鬼は逃げず、隠れず、鬼殺隊士が現れたとあらば必ず姿を現すものだ。大抵の鬼は血肉に溺れ力に驕り己の狩られる様を想定しない。加えて陽光が弱点であるために、塒を探し当てられ昼日中に急襲されれば為すすべなく灼かれる。居場所を探られる前に現れるのは必然であった。
 だが時折、辛抱強く姿を現さない鬼もいる。極端に慎重か、知能が高く身を隠す術を心得ているか、或いは他の理由か。いずれにせよ用心するに越したことはない。
 簗が得た「街外れ街道沿いの」という情報に合致する廃寺はすぐに見つかった。それを伝えに来た隠――件の隠ではない、はきはきとした若い女であった――は、首を傾げながら地図と報告書を広げる。報告書には「廃屋、無宿人多数、問題ナシ」と簡潔に書かれていた。
 鬼の存在が疑われた時点で、町内外の空き家や廃屋は徹底的に洗われていたはずである。この廃寺はかつては名のある大梵刹であったというが、ここ十年は住職もおらず管理する者もなく朽ちるがままになっていた。やがて無宿人や旅人が屋根を求めて集まり、寺院であったときよりも人を救っているというのだから皮肉である。
 簗の傷が塞がるのを数日待ち、日が昇るのとともに宿を発った。
 簗の傷が増えるのを見るたびに、白瀬は形容しがたい悪寒のようなものを感じる。時とともに癒え、消えていく傷ではない。鬼の爪は柔く脆い人間の肉体を広範囲に渡って削ぐ。縫い合わせようと、肉と肉は引き攣れ歪み、器官は機能を失う。縫い合わされ、貼り合わされ、いびつな姿形に変わっていく簗が、白瀬には人ならざる者に変貌しているように思えて恐ろしい。そして何よりそれを簗自身が望んでいるように見えることが、白瀬には恐ろしくてならない。
 死なないでくれと、白瀬は簗に面と向かって言ったことはない。言ったところで何を馬鹿なことをと一蹴されるだろう。だが白瀬にとって、簗の存在は幻影じみた己の似姿だった。家族がいて、家があり、健康な心身を持ち、どうして鬼狩りに命を賭す必要があるだろう。その選択をした簗が、白瀬は堪らなく憎らしいのだ。一方で友人としての簗に親しみも覚えている。簗は以前であればすれ違うことさえないような類の男ではあったが、いまや肩を並べあう戦友でもある。今すぐ剣を捨て故郷に帰り鬼と無縁に余生を生きてほしい。出来得る限り長い時間を己と戦いの最中にあってほしい。そういう相反する願いを、白瀬は簗に抱いていた。
 前を歩く簗の背中を眺める。早朝といえど白日の下堂々と刀を持ち歩くわけにもいかず布に包んで背に負っている。羽織を使わない簗の背には白々と滅の文字が浮いている。傷だらけの体と同じくらいほつれ破れ繕った跡のある隊服だった。

「――簗」

 小さく名を呼ぶ。簗は歩調を緩めもせず首だけをこちらに巡らる。目尻から口元までを裂く生乾きの醜い傷が引き攣れ、簗は顔をしかめた。賭場の鬼に引き裂かれた傷は簗の顔貌をさらに人好きのしないものに変えた。大きく引き攣る口元は、牙を剥きだす獣のようだ。
 簗は親指で頬を撫で、眉をひそめた。

「顔が痛えんだから呼ぶな」

 黒い隊服の胸元に暗い色の染みが広がっている。数日前の血の跡であった。朝の白い陽光を受けて、何のものとはわからずともくっきりと見て取れる。白瀬は浅く溜息をついた。

「どんどん子供の寄り付かない顔になるな」
「構うかよ、ガキは嫌いだ」

 簗はそれだけ答えた。

 廃寺へはそれほど労せずに辿り着いた。山門には寺号の記されたらしい木の板が立てかけてあったが、すでに風雨に曝され読み取れなくなっていた。崩れた土塀や荒れた生垣を見て、簗は鼻を鳴らす。

