虎杖悠仁に声をかけてきたのは虎杖より少し年上の青年であった。シンプルなシャツにパンツ、使い込んだ様子のボディバッグを肩にかけたまま椅子に座っていた。学生風の佇まいをしている。
 立川駅南口のハンバーガーショップで遅めの昼食をとることにした虎杖は明るい窓際の席に陣取った。店内に客はまばらで、二人掛けの小さな席を二つ空けた隣に座っていたのがその青年だ。

「こんにちは」

 青年はそう言って微笑む。窓の外を眺めながら期間限定のハンバーガーを頬張っていた虎杖はそれが己に向けられたものとは思わず路上を小走りに行き来する鳩の群れを見ていた。忙しなく動き回る鳩の中に一羽、よたよたとした千鳥足であたりを徘徊している鳩がいる。覚束ない足取りに怪我でもしているのかと虎杖はその鳩に気を取られていた。

「こんにちは、君呪術師だよね」

 青年はもう一度そう言う。ファストフード店のざわついた店内で虎杖は首をそちらに巡らせる。青年の顔に見覚えはない。

「……こんにちは?」

 青年が笑みを深くし、何か言いかけたところで虎杖の隣席に子連れの女が座る。女の大きな荷物で青年の姿が見えなくなった。

「気が付いてくれてよかった。声が小さくてごめんね」

 虎杖の向かいの席にトレーを持った青年が移ってくる。首にかけているブルーのイヤホンが胸元でゆらゆらと揺れた。青年はチキンナゲットの紙箱を取り上げると虎杖のトレーに置く。

「よければどうぞ。まだ開けてないから」
「はあ……ども……」

 虎杖は差し出された紙箱に手を置く。湿度を帯びた紙箱はまだ温かい。ということは、青年は別に虎杖が現れるのを待ってこの店のあの席でずっと張っていたわけではないのだろう。虎杖は青年が己の前で注文をしていたことを思い出す。そのとき確かに、チキンナゲットを頼んでいた。

「いいの?」
「いいよ、どうせなら君に美味しく食べてほしい」
「腹いっぱいになったのか?」

 虎杖は青年のトレーの上の丸められたハンバーガーの包み紙に視線をやる。青年は少し首を傾げて苦笑した。

「うん」
「じゃあ遠慮なくいただきます」

 紙箱を開け中身に手を伸ばしかけ、虎杖はふと手を止める。

「というか、お兄さん誰。俺に用?」

 虎杖の当然の問いに、青年はテーブルの上で指を組んだ。

「名前は竹汀、君は?」
「虎杖悠仁」
「そっか、いい名前だね」

 名前を褒められ、虎杖は頬を掻いた。

「あんたも呪術師なの?」
「そんなようなものだよ」
「なんで俺が呪術師だって知ってるんだ?」
「見ればわかる」
「そういうもん?」
「そういうもの」

 よく分からないままなし崩しに呪術界隈に足を踏み入れてしまった虎杖は、自身の手のひらを見下ろし目を細める。特段以前と何かが変わったようには見えない。
 竹汀はすいとテーブルに身を乗り出す。

「質問があるんだけどいい?」
「え、まだ名前しか聞いてねえのに?」
「魂替えの呪術師を探してるんだ。知り合いにいる?」
「全然人の話聞かねえじゃん!」

 虎杖は思わず大きな声を上げる。隣席の母親と小さな子供が二人、一斉に虎杖のほうを見る。虎杖は肩をすくめ隣席の家族連れに「すんません」と会釈して竹汀と名乗る青年の方に向き直った。

「たまがえ? 何それ、知らねえけど」

 耳慣れぬ単語である。たどたどしくそれを舌に乗せる虎杖に竹汀は目を丸くした。

「え、知らないの?」
「知らねえって」
「本当に? いじわるでなし?」
「いじわるってなんだよ。つーかマジで竹汀誰、なに」
「参ったなあ……詰んだ」

 竹汀は額に手を当て項垂れると、深い溜息をつく。トレーの上の丸めた包み紙が吐息でかさかさと揺れた。竹汀は顔を上げ、どこか眠たげな眼差しを虎杖に向ける。

「……え、誰?」

 起き抜けのような掠れた声で青年が呻く。虎杖は眉尻を下げた。

「俺の台詞なんだけど」
「なんなんだよ……相席? なんで……?」

 様子のおかしい青年に虎杖はかける言葉が見つからない。やっとのことで「酔ってる?」と聞くと青年は「いやそんなわけ……レポート続きで寝不足だったから……でもそんな……あ、勝手に相席してすみません」とぶつぶつ言いながら席を立った。覚束ない足取りで店内を横切り外に出ていく。虎杖はその後姿を見送り、トレーの上で冷めていくチキンナゲットを見下ろす。食べずに捨ててしまおうかと席を立ちかけ、中腰でしばらくの間逡巡し椅子に座り直した。やはり食べ物を無駄にするのは気が引ける。
 虎杖はチキンナゲットを矯めつ眇めつし、においを嗅ぎ、舌の先でちょっと舐める。特におかしなところはなかったのでそのまま美味しく腹に納めた。


