狂気



 自分が賢いと思うことが狂気への第一歩。

 家に着き着替えてシャワーを浴び、寝て起きた頃には奇妙なおばさんのことなどすっかり忘れていた。朝の支度をし、歯を磨きながらSNSの通知をチェックする。

【それ大切にした方がいいよ 04:32】

 そのメッセージを見たとき、一瞬何のことか分からなかった。昨日の夜の宗教おばさんからもらった石に対するメッセージだと気が付き、昨晩のことを思い出して苦笑する。口の中をゆすぎ、メッセージを返す。

【もう捨てちゃった 06:48】

 それを送ってきたのは地元の友人だった。ナオ、と呼んでいた。SNSのアカウント名もnaoだった。名字は何だっただろう。
 中学、高校が一緒で、特別仲が良いわけではないが同じ部活の同級生が彼女と比較的仲が良かったので惰性で繋がり続けている。上京してからは会っていない。数年前に結婚したと聞いた気がする。いや、あれは別の友人だったろうか。
 私は昨日ぶりに石の画像を眺める。電車内の白々とした蛍光灯の光でぴかぴかと輝いている。私は画像にふと違和感を持った。黒い石の背景に映り込んだ車窓に、人影が映り込んでいる。まさか自分の姿が映り込んでしまっただろうか、と画像を拡大し、私はスマホを取り落としそうになる。
 暗い硝子窓に、件の宗教おばさんが映っていた。両手にぶらさげた布バッグ、汚らしい白髪交じりの髪。うらぶれた外見であるのに、妙に溌剌とした目だけがこちらを向いている。
 まだそこにいたのだろうか、もしくは戻ってきていたのか。どちらかは分からないが、気味が悪かった。そこにいたなんて気が付きもしなかった。
 私は自分の投稿を消し、スマホに残っていた画像も消去する。

【拾いに行った方がいいよ 06:48】

 まるで返事が来るのを待ち続けていたようなタイミングでメッセージが来る。私は少し面食らいながら返信した。

【いやいや、電車の中に置いてきちゃったから 06:49】
【絶対に拾いに行った方がいい。大変なことになるよ 06:49】
【その石からはオーラを感じる 06:50】
【06:50】

 矢継ぎ早のコメントと、本文のない石の画像が送られてくる。私がさっき消去したものだった。いつの間に保存していたのだろう。他人が投稿したものであるから私には削除が出来ない。一度気が付いてしまうと、小さなサムネイル画像でも女の姿が映っていることが分かった。
 オーラ、という文字列を見て、私は学生時代のことを思い出していた。ナオはスピリチュアルだとかそういうのが好きだった。月の光で浄化した水晶のブレスレットとかいうものを学校に持ち込み、不要品として没収されていたこともあった。今でも彼女がSNSで共有するのは、アロマオイルで心身のバランスを整えるとか、あの食べ物はアルカリ性だからとか、スマホの電磁波がどうのとか、そういうものばかりだ。今まで気にも留めなかったが、矛先が己に向くと苛々した。
 私はスマホを通勤用バッグに放り込む。返事をするのも面倒くさかった。
 午前中は仕事が忙しくてSNSを盗み見る暇もなかった。昼休憩中に確認すると午前中の間に「このままでは大変なことになる」「私はそういうのに詳しい」というような内容のメッセージが何度も来ていた。
 きもちわる、と私は彼女をブロックしてしまうか迷う。どうせ何年も帰っていない地元の、大して仲良くもない知り合いだ。ブロックボタンをタップしようとする指の下で、SNSの通知がきた。