「鬼より幽霊が出そうだなア」

 白瀬はそれに無言で同意した。門から中をのぞけば、かつては手入れがなされていたであろう松の古木の下で数人の男女が火を起こし煮炊きをしていた。何を煮ているかは分からないが、鍋からいい香りがする。そのうち一人の中年の女が二人の姿を見るなりにこやかに手招きをした。簗は不審げに顔を歪め、白瀬の方を振り向く。

「呼んでるぞ」
「…………私か?」
「俺ではねえだろうよ」

 簗は生々しい顔の傷を指す。ああ、と白瀬は女の方に顔を向けた。いつの間にか手の届くような場所にまで近づいてきていた女は、簗に向かって穏やかに笑みかけた。痩せて垢じみているが落ち着いた風の女である。

「お腹は空いていないかしら」

 顔ははっきりと簗の方に向いている。簗は露骨に面食らってたじろいだ。

「…………俺?」
「ええ、今みんなで筍を煮ているのよ。あなたもどうかしら」
「へ、あ、……いや、いい、です」

 簗がしどろもどろにそう答えると女は食い下がるでもなく「あらそう」と言って火の方へ戻っていく。人の輪に入っていった女は今のやり取りを説明したものか、周囲の人間に何かを伝えている。周囲の者たちも各々頷いたり相槌を打ったりした後、二人に向かって穏やかに笑いかけた。
 白瀬はその様子に違和感を覚える。普通こういう場で寝泊まりする者たちは、縄張りに過敏なはずである。

「おい、こんなところに鬼がいるのか」

 見れば敷地内のあちこちに無宿人の姿がある。煮炊きをしている者、木陰で談笑する者、崩れた屋根を直している者、やっていることは各々違うが、皆揃って穏やかな様子である。老若男女入り混じり、中には風体のよろしからざる男もいたが、諍いを起こすわけでもない。まるでひとつの村のように、穏やかに朝の時間が過ぎていく。
 これは手練れた隠でさえ早々に「問題ナシ」の判断を下すはずである。誰も彼らを責められない。
 本堂へと続く軋む階段に足をかけると「ねえ」と若い女の声で呼び止められた。足を止め、振り返ると十五歳ほどの娘が微笑みながら白瀬を見上げた。

「――さまのお導きがあるわよ」
「なんだって?」

 聞き返すも娘はころころと笑いながらどこかに駆けていく。立ち尽くす白瀬に先を行っていた簗が「行くぞ」と声をかけてきたので、白瀬はそれに従った。
 本堂の内部は名刹らしくひらけていたが、雨戸が締め切られ暗い。埃っぽい空気が足元で渦を巻いた。首筋を冷たいものが這い上がる。白瀬が日輪刀を抜くのと同時に、簗も鞘を払った。どこかの破れた壁から細く入る光が日輪刀の表面を炙る。堂の外から誰かの笑い声が聞こえた。

「厭な感じがする」

 珍しく簗がそう零した。そうだな、と白瀬は答える。堂の中は庭の朗らかさと一変してひんやりとした空気で満ちていた。荒川龍儘會の構成員と思しき男たちが、所在なさげにうろついている。街ではあれほど幅を利かせ肩で風を切って歩く男たちが、柱の陰の薄暗がりに幽鬼のようにぼうと立ち尽くしている。男たちは二人に虚ろな視線を投げかける。
 簗が前を見たまま「おい」と白瀬に声をかけた。

「そこにいる奴」
「なんだ」
「この街に来てすぐ絡んで来た奴だ。おかしいな、ツラ突き合わすたびに噛み付いてきたのに」

 白瀬は簗の示す男に視線をやった。確かに覚えのある男であった。今は険のある表情を緩め、笑みこそ浮かべてはいないもののどこか恍惚とした面持ちで暗い天井を見上げていた。
 広い内陣を渡り、数枚の戸を隔てて裏手へ回る。そこから先はどうやら庫裏であったらしく、人の生活の痕跡が見て取れた。一度ならず何者かに荒らされたらしく、欠けた茶碗や箸がそのへんに転げ、襤褸切れ同然の着物が投げ出されている。白瀬は跪き、埃で汚れた小さな毬を手に取った。幼い子供がいたものであろうか。感傷めいたものが胸の内をよぎった。

