ではっとして文机から顔を上げる。もう夜もだいぶ更けていた。しのぶは上着を羽織り、明かりを手に廊下に出る。簗の病室はいつも蝶屋敷の端にあった。厠に近く、他の患者から隔離された個室。今はその隣室で泣き疲れた看護人が健やかな寝息を立てていた。しのぶはその寝息を引き戸越しに確認し、簗の病室の戸に手を掛ける。一瞬、誰かいると思った。月明かりのさす仄明るい病室に人の気配があった。アオイだろうか、としのぶは暗がりに目を凝らす。だがそこには誰もいなかった。ひんやりとした夜の気配だけが佇んでいた。
ふう、う、と欠伸とも呻き声ともつかぬ吐息がしのぶを迎える。
「簗さん、お加減はいかがです」
返答を期待せぬしのぶの囁きに、簗は毛布の合間から虚ろな目をしのぶの向こう側に投げかけた。今使っている薬は以前ほど効かなくなっている。
「……なんだ、な、……なんの、においだ」
少し呂律の回らぬ口で、簗はそう呻いた。しのぶは咄嗟に己の口元に手をやる。
「あまい……あまいな……なんの……」
ふう、と簗は息を吐く。蕩けた隻眼は覚醒しているときより多少は人懐こく見えた。しのぶは簗の寝台に腰掛ける。当たり前のように右側に座った。いつしかそれが当たり前になっていた。簗はぼんやりとしのぶを見た。
「簗さん、私ね、ずっと考えていたことがあります」
簗がしのぶを隊士に向いていると言ったことを。柱にさえなったカナエを向いていないと一蹴したことを。隠の男が言った同病相憐れむという言葉を。隠の女が簗を隊士でなければ人を殺していたと言ったことを。簗が自身をこういうこと以外で食えないと言ったことを。死に方を選ぶしかないまで追い詰められた少年を。
「簗さんが私に優しいのは私が簗さんに似ているからで――」
しのぶは硝子窓の向こうの青い月に視線を向けた。簗はしのぶの言葉が聞こえているのかいないのか、眠っているのかいないのか、規則正しい深い呼吸を繰り返している。聞いてほしいとは思っていなかった。きっと今夜のことを簗は覚えていられないだろう。それでよかった。
「私は……私には鬼殺が必要だった。怒りを向ける何かが。忌避すべき記憶から目を背け没頭できる何かが。そうでなければ正気でいられなかったから」
簗がその気性のために鬼殺以外で生計をたてられなかったのと同様に、しのぶの傷つけられた心は鬼殺以外で慰められることはなかったのだろうか。鬼殺以外己に大義はあったか、今となっては他に背負うものが多くなりすぎて曖昧になってしまった。簗は混濁した意識の中で、まだ隊士ですらないしのぶに「誰かのために刀を振るうな」と言った。その重みが、今なら分かる。
「姉さん……姉は、それを……そんな私を分かっていたのではないかと……、私がそれ以外で癒やされぬと知っていて……だから私に……私に付き添うように……」
そして死んでしまった。優しい姉。強く、賢く、人の心に敏い。そんな姉が「誰かに自分たちと同じような思いをさせたくない」という理由で、むざむざ妹も死と隣り合わせにさせるような真似をするだろうか。
「私が姉を――」
膝の上で握りしめる手が白くなる。しのぶはそれを見下ろした。ぽつり、と手の甲に滴が落ちた。
「お嬢、……出身は」
短く簗が問う。しのぶは簗が起きていることに驚いたが、脈絡のない問いにまだぼんやりとしているのだろうと胸を撫で下ろす。
「北豊島ですよ、簗さん」
おかしなことを聞きますね、と笑うしのぶの表面を、簗の目がゆらゆらと撫でていった。
「北……北じゃねえのか……」
「北は北でも北豊島です」
「北じゃねえなら……イタコじゃ、ねえんだろ、死人の、考えなんか、分かりゃしねえ……」
しのぶは簗の青ざめた顔を見下ろす。簗は汗の伝い落ちる瞼を閉じる。
「後から考えたって……どうにもならねえ……無駄だから……やめとけ……疲れるだけだ……」
寝息のような深く落ち着いた吐息の合間に簗はそう吐き出した。しのぶは震える手を握り、そうですねと毛布に向かって囁く。
「簗さんは、亡くなった方に尋ねてみたいことはありますか」
しのぶの独白のような言葉に、簗はうるさそうに毛布を頭まで被った。ごそごそと不自由な身をよじり、寝台の上で丸くなる。
