長く短い祭(一)



 校内をふわふわとうろつく竹汀のことを、高専の生徒はみなで餌をやる野良猫か何かのように思っている。座学を窓越しに覗いていたり、実技をぽけーっと眺めている竹汀の姿を見かけ、高専生は「気楽でいいねえ」と溜息をつく。竹汀が本当に猫に魂替えしごろごろしているときなどその小さな額を撫でて「代わってほしい」などとぼやく。竹汀はその手にすりすりと額を寄せて羨ましかろうとばかりに目を細めてニャムと鳴いた。
 そうはいっても竹汀の安穏は時限付きの命と条件付きの自由に依っている。それを生徒達は詳しくは知らされずともうっすらと分かっていた。呪術師にその程度の不自由と先行きの不透明さは付きものとも言えた。竹汀自身が気楽に振る舞う以上、みなそういう風に扱う。それが呪術師の流儀であり礼儀であった。とはいえ、竹汀はあまりに脳天気に見えてそのような事情もみな忘れそうにはなるのだが。

「ちょっと腑抜けすぎだろ。ほら、来い、稽古つけてやるから」
 校庭の隅を暇そうにぷらぷらし、とうとう手のひらの上で砂粒を選り分けて暇つぶしを始めた竹汀を見かねてパンダはそう声をかけた。自分が声をかけられると思っていなかった竹汀はしばらく立ち尽くしていたが、自身の鼻先を指さし首を傾げる。
「そう、オマエです」
 パンダはのしのしと竹汀に近付くと呪骸の細い手首を掴む。竹汀は慌てて首を横に振った。
「け、結構です……」
 遠慮の言葉を無視しパンダは竹汀を担ぎ上げる。運動場に引っ張り出された竹汀を見て、先程パンダに投げ飛ばされ満身創痍の釘崎が「竹汀、しまっていけー」と気のない声援を投げた。伏黒が隣の虎杖に問いかける。
「竹汀って近接戦闘いけるのか?」
 虎杖は苦笑いを浮かべて頬を掻く。
「知らねえけど……多分無理だろ」
 運動場脇に寝そべっていた釘崎が体を起こし口の中の砂をぺっぺと吐き出した。
「一回組手の相手をさせたことあるけど、話にならないくらい弱かったわよ」
 近接戦闘の成績が他二人に比べ芳しくない釘崎にまでそう言われる始末だ。竹汀を擁護するならば、今使っている呪骸は人間の擬態に過ぎない。近接戦闘を想定していないので、軽く脆い。
「そもそもアイツ、フィジカルって概念がないでしょ」
 釘崎の言うとおりである。速く走りたければ禽獣の体を使う。他人を殴りたければ他人を殴り慣れた体を使う。竹汀は体を鍛えるという発想を持ち得ない。というよりも、体自体を持っていない。
「いやあ……これ自分の体じゃないし……」
 言い訳がましくそう呻く竹汀を見て、パンダは溜息をついた。
「俺の兄弟分がこの体たらくじゃ黙ってられねえよ」
 兄弟、と竹汀はそれを繰り返す。確かに体の産みの親は共通であるから、兄弟といえばそうかもしれない。複雑な関係だ。竹汀は眉尻を下げて笑う。
「兄弟ってちょっと嬉しいな。こっちはライバルだと思っていたものだから」
「ライバル? なんのだよ」
「高専のゆるキャラ」
 パンダは無言で竹汀を掴み上げ、振り回し、放り投げた。短い悲鳴が尾を引く。今のは竹汀が悪い、と虎杖は思う。あいつパンダ先輩と自分のことゆるキャラだと思ってんだ、と余計なことも考えた。最近好んで学長作のブサカワぬいぐるみ呪骸も使っているのは、まさか本格的に高専のマスコットの座を狙っているのだろうか。
 ぽーん、と勢いよく竹汀の体が飛んでいく。投げた張本人であるパンダが「あ、やべ」とそこそこ大きな声で呟いた。竹汀の呪骸は同じサイズの人体より遙かに軽い。力加減を誤ったらしい。
 地面に激しく叩き付けられた竹汀の体は数度バウンドし、勢いを殺せないままごろごろと砂地を転がっていく。見事な転がり方に虎杖は一瞬面白くなってしまったのであるが、さすがにあれは無事ではないだろうと慌てて砂まみれの竹汀に駆けよる。
「竹汀! 大丈夫か! 竹汀、……竹汀? 竹汀!? ……し、死んでる」