「私の妹も毬つきが好きだった」

 元の色もわからないほど褪せた毬に向かって呟く。白瀬は簗が「でももう死んでるんだろう」と心無い駄弁の一つも弄すると思っていた。それを期待さえしていた。だが返事はなかった。震えるような息の音だけが返ってきた。
 白瀬は毬を置き、立ち上がる。何も言わずに先へと進む。戸を開けるたびに瘴気に似た厭なにおいのする空気が纏わりついてくる。白瀬は意識の片隅にちりちりと雑音のようなものを感じる。耳元で誰かが噂話を言い交わしているような感覚が絶えず繰り返される。なんだこれはとそれを強く意識しようとすると音の輪郭はふっとほどけていく。

「簗、何か……変な音がしないか」

 白瀬は立ち止まり、簗にそう問いかけた。簗は足を止めない。まっすぐに前を向いたまま、妙にはっきりとした足取りで先へ先へと向かっていく。抜き身の刀が無防備にぶらりと下げられている。白瀬は咄嗟に簗の手首を掴んだ。

「おい、どうし――」

 白瀬はぎょっとして言葉に詰まる。簗の頬を涙が伝っている。裂けた頬の傷に涙が伝い、ぬるぬると光を帯びている。

「かえりてえ……」

 嗚咽を漏らしながら簗が弱々しく呻く。

「簗、何が――」
「かあちゃんに会いてえ……でもだめなんだ、俺は……いつかかあちゃんも殴っちまうから……」
「簗、おい――」
「おれはいつだって、おれいがいのなにかになりたかった」

 簗の四白眼が虚ろに白瀬の目を射貫く。強すぎる我は脆い人間の精神を簡単に苛むから哀れだ。白瀬は簗の肩を掴み揺さぶる。輪郭を失い個を手放せば今ほど苦しまずに済む。簗の体はされるがままに揺さぶられる。この男共々溶けてしまえば憂いも矛盾も霧散する。白瀬は子供のように泣きじゃくる簗の胸倉を掴む。明け渡してしまえばいいのに、他の者の幸福そうな様子を見たのだから。
 ――狐穏良さまのお導きがあるわよ
 娘の言葉が不意に脳裏に鮮やかに蘇った。ひゅう、と白瀬は鋭く息を吸う。渾身の力をこめて簗の頬を張り飛ばす。
 ふやけた傷から薄赤の汁が漏れて白瀬の手を汚す。簗は呻き声一つあげなかった。倦み疲れたような目で白瀬を睨んだ。この男が傷付くところも見なくて済む。

「あ゛、クソ、ムカつく。なんだこれ」

 武骨な手がごしごしと顔を擦る。塞がりかけていた傷が裂けて血が滲んだ。外の者の様子を見たであろう。

「血鬼術だろう」
「あ゛ー、ふっざけやがって、クソッタレ、胸糞悪ィったらねえ」

 は、は、と簗は短く呼吸した。尖った顎の先から涙の名残がぽつりと落ちる。飢え諍い傷つけあう運命にある者達の坦々たる様を。

「頭ン中で蠅が飛んでるみてえだ。テメエは平気なのか」

 簗は頭を両手で抱えながらそう言う。生の葛藤も死の苦しみも別離の悲しみもない。白瀬は肩を竦めた。

「平気なものか。さっきからお前を殺そうとしている」
「はっ!?なんでだよ! やめろよ! ……え、そんなことしねえだろ?」
「どうかな。私が合理的ならしていたかもしれない」
「親兄弟ブッ殺されて鬼殺隊なろうって奴が合理的なわきゃねえだろが、行くぞ」
「そうだな、行くか」

