四
簗は生来の癇症で、その程といえば刀を損なわれた鋼鐵塚と大して変わらない。つまるところ病的な激情家といってよかった。目があった俺を見て笑ったと因縁をつけては喧嘩を吹っかけ暴れ回り、血を見るまで止まらない。地元では鰐だエソだと仇名され、上京してから軍鶏と呼ばれた。おおよそ誰からも畜生扱いされる程度には気性の荒い、どうしようもない男であった。
簗はそれを己でも制御出来ないでいた。些細なことでカッとなると、目の前が赫と血の色になってもう自分でもどうにもならなくなる。それで失敗したことは片手では数え切れない。地元も、家族も、仕事も、友人も、女も、金も、健康も、ぼろぼろと取り零して生きてきた。これでは駄目だこのままでは駄目だと七つの頃から思い続け、だがその大きな黒い犬のような獰猛さを飼い馴らせずにいた。
簗の暴力は、簗の好悪に関係なく周囲を傷付ける。簗はそれを呪いだと思っていた。簗の父は良い漁師ではあったが比例するように荒っぽい男であった。母の胎に簗がいても構わず母を殴打した。殴られた身重の母はある晩、這々の体で夜の海に逃げた。母はそこで沖に蜃気楼のように青白い炎が立っているのを見たという。それを見たせいで簗はしようのない悪たれなのだと、母は簗が喧嘩をするたびに呆れ、怒り、ときには泣きながら悔やんでいた。何の自慢にもならないが、簗は母親だけは殴ったことがなかった。母はそんな簗の頭を撫でながら、本当は優しい子なのに、あたしのせいで呪われっちまったんだ、と泣いた。それが堪らなくて、簗はヤクザ者を殴って地元にいられなくなったときに、ほんの少しだけ安堵した。もう己のことで泣く母を見なくて済むからだ。
簗が暴力を頼り発散するように周囲にそれを振るうのは、途方もなく行き場のない怒りのためである。その怒りは自身の抑えようのない暴力への衝動に起因していた。簗は産まれながらに破滅への道を約束されていたも同然だった。そういう星のもとに生まれついていた。
だがそれも過去の話である。簗には頭に上るだけの血も失っていた。ぼとぼとと落ちては地面をぬかるませる血を見下ろし、気合を入れて傷の周囲の血の巡りを遅らせる。耳元で鳴り狂っていた鼓動が緩やかになり、手の下の脈打つ傷から出血が止まる。細かく呼吸を整え、夜闇に視線を走らせる。むっと鼻を衝く血のにおいがした。もちろん自分のものではない。腐敗した血と下水と魚のはらわたが混ざったようなひどいにおいだ。
簗は刀を握る。鋼鐵塚の打った刀は腕の続きのように簗の手に馴染んだ。鉄穴森の打つ反り浅くすらりとした刀はよくまとまって美しく、刀に慣れぬ簗の拙い剣捌きにも柔軟についてきた。一方、鋼鐵塚が簗に打ったのはまるで扱いにくい腰反りした大峰の無骨な刀であった。鎬も身幅も広く、はじめはずしりと手に重く感じた。なんだこれはと簗は思い、そこで鋼鐵塚と一悶着起こして藤の家の明かり障子を二枚桟ごとぶち壊し壁に拳ほどの穴をあけた。
今となっては鋼鐵塚の刀以外を振るうことは考えられない。鋼鐵塚は――簗が言えた義理ではないが――横柄で痙攣的で腹に据えかねる態度の男ではあったが、それ相応に鍛冶の腕は秀でていた。ただ秀でているだけではない。鋼鐵塚は刀を打つたびに前の刀より良いものを仕上げてきた。簗の要領を得ない要求や無理難題に鋼鐵塚は一度たりとも文句をつけたことがない。面の下から憎々し気な視線こそ寄越すが、悔し気に歯噛みしながら「わかった」とだけ唸る。そして必ず簗の要求に応えた。
簗は焦った。鋼鐵塚は口だけの男ではないということを知ってしまったからだ。これではいずれ本当に、柱が頭を下げて鍛刀を願い入れるような鍛冶師になってしまう。そのときに己が指をくわえてそれを見ているわけにはいかない。何がしかの結果を鋼鐵塚に見せつけてやらねば気が済まぬ。
