長く短い祭(二)
嶋宗の体から細く繋いだ呪力を辿り虎杖の体に戻り両面宿儺に気取られる前に他者の体に魂替えする。虎杖の周囲に魂替え出来る生き物がいなければアウト。虎杖が眠っていればアウト。まばたきも危ういかも知れない。とにかく一瞬で虎杖の体を脱出する。
そう考えるだけなら簡単だ。だが結局それは右脚が沈む前に左脚を前に出せば水面を歩けるという程度の机上の空論に過ぎなかった。竹汀は両面宿儺に嶋宗を模した姿の表層をなぞられ項垂れる。痩せた脇腹を両面宿儺の鋭い爪が擽った。
「俺が恋しくなったか」
ひゅ、と喉が鳴る。どうする、と竹汀は考える。急いでいるので今だけ見逃してくださいという懇願が通じる相手ではない。両面宿儺は喉を震わせ笑声を漏らしながら竹汀の後頭部の髪の毛を掴み無理矢理上向かせる。
「たまには戯れてやらねば縛りも緩む。どこから潰す? 選ばせてやろう」
竹汀はされるがままになりながら、昏い天を見上げる。策がないわけではないが、好んで取りたい手ではない。だがここで時間を浪費するわけにもいかない。竹汀は嬉々として己の指を取り笑顔で「順当に小指からいくか」と提案する両面宿儺を見た。それから、姿を虎杖に変える。その姿を見た途端、両面宿儺の顔から喜悦の笑みが消え、憤懣に歪められる。
両面宿儺は竹汀の胸を裂く。心臓を取り出し投げ捨て「不愉快だ」とだけ言った。竹汀は暗転する視界を感じながら魂替え先を探す。ごめん悠仁、と心の内で謝っておいた。竹汀は姿だけとはいえ虎杖を両面宿儺の思うままにさせるくらいなら苛烈な嗜虐に両面宿儺が飽きるまで付き合う方を選ぶ。本当に今回だけだから、と心中で手を合わせた。
*
「伊地知」
伊地知が急に自分の名前を呟いたので虎杖は目を丸くして伊地知の顔を見る。伊地知自身も困惑したような顔で自身の口元を押さえる。口元を押さえた右手を左手が引きはがした。
「体を借りてる。追い出さないで。五条どこか分かる?」
伊地知は竹汀に魂替えされるのは初めてだった。飛び石くらいにはされていたかもしれないが、知覚した上では初めてのことである。そのふわふわとした奇妙な感覚に身震いする。
「ご、五条さんなら多分まだ校内にいますけど……」
「ごめんね、急いでる。このまま伊地知の体使ってていい? 駄目なら呪骸探してほしい」
「呪骸探します」
伊地知は即答する。意識を奪われ体を好き勝手にされるのは勘弁してほしかった。五条が関わるならなおさらだ。虎杖が「竹汀の呪骸なら会議室にぶん投げてあったから拾って図書室に寝かせといたよ」と言う。
「何急いでんの? 何かあった?」
虎杖が心配そうに眉をひそめながら言うので、竹汀はふと笑った。
「何も」
虎杖はふうんと鼻を鳴らし「何かあったら言えよ」とだけ言う。竹汀は「ありがと」と小さく囁いた。
呪骸に戻った竹汀は数度手を握ったり閉じたりしながら伊地知に詫びた。
「ごめん、ありがとう」
「いえ構いませんが……魂替えするときは事前に言っていただけると心の準備が出来ます」
「なるべくそうする」
伊地知はいまだに少しぼんやりする頭を軽く振った。竹汀は「そういえば」と何気ない風に切り出す。今日仕事で訪問した総合病院の名前を挙げた。
「ここを中心に車で三十分程度の範囲内で呪詛師が関わっていそうな建物を探したいんだけど、どういう方法がある?」
伊地知は指先で眼鏡のフレームを押し上げた。
「場合によりますが……何か特徴はありますか」
問われ、竹汀は記憶を辿る。嶋宗の体は車から担ぎ出され、エレベーターに押し込まれた。エレベーターが作動していた時間からして低層階ではない。駆動音と振動は新しい設備とも思えない。おそらく古い雑居ビルかマンションの一室だ。