「山ほどな、山ほどある……」
毛布越しのくぐもった声は、震えてはいなかっただろうか。しのぶは思わずその背中に「ごめんなさい」と呟いた。
「邪魔をしてごめんなさい、簗さん、お休みなさい。ゆっくり休んでくださいね」
返答はなかった。そのかわりくしゃくしゃの毛布の下から指の欠けた手が突き出し、しのぶの方に向かって力なく振られた。しのぶはそれに手を振り返す。しのぶの退室を待たずに簗の手は力尽きたようにことりと落ちた。
******
木戸を叩くとあまり待たずに奥の方から慌ただしい足音が聞こえた。木戸が開けられ、看護人の少年がしのぶを見つけて目を丸くする。彼はまた、少し見ないうちに背が伸びた。
「あ、わ、蟲柱様」
少年はしのぶを見るなり悪戯を見られた犬のように身をすくませる。憔悴していた顔には血の気が戻り、張り詰めていた表情もずっと穏やかになっていた。やはり彼を簗のもとにやってよかったとしのぶは思う。
看護人の背後にたすき掛けをした細身の少年がいて、しのぶに向かって控えめに頭を下げた。簗の今の弟子だ。簗の弟子を続けていられるということは、やはり彼も訳ありなのだろうか。しのぶは少年に向かって微笑み、会釈した。
「これはお土産です。簗さんはいらっしゃいますか」
しのぶは布の包みを看護人に差し出した。中は饅頭と軟膏の瓶と、軟膏の製法だった。
「はい、ご案内します」
看護人は包みを受け取ったが中を改めはせずににこにこと笑う。案内されずとも簗の居場所は分かるが、しのぶは大人しく広い背中に付き従った。簗はいつものように縁側に腰掛けていて、しのぶの訪問を知ると首だけをしのぶの方に向けた。おう、と素っ気ない声を掛けられる。
「今ごたついてんだろ、何しに来たんだよ」
「ちょっと涼みに」
しのぶは勧められる前に縁側、簗の右隣に腰掛けた。脚を投げ出しぶらつかせても、簗は何も言わない。
「お元気そうで何よりです」
「元気もクソもあるか」
簗は溜息交じりに首の後ろを掻いた。簗の足下で大きな犬が寝そべっていた。看護人の少年が連れ込んだ死にかけの仔犬が、いつの間にか熊のように成長していた。簗は犬を裸足の足で押しのけようとする。
「よく眠っているじゃないですか、可哀想ですよ」
犬は嫌いだと言っていたのに、犬はずいぶん無防備に簗の足の下で腹を出して寝ていた。背中を爪先でつつかれた犬は簗の意を汲んだように立ち上がると、のしのしと庭の奥の方に消えていく。簗は鼻を鳴らして動かぬ脚に肘をついた。
何か言いかけた簗をふすまの向こうの声が遮る。看護人がお茶を載せた盆を携えて入ってきた。
「お茶をお持ちしました。それと、お持たせで恐縮ですがお菓子も」
看護人は丁寧な手つきでお茶とお菓子を置いていく。看護人も簗の右隣に膝をついていた。温厚な視線が情熱的に饅頭に注がれている。食べ盛りの少年の素直すぎる態度に、しのぶは思わず噴き出しそうになった。それに気が付いた簗は小さく舌打ちをする。
「残りは二人で分けとけ」
簗の言葉に看護人はぱっと表情を輝かせた。
「いいんですか! まだ六つもありますよ!」
「客の前で恥ずかしい奴だな! 俺が飯を食わせてねえみたいだろうが! 饅頭やるからさっさとひっこんでろ!」
怒鳴りつけられた看護人はヒャアと首をすくめて小走りに部屋を後にする。額に手をやり肩を落とす簗に、しのぶはくすくすと笑った。
「ふふ……まったく、簗さん、お優しくなられたのでは?」
「あァ?」
「私があんなことしたら、きっとぶたれてました」
「あいつ、怒鳴ろうが殴ろうがどうにもなァ……打てども響かねえというか、ぼーっとしてるもんだから、甲斐がねえんだよ。怒る方が疲れる」
心底うんざりとした様子で項垂れる簗に、しのぶは声を上げて笑った。簗は悔しそうにしのぶをじろりと睨む。
「お嬢もそうだろうが」
「え、私ですか?」
しのぶはあれほどのんびりとはしていない。眉をひそめるしのぶに簗は鼻を鳴らした。
「怒鳴ろうが殴ろうがキイキイ食って掛かってくるもんだから呆れて怒る気力も失せた」
「そうですか、結構怒鳴られたし殴られましたけど」