それは鋼鐵塚も一緒だ。簗という男はどうしようもないならず者ではあったが、人後に落ちぬ暴力の才能があった。そうとしか言いようがない。剣の才能でも鬼殺の才能でもない。鼈が向けられた手に反射的に噛み付くように、簗は向けられる敵意と悪意に敏感だった。それを受け止めた次の瞬間には躊躇せず反射的に相手の頭蓋を砕くことが出来る。鬼ならば臆せず頸を落としに行ける。死ぬかもしれない、勝てないかもしれない、と考えるのは初太刀を外してからだ。そういう男に刀を打つことができるのは鋼鐵塚にとって幸運だった。兎にも角にも一太刀を入れるからだ。刀も抜かずに逃げ帰り、あまつさえそのまま死んでしまうような隊士に何本刀を作っても糧になりはしない。簗は刀を折り、損ね、時には折れた刃で無理矢理鬼の頸を掻き切って両手をずたずたにして帰還する。だが必ず刀を使って、そして生きて帰ってきた。鋼鐵塚にはそれが重要だった。
鋼鐵塚に負けず劣らず気性の激しい簗は癇癪持ちの鋼鐵塚にも臆さず物を言う。それはかちんとくる物言いであることも多々あったが、おおよそは正しい指摘だった。簗は鋼鐵塚の刀にそういう指摘ができる程度には腕を上げていた。そして容赦なく鋼鐵塚の刀を折るようになった。鋼鐵塚の見立てでは、どうやら簗は鉄穴森の打つ刀を使っていた頃は、刀を大切に使うあまりここぞというときに思い切って振るえぬらしかった。鋼鐵塚の刀を使うようになってから簗の怪我は多少減った。そのかわり使い捨てだとでも思っているのかと鋼鐵塚が息巻くほど刀を折った。はじめはその技の拙いがゆえに。しかし今となっては炎の呼吸を我がものとした簗の強烈な一太刀に鋼鐵塚の刀が耐えられぬようになりかけている。
鋼鐵塚は焦った。簗は途方もない莫迦だが恐ろしい速度で実力をつけていた。このままでは簗は本当に柱になるかもしれない。柱となる競争率は、実のところそう高くはない。鬼を五十体、或いは十二鬼月を討伐するという条件は設定されているが、そんなものあってないようなものだ。要は生き延びればいい。それが何より難しいのだが、しかしこの男ならばやりそうな気もしてきた。二人も柱候補に作刀を断られたとあっては鋼鐵塚の立つ瀬がない。山繭白瀬にも簗にも泣いて頭を下げさせてやることを鋼鐵塚は密かに決めている。
若い二人はお互いの喉元に喰らいつくようにして高めあっていた。それが邪まな我欲に因るものであったとしても、鬼殺隊の益となっていることは確かである。
簗は短く息を吸い、刀を担ぐように上段に構える。攻撃的な構えを簗は殊更好んだ。それは簗の気性ゆえでもあり、戦いの最中に防御だ回避だと細々としたことを考えられぬ性分ゆえでもある。背にしていた木の幹がみしみしと音を立ててたわんだ。湿った木の繊維が弾け飛び、その間から鋭く大きな爪が簗を襲う。簗は振り向きざまにおそらく頸であろうあたりを目測で袈裟に斬り下ろした。短い悲鳴とともに鬼の首がごろりとぬかるんだ地面に落ちる。大きな断面から流れた血はさらさらと赤黒い塵となり、かわりに青ざめた頬が簗の血を吸った泥で汚れた。
「ぐ、ぐ、死ね、死ね、おまえなんか、おまえなんか、すぐに殺されるんだ、ひひ、ひ、肋骨を引き抜いて脳味噌をくぐらせて食ってやる」
「あ゛ァ? んだそりゃ、美味いのか?」
簗は幼い少女の首がぼろぼろと崩れていくのを眺めた。
「ぽりぽりしてんのか、カリントウみたいなもんか? なあ、おい……あ、死んだ」
