終
何かの夢を見ていた気がする。
虎杖は夜中にふと目を覚ました。壁に掛けられたデジタル時計は深夜を少し回った時間を淡い光で示している。虎杖は寝直そうとベッドの端で丸まったタオルケットを引っ張りながら寝返りを打つ。ベッドの縁に何かがいた。バレーボールほどの大きさの、毛の生えた何かだ。暗闇に目を凝らし、それがベッドの縁に顎を乗せた竹汀の顔であることに気が付き虎杖は声を上げベッドから跳ね起きた。虎杖は両手で口を押さえ、悲鳴を飲み込む。心臓がばくばくいっている。
「竹汀!?」
「しかえし」
目を細めて笑う竹汀の言葉が昼間窓を壊して驚かせてしまったことに対するものだと気が付き、虎杖は体中から力が抜けた。
「なんだよぉ……ごめんって……待って、ここ俺の部屋! 男子寮!」
ただでさえ最近は釘崎にデートの写真を持ってこいと言われたり、先輩に不純異性交遊だとからかわれたりと肩身が狭い。夜中に竹汀が男子寮にいたなどと知られたら何を言われるか分かった物ではない。学長から厳しい指導を受ける可能性もある。
慌てふためく虎杖に竹汀は不思議そうな顔をした。
「女子じゃない」
竹汀は床に座り、虎杖のベッドに寄りかかったまま自身の胸を指先で示す。あまりに当然のように言われて虎杖は「それもそうか」と思いかけたが、やはりそういうわけにもいかない。
「男子でもねえだろ」
「それを言われちゃうとな」
竹汀は肩を竦める。
虎杖はずるずるとベッドの上で座り直した。寝癖のついたままの髪を掻き回し、眠気などとうに吹き飛んだ目で竹汀を見下ろす。
「ビビった……寿命縮んだ……」
「困る」
竹汀は端的にそれだけ言いながらベッドに手を掛け立ち上がる。月影を背に立つ竹汀の姿は温度らしい温度を一切感じさせない。事実その体には温かい血が通うことはない。
ふと竹汀は口元に笑みを刷く。無理をしている、と虎杖は思う。根拠はなかった。そう思っただけだ。
「今晩は悠仁にめちゃくちゃなお願いをしに来ました」
「こんな時間に部屋まで来るのがもうめちゃくちゃだろ」
虎杖は溜息交じりに目を擦る。そうだね、と竹汀は小さく笑った。細い指先が白い喉元を指し示す。
「悠仁と繋がっておきたいんだ。いいかな?」
「……ライン?」
「ちがう。今ラインの話は聞きたくない」
だから、つまり、と竹汀は首を左右に傾げながら慎重に言葉を選ぶ。
「今は目で見える範囲にしか魂替え出来ない。いつでも魂替えできるような状態になりたい」
虎杖は「へえ」と他人事のような返事を漏らす。あまりぴんと来ていなかった。なんで、と至極当たり前のことを聞くと竹汀は眉尻を下げた。
「便利だから」
「便利なのか?」
「どこかで体を捨てざるを得なくなっても、とりあえず悠仁のところには帰ってこられる」
竹汀は自身の喉元を指していた指を、虎杖の喉元に向けた。
「細く繋いでおく。普段は気にならないと思う、なったらごめん」
虎杖はなんとなく己の喉元に右手で触れる。硬く出っ張った喉仏が手のひらを押した。虎杖はそのまま喉元を掻き、手を下ろす。
虎杖は竹汀が重要なことを言わないと分かっている。秘密主義者ではないが、情報を小出しにする癖がある。たとえばそれは破壊された体のことであったり、ホームレスの死体のことであったり、自身に施された呪詛のことであったり、細々としたものまで数え上げればキリが無い。
竹汀は虎杖には嘘はつかない。だが、本当のことを言わないときはある。虎杖はそれを竹汀の悪癖であると思っていたが、竹汀なりの優しさであることも承知していた。
虎杖が竹汀を見上げると、竹汀は一瞬だけ不安そうな表情をする。だがすぐに何でもないような顔をした。問い質すべきことはいくらでもあった。どうしてそんなことを、なぜこのタイミングで、本当の目的は何か、それは昼間にした話と関係があるのか――喉元まで上ってきた言葉を、虎杖は飲み下す。
「いいよ」
虎杖が笑ってそれだけ言うと、竹汀はどうしてかひどく傷付いたような顔をした。
「頼んだ方が言うのもおかしな話だけど、もう少し色々聞いた方がいいよ」
「聞いたら答えてくれんの?」
竹汀は気まずげに表情を歪める。
「……答えられる範囲で」
「じゃあ、そうだな、それって痛いか?」
竹汀は首を横に振る。肩にかかる髪がふわふわと揺れた。
「じゃあいいよ」
「悠仁……」
「信じるって言っただろ、信じるよ」
虎杖が言うと、竹汀は眉根を寄せ笑う。泣きそうに見えた。