 竹汀の呪骸を抱え上げて小芝居を挟む虎杖の後頭部を禪院が平手で殴る。イテ、と虎杖は頭を抱えた。禪院は爪先で竹汀をつつく。
「空じゃねえか、逃げたな」
 禪院が鼻を鳴らすと一羽の野鳥が虎杖の肩に降りてきた。ちち、と小さく鳴きながら虎杖の耳朶をついばむ。いてててて、と虎杖は肩をすくませた。
 砂だらけの釘崎が虎杖の胸倉を掴み上げる。
「カワイイ小鳥ちゃんだから何もわかりませーんじゃねえんだな、舐めてんのか」
「え、なんで俺が――」
 胸倉掴まれてんの、という言葉は禪院に指先を突きつけられ飲み込まざるを得なくなる。
「野薔薇の言うとおりだ、オラ次は私と組手」
「だからなんで俺……」
「カワイイ小鳥ちゃんに何させる気だよ、鬼畜か」
 そーだそーだ、と釘崎が悪ノリする。狗巻まで離れた場所から「しゃけー」と叫んだ。禪院に引きずられる虎杖の肩から小さな鳥が飛び立った。


 *


 某月某日水曜日、高専一年生に持ち込まれた任務は三級呪霊の祓除であった。伊地知に渡された資料を見る限り、それほど手強い仕事になりそうではなかった。現場は都立中学校敷地内の電話ボックスである。帳を下ろされた電話ボックスは薄暗く、経年劣化で錆び付きぼろぼろで確かに不気味であった。
 じゃんけんで負けた虎杖が電話ボックスの中に入る。ドアを開けるだけでボックス全体がばりばりと軋んだ。公衆電話はすでに撤去され、架台だけが残っている。何かのステッカーが剥がされた跡を指先で撫でながら、虎杖は曇ったガラスの向こうに視線をやる。
 黄色い通学帽を被った少年が立っていた。人間でないのは、膨れ上がった頭蓋からこぼれ落ちそうなほど巨大な目玉と纏う気配で明らかだ。少年の姿を模した呪霊は動きも喚きもせず、ただじっと電話ボックスを見つめている。
 虎杖はスマホを取り出し、他の二人とグループ通話を開始した。
「いた――けど、なんか変な感じ。全然動かねえし」
 虎杖は曇ったガラスに顔を近付け、呪霊に面したガラスをこつこつと叩く。呪霊は視線を動かしすらしない。スマホの向こうから「こっちからも見えてる」と伏黒の声が返ってきた。
「何かトリガーがないと活性化しないタイプの呪霊だろうな。起きる前に祓うに越したことはないが――」
 伏黒は最も遠距離攻撃に長けた釘崎の名を呼ぶ。釘崎は間髪入れずに数本の釘を放った。呪力を帯びた釘は呪霊の巨大な頭部を貫き、引き裂く。呪霊は悲鳴の一つも上げずに霧散した。
 釘崎は「野薔薇様の金槌捌きが今日も冴え渡ったわ」と嘯き、それからぎゅっと眉をひそめる。
「これで終わり? なんか嘘くさい」
 伏黒はあたりの気配を探るが、呪霊がどこかに隠れているということもなさそうだった。そうなれば祓除完了、ということになる。三人は不完全燃焼なまま伊地知の待つ車に戻る。
 中学校の敷地の隅に停車した黒いセダンの傍らに、伊地知と竹汀が立っていた。それを見て虎杖は「あ、そういや竹汀と飯食いに行くんだけど、みんな行く?」と二人に声をかける。釘崎は「竹汀の奢りなら行こうかなー」と冗談めかして眉を上げた。伏黒さえ「俺も」とそれに便乗する。虎杖は「やめろって……」と呻いた。竹汀の他人の財布を容赦なく拝借する悪癖はいまだに治っていない。奢って、と言えば竹汀はむしろ喜んで了承するだろう。そうは言っても、二人とも竹汀に奢らせることはない。さすがに良心が痛む。
 竹汀は虎杖の姿を見るなりぱっと微笑み手を振ってきた。虎杖はそれに小さく手を振り返す。竹汀が呪骸のまま一人で外出するのは珍しい。虎杖の考えていることが分かったのか、竹汀は笑って首から提げたパスケースを掲げて見せた。オーソドックスなブラウンの合皮のパスケースの中で、Suicaのカードが光っている。ペンギンのつぶらな瞳が虎杖を見つめた。
「お! Suica! 電車で来たのか!」