「……エレベーターがある建物。新しくはない。多分、五、六階以上」
竹汀が言うと伊地知は顔をしかめる。
「それだけではとても……病院の周辺を窓でローラー作戦をするくらいしか思いつきません」
だよねえ、と竹汀は肩を竦める。
「何かお探しですか? 手伝えることはお手伝いしますが」
伊地知の申し出に竹汀は「総合病院周辺でエレベーターのある六階建て以上の建物。呪詛師か、それに関係する人物が所有していて、おそらく帳かそれに似た結界が下りてる」と一息に言う。伊地知に伝えるというよりも、自分で確認するために近かった。
嶋宗との繋がりを竹汀はまだ切ってはいない。あの部屋にはいつでも戻れるが、四畳と少しの完全に外部と遮断された部屋で分かることもそうはなさそうだ。一度行くと必ず虎杖を経由しないと部屋の外に出られないのも痛い。両面宿儺に同じ手が何度も通用するとも思えなかった。
「――を、探してはいるけど、正攻法じゃどうにもならなさそう」
竹汀は前髪を掻き上げる。
「一応私も探してはみますが……」
「本当に? ありがとう。ついでにめちゃくちゃ言ってもいい?」
「……言うだけなら」
「週末までに見つけたいな」
「本当にめちゃくちゃですね」
伊地知は溜息をつく。いくらなんでも時間がなさ過ぎる。
竹汀は「もし何か見つけたら教えて」とだけ言うと走り去っていく。伊地知はその後ろ姿を眺めながら「そういえばどうして建物を探しているのか聞くのを忘れた」と思った。
職員用の休憩室で五条を見かけた竹汀はその長躯に駆け寄る。五条はいちごミルクのストローを咥えてぷらぷらさせながらながら竹汀を見返す。竹汀も自分が大概暢気だ気楽だと言われていることは承知だが、この男ほどでは無い。
「五条、嶋宗がさらわれた」
「え、ええー……、そんな軽い感じで報告しないでくれる?」
五条は竹汀の額を手のひらでぺちぺちと叩いた。
「竹汀が付いていながらなんつー体たらく」
「買いかぶってくれてありがとう」
相手は複数だがどの程度の規模の集団かは不明。呪術に長けていることは確かで、うち一人は離魂に関係する術式を持っている可能性がある。明晰夢により幽体離脱状態になった人間の魂を捕獲しなんらかの方法で捉えている。一見すると魂替えの術式による事件に見えるそれのため、高専により派遣された魂替え師を襲撃、拉致、監禁。明らかに手慣れていて、明確に魂替え師を標的にしている。
黙って聞いていた五条が椅子に深く腰掛け、腹の上で指を組む。
「竹汀の現況を知らなければ竹汀を狙う理由はない。狙うとしてもたかが魂替え師にここまでガチガチの手順は踏まない。つまり相手さんは竹汀が呪物になりかけの中途半端呪いヒューマンであることを知っている可能性が極めて高い」
ちゅうとはんぱのろいひゅーまん、と竹汀はその不思議な語感の言葉を口中で繰り替えす。五条はぴったりでしょと笑った。笑いながら目隠しの下の目が鋭く細められるのが分かる。
「それを鑑み現時点で考えられる相手方の素性は二つ」
竹汀は黙って先を促した。五条は指を一本立てる。
「一つ、高専関係者」
竹汀は首を横に振る。
「高専関係者なら高専内部で捕まえればいい」
「無防備きわまりないヘソ天でごろごろしてるもんね」
「猫の本能には逆らえないよね」
高専関係者が内通し情報を外部に明け渡したと言うことも考え得るが、嶋宗のことを把握していなかった点でその線も薄い。
五条は立てていた指を竹汀の鼻先に突きつけた。
「もう一つ、――竹汀自身」
竹汀は溜息をつき、肩を落とす。竹汀自身の現況を把握し、その能力を欲し、魂替え術式への対策に知見があり、高専内部の事情には明るくない。その条件全てを、確かに竹汀は備えている。
「まさかそんなありえない疑うなんてひどい――とは言えないところが痛い」
