愚かさ



 ルキノ教授は人間って猿から変化したものだと信じている、まったく笑えるよ。

 兄の死因は吐いたものを喉に詰まらせた窒息死だった。分かったのはそれだけで、どうして吐いたのかはよく分からないままだった。兄は酩酊するまで酒を飲んでいたわけでも、飲み込む力が弱くなっていたわけでもない。若い男が何もないのに嘔吐し、それを喉に詰まらせたのは少し不自然だ。だが自然死であることは確かで、両親にはそれ以上監察医の診断を追及する気力はないようだった。
 私は絹布団に寝かされた兄を見下ろす。長年の運動不足と不摂生でだぶだぶと緩んではいたが、夢で見たほど異常に肥満してはいない。もちろん、腕も一対しかなかった。顔は白布で覆われ、葬儀屋は「外さないように」と厳命した。その言葉のとおり、白布は風か何かで吹き飛ばないように白いゴム紐で兄の顔に固定されている。
 私は兄の死に顔を思い出していた。恐怖に引き攣り叫ぶように口を開けた顔。きっとあれが直せなかったのだろう。
 兄の生前の状況も、死の状況もあり、葬儀は身内だけで行われることになった。通夜は明日、葬儀は明後日と言われ、私は手首の虫刺されを指先でいじりながら返事をする。どこで刺されてしまっただろう。大きく腫れわずかに熱を持ったそれは、不思議と痒くはなかった。
 私は昨日会ったサクラバのことを思い出していた。通夜まで暇を持て余していたので、自室で中学の卒業アルバムを探した。青い布張りの重い冊子を引っ張り出す。クラスごとの生徒の顔写真が規則正しく並んだページを順に見ていく。もう自分が中学三年生の時のクラスの番号も覚えていなかった。
 懐かしい顔を眺め続け、幼く垢ぬけない己の顔写真を見つける。そういえばこの頃はこういう前髪が流行っていたな、と思いながらそのページを詳しく見ていく。サクラバの名前を見つけ、顔写真を確認した。やはり記憶通りの朴訥とした少年が緊張した面持ちで写っている。私は昨日の記憶と目の前の写真を比べる。私には別人にしか見えなかった。
 階下でチャイムが鳴った。兄のことを知らないまま祖母に線香を上げに来た人かもしれない。私は母が応対する物音を聞いていた。階下から名前を呼ばれ、私は階段を下りて行った。開け放たれた玄関先に、サクラバが立っている。私は眉を上げた。

「ちょっと気分転換に連れ出しに来た、どう?」

 サクラバはそう言って控えめに笑った。断る理由もない私はのこのことついていくことにする。見送る母のもの言いたげな、期待に満ちたねばっこい視線を背中に受ける。母の考えていることなど手に取るように分かった。兄亡き今、私が地元に戻らないかと夢想している。婿を取れとまではいわないから、近所の神社の兼業宮司の嫁にでも収まってくれれば願ったり叶ったりだ。私はそれを鼻で笑う。そんなことがありえないということは、母もよく分かっているだろうに。
 私は背の高いサクラバの横を歩く。二人で他愛ない話をした。だいたいは昔話で、それか同窓の近況の話をする。覚えているクラスメイトの数だけ話題があるからお手軽だ。私はふとナオのことを思い出した。

「サクラバくん、ナオのこと覚てる?」

 尋ねると、サクラバは間髪入れずに「あれだろ、占い好きの」と答えた。宮司の息子にまでそう言われるのだから面白い。私はちょっと笑いながら「そう」と言った。

「最近会った?」
「いや、会ってないけど。いい噂聞かないよ。マルチみたいなのにハマってるらしい」
「ああ……そんな感じする」

 私はナオのSNSの内容を思い出す。それから奇妙なメッセージを、悪夢の中のナオのひしゃげた姿を、ドアに肉のぶつかる音を。

「元気にしてる?」
「さあ、どうだろ。誰かに聞いてみる?」
「いや、なんにもないならいいよ」

 歯にものの挟まったような口振りになる私を、サクラバは怪訝そうな目で見た。私はその話題を早々に切り上げる。気が付くと足は雀神社に向かっていた。コンビニも気軽に入れる喫茶店もない田舎で行く場所などそうはなかった。

「サクラバくんは神社を継いだの?」
「まあ、継いだというか、本業しながらたまに掃除するくらいかな」
「本業?」
「市役所」
「お父さんと一緒だ」

 私が笑うとサクラバはきまり悪げに頬を掻く。白茶けた木製の鳥居を二人で潜る。暗く湿った谷間に続く石段を下りていく。

「ここ、どんな神様が祀られてるか知ってる?」

 サクラバは階段を見下ろしながらそう言う。私は首を横に振る。

「知らない。でも、子宝とか安産の神様がいるんでしょ?」

 そう母が言っていた。だから私は十六の頃から何度もこの神社にお参りをさせられた。週一の診察の後、母とこの神社を参拝する。思春期の私には地獄のような時間だった。
 サクラバは血色のいい唇の端を上げた。