 竹汀が他人の財布を当てにせず公共交通機関を利用したことに虎杖は感動を覚えていた。竹汀も肩を竦めて笑う。
「夜蛾にもらった」
「学長、竹汀に甘くね?」
 虎杖に言われ、竹汀は苦笑する。自作の呪骸を愛用する竹汀に夜蛾は奇妙な愛着を抱いているらしい。特にこの少女を模した呪骸は限りなく人間に近い表情と感情豊かに動く手指を備えた渾身の力作らしい。あの厳格で強面な夜蛾が、竹汀には当たりが優しい。贔屓では、と虎杖は思う。
「せっかくもらったから来ちゃった。何食べに行く?」
 竹汀は上機嫌にパスケースを指先で弄ぶ。竹汀にしてみれば、ICカードで公共交通機関を利用するという人間らしい営みが出来ることにどうにもほっとする。知らず表情も弛んだ。
 竹汀の言葉に釘崎がさっと手を挙げる。
「蕎麦!」
 次いで伏黒が「丼物」と挙手する。それに釘崎が詰め寄った。
「譲れ! 東北の民は定期的に蕎麦摂取しないと死ぬんだよ!」
 でも今日はコメの気分、という言葉を伏黒はぐっと飲み込む。たかが昼食の店選びで釘崎の機嫌を損ねるのは得策ではなかった。だが虎杖が「じゃあ間をとってうどんだな」と言ったのには「なんでそうなるんだよ」とは言った。
 虎杖がスマホで近場の蕎麦屋を探していると、五条から着信がある。五条は今日は別件で出ていた。虎杖が通話に出るなり五条は「竹汀いる?」と言った。竹汀はスマホを学外には持ち出さない。体ごと無くすからだ。虎杖は「いるけど……」と言いながら竹汀に目配せする。竹汀は自分の胸を指さし、不思議そうに首を傾げた。虎杖は竹汀にスマホを差し出す。
「はい、五条先生から」
 それを聞いてなぜか伏黒が嫌そうな顔をした。竹汀はスマホを受け取り耳に当てる。
「はい、竹汀です」
 竹汀の耳に押し当てられたスピーカーから五条の明るい声が漏れ聞こえてくる。内容までは分からないが、竹汀の表情を見る限り楽しい話題ではなさそうだった。竹汀はしばらく黙って五条の話すことに耳を傾けていたが「え、今すぐ?」と声を上げた。
「お昼食べ――いやまあそう、必要はないけど――だからって……――ええ………はあ、はい、……はーあ」
 やりとりの最後の方は、ほとんど溜息のようになっていた。また無茶振りをされているのだろう竹汀は「今から向かうね」と言って通話を切った。にこ、と笑ってスマホを虎杖に返し「蕎麦、どこにする?」と言う。
「え、五条先生に呼ばれたんだろ?」
「呼ばれたよ。今からすぐ向かうけど、乗り慣れない電車の乗り継ぎを間違えるから時間に余裕はある」
 竹汀が言い終えるのと同時に伊地知のスマホが鳴動する。なんとなく嫌な予感がしながら通知を確認すると案の定五条悟からだった。伊地知は申し訳なさそうな視線を一瞬竹汀に送り、竹汀はそれに向かって肩を竦めて見せた。
「はい、伊地知です」
「伊地知、竹汀車で連れてきて、今すぐね!」
 それは虎杖の耳にもはっきり届いた。虎杖は「……飯、また今度食いに行こうな」と竹汀の肩を叩く。竹汀は「電車代無駄にしちゃったなあ」と溜息をついた。



 高専に呼び戻された竹汀は会議室ですでに打ち合わせを始めていた五条と補助監督らしき男を見て「遅れました」と一言断った。五条はへらへら笑いながら「お、思ったより早かったじゃん」と言う。
「五条、本当に見計らったようなタイミングで電話くれるんだね。わざと?」
 六眼ってそういう使い方も出来るの? と竹汀が言えば五条は「そんなわけないでしょ、偶然だよ」と軽く流した。五条はテーブルに着き資料を読み込んでいた男を指で示す。
「お互い会うのは初めてでしょ? こいつね、嶋宗。嶋宗、竹汀」
 雑に紹介されたが、その名前を聞いた途端お互いが「ああ」と声を上げる。竹汀は嶋宗に頭を下げた。嶋宗もいかにも温厚そうに微笑みはじめましてと頭を下げる。
「お噂はかねがね」
 嶋宗が言うので竹汀は苦笑いした。