 二重三重に輪郭を移ろわせていた意識がふつりと外郭を取り戻す。蚊帳の隙間を探す蠅の羽音のようなものが、耳元でわんわんと聞こえた。
 それを振り払えば、先ほどとは見える光景が変わってくる。何の変哲もなく朽ちるに任せているように見えていた土壁は赤黒くぬめり絶えず脈打つ。金属質な光沢を帯び、息をするように波打っている。
 簗が「うえ」と呻いた。

「さっき壁に手ついちまった」
「おまえは厠の後も手を洗わないだろう」

 木戸を蹴り開け、廊下を渡り、より強く壁が脈打つ方へと足を進める。そのたびに耳元の羽音が強くなる。呼吸を少しでも緩めると思考の縁がじわじわと蕩けていく。そうすると緊張がほどけゆったりといい気分になり、ぬめる壁は白い土壁へと変わっていく。
 血鬼術の影響は簗の方が強く受けているようであった。先ほどから居眠りをするように舟を漕ぎ、ぶつぶつと何事かを呟いている。それは子供じみた泣き言のこともあれば怒りに満ちた罵詈雑言のこともあった。だが彼が呪っているのは鬼でも家族でも白瀬でもなく自分自身である。
 それを耳にするたびに白瀬の胸は潰れそうになる。白瀬は簗が鬼殺隊士になった経緯しか知らない。その思惑を知ろうとしなかった。簗もそれを要求しなかった。簗の温度のない呪詛の言葉が耳朶を打つたび、白瀬は意識の輪郭を失いそうになる。簗の憂いを払うにはそれを受け入れるしかないのだと思わされそうになる。白瀬がおぞましく感じるのは、それが荒唐無稽な虚辞ではなく己の心の底の取るに足らぬ何かを掬い上げたものであったように感じられたからだ。

「簗」

 口から出た言葉がひどく掠れていてぞっとする。簗はうたた寝から叩き起こされたかのようにびくりと肩を震わせた。

「なんだ」
「私は正気に見えるか」

 簗は深く息を吐く。充血した目が白瀬の表面を撫でる。

「分からねえ」

 簗はそれ以上何も言わなかった。白瀬も追求しなかった。

「拳でいっとくか」
「…………何を」
「気付けに一発」
「ばか、よせ」

 簗は喘鳴のように笑う。頬の傷がぱっくりと開いて血を流した。
 二人は一枚の引き戸の前で止まる。元は木であったのか紙であったのかも判然としない。今はぬるつき痙攣する壁になっていた。質素な引き手の金具だけがかつてそこが人間の通り道であったことを窺わせる。
 ひゅ、ひゅ、と簗が呼吸を早める。青ざめていた唇に血の気が戻り、頬の傷から拍動に合わせて血が噴き出す。白瀬は日輪刀を正眼に構えると簗に目配せする。簗は短く息を吐くと引き戸を蹴破り、戸の向こうにいた人影に向かって太刀を振り下ろした。
 刃がそれに届く前に、白瀬は簗の横腹に思い切り体ごとぶつかる。簗は呻き声とともに吹っ飛び、白瀬もそれに絡まるようにして床に倒れ伏した。

「ッにしやがる!! とうとうイカれたか!」
「よく見ろ、人間だ」

 ぼうと立つ男は顔色こそ優れないが只人である。虚ろな双眸はゆるゆると空に向けられている。幸福な夢をみているものであろうか。
 白瀬は立ち上がり簗に手を差し伸べたが、簗はその手を一瞥しただけで億劫そうに自力で立ち上がった。あたりを見回した簗は脈打つ床に唾を吐く。あたりには龍儘會の構成員が、冬の木立のようにぽつぽつと立っていた。ひそひそと何かを言い交わし、時折二人の方を見てざわめくように笑い声を上げる。
 部屋は広く、天井が高い。もとは何に使っていた部屋なのか、仏像の一つもない四角いだけの板張りの部屋である。その中心に、無造作に巨大な脳味噌が転がっていた。それ以上に形容する言葉はなかった。蹲る牛ほどの大きさの赤みを帯びた薄黄色の塊が、息づくように震え、膨れ、縮み、脈打っている。根を張るように長い黒い髪の毛が表面に絡みついている。

