蛇の渦



 一粒の砂でも靴擦れの原因となる。

 生前祖母が好んだ白いカーネーションに囲まれて、祖母の冷たい体は白い壁にぽかりと空いた穴に吸い込まれていった。しんとした火葬場の中は潔癖なまでに清潔で、静謐すぎることを除けば死のにおいは欠片もしなかった。控室でこの数日で食べ飽きた無難な個包装の茶菓子を摘まむ。騒ぎ出しそうな子供には菓子、年配の男にはビールの銀色の缶が配られた。
 電子レンジで食べ物を温めるような気軽さで人が一人骨になる。私は銀色の台に山盛りになった祖母の骨と灰を見てそんなことを思った。
 葬儀と火葬が済んだら解散、といかないのが田舎の葬儀の面倒くさいところだ。葬儀を手伝ってくれた隣組に自宅で御馳走を振る舞う。その席で所在なく仕出しをつつきながら、私はもう何度目とも知れないしなしなの天ぷらに嫌気がさしていた。
 ぎゃあああ、と階上で母の悲鳴がする。あまりに大きな声で、宴席が一瞬しんとした。父が酔った赤ら顔をへらへらと緩めながら「母さん、虫にでも出くわしたか。おまえ、ちょっと様子見てきてくれ」と言った。なんで私が、と思うが、この席を離れられる格好の言い訳が出来たので私は素直に席を立つ。古い家の急な階段を上がる。二階の廊下の突き当り、兄の部屋の前で、母が蹲りひゅう、ひゅう、と肩で息をしていた。転んで腰でも打ったのか、と私は母に駆け寄る。その途中で、私は母が何に驚き腰を抜かしたのか気が付いてしまった。
 母の膝下に散らばる昨晩の仕出しは、兄の夕食用に母が部屋の前に置いたものだ。開け放たれた兄の部屋のドアから見えるのは、通販サイトの段ボール箱と漫画と食べ物の包装に埋もれ、白っぽくなって横たわる兄の姿だった。眠っているわけではないのは見てすぐに分かる。絹布団に寝かされていた祖母と全く同じ顔色だったからだ。違うのは、祖母は湯灌と化粧を施され穏やかな表情で横たわっていたが、兄は黄色い嘔吐物で汚れた顔を引き攣らせ、眼を剥き、口を大きく開け、何かに怯え叫ぶような顔をしていたことだ。
 私は悲鳴を飲み込み、母の肩を抱く。換気の悪い部屋の饐えたにおいのする空気がむっと顔を覆い、喉の奥に酸っぱいものがこみあげてきた。吐いてしまう前に部屋の前から母を引き剥がす。ストッキングの足でぬるい刺身を踏んづけてしまい、気持ちが悪い。
 私は階段まで母を引きずると、宴も闌の階下に思い切り怒鳴った。

「お父さん!! 来て!! お兄ちゃんが死んでる!!!」

 仏間でどっと笑い声がして、私の声はかき消された。



 兄が死んだことで和やかな葬儀は一転、混乱を極めた。自宅にサイレンを鳴らした救急車が乗り付け、鯨幕を赤く明滅させた。救急隊員は兄の姿を見るなり眉をひそめ、ぐんにゃりとゴミに埋もれる頭の横に膝をついてすぐに首を横に振った。その後は警察が来て、家族だけでなく参列者にも聴取を始めた。まるで私が殺したと言わんばかりの態度でうんざりした。やっと解放されたのは深夜を回った頃だった。
 本来であれば二十代の跡取り息子の逆縁はもっと悲痛なものになったかもしれない。だが兄はああであったので、誰かは「きっと山岸のばあさんが一緒に連れて行ってくれたんだ」というようなことを言った。それを言った人は無配慮な思いやりからそれを言っただろうか。私は苦笑いをして「おばあちゃん優しかったから」と答えたような気がする。
 翌朝、私は職場に電話をした。祖母の忌引きを快く取らせてくれた上司は、昨晩兄が死んだのだということを伝えると電話口でしばらく絶句していた。そうだろうなあ、と私はどうしようもなく上司の言葉の続きを待った。
 どう言ったらいいかわからないけど……と上司は前置きした。