【じゃあ私が探してあげる 12:22】

 地元は東京から新幹線で二時間以上かかる。途方もなく遠いわけではないが、SNSの些細な投稿をもとに気軽に行くような距離ではない。私はそのまま、彼女のアカウントをブロックした。
 そう深い仲ではなかったとはいえ、かつての同窓の様子がおかしくなるのは堪えるものだ。おかしな宗教か、マルチにでもハマってしまったのだろうか。私はそのまま、ナオのことは極力忘れることにした。
 その日は珍しく仕事が早く片付いた。余計なことを言われる前にさっさと職場を後にする。飲みにも行かず、寄り道もせず、家路につく。退勤ラッシュの電車内は混み合っていて、いつもであれば不愉快に感じるが、今日だけはその喧噪がありがたかった。
 自室に帰りついたのは20時にならぬ頃だった。シャワーを浴び、部屋着に着替え、冷凍庫からアイスクリームを取り出した。かちかちに凍り付いたアイスクリームを、スプーンが刺さるまで室温に置いておく。その間、録画していたテレビ番組をだらだらと流す。
 ピンポン、と部屋のチャイムが鳴った。私は怪訝に思いながら立ち上がる。何か荷物の配達を頼んでいたのだろうか。自室を訪れるような恋人はいない。連絡なしで家まで来るような友人にも覚えがない。玄関先まで行き、ドアスコープから外を見る。見知らぬ女が立っていて眉をひそめた。それから、その女がナオであることに気が付く。すぐに気が付かなかったのは、しばらく会っていなかったせいもあるし、ナオの姿が様変わりしていたからでもある。
 彼女は私より少し背が低かったが、すらりと健康的な姿をしていたはずだった。それが、ドアスコープから覗く女は肩に頸がめりこむほどの猫背で、Aラインワンピースの背中が傴僂のように盛り上がっている。目は落ちくぼみ、口元にはだらしない笑みと涎の泡をたたえていた。そんな様子であるのに、髪だけは手入れされた栗色のボブカットで、そのアンバランスがいっそう不気味だった。
 私は居留守を決め込み、そっとドアスコープから離れる。どん、と金属製のドアが拳で叩かれた。

「いるんでしょ、拾ってきたから、これ渡したいの」

 ナオは東京での私の住所は知らないはずだ。私は息づかいさえ気取られぬよう、口元を手のひらで押さえて後ずさる。
 どん、どん、と続けざまに低い音がした。ノックというよりも、一発一発渾身の力でドアを殴りつけているように聞こえる。

「ねえ、開けて、ここ開けて」
「これがないと、あなた大変なことになるよ」
「私には分かる、私には力があるから、私なら助けてあげられる」

 どん、どん、という音が徐々に激しくなる。そのうちガアン、ガアン、と激しい音を立ててドアが揺れる。脳裏に、ひどい猫背の体を丸めて金属のドアに体当たりするナオの姿が像を結ぶ。口角から泡を散らしながら、助走をつけてドアにぶつかる。何度も、何度も、何度も。
 私は耐えきれずに震え声で叫んだ。

「帰って! 警察呼ぶよ!」

 ぴたり、と音がやむ。私はおそるおそるドアスコープを覗いた。スコープの向こうは真っ暗だった。一瞬、もう帰ったのかと思い、すぐにナオがドアスコープの向こう側に貼り付きこちらを覗こうとしていることに気が付き、背筋が粟立つ。大丈夫、向こうからこっちは見えない。私は自分に言い聞かせながら、真っ暗なドアスコープを覗き続ける。厚さ10センチほどの金属のドアの向こうにナオが貼り付いている。湿った息の音と乾いた唾液のにおいがするような気がした。