「魂替えの最中にガラ空きの体をどうこうされて戻れなくなった間抜けな呪術師って?」
 竹汀の言葉に嶋宗は「いや、まあ、ははは」と意味のない返事をした。表向きはそういうことになっていた。真実に近いことは五条と両面宿儺しか知らない。嶋宗は目の前の少女をまじまじと見つめた。魂替え師にとって留守にした体を奪われる、というのは誰しもうっすらと抱える恐怖だ。魂替え師特有の恐怖症のようなもので、それで魂替えが出来なくなる者もいる。嶋宗は「そんなことがあったらいやだな」くらいに考えてはいたが、実際その状況に陥っている人間を見るとぞっとした。
 五条は資料を竹汀に手渡す。竹汀はそれに目を通していく。都内全域で不可解な意識不明患者の発生。脈拍正常、脳波正常、体は健康そのもので、そのまま昏々と眠り続ける。二か月前から頻発し、現在被害者は分かっているだけで十二名。発生地域や発症者に関連性なし。共通点は「眠りについた者がそのまま目覚めない」ということだけだ。医学的な原因は不明。窓の報告によれば、患者の内部には魂が存在していない。他者により無理に引き剥がされた形跡はなし。みな、きわめて穏便に肉体から魂を分離させられている。
 そこまで読み、竹汀は資料から目を上げる。
「患者が全員魂替え師じゃないかって考えてる?」
「ははは、そんなに頭数いたら嶋宗も竹汀も形無しじゃん」
「そのときは廃業するよ」
 竹汀は資料に目を戻す。呼び出された理由は分かった。会議室に魂替え師が二人揃っている理由も。竹汀は嶋宗の方に身を乗り出し小指を差し出す。嶋宗は目を丸くした。
「この仕事の間だけ繋いでいてもいい? 終わったら必ず切るから」
 そう言われ、嶋宗ははいと頷き小指を絡める。竹汀は意外そうに眉を上げた。
「もっと渋られるかと思った」
 呪力を細くつないでおくことで相互に干渉可能な呪法は手軽で便利ではあるが魂替えどうしでも結ぶことは少ない。理由は二つ。一つ、繋がる者同士が双方合意していないと成立しないこと、二つ、入られる側も魂替え師の魂に干渉可能となることだ。信頼関係があればとはいえ、いついかなる場合に内部に入り込まれるか分からない状況というのは、入られる側にしてみれば堪ったものではない。おちおち風呂にもトイレにも行けない。魂に干渉し慣れた魂替え師だからこそ、魂に干渉される恐ろしさと不愉快さは心得ている。互いに慎重にならざるを得ない呪法だった。だが竹汀はそうも言っていられない。魂替え中の魂に何事かあった場合、通常は肉体へ強制的に引き戻されるが、肉体を失っている竹汀は虎杖の中に飛ばされる。つまり、両面宿儺のもとへ強制的に送られる。なるべく避けたい事態であった。
 嶋宗は笑い、ゆるゆると首を横に振る。
「まあ、仕事ですし」
 竹汀は呪骸の小指を嶋宗の小指に絡める。すとん、と糸が切れたように竹汀の体が倒れた。床にぶつかる前に五条がそれを抱きとめる。
「ついでに体に間借りさせてもらっていい?」
 己の口が勝手に喋るので、嶋宗は思わず口を手で塞いだ。
「嶋宗も魂替え師なんだから……」
 魂替えへの対処方法くらい知っているだろう、と竹汀は呆れた声を出す。嶋宗の声だが。
「うわ、すみません、驚いてしまって。え、体……うわ、変な感じ……いや、先に言ってほしかったんですけど……」
 嶋宗の当然の苦言を竹汀は黙殺する。
「迷惑にならないようにするから。呪骸で人間っぽく振る舞うのも結構疲れる」
「あ、ああ、まばたきしてなかったし、息もしていませんでしたしね」
「ばれた?」
 意識してまばたきをしたり呼吸をしている風に肩と胸を上下させるのも意外と大変だ。怠ると勘のいい人間にはすぐに不審に思われる。二人のやり取りを見て五条は膝を叩いて大笑いした。
「すげー! 何その一人芝居! 嶋宗、動画撮っていい?」
「いやですよ……」