******


 魂替えとは広義の憑依呪術である。術者の魂を、或いはその一部を飛ばし他者に憑依させる。それほど希少性の高い術式ではない。例を挙げるならば、人並外れて他者の心に聡い者、人心を操ることに長けた者、千里眼の如き知るはずのない事象を知り得る者、他者に死霊をおろすという触れ込みの霊媒師――これらは無自覚な魂替え術式の持ち主であることが多い。ところが魂替えの呪術師となると探すのは難しい。一定以上の呪力を持った呪術師や呪霊には憑依が難しく、さらにそれを自在に操るとなれば至難の業だからだ。要するに、素人の目くらましは出来ても玄人には通用しない術式であった。

 寮の自室にバッグを投げ込んだ虎杖はそのまま隣室の伏黒恵に「たまがえって何」と聞いた。机に向かって課題をこなしていた伏黒は一瞬うるさそうな顔はしたが、邪険にせずに魂替えとその術式について説いた。ふうん、と間延びした相槌を打つ虎杖に伏黒は怪訝そうな顔をする。

「どうしてそんなことを聞くんだ」
「実は、今日飯食ってたら急に知らない人に話しかけられてさ――」

 事の次第を面白おかしく話せば、伏黒は常もそれほど愉快そうでない顔を一層険しくする。何かまずいことを言っただろうか、スベッただろうか、と虎杖は必要以上に饒舌になった。

「――で、その男の人が急に別人みたいになっちゃって、」

 虎杖が言うと、黙って聞いていた伏黒が口を挟む。

「それが魂替えだ」

 虎杖は男の奇妙な態度を思い出し「あ」と声を漏らす。それから眉をひそめる。

「じゃあアイツは自分のことを探してたってことか?」
「さあ、仲間を探していたんじゃないのか。もしくは自分の体を見失った間抜けな術師か」
「そんなことあんの?」
「あるわけないだろ、冗談だよ」

 伏黒は薄く笑って唇の端を上げる。からかわれた虎杖は唇を尖らせ伏黒を睨んだ。


******


 翌日、虎杖は放課後に渋谷の百貨店まで足を伸ばしていた。昼間に釘崎野薔薇のコスメポーチを不注意から床に落とし、買ったばかりのアイシャドウパレットを割ってしまったからだ。釘崎の怒りぶりときたら凄まじく、今すぐ買って返せと凄まれたので渋谷の限定店舗に品物を探しに行かざるを得なかった。
 通勤通学時間から少しずれた電車内にはいくつかの空席と幾人かの立ったままの乗客が入り混じっている。虎杖は乗客が降り一人分だけ空いた座席に体を滑り込ませた。隣に座るスーツの女が座席に座り直し、少しだけ虎杖にスペースを空ける。
 会釈する虎杖の目を、女はじっと見つめた。

「こんばんは」
「へ、……こ、こんばんは」
「昨日ぶりだよ、悠仁」

 線路の上を車体が滑る雑音に紛れていても、己の名を呼ぶ声は不思議と耳朶を打つ。虎杖はぎょっとして座席に沈みかけた体を跳ね起こした。あ、と声を上げると女は見覚えのある苦笑を浮かべる。

「竹汀。覚えてた?」
「今思い出した」

 昨日の学生風の青年とは明らかに別人であった。これが魂替え、と虎杖は心中でひとりごちる。

「中身は昨日会った人なんだな? なんか変な感じ」

 そう言いながら虎杖は竹汀の顔の前で広げた手を振った。竹汀は眉尻を下げる。

「そうだよ。悠仁が昨日食べていたもの当てようか?」

 冗談っぽく竹汀は言う。虎杖は首を横に振った。電車がひときわ揺れ、目の前に立っていた若い女の持つ紙袋が膝に触れる。

「昨日はごめん」

 竹汀は目を細めて昨日急にいなくなったことを詫びた。虎杖は半信半疑のまま曖昧に頷く。

「最初に言っておくと、自分は怪しいものなんだけれど」
「……自分で言うか、そういうこと」
「嘘をつくよりはいいかと思って」

 駅への到着アナウンスが鳴ると、ふと女の顔つきが変わる。女は虎杖から視線を外すと座席から立ち上がり、停車駅で降りていく。虎杖は半ば呆然としてその背中を見送った。空いた座席に紙袋を持った若い女が座る。ふ、と甘い香りがする。