「それ信じてる?」

 私は眉をひそめる。

「神社の御利益なんて信じるとか信じないとかいう話じゃないから」

 サクラバは眉尻を下げて笑った。私をちょいちょいと手招きし、いつも閉ざされている小さな本殿の木戸に手をかける。軋みそうに見える木戸はなめらかに開いた。

「一応、祭神は豊玉比売ってことになってる。安産とか、海上安全とか、あと農業の女神らしい」
「海上安全? こんな山の中で?」

 私は笑うのだが、サクラバは黙ってにこにこしながら暗い本堂の中、何かをごそりと棚から下ろした。私はそれを明るい外から眺める。背後で茂みがざわざわと鳴る。私は手首の虫刺されを掻く。痒くはなかったが、視界に入って気になった。
 サクラバは本堂の木の床に古びた紙を広げる。私は建物の中に入っていいのか迷い、入るのはやめる。特に信心深いわけではないが、やはりなんとなくバチが当たりそうだと思ったからだ。開け放たれた戸から降り注ぐ陽光で戸口付近の床は明るく照らされ、うすぼんやりと内容が見て取れた。のたうつような墨の文字と、つたない絵が書かれている。紙の中心には女の姿が描かれている。ただの女ではない。なめらかな腹から下が、蛇のような長虫の姿に変じていく。おぼつかない線ながらも丁寧に鱗の一枚一枚が描きこまれていた。女は口元に笑みを浮かべ、両腕を広げている。その周囲を腕や足の欠けた、或いは多い人間たちが取り囲み、崇拝するように頭を垂れている。女の描きこまれ方に比べると、そっちはまるで走り書きのようなあっさりとした絵だった。

「ここにお祀りされているのは、もっと別のものだよ。もっと古く、強く、美しく、恐ろしいものだ。病んだ衆生に救いを与える。ほら、ここにいる人たちはみんな、どこか怪我をしたり、病気をしたりしているだろ。それを、救うんだ」

 サクラバはうっとりとした口調で言う。私は少し不気味に思った。サクラバも、絵も。サクラバもおかしな宗教にでもハマってしまったのだろうか。もしくは親の跡を継ぐことになってはっちゃけてしまったのかもしれない。
 私はほとんど読めない文字を何度もなぞるように見ていた。それ以外やることがなかったからだ。私はそのうち、頻繁に出てくる文字の並びに気が付く。戸口の前で屈み内容をよく確認しようとする。

「ねえ、これどういう意味?」

 何度も出てくる「コ海」という文字列を見つめる。とくかい。とっかいさま。私は祖母のことを思い出す。

「どれのこと?」

 サクラバは暗がりで私のことを見た。鼻筋の通った、柔和だが精悍な顔立ち。私はその文字列を指でなぞりかけ、はっとして手を引っ込める。古い紙だ。部外者が素手で触っていいものではないだろう。だがサクラバは私の手を掴むと、コ海の文字の上に触れさせる。正確には、その前後の文字も含めて。伊コ海拉、の字を確認する前に、私は慌てて彼の手を振りほどいた。サクラバはそれに気を悪くした様子もない。ただ微笑み、私を見つめてくる。ごめん、と言い訳をしかけた私を、サクラバは遮る。

「いどうら」
「なに、」
「そう読む」

 そう、と私は気もそぞろに返事をした。一刻も早くこの場を立ち去りたいと思った。なんでもない好青年であったサクラバが、どうしてかひどく気味が悪い。

「へ、へえ……そうなの……」
「古く、強く、美しく、恐ろしい」
「そうなんだ……」
「ふるく、つよく、うつくしく、おそろしい」
「サクラバくん、」
「ふ、ふふふふふる、ふる、くつつつつつつよつつつつく、ううううううう、つく、しししししししし――――――」

 先ほどまでの淀みなく明るい口調が一転し、壊れた音楽プレーヤーのように不明瞭な音を繰り返す。私は逃げ出すことも出来ず、蹲ったまま紙だけを見下ろし続ける。紙に置かれたサクラバの手が、指が折れそうなほどの痙攣と死んだような弛緩を繰り返している。

「おおおおお、お、おそ、おそそそそそそ、ろろ、ろろ」

 本殿の中の光の届かぬ暗がりで、何かが蠢く気配がした。ひんやりとした空気が蠢く。ずずず、ずず、とそれが這いずる気配がする。ふう、ぅ、とかそけき吐息が耳元にかかった。サクラバの手ががりがりと床を掻く。折れた爪が飛んできて、私の頬に当たってどこかに飛んでいく。
 私は何もできず、その場で凍り付く。目を閉じなければと思った。これは夢だった。あの姿を見てはならない。意思と裏腹に瞼は縫い付けられたように開いたままだ。額を流れる冷や汗が、右目に入ってしみる。

「おそろしい」

 サクラバがそう囁いた瞬間、どこかから鋭い鳥の鳴き声が聞こえた、私は弾かれたように立ち上がり、声も出せずにその場から走って逃げた。踵を返す一瞬、私はサクラバの顔を見た。赤く爛れ腫れ上がり、肉の泡のようだった。それがぶるぶる震えながら「おそろしい」「おそろしい」と繰り返していた。
 私はそれを見て「ああ彼はもう用済みになったのだ」と思った。