「風呂場の隅に、ああいうの落ちてるよな」

 簗はその醜悪な姿に顔をしかめ、刀を構えなおす。簗の殺意に呼応するように狐穏良はぶるぶると震え、膨れ上がる。表皮を覆っていた髪の毛がぐるぐると蠢き、蛇のように鋭く簗の首に迫った。簗はそれを切り払ったが、防ぎきれなかった一筋が簗の脇腹を裂いた。女の髪のようにしなやかで柔らかそうに見えるそれが、鋼の如き硬度で簗の肉を抉る。
 強く踏み込み簗は狐穏良に一太刀を入れる。白い肉片がぶるりと床に崩れ落ちる。肉片はぶくぶくと泡立ち本体の方に吸い寄せられ、断面を覆うように同化していく。
 簗は飛び退り、白瀬に向かって怒鳴る。

「どこが頚だ!」
「――分からない」
「テメエほんとそんなんばっかりだな!」

 鞭のようにしなりながら迫る髪の毛を避けながら白瀬は狐穏良と距離を詰める。生臭い厭なにおいが鼻を衝く。白瀬は狐穏良の攻撃を避けながらその姿を観察する。首どころか四肢も存在しない。機動力は零だがその分素早く四方から迫る髪の毛が厄介であった。しかしこれ以上に攻撃的な鬼を白瀬は相手取ってきた。この程度の攻撃を避けながら頚を狙うことは造作もない。――頚が見つかればの話だが。
 試しに一太刀入れようと踏み込む白瀬の目の前に、男がふらりと割り込む。龍儘會の男だ。操られているとはいえ鬼ではない。白瀬は刀の軌道を変え、一度退く。追いすがってくる男の手を振り払い、簗に向かって叫ぶ。

「殺すなよ、人だぞ!」
「言ってる場合じゃねえと思うがな!」

 のろのろと緩慢な動きで迫ってくる男たちを簗は次々に殴り倒していく。だが痛みも感じず、気を失うこともないらしく、男たちは止め処なく迫ってくる。白瀬も男たちの手を掻い潜ることに気を取られ、胸に浅からぬ傷を受けた。息を吸い、吐き、呼吸に支障のないことだけを確認する。
 数十人の男たちが、狐穏良と二人の間に立ちふさがる。簗に容赦なく殴り飛ばされ、あちこち血を流し腫れ上がらせているにもかかわらず、恍惚とした表情は変わらない。正面にいた男が腫れあがった唇を開いた。前歯が何本か抜け、口の中は血だらけだ。

「痛そうだな。かわいそうに」

 血だらけの口を歪めて男は言う。他の男も口々にかわいそうに、かわいそうに、と呟く。小さな囁き声は木立のざわめきのように幾重にも反響する。白瀬は眉をひそめた。街から次々人が消えたのは、骨まで残らずしゃぶり尽くされたためではないのかもしれない。
 簗が唸り声とともに太刀を振り上げた。男たちは逃げるでもなく惑うでもなくぼんやりと美しい切っ先を眺めている。それは簗にとって予想外の反応であった。簗の太刀筋が鈍る。筋金入りのチンピラである簗も、無抵抗の人間を唐竹割りにするには躊躇するらしい。その怯みをついて狐穏良は触手を蠢かす。太い毛束が簗の大腿を貫き、広範囲の肉を引き毟る。動脈を破られ、噴水のように血が噴き出した。簗は声もなくその場に崩れ落ちる。簗の周囲の男たちが、救いの手のように簗に手を差し伸べながら押し寄せていく。白瀬は人だかりに飲み込まれていく簗に駆け寄ろうとしたが、大勢の男たちと触手の猛攻に阻まれた。