「忌引きの申請はこっちでしておくから、色々済ませて戻っておいで。有休も残ってるんだから、しばらく実家でゆっくりしていてもいいし」
「はい、すみません、ありがとうございます」

 私は溜息をつき、通話の途切れたスマホを埃の積もった勉強机に投げ出す。透明カバーに昔好きだったアイドルの色褪せた雑誌の切り抜きが挟まっていた。それを抜き出し、丸めてごみ箱に捨てる。
 母は朝からダイニングテーブルで項垂れ、父はむっすりとテレビに向かっていた。この後、二人は警察で兄の死因について話を聞きに行くらしい。母が時折鼻を啜るのを見て、私はああいう兄でも死んだら悲しいのかと思った。母は顔をちょっと上げ「朝食は」と力なく聞いてくる。私はそれを断る。連日の仕出しで胃の調子がよくなかったし、兄の姿を思い出すと食欲は失せた。遺体よりも、散らかるだけ散らかった部屋とそのにおいの記憶が私の食欲を奪っていった。
 私は両親が出かけると、すぐにふらふらと家を出た。祖母が使っていた古い自転車の砂埃を払い、近所の公園や母校を巡ることにした。家でやることはなかったし、前日までの参列客の気配が家中に染みついている気がした。階上で兄が死んだまま生々しく保存された部屋が残っていることにもうんざりした。
 古い自転車には変速機などと気の利いたものはついていない。漕ぐたびにからら、からら、と足元から妙な音がする。田園地帯を自転車で突っ切る。頬を撫でる風は塞いでいた私の気分をいくらか明るくした。幼い頃よく遊んでいた公園は遊具が撤去され、錆びた鉄棒と砂場の枠だけが残っていた。小学校はすでに統合合併され、残った校舎はイベントスペースとして改装されていたがそれも死に体である。私は走りながらばらばらになりそうな自転車を止めた。木製の古びた鳥居を見かけたからだ。
 雀神社、と私たちは呼んでいた。それが正式な名前であるのかを調べようと思ったことはない。鬱蒼と茂る林の中にぽつりと建った神社で、地域の信仰を集めているというのでもなかった。真剣に参拝をしている者は集落の老人にもいないのではないか。広く何もない境内は子供の遊び場になっていて、夏は何を祭っているのかも分からない出店があるだけの夏祭りが行われた。
 私はなんとなく懐かしくなって鳥居の下に自転車を置く。鍵など必要なかった。このあたりで自転車泥棒など聞いたことがない。ずっと続く石段を、私は一歩ずつ下りていく。山中の窪地のような場所に作られた神社は昼間でも薄暗く、だが涼しく心地よくもあった。参道とも呼び難い通路の両脇に、ころんとして不格好な石像がいくつもたてられている。地蔵のようだが地蔵ではない。風雨のせいか体のどこかが欠けていたり、顔が妙にのっぺりしていたりする。集落の子供たちの間でこの石像の特に特徴的な数体に名前を付けていた。もういくつも思い出せない。一つ目のキタロウと、丸々としたデブと、背中が丸まったヨシウチはいたはずだ。ヨシウチ、というのは小学校の用務員で、ひどい猫背の男だった。
 私は記憶よりも狭く感じる境内を真っ直ぐに通り過ぎ、白っぽくささくれ立った賽銭箱の前で財布を開けた。小銭を数枚賽銭箱に投げ入れ、柏手を打って礼をする。昔は本坪鈴があり子供の格好のおもちゃになっていた記憶があるが、いつの間にか撤去されたようだった。
 帰ろうとした私は小さな本殿の背後から若い男が現れたのを見て、少し驚いた。Tシャツにデニムパンツ姿の男で、手には竹ぼうきを持っていた。男はこちらに気が付くなり「あ、」と声を上げる。
 男はにこやかに笑うと口を「ひさしぶり」の「ひ」の形にしたが、はっとしたように口を閉ざした。それから沈痛な顔になり「このたびは……」と紋切り型のお悔やみの文句を口にする。私はそれに曖昧に応えながら、必死にその男の記憶を探していた。そんな私の様子を見て、男は苦笑する。