その途端、ぶらりと下ろしていた刀の柄から刀身がすっぽりと抜け落ち地面に落ちた。簗はぎょっとして地面に這いつくばって落ちた刀身に縋りつく。何しろ簗は人より刀をよく壊す。そしてそのたびに簗は鋼鐵塚に死ぬのではないかという勢いで激怒されている。簗は喧嘩に明け暮れて生きてはきたが、己より喧嘩っ早い人間というものには終ぞ会ったことがなかった。気性の激しさゆえに親から勘当された簗でさえ、鋼鐵塚の激昂ぶりはキていると思う。それに関しては鋼鐵塚も同じようなことを簗に対して感じてはいるが。
簗は溜息をつき刀身を拾い上げると鞘に納める。むき出しの茎を指先でつつくと、簗の背後の灌木が揺れて黒装束の隠が顔を覗かせる。
「ああ、簗さん、また刀を壊したんだねぇ」
へらへらと隠は笑った。あまりの短気さに隠には遠巻きにされている簗に唯一気安く話しかけるのはこの男だけであった。ひょろりと痩せた男で、身の丈ばかり簗より高かった。年の頃は簗より上に見えたが、弛緩した表情を浮かべるのっぺりとした貌からは年齢が読み取りにくい。もとは隊士として最終戦別も突破したが、精神薄弱で刃物を持って歩かせられぬという理由で隠をしているらしい。その噂の真偽は知らぬ。本人に聞いても「忘れた」とへらへら笑うばかりである。だが簗はなるほど然もありなんと思っていた。
「うるせえや、ばかはすっこんでろ」
聞く者が聞けば「お前が言うな」と宣うであろう台詞を簗は吐く。
「あのおっかない刀鍛冶がまた来るよぉ」
「来るなァ、ああ、面倒くせえ」
げんなりと簗は肩を落とす。暗い空を黒い影が羽ばたき飛んでいく。鬼が討伐されたことを本部に伝えに行くのだろうか。己の刀が損なわれたこともすぐに鋼鐵塚に伝えられるだろう。
簗は常であれば「舐めた口きいてんじゃねえぞ」と恫喝するであろう無礼な男の言葉もにやけた態度も大抵は許した。知恵遅れ相手に怒る気にもならない。阿呆を殴っても気分がくさくさするだけだ。加えて、強靭な精神力を持つ者でさえ消耗する鬼殺の日々は簗の怒りの沸点を多少なり上げた。暴力への衝動も燃えるような激情も鬼殺で昇華される。常に死の危険に瀕していることを除けば、簗にとって鬼殺隊士は天職と言えた。
「いやだなあ、おめえ、かわりにあいつに刺されてくれよ」
「やだよぉ、怖いこと言わないでよお」
東の空が白んでいく。夜明けが近い。簗は痛む腹の傷を親指でなぞった。
******
藤の家の縁側には柔らかな陽光が射している。そこで簗はとろとろと居眠りをしかけていた。腹の傷が塞がるまで安静にと医者に言いつけられた。読書や囲碁将棋といった体を動かさない趣味など持たない簗である。暇つぶしにやることといえば、稽古か喧嘩か博打くらいしか思いつかない。博打は炎柱に禁じられていた。残り二つはさすがに傷だらけのだるい体でやる気にはならなかった。
裕福らしいその家の庭には枝ぶりのいいもみじの木と小さな池が造られていた。池の中に朱色の鯉が体をくねらせ泳いでいるのを当てどなく見ていた。どこかから小鳥の鳴く声がする。野の鳥かもしれないし、この家の主が愛してやまないというカナリヤという小鳥の声かもしれない。地続きのどこかで鬼が暴れ人を喰っているとは思えぬほど穏やかな光景であった。
かくん、と簗は舟をこぐ。板敷の縁側がみしみしと軋んだ。誰か来るなァと簗はぼんやりと薄靄のかかったような意識で考え、それから大きく息を吸って跳ね起きた。がつん、と硬質な音がして、簗の頭のあった位置に黒光りする鎚がめり込む。簗は口を開けたり閉じたりしながらそれを見、次いでそれを振り下ろした男を見上げた。
「は、は、は、は、鋼鐵塚ァ!? てめ、当たったらどうすんだ!? バカか! いかれてんのか!」
「俺の刀をぶっ壊したってなあ!!! 何度目だこの粗忽モンが!!!」
「あー、あー、あー、あー、うるせえな!!! 母ちゃんかよテメエは!!! 刀作んのがテメエの仕事だろうがこのボケ!」
「そうだと貴様の仕事は刀をブチ折ることかこの間抜け!!!」
