幻想の地



 最も深い眠りの中に解放されてはならない禁忌の場所が隠されている。

 青い火が燃えている。樹皮の硬い木の幹に縛り付けられていた。子供たちが火のまわりで身をくねらせていた。奇妙なまでに痩せ細った手足が互いに絡み合う。裂けた粗末な衣服から肋骨の浮き出る腹が見えた。青い光を受けてぬらぬらと光を帯びる。瞼のない穴のような眼が何も無い宙を見ていた。
 なてゆにゅふ なぇしゅ いー と らー
 子供たちは口々に囁きながら身動きの取れない私に近づいてくる。ずる、ずる、とその背後の白い暗闇から何かが這いずる気配がした。私はそれを見てはいけないことを知っていた。眼を閉じ、口をつぐむ。
 なてゆにゅふ なぇしゅ いー と らー
 子供たちの声が耳元で震えた。細く長い、温く熱を帯びた舌がぞろりと耳の穴の中に侵入し、頭蓋の内側を舐めていく。身をよじるたびに乾燥した木の皮がぼろぼろと崩れて落ちてきた。破片は襟元に侵入し、汗と混ざり合い背中に貼り付く。
 なてゆにゅふ なぇしゅ いー と らー
 耳元で誰かの笑う声がした。


 は、と目を覚ます。薄手のブラウスの下で心臓がどくどくと不安を全身に送る。オフィス街から離れていく終電の車両には己以外誰もいない。慌てて時計と次に到着する駅を確認する。自宅の最寄り駅はまだ先であった。は、あ、と途切れ途切れに安堵の息を吐き、膝の上からずり落ちた通勤用バッグを抱え直す。

「うなされていましたよ」

 そう言われ、私はぎょっとして声の主を探す。布張りの長椅子の隣に、中年の女が座っていた。寝惚けていたせいだろうか、今の今まで気が付かなかった。腿がべったりと触れ合うほど近い。存在に気が付くと、ベージュのスカート越しに女のぬるい体温を感じて不快になる。白髪の目立つ縮れた髪と、足元に複数個投げ出されたぱんぱんの巨大な布バッグが汚らしい。私は無礼にならない程度にさりげなく、女から10センチほど距離を置いた。

「すみません……」

 何に対してか分からないまま謝る。それは幼い頃から繰り返し見る悪夢であった。大抵は疲れているときに見た。最近は残業続きで疲れ果てていたから見たのだろう。
 私は女を反射する車窓越しに盗み見る。寂しいほどに空いた電車の中で、どうしてこの女はわざわざ私の隣の席に座ったのだろう。それも、これほど密着して。右腿の側面がいまだじっとりと汗ばみ、スラックスの生地が貼り付いている。
 女は平然と正面を見たままであった。私に視線の一つも寄越さない。

「あなた、本当の幸せってなんだと思います?」

 は……と私は乾いた喉で吐息じみた返事をした。ああそういうのか、と思い、また20センチほど女から離れる。

「さあ、なんでしょう……」
「お金があること、物質的に恵まれていること、発達した科学を得ること。そういうことが幸せだと思いますか?」
「はあ……」

 私は荷物で隠しながらスマホの画面で時間を確認する。次の駅まではまだ時間があった。

「そういうことも、もちろん幸せの一つです」

 私は膝の上の荷物を身を守るように抱え込む。

「でもね、本当に大切なのは」
「本当に、本当に大切なことは――」

 女ははくはくと血色の悪い唇を開いたり閉じたりした。何を言っているのかは聞こえなかった。聞こうとしなかったせいもあるかもしれない。女は浮腫んだ手を足元のバッグのひとつに入れ、かき回す。私は女のバッグの中をちらと見た。何かを印刷した紙が大量に無造作に詰め込まれていた。

「これ、どうぞ」

 女はバッグの中から取り出した何かを手渡してきた。受け取るのは気味が悪かったが、無視していても一向に引く気配がないので私はいやいや手を出した。手のひらにひやりとしたものが落とされる。ビー玉大の黒い石だった。磨かれているのか、表面がつるりとして光沢を帯びている。細い紫の線で何かが彫り込まれていた。田舎のショッピングモールの冴えないパワーストーンショップに売っている得体のしれない石みたいだった。

「それじゃあ」

 女は立ち上がると、大量の荷物を抱え上げた。安っぽい布バッグの取っ手が捩れて紐のようになって女の手に食い込んでいる。女はよたよたと隣の車両に消えていく。私は女の体温が残っているように感じる座席を離れ、向かいの席に座り直した。それから手の中の石を見下ろす。手を傾けるところころと転がった。
 私はスマホのカメラでそれを撮影した。SNSのアプリを起動し、その画像を添付する。

【終電で宗教おばさんに謎の石もらっちゃった…… 23:57】

 それを投稿し、いくつかの投稿を眺めていると目的の駅が近づいてきた。私は知らない間に手の中で転がしていた石を、座席の継ぎ目に押し込む。単調なアナウンスが目的の駅の名前を告げる。私はいつもと変わらずホームに下りた。改札を出る頃に、小石を乗せた電車は音を立てて駅を離れていった。