「おれだよ、サクラバ。神社の息子の」

 言われたが、私は怪訝な顔で内心首を傾げた。サクラバのことは覚えていた。市職員と兼業の宮司の息子で、中学の頃同じクラスだったこともある。だが私の記憶の中のサクラバは、中肉中背で豆腐に目鼻を付けたような垢ぬけない少年だ。目の前のすらりと背が高く、目鼻立ちの整った男とは似ても似つかない。

「え、うそ……、びっくり、だってすごく……格好良くなってて」

 私はそう言ってから「整形したのかという嫌味に取られはしないか」と一瞬不安に駆られた。そんなつもりはなかった。サクラバの顔は整形手術をしたようには見えず、ただ己の記憶の中のサクラバと違うだけだ。サクラバははにかみ「東京行った子に言われると照れるな。ちょっと痩せただけだよ」と答えた。私はサクラバの顔を盗み見る。痩せただけ、と口内で反芻した。

「おばあさんのことも、お兄さんのことも、大変だったね。大丈夫?」

 サクラバは気遣わし気にそう言う。私が「大丈夫とは言えないけど……」と口ごもると、サクラバは「そうだよね」と沈痛そうに眉をひそめた。

「妹さんは……」

 おずおずと尋ねられ、私は首を横に振る。三歳年下の末の妹は、田舎にも兄にも兄にばかりかまける両親にも見切りをつけ、もう長いこと音信不通になっている。実のところ、私だけは妹とSNSでやりとりを続けていた。何度か顔も合わせた。妹は今、近畿地方のある都市で結婚し幸せに暮らしている。一応今回のことも伝えたが、参列する気はないらしかった。妊娠中であるから遠出は出来ないのだろうし、そもそも実家には寄り付く気がもうないのかもしれない。
 サクラバは「そうか、残念だよ。久しぶりに会えるかと思った」と肩をすくめる。

「悪いことって続くね」

 私が言うと、サクラバは何とも言えない気まずげな表情を浮かべた。私はそれを見て「ごめん」と項垂れた。

「何かあったら相談してくれな。同級生の誼だし、お祓いも受け付けてるから」

 サクラバは冗談めかしてそう言った。不謹慎すれすれの軽口が今の私には心地よかった。私は笑ってそれに応える。百年ぶりに笑ったような気がした。サクラバとSNSのIDを交換し合い、その場を後にする。帰り際、私はサクラバに尋ねる。

「神社の息子なら、霊感とかないの?」

 私は続く悪夢と不幸のことを思っていた。サクラバは、まるで何度も聞かれたことがあるかのように慣れた調子で「ないよ」と言った。



 家に帰るも、両親はまだ帰っていなかった。葬儀に出席するために泊まっていた近しい親族だけが居心地悪そうにしていた。私は一つ二つ言い訳をして、客人のもてなしもせずに自室に引きこもる。警察官が何人か出入りした兄の部屋はドアが開け放たれたままだった。私はそっちを見ないようにしながら自室に逃げ込んだ。兄はいつ死んでいたのだろう。夕食が手つかずであったということは、夕食時より前であろうか。もっとも昼夜逆転した兄の夕食が何時かは分からない。通夜振る舞いを早々に抜け出し自室で兄の部屋に耳を澄ませたとき、兄はもう死んでいただろうか。それとも眠っていただろうか。
 私は枕に顔を押し付ける。そのまま、昼過ぎに両親が帰ってくるまで少しの間微睡む。私はサクラバの夢を見ていた。夢の中のサクラバは端正な好青年ではなく、私の記憶の少年がそのまま成長したような朴訥とした青年だった。サクラバは温厚そうな四角い顔でにこにこと笑った。
 なてゆにゅふ なぇしゅ いー と らー
 サクラバは囁きながら身を捩じらせる。全身の骨が砕けたようにくねくねと身悶えした。私はそれをぼんやりと眺めながら「やっぱりあいつが成長したらこういうふうになるはずだよなあ」と思った。