 笑いながらスマホを向けてくる五条に早々に背を向け会議室を後にし、二人――二人? ――は嶋宗の運転する車に乗り込む。ナビに総合病院の住所を打ち込む間、竹汀は「嶋宗って鳥に魂替えするのが専門って本当?」と尋ねてきた。実際に動いたのは嶋宗自身の口だが。
「ええ、鳥が好きです。飛べるし、竹汀さんはどうです?」
「鳥はあんまり……フンを我慢できないから好きじゃないかも……」
「ああー、確かに。でも慣れますよ」
「慣れたくはない」
 嶋宗は小さく笑いながら車を発進させる。まさかこんな「魂替えあるある」で話が弾む日が来るとは思いもしなかった。傍から見れば完全に独り言で会話をする奴なので、車移動で助かった。魂替えの最中に尿意を催し焦るという魂替えあるあるでちょうど盛り上がっていたところで病院に到着する。余談だが対処法は嶋宗が「目を閉じて用を足す」で竹汀は「我慢する」だ。
 嶋宗は受付の看護師に偽の身分証を見せ保健所職員を名乗った。都内で複数発生している意識不明患者の原因が食中毒によるものである疑いがあるのでその調査、とやや強引な理由付けで乗り込んだ。看護師は怪訝そうな顔をしたが、上から指示があったのか二人――二人? ――に患者の入院する病室を教えた。この病院には最も多く五人の患者が入院していた。年齢は下は十代から上は四十代まで幅広い。嶋宗はベッドに横たわる十代の少年を覗き込んだ。血色はよく、すうすうと健やかな寝息をたてている。点滴にさえ繋がれていなければ昼寝でもしているように見えた。
 嶋宗は幼い少年が眠り続ける姿に胸を痛める。溜息をつくと少年の目がぱっと開いたので、嶋宗は思わず悲鳴を上げた。少年は上体を起こし、手を握ったり閉じたりした。
「少しは適性がありそうだけど、魂替えというほどじゃない」
 おもむろに少年が言う。嶋宗は「竹汀さん!?」と声を上げ少年の体をベッドに押し戻す。
「見られたらどうするんです!」
 昏睡状態の少年が起き上がっているのを見られたら騒ぎになる。
「あ、そうか。困るね」
「困ります!」
 竹汀はベッドに寝そべり嶋宗を見上げる。しばらく視線を移ろわせ「呪霊や呪詛師との接触はないような気がするけどなあ」と呟いた。この人本当に戸惑いなく魂替えするな……と嶋宗は少年の顔を見下ろす。嶋宗はやはり見知らぬ相手に魂替えするのは躊躇する。どういう人間か分からぬ相手に魂一つで入り込むのは怖い。こんなだから体を持っていかれてしまうんじゃないか、とうっすら思った。
「嶋宗はどう思う?」
 言われ、嶋宗は自身の魂を少し緩め少年の中身を探る。無作為な情報が一度に流れ込んできた。特筆すべき情報はないように思える。少年はごく普通の子供だ。呪いにも呪術師にも関係はない。嶋宗が首を横に振ると竹汀は肩を竦めた。
 二人は連れ立ち全ての患者の様子を見た。どの患者も多少の差異はあれど平凡の域を出ない。だが嶋宗には一つ気になる点があった。
「竹汀さん、ここにいる患者が全員明晰夢を見る人物だったっていうのは共通点ですよね」
 嶋宗が言うと竹汀は首を傾げた。今は四十代の男の姿をしている。
「そうだった?」
 竹汀は気が付いていなかったらしい。分類わけされずに流れ込んでくる記憶のどれに着目するかは運とセンスが物を言う。嶋宗は比較的それを得意としていた。
 竹汀が明晰夢って何? と言うので嶋宗は明晰夢について説明する。数年前に都市伝説的に流行った夢見の方法だった。夢を夢であると自覚し自在に操るということで、多様な手法の与太が出回った。大概の人間には毒にも薬にもならないが、時折無自覚に呪力を持つ人間が成功させてしまう。魂替えかそれに類する術式を持った人間が幽体離脱的に魂を飛ばしてしまうことがままあった。高専では明晰夢を見る有効な手法を隠蔽し、それらしい手順を効果的と流布することで対処したことがある。
 竹汀はへえと言ったが明晰夢にはそれほど興味はなさそうだった。嶋宗に向かって「なんで気が付いたの? 情報収集苦手なんだよね」と苦い顔をする。