「そうだったら何がマズいんだ! オレサマが生きて帰ってきただけで喜びやがれってんだ!!」
「俺の刀がぶっ壊されるくらいなら貴様が死ねばよかったんだ!!!」
「あっ、くそっ、言ったな表に出ろこのボケナス!!!」
「何度でも言ってやるしお前は今ここで殺す」
再び振り下ろされた金槌を簗は避ける。縫ったばかりの腹の傷がきりきりと引き攣れた。がつん、とまたもや容赦のない硬い音とともに板張りの床がごっそりとへこんだ。
「刀は!」
「はァ!?」
「刀だ! 俺の刀!」
「わかったわかった今出すからオメーそれぶんぶん振り回すのやめろ!!! テメエ仕事道具をそんなことに使っていいのかよ!」
簗が金槌のことを言うと、鋼鐵塚は怪訝そうに面越しに簗を睨んだ。
「仕事道具? 何言ってんだ」
「その金槌、おまえが刀を打つのに使うんじゃねえのかい」
ああ、と鋼鐵塚は手にした金槌を見ると二度、三度と手のひらをそれで打つ。
「大事な仕事道具をテメエのスカスカな頭カチ割るのに使うなんざもったいねえ。こいつはお前の頭をぶん殴るためにそのへんで拾ったゲンノウだ」
「あ、そうかい、そりゃ安心だな!」
簗はそう言いながら鋼鐵塚の手から金槌をもぎ取り縁側から植え込みに投げ込んだ。あ、と鋼鐵塚は間抜けた声をあげた。簗は悪態をつきながら部屋に戻り、刀と外れてしまった柄を抱えて戻る。鋼鐵塚は毟るように簗から刀を奪うと、それに視線を落とす。
「あ、なんだよ。目釘が外れているだけじゃねえか」
鋼鐵塚は刀を検分するなりそういった。声音からは先ほどまでの剣呑さは失われている。柄の中を覗き込み、手のひらにささくれだった煤竹の破片を落とした。外れているのではなかった。目釘が柄の中で破断しばらばらになっている。どういう力で刀を振るえばこういうことになるのであろうか。鋼鐵塚は鼻を鳴らす。
簗は目を丸くして鋼鐵塚を見た。
「刀が壊れたわけじゃねえのか」
「そうだな」
「俺ァあやうく頭をカチ割られるとこだぞ!」
「知るかよ、テメエは百回殺しても殺し足りねえんだ」
鋼鐵塚は簗が滞在する部屋に入り、しばらく刀を検分した。簗の刀は特に頑丈に作っている。他の立志も済まぬような新人隊士に比べれば出来上がった体をしているから、その分刀自体の重量も重くできる。見た目の優美さをかなぐり捨てた元から先まで重ねの分厚い刀は、簗の筋張った長い腕に握られると奇妙なまでにしっくりと見える。鋼鐵塚は簗に作った刀はどれも気に入っていた。残らず壊されたが。
足を止めた強烈な初太刀を旨とし二の太刀要らずの簗に、刀の取り回しやすさや繊細玄妙な均衡は不要である。腕を上げ、鬼の首を数え切れぬほど落としても、物打ちを意識せず力任せに刀を振り下ろす悪癖は直らない。強く、鋭く、疾い。簗が刀に求めるのはそれだけだった。そしてそれは鋼鐵塚が思うところ、刀の本懐である。
鋼鐵塚は鼻を鳴らし、簗を睨んだ。
「脱げ」
「…………は? なんだよ、折檻か? ケツでも叩くつもりか? しばくぞ!」
「いいから脱げ」
「いやだよ!! ふざけんじゃねえよ!! なんでだよ!!!」
「脱げっつってんださっさと脱げ! 生娘じゃあるまいし!!」
「はあー!?!? 誰が生娘だぶっ殺すぞ!!!」
挑発に乗った簗はぽいぽいと寝間着を脱ぎ捨て下穿き一枚になる。腹に走る大きな傷はいまだ赤黒く腫れて痛々しい。縫合糸に血がにじんでいる。鋼鐵塚は「うわ」と面の下で顔をしかめた。簗はその小さな呻き声にすかさず噛み付いた。
「テメエが脱げと言ったのになんだその態度は!」
「お前、その傷でよくもまあきゃんきゃん喚けるな」
「…………喧嘩売ってんのか?」
半ば唖然とする簗を無視して鋼鐵塚は簗の背中に巻尺を当てる。急に触れられた簗は飛び上がって後ずさり、腹の傷を押さえて呻いた。
