家族



 ダレン、彼が何をしたとしても連れて帰って来て。

 手首の腫れはひかない。今も食べごろの木の実のように真っ赤に腫れ上がり熱を持っている。私はそれに皮膚科から処方された軟膏を塗った。あの後、私は家族の反対を振り切って一人暮らしの自宅に逃げ帰った。父は「俺は不機嫌だぞ」と言わんばかりにむくれ、母は泣き喚いた。だが私にはあの土地に残り続ける勇気も、仔細を両親に説明する気力もなかった。二人の妹の参列のない兄の葬儀はささやかに、だが好奇と憐れみと少しの嘲笑とを以てつつがなく執り行われたらしかった。
 私は上司に紹介され、近しい親族を亡くした遺族の互助会に入った。上司は「無理に行かなくてもいいけど」と何度も言ってくれた。そうまで言われると逆に申し訳なくなってその会合に顔を出した。妻を亡くした夫、子を亡くした親、様々なバックグラウンドを持つ人間が集い、心の内を曝け出しあう。それが己の心にどういう作用を与えているかはよく分からなかったが、奇妙な悪夢を見る頻度は減った。会合を取りまとめる精神科医も感じが良いので、とりあえず飽きるまでは通ってみようと思った。
 私は腫れた手首に触れる。見た目は痛々しいが痛くも痒くもない。皮膚科医も首を捻り「たちの悪い虫にでも刺されたかなあ」と化膿止めと消炎剤を処方した。私はそれを指示通りに使用し続けているが、効果はなさそうだった。普段は腫れを大判の絆創膏で隠していた。
 化膿止めを塗り終え、消炎剤のチューブに手を伸ばす。もうずっと変化のなかった虫刺されに違和感を覚え、手を止めた。赤い腫れの中心に白っぽいものが見える。膿だろうか。私は強めに押してみる。痛みはなかったが、押した指先にころりと硬い気配がある。痛みがないことを確認しながら、私はそれをおそるおそるさらに強く押してみる。ぶつり、と面皰の潰れるような感触があった。少量の血とともに白いものがテーブルに落ちる。小さな白い石のようなそれは、拾い上げずとも分かる、犬歯であった。おそらくは、人間の。

 私は悲鳴をあげ跳ね起きた。オフィス内の人間が、さっと私から目を逸らす。職場でうたた寝する私を、誰も注意せずに遠巻きにしていたらしい。私は恥ずかしさと情けなさで顔が熱くなった。
 上司が背後から気遣わし気に声をかけてくる。

「大丈夫? 今日はもう帰って休んだほうがいいよ」
「……いえ、すみません、大丈夫なので」
「急ぎの仕事もないんだろ? 家で休みなさい」

 優しいが有無を言わさぬ口調だった。私は俯き、小さな声で「はい」と答えるしかなかった。
 荷物をまとめ上司に頭を下げて部屋を出た私を、イノウエが呼び止めた。私はもう誰にも会わずに帰りたかった。はいなんでしょう、と応える声音にどうしても不承不承さが滲んでしまう。イノウエは年上の女性職員だった。あまり話したことはない。執務室は同じだが部署が違った。
 イノウエはちょっと、と言いながら私を給湯室に引き込む。

「あのね、あなた、とりつかれているわよ」

 イノウエは藪から棒にそう言った。私は「いったいこの人は何を言っているんだ」とも思ったし「ああ、そうなんだろうな」とも思う。手首の絆創膏を指先でいじると、イノウエは足のたくさん生えた虫を見るような目で私の手首を見た。

「私……そういうの、少し詳しくて」

 私はぱっと顔を上げる。イノウエはじりと一歩後ずさった。

「イノウエさん、お祓いとか出来るんですか?」
「それは無理だけど、出来そうな人を紹介は出来る」

 そう言うとイノウエはアルファベットの羅列された付箋を私に差し出した。これは、と呟くと、イノウエは「ツイッターアカウント」と答える。私は「霊能力者もツイッターをするんだ」と思った。少し胡散臭いとも思った。
 私は付箋を受け取り、可愛らしい文字を見つめる。私の躊躇を感じ取ったのか、イノウエはきゅっと眉をひそめた。

「無理にとは言わないけど、でもその人は本物よ」

 そうですか、と私はそれを手帳の十月のページに貼り付け、落ちないようにぴったりと手帳を閉じる。

「ありがとうございます、心配してくださって」
「だって……あなた……あんな……」

 イノウエは顔色の優れない顔を逸らした。

「分かればでいいんですけど、私には何がとりついているんですか」

 私はイノウエに問う。青ざめた丸い頬に毛の束が一筋落ちているのを見つめる。イノウエのこめかみのあたりがひくつく。蛇口から小さなシンクにぽつりと水滴が落ちた。

「わからない。見たくない」

 イノウエはそれだけ言って逃げるように部屋に戻っていった。私はそれを見送り、しばらくぼーっとしたあと、重い体を引きずってのろのろと帰宅した。



 帰宅してからしばらく眠り、目が覚めると夕方になっていた。私は投げ出されていた通勤鞄から手帳を取り出し、付箋のIDを確認する。SNSでそのIDを確認すると、確かにアカウントが存在した。投稿の内容を確認するが特にオカルトめいたことには触れらえていない。家庭菜園で採れた野菜のことや、頂き物の美味しいお菓子の話題ばかりが並ぶ。
 渡すIDを間違えたのだろうか、と私は投稿をどんどん遡っていく。どれだけ遡ってもそれらしい内容はない。SNSの画面に、ぱっとバッジ表示が現れる。誰か友達からメッセージが来たのだろうか、とメッセージ画面に移ると、ちょうど今見ていたアカウントからのメッセージだった。

【はじめまして、もし私がお力になれたらとても嬉しいです 17:11】

 私は心臓が静かにばくばくと鳴り始めるのを感じていた。意味もなく息をひそめ音がしないようにそっとスマホをテーブルに置く。きっとイノウエさんがどこかで知った私のアカウントをあらかじめこの人に教えていたのだ。
 私は静かなままのスマホを見つめ、深く長く息を吐く。いくら自分に言い訳しても、私は心のどこかで「きっとこの人は本物なのだろう」と思った。返信しようとスマホを取り上げ、何かを打ち込もうとし、迷ってスマホを置くことを何度か繰り返す。どういう説明をしたらいいか分からなかった。だが意を決し、短くメッセージを送る。

【はじめまして。困っています、助けてください、お願いします 17:52】