「なんというか、気にすべき情報は記憶の持ち主も隠したがっていたり気にしていたりするんです。そのへんを気を付けるとわかりますよ。ぴりぴりするんで」
 竹汀はさらに苦い顔をした。嶋宗は小さく笑う。自身より遥かに自在に魂替えする竹汀に勝ることの出来る分野があるのは少しいい気分になる。教えを請われればなおさらだ。
「共感力に欠けるからなあ」
「竹汀さんがですか?」
 そういうようには見えない。
「記憶がないからそういう部分に疎い」
 ああ、と嶋宗は頷く。肉体と同時に記憶も失ったというのは話には聞いていた。
「情緒がどうにもガタガタだから。まあ、自分のことは赤ちゃんか何かだと思って接してよ」
 突然そう言われ、嶋宗は面食らった。何を言うか迷い、おずおずと口にする。
「竹汀ちゃん、がんばればできましゅよ」
 今度は竹汀が面食らった顔をした。唖然として嶋宗の顔を覗き込む。
「……いや、そういうことじゃない。赤ちゃんみたいに接するって物の喩えというか……びっくりした、急に煽られたのかと思った」
 嶋宗は己の勘違いに気が付き激しく赤面する顔を手で覆った。すみません、と呻くと竹汀が「いいけど」と答えた。答えたのは嶋宗の口だった。いつの間にか竹汀が戻ってきていた。情報収集は苦手と言ったが、竹汀の隠形は舌を巻くほど巧妙だ。何を得意とするかで性格診断が出来そうだな、と嶋宗は思う。今のところサンプルが足りないが。
「一度帰って報告します。いいですか?」
 嶋宗が言うと特に何も返ってこなかった。いいということだと判断し、嶋宗は帰り支度を始める。高専支給のデジタルカメラで撮影した患者の写真が全員分あるかを確認していると、病室のドアが開けられ看護師が数人入ってきた。
「あ、すみません、今帰るので」
 嶋宗がデジタルカメラをしまうなり、看護師の一人が嶋宗に布の袋を被せた。嶋宗は咄嗟にそれを剥ぎ取ろうとしたが、耳元で何かを囁かれ背中を突かれるとふっと意識を失った。



 目を覚ますと自身の口が勝手に「やっと起きた」と言う。嶋宗はぎょっとしたが竹汀の存在を思い出し悲鳴を飲み込んだ。被せられた袋は呪具であったのか、膠のように固まり目を覆っている。回りのものは見えず、薄い光だけがぼんやりと判別できる。試しに爪を立てたがびくともしなかった。皮膚ごと毟れば或いは外れるであろうか。
「ここは……」
「さあ、どこかな。目隠しされていたから分からない。さっきの病院からは車で三十分はかかったと思う。確かなことは何も言えないけど」
 そうですか、と嶋宗は呻く。高専で働く以上こういう事態も覚悟はしていたが、実際に身に降りかかるとなれば話は別だ。
 嶋宗は視覚を奪われたまま周囲を探った。床に手をつきながら這い回ると、すぐに壁にぶつかった。かさかさと手に触れる感触はなんらかの呪符であろうか。壁を伝いながら部屋を一回りする。狭い部屋だった。四畳ほどしかないのではないか。ドアらしきものに触れ、こじ開けようとしたが当然びくともしない。嶋宗は拳から血が出るまでドアや壁を殴り、床に崩れ落ちる。実働部隊でもない己がなぜこんな目に、と膝を抱えた。
「誘拐ですか」
「多分。心当たりは?」
「ありません、俺ただの補助監督ですよ」
「五条あたりが誰かの恨みを買ってるかもね。それのとばっちりかも」
 ははは、と竹汀は笑ったが嶋宗は笑う気にならなかった。抱えた膝に額を押し当てる。
「……竹汀さん、逃げられるようなら一人で逃げてください。俺は大丈夫なんで」
 返事はなかった。その気はないらしい。確かに手段もないだろう。嶋宗は溜息をつく。このまま殺されるのかと思うと怖くなった。それとも高専の情報を吐くまで拷問にかけられるのだろうか。どちらも嫌だった。手足がひんやりと体温を失っていく。
「二人も帰らなければ誰か気が付く。捜索もされる。それまで待とう」