「やっぱりいい奴過ぎて心配だな、怪しい奴につけ込まれないよう見張っておかないと」
「言っておくけど竹汀が一番怪しいからな」
「ほら、つけ込まれてる」
竹汀は右手の小指を虎杖の前に差し出す。綺麗に整えられた丸い爪をぼんやりと見た後、虎杖はその指に自身の小指を絡める。
「こういうこと?」
「そういうこと」
冷たい指先がきゅと虎杖の小指を締め上げた。だらりと下ろされた左手が印を結ぶ。
「悠仁」
「うん?」
「ありがと」
「ああ」
「悠仁」
「なんだよ」
「死んだらごめん」
「――え?」
「好きだよ」
竹汀の体がぐらりと傾き、そのままベッドに倒れ込んだ。
******
己が生得領域に引きずり込まれたと気が付く前に上半身に衝撃があり水面にひっくり返った。息を吸おうとしたところで仰向けの顔を踏まれる。頭蓋がみしみしと軋んだ。竹汀は両面宿儺の足の下で力なく藻掻く。
「俺を利用するとは、いい度胸をしている。感心だな、褒めてやろう」
紡ぐ言葉と裏腹に両面宿儺はなするように竹汀を踏む足に力を込める。唇が裂け、温い血が口蓋に溜まり鼻に侵入する。竹汀は己の血で溺れ咽せた。
恐怖に竦み、痛みに震え、苦痛に喘ぎながら竹汀は笑う。両面宿儺は暢気な笑声に興を削がれ、竹汀をいたぶる足を下ろす。草履についた血を竹汀の上衣で拭う。
「う、うう、ふ、う、こわい、こわい、いやだ――よかった、まだ人間だ」
ざまみろ、と竹汀は血を流す体を丸めながら震える手を握りしめた。手のひらに爪が食い込む。両面宿儺はそれを冷ややかに見下ろす。
「狡獪、狷介、陰険、不実、オマエほど魂替えらしい魂替えは久しく見なかったな。そんなだから凋落したんだろう学ばぬ奴らだ」
嘲り交じりの呆れ声とともに竹汀は胸ぐらを掴み引きずり上げられた。竹汀の口の端からぶくぶくと血の泡が滴る。
竹汀は虎杖との間に通り道を開けた。蜘蛛の糸よりも細い呪力の繋がりは二者間に信頼関係さえあれば問題になるようなことはない。だが、竹汀の術式によりこれが通っている限り、虎杖の方からも竹汀の魂に干渉が出来る。虎杖が出来るのならば、当然その内の両面宿儺も干渉が出来る。竹汀は両面宿儺に対する「触れなければ触れられぬ」という唯一であり圧倒的な優位性を捨てた。
だからこうして望みもしないまま領域に引きずり込まれなぶられている。
「愚かだな、死ぬまで己を呪い続けるのか、素直に死んだ方が楽だったろうに」
両面宿儺の鼻先が竹汀の頬をなぞる。竹汀は横目にそれを盗み見た。両面宿儺の手がぞろぞろと竹汀の体の表面を撫でていく。竹汀の体は痛みを与えられる前に勝手にわなないた。
竹汀の肉体に施された呪詛は竹汀自身の個を縛りとしている。肉体を焼き潰し魂を漂白することと引き替えに施された呪詛は強力だった。竹汀自身の呪力では侵食を止めることは不可能だった。それに勝る縛りを己に科すしかなかった。だからそうした。魂を五条悟で縛り、精神を両面宿儺で縛った。
だしがらのような魂は呪術師五条悟の道具にし、均衡を欠きかけた精神を呪詛両面宿儺の玩具にする。どちらもさして価値あるものとも思えなかったが、これで足りなかったとしても竹汀にはこれ以上秤にかけ得るものなど何もない。命くらいか。
両面宿儺は先から血を滴らせる竹汀の右手を撫でる。手のひらをくすぐり、指の股をなぞり、小指を毟り取る。恐ろしい力で骨を砕き折られ肉をねじ切られる痛みと衝撃に竹汀は体を強張らせ身悶えし、呻き、歯を食いしばる。未練がましく繋がった皮と肉が引き伸ばされ紐のようになりみちみちと千切られる。喉の奥がヒイヒイ鳴った。両面宿儺は毟った指を投げ捨てる。暗く澄んだ水の中の己の白い小指が沈んでいくのを見送る。どこまでも沈んで見えなくなる。
「壊さぬように戯れねばな、なにしろ夜は長い」
次いで薬指を毟られる。竹汀の奥歯がかちかちと音を立てる。竹汀は裂けた口唇を震わせた。固まった血液がずるりと喉奥を滑り落ちていく。
醜く大きな傷を両面宿儺の指がなぞった。竹汀は震える唇で黒く鋭い爪の先に口付ける。
「臺下のお望みとあらば」
両面宿儺の指先に血の跡がつく。両面宿儺は心底愉快そうに破顔する。そうすると本当に虎杖そのもので、竹汀は何が何だか分からなくなる。両面宿儺の指が竹汀の口を開けさせ、舌を挟み取る。人差し指と中指を口内にねじ込まれ、竹汀の口の端から唾液混じりの血液がだらだらとこぼれていった。
「媚びるな、癪に障る」