「簗!!」

 一つの生命体のように蠢く男たちの中に、見覚えのある黒装束を見た。黒染めの木綿の一揃え、顔を覆う布に染め抜かれた白線。背中に隠の一字を背負う黒装束の男は、龍儘會の男たちと変わらぬぼうとした足取りで人だかりに歩み寄る。件の精神薄弱の隠である。
 なぜあの男が、と白瀬は迫る髪の毛を切り落としながら思う。まさかあの男も狐穏良の支配下にあったのか。
 隠はぞろりと口布をずらす。薄い唇が晒される。変わらず感情の読みにくい弛緩した表情で、だが目だけは奇妙な生気を帯びて前を見ている。隠は簗が取り落とした日輪刀を拾う。緋色の線が迸る、美しいが使い手の肉体を蝕む妖刀が隠の手に納まる。
 しゅ、と鋭い呼吸の音がした――ような気がする。白瀬がそれに気が付いた時には男たちの首が五つ、ぽーんと宙に跳ねていた。それから遅れて落雷に似た衝撃が体を突き上げた。白瀬の瞼の裏を紫電が閃く。隠は躊躇なく男たちの首を落とすと狐穏良に迫った。あと二歩まで接近したところで、隠の手から日輪刀がすり抜け床に落ちる。並の剣士の手に余る太刀だ。
 隠は床に落ちた日輪刀を見て、困ったようにちょっと笑った。そして笑ったまま腹と胸を刺し貫かれた。笑みをたたえた薄い唇からどす黒い血が溢れる。
 白瀬は隠が切り拓いた道を駆け、頽れる隠の背中を踏み台に跳ね上がる。眼下に狐穏良の姿を見、その脳梁を叩き斬る。半分に切り分けられた狐穏良はぶるぶると震え、赤黒い塵に変じていく。悲鳴の一つもない。白瀬の日輪刀の切っ先に、市松人形の首が引っかかっていた。それは恨みがましい目でぎょろりと白瀬を睨み、崩れて消えた。
 鬼の肉体が滅びた途端、伽藍が音をたてて軋み始める。鬼の支えを失った古刹は、自力では立っていることが叶わず崩れ始めている。白瀬は日輪刀を納めると血溜りの中で荒い呼吸を繰り返す簗に駆け寄る。肩を貸して立ち上がらせると、簗の右脚は不吉にぐにゃりと傾いだ。

「歩けるか」
「……刀、俺の刀は……」
「諦めろ!」
「刀……か、は、こ、ころされる……はがねづかに……」
「死にかけてるんだ! 余計なことを考えるな!」

 血の気を失った簗の顔が白瀬を見上げる。

「か、かくしの……あいつは……」
「――余計なことを考えるな」

 狐穏良の呪縛から解けた男たちは口々に悲鳴を上げ、出口の方に殺到する。残ったのは白瀬と簗と折り重なった人間たちの死体だけだった。

「あいつ……あいつ強かったんだなァ……」

 痙攣のような呼吸を漏らしながら簗は言う。体を支えてやっているだけの白瀬の短袴が簗の血でぐっしょりと濡れそぼっていく。

「稽古つけてもらえば……よかったよなァ……」

 簗はそう言ったきり静かになる。白瀬は余計なことを考えないようにしながら痛む体に鞭打って簗を寺の外に運んだ。上着を重くしている血が、簗のものか己のものか分からない。呼吸を全て止血に回すだけの余裕が白瀬にはなかった。
 何枚目かも知れぬ木戸を潜り、外の光を目にしたとき、白瀬はほっとしてその場に膝をつきそうになった。歯を食いしばり表に出ると、陽の光が目を焼いた。ひゅ、と肺を素通りする呼吸を一つして、白瀬は渾身の力で叫ぶ。

「医療班! いないのか! 頼む、こいつを殺さないでくれ! 頼む! たのむよ!」