「どうでしょう。魂替えが二人ですよ、見捨てられるかも」
「悲観的だなあ」
 そう言う竹汀の声音はどこか暢気だった。肉体も記憶も失えば怖いものなどないだろうか。嶋宗には分からない。嶋宗はぐすと洟を啜った。
「俺が死んだら誰が鳥の世話をするんだろう……」
 丹精込めて育てた可愛い鳥たちのことを思い出す。特に返答はなかった。急に心細くなり、嶋宗は矢継ぎ早に竹汀に話しかける。
「最近タイハクオウムを飼い始めたんです。お店にいるときからもう運命なんじゃないかってくらい懐いてくれて。値段もするし、寿命も長いし、世話も大変だし、迷ったんですけど、やっと家に迎えたのに……まだ一度も魂替えもしてない……もったいぶらずにしておけばよかった……」
 反応はない。眠ってしまったのだろうか。
「まっしろで可愛いんですよ、名前はコムギちゃんって言うんです。コガネメキシコインコのみかんちゃんとはライバルなんです……竹汀さん、聞いてますか?」
「聞いてる」
 よかった、と嶋宗は小さく呟く。不安で押し潰されそうだった。傍から見れば一人芝居でも話し相手がいると幾分気が楽になる。
「週末、虎杖くんが見に来るって言ってたのに……約束守れなくなっちゃうかもな……」
「悠仁が?」
 催促しなければ返事もなかった竹汀が急に鋭い声を上げた。嶋宗はのろのろと膝から顔を離す。
「竹汀さんのことがあってよく話すようになって、大きいインコを飼い始めたって言ったら見たいって言ってくれて……」
「悠仁、鳥好きなの?」
 妙に食いついてくる。嶋宗は首を傾げた。
「特別好きかは分かりませんけど、コムギの写真を見せたらすごく喜んでくれて、会うのを楽しみにしてくれて……」
「悠仁は週末に鳥を見るのを楽しみにしていた?」
「……竹汀さん、どうしたんです?」
 いるのかいないのか分からないほど巧妙であった竹汀の隠形が崩れる。嶋宗は己の内に得体の知れない呪力が漣立つのを感じた。全身を鳥肌が這い回る。誘拐されたことへの恐怖ではなかった。それは己の内側の竹汀への反応であった。
「竹汀さん?」
「――話が変わった。助けは待っていられない」
 ぞろり、と腹の底で何かが蠢く。嶋宗は床の上で体を丸めた。そうしていないと何かが溢れ出そうだった。
「竹汀さん、あの……」
「週末までに嶋宗をここから出す。絶対に。だから死ぬなよ。気も狂うな」
 己の口が淡々とそう言った。そんなこと言われても、と嶋宗は呻く。
「嶋宗、誘拐犯はまず君の目を塞いだ。どういうことか分かる?」
「……隠れ家を知られたくなかった?」
「違う。我々が魂替えだと知っていた」
 魂替え師が術式を適用可能であるのは、特別な場合を除いて視認できる範囲の生物だけだ。目を塞いでしまえば自身の肉体に戻る以外の術式は封殺出来る。それを誘拐犯は知っていた。
「そしておそらく、嶋宗のことを肉体を失った間抜けな魂替えと勘違いしてる」
「な、なんで……」
「餌に引っかかったから」
 魂替え師が関わっていそうな事件が起きれば魂替え師が調査に当たると踏んだのだろう。だが高専に魂替え師がもう一人いることは知らなかったようだ。
「それに、ただの魂替えに用があるならとっくに目を潰してる」
 年季の入った奇妙な呪具を使うくらいだ。いずれ能力を利用したいのだろう。
「嶋宗だとばれない間は殺されはしない、多分ね」
「た、多分って……」
 堪らずしくしくと泣き出す嶋宗に竹汀は穏やかに声をかける。
「絶対に助ける」
「な、なんで、そんな……」
 嶋宗は己の口元がへらへらと笑みを浮かべるのを感じた。
「悠仁の楽しみにしている週末も守れないようじゃ生きてる意味がない」
 どういうことですか、と聞く前に己の中から竹汀の波打つような気配が消える。嶋宗は「逃げる手段あったんじゃないか」とふと思った。だがそれを向ける相手はもういなかった。