「ああああけて、いれて、いれて、い、いれて、いれ、て」

 ばんばんばんばんばんばん、とドアを叩かれる。私は悲鳴をあげてドアから飛び退いた。

「あけろ!!!! あけろぉぉお!!!!」

 私は腰を抜かし、ぶるぶる震える手足でリビングのローテーブルに置きっ放しにしていたスマホに這い寄る。それを手に取り、震える手で110をコールする。無機質な発信音が数回。電話の向こう側で誰かが通話を開始する気配。私は短く息を吸い助けを求めようとする。
 次の瞬間、私は玄関ドアのスコープに目を当てていた。なんで、と狼狽する。スコープの向こう側はさっきより少しだけ明るくなっていた。
 ばんばんばんばんばんばん、とドアを叩かれる。私は悲鳴をあげてドアから飛び退いた。這いつくばりながらスマホに向かい、110をコールする。無機質な発信音が数回。電話の向こう側で誰かが通話を開始する気配。私は短く息を吸い助けを求めようとする。
 次の瞬間、私はやはりドアスコープにを覗いている。向こう側に魚眼レンズで歪んだナオの顔が映っている。見開かれた目がこっちを見ていた。
 どうして、と思いながら、リビングのスマホを探す。またドアスコープを覗いている。ぎくしゃくと手足を痙攣させるナオの背後に女が立っている。女は手に、何か無骨で狂暴なものをぶらさげている。
 スマホを探す。ドアスコープに戻る。女はウェーブした黒い髪をしている。手にさげていたのは錆びて汚れたツルハシだった。女はそれを振り上げた。
 スマホを探す。ドアスコープに戻る。ナオの脳天に重たげなツルハシの先端が落とされる。ナオはドアに縫い止められるようにぶつかった。スコープに栗色の髪の毛がかかって何も見えなくなる。
 スマホを探す。ドアスコープに戻る。視界には立ち尽くす女の姿しかない。背の高い女だった。顔はよく見えないが、日本人ではないように見える。女は甲高い声で笑った。

 は、と目を覚ましたときには、録画した画面も消え、室内は静まりかえっていた。首筋にじっとりと嫌な汗をかいている。気が付いたら眠っていたらしい。時間は深夜一時を少し回ったところだった。私は嫌な夢を見た、と思いながらテーブルに突っ伏して眠ったためにあちこち痛む体を起こす。これもナオが気持ち悪いメッセージを送ってきたせいだ。
 溜息をつき、額の汗を手のひらで拭う。テーブルの上に出しっ放しのアイスクリームのカップを見つけて嫌な気分になる。すでに液状になっているだろう。もったいないけど捨ててしまおうか、と思いながら手に取ったそれは、カップの表面には霜が降りたままで、中身はキンと冷たい固体のままだった。



 最近、妙なこと続きだ。
 翌日、仕事が休みだったので気分転換に繁華街に出た。ネットで話題の雑貨屋を冷やかし、アパレル店をいくつかはしごし、本屋で数冊の本を買う。そのあと、最近オープンしたカフェでコーヒーでも飲みながらそれを読むつもりだった。
 通りかかっただけの古びたアーケード街で珍しいものを見た。歩道の脇に小さなテーブルと「手相、顔相、宿曜」と書かれた行灯。テーブルには「三十分三千円」と張り紙がある。流しの易者など、小さな頃に地元の繁華街で見たきりだった。折りたたみ式の椅子に座っているのは、若い男だった。白っぽいコートを着て、盲目なのか、そういう雰囲気作りなのか、目元を白い布で隠している。
 私はその易者の前で信号待ちをする。信号待ちをしているのは私だけで、何人かの通行人が背後を通り過ぎていく。

「そのまま私の話を聞いて」

 背後から話しかけられ、私は驚いて振り向きそうになる。それを鋭い声で制止された。

「振り向かないで、前だけ見て。絶対に返事はしないで。頷かなくてもいい。信号が青になったらそのまま歩いて行っていいから、少しだけ私の話を聞いてほしい」

 穏やかだが切羽詰まった声音だった。声のする方向からして、件の易者だろう。またおかしな人に話しかけられてしまったかもしれない、と私はうんざりする。易者の言うことに従ったわけではなく、不審者への対応として男の言葉を無視した。

「あなたは今、恐ろしいことに巻き込まれようとしている」

 私は昨晩、ドアスコープ越しに見たナオの姿を思い出す。最後に現れた知らない女も。いや、しかし、あれはただの夢だ。疲れた会社員がみたつまらぬ悪夢だ。

「それはあなたのすぐそばにいて、そして遠くからやって来る。強く、古く、恐ろしいものだ。申し訳ないけれど、私にはどうにも出来ない」

 私は男の声を聞きながら、歩行者用の赤信号を「早く変われ」と睨み続ける。

「何かおそろしいことが起こったら、すぐにその場所を離れた方がいい。なるべく早く、そして遠くへ。――それから、あなたが生まれた土地には……」

 そこで信号が青に変わる。私は弾かれるように一歩目を踏み出し、小走りで横断歩道を渡り終えた。
 もうカフェに行く気にもならず、私はそのまま最寄りの駅から自宅に帰ることにした。いやなことは続く、と思った。