しのぶがちくりと言い返したが、簗はそれを黙殺する。軒下の柱に簗は頭を凭れかけさせた。顎を上げ、鼻越しにしのぶを見る。
「それで、何の用だ」
鋭い隻眼に睨まれ、しのぶは唇に笑みをたたえる。
「最期のご挨拶に」
鬼舞辻との最終決戦が迫っていることを、当然簗も知っていた。蟲柱であるしのぶが先陣を切る必要があることも。簗は自身が産屋敷の警護にあたることも修行中の弟子を選別なしに実戦に投入することも断固拒否した。簗に対する怠惰な穀潰しという悪罵はしのぶの耳にさえ入ってきたから、今回の件で随分と株を下げたようだ。もとより悪評しかたたぬような素行ではあったが。
簗は爛れた頬を手のひらで撫でる。
「それを聞いたのは選別以来だ」
「そうでしたね。でも今回ばかりは、絶対です」
「絶対か」
「ええ」
しのぶは己の胃の腑のあたりに手を置く。毒の話は簗にはしていない。簗は長々と溜息をついた。しのぶは眉尻を下げ、笑う。
「簗さんは怒り狂って、そんな馬鹿なことやめろとおっしゃってくださるかと」
簗は顔を手で覆う。長い沈黙の後、低く呻いた。
「――俺が、……俺がか。俺は止めねえよ。死ぬなってか? 言わねえな、俺は……言えねえよ」
しのぶは、簗が絶対にしのぶを止めないことを分かっていた。だからそれを伝えた。簗はしのぶが全てを言わずとも理解してくれる。それを知っていて、しのぶは簗が一番傷付く方法で己の死への覚悟を伝えてしまった。背を押してほしいとは言わない。だが否定しないでほしかった。誰かには己のやり方を認めてほしかった。
「死に時を逃した人間は悲惨だ……特に俺らみてえなのはな」
簗は己の手のひらに向かって零す。はい、としのぶは掠れる声で答えた。
「頃合いか」
「頃合いです」
「そうか」
しのぶは簗の顔を見る。節くれだった指の合間から細い瞳孔がしのぶを射貫いた。しのぶは震える頬を持ち上げる。
「簗さん、私は簗さんにお会い出来て、本当に――」
「やめろ、辛気くせえ」
しのぶの渾身の哀惜の言葉を簗はたったそれだけで遮る。しのぶは苦笑し、肩を落とした。
「テメエなんか嫌いだ。思い出させやがって、クソ、俺の体はいつも必要なときに動かねえ」
昏い隻眼に火のような怒りが宿る。
「何かお伝えすることはありますか?」
「なんだと」
「彼岸の誰かに」
簗がいつも見ている見知らぬ誰かに。簗の精神を呪い、壊れた肉体を今生に縛り付けた誰かに。しのぶはその人のことは知らない。恨みにも思う。ありがたくも思う。
簗は目を細めてしのぶを見た。
「ガキが気を遣うもんじゃねえ」
それを聞いてしのぶはころころと笑い、思い出したようにぱっと口を手で覆う。口を開けて笑うなど久しぶりな気がした。
「簗さんにとっては私はいつまでも甘ったれのお嬢でしたね」
「そうだな」
「じゃあ、最期の我が儘を聞いてくださいね」
簗の顔から血の気が引いた。人好きのしない四白眼が、眦が切れそうなほど見開かれる。
「ふざけんな、やめろ」
「私はだめでしたけど、」
「いやだ、よせ、やめろ」
「簗さんは、」
「やめろ、やめてくれ」
簗の手がしのぶの隊服の胸ぐらを掴み上げる。鬼の爪さえ通さぬ生地が、簗の震える手の中でぎちぎちと鳴った。
「私の分も生きてね」
裂けた唇が息の吸い方を忘れたようにわななく。歯列がかちんと音を立てた。簗はしのぶの胸ぐらを一層強く締め上げ、微笑むしのぶに何かを言いかける。だがそれは言葉にならず、簗はしのぶの隊服からずるりと手を離した。
脱力した簗はごつんと柱に寄りかかる。何かを求めるように上げられた手で、そのまま顔を覆う。
「ちくしょう」
簗は掠れ声でそれだけ吐き出した。しのぶは力なく柱に寄りかかる簗の姿を見つめる。簗はそのまましばらく身動きもしなかった。やっと首のあたりを軋ませ、顔を隠したまましのぶを指の隙間から睨む。
「さっさと行け、俺がテメエを殺さねえうちに」
喘鳴まじりに簗は呻く。しのぶは浅く頷き、縁側から立ち上がった。
「簗さん」
簗はしのぶから顔を背け俯いたまま弱々しく唸る。
「左様なら」
返事はなかった。しのぶは胸のあたりでひらひらと手を振る。簗は指の欠けた手を持ち上げ、脱力する。かさりとした手が床板に投げ出された。