「なんだよ!?!?」
「寸法を取る。動くんじゃねえ」
「先に言えよ! なんなんだよテメエ!!」
簗は渋々といった様子で座敷の真ん中で仁王立ちになった。胸の前で腕を組み、憤懣やるかたない様子で鋼鐵塚を睨む。
「さっさとしろよ、医者に大人しく寝てろって言われてんだ」
「こんな横柄な患者がいるか。腕伸ばせ、どこ測ると思ってんだバカかお前」
鋼鐵塚は簗の首から肩、肩から肘、肘から手首の長さを測る。傷に傷を重ねたような脇腹に巻尺の端が触れたとき、簗はくすぐったそうに身を捩った。
「鍛冶師ってなあ皆こんな仕立屋みたいな真似すんのかい」
「しねえな。俺が特別勉強熱心なだけだ」
「へえ、そら結構なこって」
簗は黙ったが、すぐに飽きてそわそわしだした。かといって鋼鐵塚と仲良く談笑という気分にもならず、簗は鋼鐵塚に因縁をつける。
「別に脱ぐ必要なかっただろ、これ」
「知らね」
「あ゛ァ!? テメエなあ! なんで俺だけ剥かれてんだよ! 腹立つな、テメエも脱げ!!」
寸法取りに集中していた鋼鐵塚はそれを聞き流していたが、簗があまりに騒ぎ立て、しまいには「もう寸法はとらせない」などと喚きだしたので、面倒くさくなって巻尺を床に落とすと無言で羽織を脱ぎ捨てた。袴の腰紐をほどき、戸惑う簗の制止を無視して筒袖も半襦袢も脱ぐ。簗と変わらず下穿き一枚になった鋼鐵塚は「これで文句ねえだろう、寸法取りの間くらい大人しくできねえのか」と吐き捨てると作業に戻った。
簗は諾々と鋼鐵塚に言われるままに巻尺を受け入れた。刀のためにそこまでする鋼鐵塚が、さすがに少し恐ろしくなったからだ。何か余計なことを言ってはこの男は肌着まで脱ぎ捨てかねない。そんなもの見たくない。
鋼鐵塚は簗の寸法を取り、それを帳面に書きつけた。それから、短く「ちょっと書くぞ」とだけ言って簗の上腕の中ほどに矢立筆で印をつけた。急にぬるりと墨を塗りたくられた簗はぎゃあと悲鳴を上げる。
「なんだ!? 何付けた――あっ、てめっ、墨か!? おい!! 正月じゃねえんだぞ!!!」
「終わったら顔にでかくバカって書いてやる」
暴れだしそうになる簗の腹の傷を鋼鐵塚はすかさず平手で叩く。簗は湿ったいびきのような声を上げてその場に崩れ落ちた。鋼鐵塚は畳の上でのたうつ簗に手早く印をつけては測定を続ける。
「お、お、おまえ……ころす……ころす……!」
「刀打ち終えてからにしろ」
口の端から泡の混じった唾液をだらだらと溢しながら簗は血走った目で鋼鐵塚を睨む。鋼鐵塚はそれを鼻であしらった。だいたい欲しかった数字を取り終えたところで、部屋の襖がすらりと開いた。そこに柔らかな陽光を背にして立っていたのは山繭白瀬で、鋼鐵塚はその姿を見て隠す気もない大きな舌打ちをした。
白瀬は次の任務のためにこの藤の家に逗留を決めていた。本当はもう少し任務地域に近い土地に藤の家があったのだが、簗がここで療養をしていると聞いて顔を出そうと思った。しばらく二人は任務でも行き会うことがなかった。
簗は顔を上げ白瀬の顔を見ると、慌てて口の端の泡を指で拭った。
「おう、変わりねえか」
「ない……が、どうして裸なんだ?」
白瀬は涼し気な顔を簗が見たこともないほどしかめてそう言った。よく日に焼けた顔や手足に比べ、簗の背や腹は淡い色をしている。そこに縦横無尽に走り回る傷跡が不憫に思えた。背の高く体格のいい簗の裸体は体格にはさほど恵まれていない白瀬には羨ましい。
簗はのろのろと脱ぎ捨てた寝間着に手を伸ばす。
「あー、刀作るのに、腕の長さを測るって言うから……」
「腕の長さを測るのに着物を脱ぐ必要ないだろう」
「そうだよなあ! 俺もそう思う!」
「それに、どうして鋼鐵塚殿まで脱衣しているんだ――あっ、すまない、これは……私は帰ったほうがいいやつか?」
