新しいものと古いもの



 永久のものなどない、特に知識は。

 東京駅から新幹線で二時間、そこからバスを乗り継ぐ。舗装だけはきちんとした道路を走るバスに揺られながら、私は祖母の電話のことを思っていた。
 トッカイ様、というのは祖母が小さな頃から母親に聞かされていたという守り神のことだった。上半身は美しい女の姿をしていて、下半身は蛇なのだと祖母は言っていた。幼い私が「それじゃあおばけじゃん」と言うと、穏やかな祖母は珍しく厳しく「めっだなこど言うもんでね」と私を窘めた。
 トッカイ様は女の守り神なのだという。今よりもっと女が生きにくかった時代に、可哀相な女に慈悲を与える存在だった。祖母は実家の山向こうの集落で生まれた人だった。そのあたりに土着の民間信仰なのかもしれない。少なくとも私は、祖母以外からトッカイ様の話を聞いたことはなかった。

 実家に着くころにはもう夕方になっていた。久しぶりの実家は大勢の親戚が集まっているせいか、そのために母が大掃除をしたせいか、記憶より華やいで見えた。祖母が高齢であったこともあり、それほど悲愴な空気はない。いい人だったね、元気だったのにね、でも眠っているうちにぽっくりいくなんて羨ましい……親戚は口々にそういうことを言った。
 私は久しぶりに会う名前も関係性も朧な親戚に順に挨拶をした。皆、一様に歳をとっていた。当たり前のことだが。
 喪服の親戚の間を母がせわしなく立ち回っていた。少し痩せた、と思う。母は所在なさげな私を見つけ、声をかけてきた。

「二階からタオル持ってきてちょうだい。あと、あったらポットも」
「花柄のポット?」
「そう」

 私は生返事をして二階に上がる。客人の上がらない二階は、記憶のままに乱雑だった。使ってコンセントを抜いたままの掃除機を跨ぎ、物置同然になった奥の部屋に向かう。
 少し埃っぽい部屋には、壁が見えなくなるほど段ボール箱が積み上げられている。中身は私が小さい頃のおもちゃだったり、父がまだ勤め人であった頃の背広だったり、もらいすぎた季節の贈り物であったり、もう誰のものとも分からなくなった結婚式の引き出物であったり、そういうものだった。
 私は記憶を頼りにポットを探す。幼い頃は来客があるときにそれを使っていた。薄いピンクに白いレースの花模様の可愛らしいポットで、私はそのポットで祖母にお茶をいれてもらうのが好きだった。
 動きにくい喪服で段ボール箱を上げ下ろししていると、額にじっとりと汗をかいた。私は埃のせいでぱさぱさした手を擦り合わせながら溜息をつく。
 ずううぅ、といびきのような声が聞こえ、私はあたりを見回す。段ボール箱の狭い隙間から聞こえたような気がした。
 ずううぅ
 再び音がし、私はごくりと唾を飲む。背後の硝子障子の隙間から肉に埋もれた細い目がこちらを見ていた。浮腫み脂ぎった瞼がひくひくと痙攣している。ずうううぅう、ずうううぅうう、と呼吸のたびに苦しげな音がする。
 私はぎょっとして後ずさるが、少しの安堵も覚えた。

「お兄ちゃん、何してるの」

 年子の兄は中学生の頃からもう十年以上外界と接しない生活をしていた。いわゆる引きこもりだった。同じ家で生活していた頃からほとんど姿を見ることはなかったが、最後に見たときよりもかなり肥えている。硝子障子にはまった磨り硝子に映る影がぶよぶよとして巨大だった。
 ずううぅう、ずううぅぅ、と陰気な豚の鳴き声のような音しか返ってこない。黒目がぎょろぎょろと何かに怯えるようにせわしなく動いた。

「おばあちゃんが亡くなったんだよ、葬式くらい出なよ」

 私は驚かされたこともあり、強い口調でそう言った。せわしなく動いていた黒目がギュルリとこちらを睨む。血管の目立つ黄ばんだ白目がぬるついている。兄はまだ二十代のはずであるのに、尋常でなく肥え太り脂で固まった髪を無造作に垂らしていて、年齢も、男か女かさえも、よく分からない。
 垂れ下がる全身の肉を震わせながら、兄は擦り硝子に手のひらをつく。ぺたり、と兄の触れた箇所だけ曇りが薄れる。
 ぺたり、ぺたり、ぺたり、ぺたり、ぺたり、ぺたり、ぺたり、ぺたり、ぺたり
 覗いた兄の顔の周囲に無数の手形がつく。私はそれを、ぼうと立ち尽くしたまま見つめていた。きっとまたこれも夢だと思った。いつの間にか眠っていて、そしてまた悪夢を見ている。
 ずうううぅぅ、ずうううぅぅ、
 いびきのような声が止まない。



 ふと気が付くと私は物置部屋に座り込んでいた。硝子障子は閉められていて、兄の姿はない。私は未使用のタオルセットだけを掴んで息せき切って階段を駆け下りた。階段の下で母と鉢合わせる。母は慌てた様子の私を見て怪訝な顔をした。

「なにしたの」
「あ…………ああ……、いや、その……お兄ちゃんって……」

 母はふいと顔を背ける。

「出ないよ、お兄ちゃんは。わかるでしょ」

 この家で兄の話題はタブーだった。誰もがいないもののように扱う。この家に住んでいたときの私もそうだった。 跡取り息子の兄はあのざまで、下の二人はどちらも女だった。田舎の自称名家で母の居たたまれなさは、同情するところもある。
 兄のことはそれ以上聞けず、私は曖昧に頷いた。

 通夜を終え、宴席となった会場を私は早々に抜け出す。階段をのぼり、数年ぶりの自室で線香と仕出しのてんぷらのにおいが染みついた喪服を脱ぎ捨てる。旅行鞄から取り出した寝間着から、愛用している柔軟剤のにおいがしてほっとした。着替え、隣室にそっと耳をそばだてる。隣は兄の部屋だった。物音はしない。人の気配さえない。昔は真夜中に兄がたてる物音が鬱陶しくて仕方なかったのに、物音がしないことを不安に思う日が来るとは思わなかった。
 私はそのまま、他人の家のにおいがする布団に潜り込む。
 夢の中で、私はぶよぶよと肥え太り肉の襞の塊となったような兄を見下ろしていた。体のあちこちから無数の手が生え、助けを求めるように蠢いていた。芋虫をひっくり返したみたいだ。兄は怯え切った両目をぎょろぎょろと動かしている。白い暗闇からず、ず、と何かが這って近付いてくる気配がする。兄は逃げようと藻掻くが、己の肉が絡まりあい上手く動けない様子だった。私はそれを可哀想だと思い、滑稽だとも思った。少しだけ、ザマ見ろとも思う。
 己の肉の中で兄は溺れていた。ずううぅぅ、ずううぅぅ、と苦しそうな息がどんどん荒くなる。暗闇から現れた何かが、ぞろりと兄に覆いかぶさる。巨大な何かだ。よく見えない。それは優しく慈しむような手つきで芋虫のような兄を撫でまわした。ず、ずっ、ずびゅっ、ぐぶっ、と、兄は湿っぽい呼吸を繰り返す。私はそれをぼんやりと眺めながら「お兄ちゃん、泣いてる」と思った。脂肪でぱんぱんに膨れ上がった兄の顔が真っ赤に染まり、どんどん紫になっていく。
 兄に覆いかぶさるそれが、ぬうと起き上がる。あ、こっちを見る、と思い、私は咄嗟に眼を閉じる。耳元で空気の震える音がする。女の笑う声がした。