「続けるね」
「うわ、びっくりした」

 ゆるやかにウェーブさせた前髪の向こうで竹汀が当たり前のように先を続けるので虎杖はのけぞる。

「もっとこう……ワンクッション置けねえの!?」
「替わりました」
「……おっけ、続けて」

 納得がいくようないかないような妙な気分のまま虎杖は先を促す。

「何から話したらいいのか難しいのだけれど、自分には記憶がない」
「は? 何の?」
「自分の」
「え、自分のこと覚えてねえの」
「覚えているのは、名前が竹汀であること、呪術師であること、魂替えの術式を持っていることだけ」

 虎杖は昨日の伏黒の「自分の体を見失った間抜けな呪術師」という言葉をぼんやりと思い出していた。車内のアナウンスが渋谷駅に間もなく停車することを告げる。虎杖は慌てて立ち上がった。

「俺、次で降りるけど――」
「気にしないで、ついていくから」

 駅で開くドアの前で待機していた中年の男が振り向き、虎杖に向かって言う。言葉に詰まる虎杖をよそにドアが音を立てて開き、どっと人混みがドアに移動していく。

「何も覚えていないんだけど」

 初老の男が虎杖を追い越しざまに呟く。虎杖は人に揉まれながらホームに降りる。

「目覚めたときに虎杖悠仁を探せと書いたメモ書きだけがあった」

 ホームで乗車を待つ列の先頭に立つ女が言う。虎杖は人の波にホームの中ほどまで押し出される。

「だから君なら何か知っているかと思った」

 自動販売機でジュースを買う男が取り出し口から缶を取り上げながら虎杖に言う。虎杖は勢いよく男の手を掴んだ。

「竹汀!」
「なに」
「それやめてくれ! こんがらがるし気持ち悪い! 世にも奇妙な物語か!?」

 虎杖が言うと、竹汀は今買ったばかりの缶ジュースを虎杖の手に握らせた。男は踵を返すとどこかに消えていく。缶を片手に呆然と立ち尽くす虎杖の肩を背後から背の高い男が叩いた。金髪を刈りあげたキャッチ風の男だ。因縁をつけられるのかと身を硬くする虎杖に、男は強面に似つかわしくない微笑を浮かべる。

「暇そうな体借りてきた」
「ええ……こんなイカツイにーちゃんといっしょに歩きたくないんだけど……」
「ごめん、これしかなかった」

 竹汀は広い肩をすくめた。

「で、なんで俺の名前のメモがあったの?」
「それは分からない。だから、君をずっと探してた」

 竹汀は虎杖の胸を指さす。

「魂替えの呪術師を知らないか、今の話を聞いても、本当に」

 竹汀の低い声音は切実さを帯びている。虎杖は見知らぬ男の強面を見上げる。

「……ごめん」

 竹汀の顔が途方に暮れたように曇る。虎杖はバッグからスマホを取り出した。

「俺も周りの人に聞いてみるよ。何かあったら連絡するから、連絡先教えて」

 虎杖が言うと、竹汀はぎょっとしたように一歩後ずさる。え、と短い戸惑いの声が上がる。

「どうして」

 どうして、と問われ虎杖は首を傾げる。

「どうしてって……困ってんだろ?」

 竹汀は口をへの字に歪め天井を仰ぐ。それから眉根を寄せて虎杖を見た。

「困ってる」
「じゃあ助けるよ」

 事も無げに言う虎杖に竹汀は口元を手で覆う。目には困惑気な色が滲んでいる。

「悠仁、君ほんとに呪術師?」
「どういう意味だよ」

 侮られたのかと眉根を寄せる虎杖に、竹汀は苦笑する。

「呪術師にしてはいい奴すぎる。呪術師なんか大抵四癖も五癖もあるものだよ」
「なってから日が浅いの! 放っとけ!」

 ありがとう、と竹汀が囁く。虎杖は「おう」と軽くそれに応じた。

「悠仁、自分はスマホ持ってない」
「え、ないの?」
「ない。あったらそこから契約者名を確認してる」
「それもそうか」

 虎杖は頭を掻く。

「土曜日の十時にハチ公前集合でどうだ?」

 スマホなしの待ち合わせなど小学生の時分以来だ。ハチ公前で集合という語感にも心が躍る。虎杖の提案に竹汀は浅く頷いた。

「俺赤いパーカー着ていくわ!」
「こっちは……手近にいた誰かの体を借りていく」
「あ、そうなるのか。竹汀見つけられねえじゃん」
「見つけるよ。君は分かりやすいから」
「おう、よろしく」

 じゃあ俺用事あるから、と百貨店の方に歩き出す。虎杖は先ほどの竹汀の「君は分かりやすい」という言葉の意味を推し量りあぐね、振り向く。竹汀、と名前を呼びかけたがそこにはぼんやりとした視線を宙に向ける金髪の男がいるだけだった。