舌先を押し潰され、口内に血が溢れる。内側は厭だな、と竹汀は思う。小さいが厭な痛みだった。手足が痺れ腹の筋が引き攣り痙攣する。肢体からふわふわと力が抜けた。痛みよりも不安と言い知れぬ恐怖が全身を巡る。ぐすぐすと啜り泣きながら竹汀は血とともに笑声を吐き出す。己の肉に染み入り精神を侵していた呪詛が抑え込まれている。頭の中で絶えず鳴っていた羽虫の音が止んだような気分だった。
両面宿儺は竹汀の胸倉から手を放す。竹汀は水面に膝から落ちた。両面宿儺は薄笑いを浮かべて竹汀を見下ろす。
「忠告しただろう、傲岸さをも忘れていると。呪術師らしい不遜を捨て置くから己自身に足元を掬われる」
嘲りを帯びた声音に竹汀はのろのろと顔を上げた。両面宿儺の眦が蕩けるように細められる。
「復讐が成ったと思ったか? 愚昧、愚昧」
歌うような調子の言葉が降ってくる。
「オマエが戒心すべきは「何故」だった。何故オマエはオマエの肉体を焼き腐らせたのか、何故オマエはオマエの心身を呪ったのか、何故オマエは小僧を、俺を、オマエに探させたのか――分からないか、分からないだろうな、分かろうとしないからだ」
知りたいか、と両面宿儺は猫撫で声と共に血だらけの竹汀の頬に手をやった。するりと手の甲で頬を撫でられる。緋色の双眸が愉悦の色を浮かべて竹汀の目を覗き込んだ。竹汀は首を横に振った。もう先のことしか考えたくなかった。己の正体も、意図も、振り払わせてほしかった。もはや己の中にそれは存在しない。過去を諦め、自身を殺し、膿み腐る肉体とひび割れた精神を宥め悠仁の傍で生きると決めたのだ。
獣じみた笑い声が耳の奥にとろりと流し込まれる。教えてやろうな、と優しく囁かれる。
「呪術師がそうまでして追い求めるものが力以外にあるはずがなかろう」
竹汀は首を横に振る。否の意ではない。聞きたくないの意であった。
「術式を以て人心を惑わし、疑心を生じ、撹乱し、収攬し、掌握し、我欲を満たす――魂替えの真髄だ、俺をして見事と言うほかない。いや、哀れと言うべきか」
甘い囁きに隠せぬ嗜虐の悦びが滲む。竹汀の中で否が応なしに点と点が線になっていく。腐りゆく肉体、失われていく人間性、呪具と成ることこそが己の目的だと思い込んでいた。それを阻止せんとリスク覚悟で五条悟と両面宿儺を利用した。賭けだった。勝ったと思っていた。
「俺が肉体を得た暁には魂の方もなぶり、引き裂き、慈悲を乞わせ、じっくりと殺してやろう」
竹汀は己の心臓が冷たく早く拍動するのを聞いていた。鼓動に合わせて異様な呪力が全身を巡っている。かつては持ち得なかった常軌を逸した力の奔流であった。強烈な呪詛により生じたそれが、苛烈な縛りにより辛うじて人間の体裁を保った己の中に収まっている。
肉体と記憶、それらよりなる己の正体を贄とした呪力の底上げ。強制的に押し上げられた呪力に耐えられず呪物と化していく脆弱な器を、強力な外的要因で縛り上げる。それこそが記憶を失う以前の己の目的だとしたら。己は、己が、己自身に反旗を翻し、死んだ方がマシと謗られるほど過酷な縛りを己に科してさえ生き永らえることを承知だったのか。そこまで見通されていたのだとしたら、両面宿儺の言う通り見事だった。そして哀れだった。己は最初から最後まで、己自身の思うがままであった。
竹汀はたった一つ残された書置きの「虎杖悠仁を探せ」という荒れた文字を思い出す。あれは歓喜に打ち震えた文字だったのか。五条悟と両面宿儺という現状の呪術界で最も強力な縛り足り得る駒が揃ったこと、それを繋ぐ人間がいること、己は委細承知の上で肉体と記憶を焼き潰したのか。ただこの己の内を巡る呪力のためだけに。竹汀にはもはやその力を何に使うかすら見定められない
「肉体を潰し、記憶を失い、魂を囚われ、精神をなぶられ、人間性も、社会性も、尊厳も、自由も、正気も、情動も、意志も、平穏も、存在も、おおよそ人間を人間たらしめる全てを棄て、オマエの指先はやっと俺の着物の裾にかかったな――喜べ、今オマエは間違いなく古今随一の魂替えだぞ、呪術師」
竹汀は昏い天を見上げた。眩いばかりの暗闇。天地を見失いそうな漆黒。溶けて落ちてきそうだった。痛苦と辛苦と血臭の記憶に満ちた領域は、やはり静謐で美しい。
竹汀は深く長い溜息をつき、へらへらと笑った。己が怒り、恨み、血を吐くほど憎悪する相手は、後にも先にも一人きり、己自身だけだ。
「クソッタレ、地獄に落ちろ」