「いやちげえよ、疲れてんじゃねえのか」
寝間着を着こむ簗を押しのけるように、荷物を片づけた鋼鐵塚が部屋の外に出ていく。白瀬とすれ違いざまに火男面の大きな目で睨むことも忘れない。白瀬は肩をすくめて簗を見た。
「恨まれていると思うか?」
「相当だぞ」
そうか、と白瀬は呟く。
「最後まで迷ったんだ。担当を変えてもらうときに、刀が合わないと言うべきか、人柄が合わないと言うべきか」
「いや、俺はおまえをすごいと思ったぜ。よくあんな奴と長いことつるんでたな。で、結局なんて言ったんだ?」
「言わなかった。聞かれなかったからな」
簗は眉をひそめる。鋼鐵塚が白瀬のことを何と言っていたかを思い出そうとし、面倒くさくなったのでやめた。所在なさげに立ったままの白瀬は、手にした包みを簗に差し出す。
「見舞いだよ。また派手に怪我したと聞いた」
簗は礼もそこそこに包みを開けた。中からごろごろと白や褐色の卵が転がり出る。
「生か?」
「白いのは生卵で、茶色はゆで卵」
「お、気が利く」
簗は早速褐色の卵を床に打ち付けた。割れた殻を指先で剥がしながら、簗は白瀬に座れよと目で合図する。白瀬は座布団もない畳敷きの床に座り、簗を眺める。前に会った時よりも傷が増えた。特に口元の傷は大きくこそないものの、淡い肉の色をして簗がゆで卵を咀嚼するたびに引き攣れて痛々しい。白瀬の胸はじくじくと痛む。
「おまえ、任務のたびに大怪我をしているな」
「最近はそうでもねえよ」
「そんなにあちこち傷だらけで、よくまだ体が動くものだ」
「丈夫なんだ」
「おまえはきっと隠は向かないよ」
「体動かなくなって引退ってか? その前に俺は死ぬさ」
さらりとそう言う簗を、白瀬は直視できなかった。
風の噂で簗の担当鍛冶が鋼鐵塚になったことは知っていた。期せずして簗が懐いていた鉄穴森を奪うような形になってしまったことを、いずれ謝らなければならないと思っていた。そう言うと、簗は卵を嚥下し首を横に振る。
「実を言うと、こりゃ業腹な話で鋼鐵塚のアホには死んでも言いたくねえんだが」
簗はくどくどとそう前置きすると、声をひそめて白瀬の方に身を傾ける。ふ、と卵の黄身のにおいがした。
「鋼鐵塚はクソだが、鋼鐵塚の刀は見事だ」
硬い表情の簗は慰めの類を口にしている風ではなかった。もとよりそんな細やかな気遣いをする男ではない。そうか、と白瀬は溜息のように笑う。
「おまえには合っていたんだな」
「おまえ、絶対鋼鐵塚に言うなよ!」
「言ってやれよ。きっと喜ぶ」
「絶対に嫌だ! 腹が立つ!」
簗は刀を持ち替えてから着実に成果を上げていた。白瀬はそれを素直に祝福できないでいる。嫉妬ではない。まさかそんなはずがない。白瀬は、簗に家族の待つ国に帰ってほしいと願っていた。簗を思ってのことではない。己がすでに失った未来をなぞり、心の慰めにしたかった。傲慢で身勝手な願いだ。
階級が上がれば、当たる鬼も強大なものになる。そうなれば死の危険も増す。だが白瀬には何もできない。指を咥えて見ているしかない。
ぎゃあ、と軒先の方で白瀬の鎹烏が鳴いた。烏のせいか、いつの間にか小鳥の声は聞こえなくなっていた。
二人は簗の診察に医者が来るまで益体もない話をした。簗は医者が何度言っても安静にせず、傷を悪化させたということで鎮静薬を打たれた。薄暗がりが落ちた頃に白瀬は任務のために藤の家を発った。鎮静薬のせいで意識の輪郭をとどめておけない簗は弛緩した笑みを浮かべて布団の中から白瀬に「いってらっしゃい」と手を振った。幼子のようだった。白瀬はそれに手を振り返す。簗は寝言のように何かを言ったが、白瀬はその意味を聞き取ることができなかった。
淡い紺青と朱赤がゆるやかに滲みながら空を染めている。細く白い月が浮いていた。