五条はクイズに正解した子供のように喜んで見せ「あたり? 何かちょうだいよ」と竹汀のハーフパンツのポケットに手を突っ込む。竹汀は折り曲げられた長身を見下ろしながら顔をしかめた。
「自分自身がこうなることを見越して、記憶を失う前に何者かに依頼していた可能性はある」
竹汀自身はそれを強く疑っている。だから何もせず嶋宗の中で高専の救助を待ちたかった。何かすればまた己自身の思うつぼに嵌まる可能性があるからだ。
五条は竹汀のポケットの中から糸くずとどんぐりを摘まみ出すと、それをぽいとテーブルに放り投げた。
「僕、竹汀とは絶対友達になれないな。あ、記憶を失う前の方ね」
「そう思うよ」
五条はスマホを取り出し数回電話を掛けた。「あ、五条でーす。嶋宗さらわれたって、うんそうそう魂替えの補助監督。そういうこと、よろしくー」と竹汀より遙かに軽薄に電話を掛けている。それでいいのか、と竹汀は五条の横顔を眺めながら思った。
電話を終えた五条はスマホをテーブルに置く。
「報告はしたし、一応捜索班も動くとは思うけど、この人手不足だからね、補助監督一人にどれだけ本気の調査が行われるかは分からない。時間がかかるかも」
そんなだから万年人手不足なんだ、と竹汀が苦々しく言うと五条は違いないと笑った。
「嶋宗は絶対に助ける」
竹汀がきっぱりと言い切ると五条は眉をひそめる。竹汀の言葉は文言だけは立派で感動的だが、そもそも発している人間――人間? ――が首謀者である可能性もある中ではどうにも胡乱な発言だ。
「へえ、竹汀がそんなに仲間思いとは知らなかった」
「魂替え師は仲間を大切にする」
「自分の肉体に呪詛を施す奴が仲間に優しいわけないでしょ」
それもそうだ。竹汀はそれ以上反駁するのをやめた。
「嶋宗は週末、悠仁と遊ぶ約束をしてる」
「それで?」
「悠仁はそれを楽しみにしてる」
「……それで?」
重ねて問われ、竹汀は片眉を上げた。己が本気で嶋宗を助けたいと願うことにそれ以上の理由は無い。必要も無かった。心底不思議そうに首を傾げる竹汀に五条は大袈裟に表情を歪めて見せる。
「嶋宗が助かるなら何も言わないけどさ……さすがの僕もちょっと引くよそれは」
「記憶を失う前とはいえ自分のせいで悠仁の楽しい週末が台無しになったとしたら、キレてどうにかなっちゃうかも」
少女を模した端正な顔が折り目正しく微笑み、あざとく首を傾げた。どうにかなられては困るので、五条はそれ以上何も言わなかった。
「好きにしなよ……あ、明日任務入ってるけど、どうする?」
五条はスマホの液晶に表示されたデータファイルを竹汀に掲げて見せる。呪霊に真正面から対抗し得る術式を持たない竹汀に正規の任務が入ることは稀だった。竹汀はファイルを一瞥し「誰か他の人に――」と言いかけ、担当者欄に竹汀の名前と並んで虎杖の名前が記されていることに目を剥いた。五条は「あ、そう、担当替えてもらう?」と唇の端を上げる。竹汀はしばらく考え込み、ぎゅっと目をつぶると呻くように「やる」と答えた。
「えー無理しなくていいよ、僕が話つけてあげるからさ。竹汀は嶋宗救出に集中しなって」
「やる、やれる。時間はまだある」
竹汀は目を開け、自身に言い聞かせるようにゆっくりと断言する。五条はあーあとばかりに肩を竦めた。
「竹汀、そのうち悠仁のために過労死するんじゃない?」
「いいね、理想の死に方五位くらいには入る」
五条は一位を聞いてみようと思ったのだが、その前に竹汀は踵を返した。何事か考え込む様子で足早に廊下を渡っていく。途中、五条の方を振り返った。
「忘れてた、五条、このことは――」
「悠仁には絶対言わないで、だろ?」
分かってる、と五条が手をひらひらさせると、竹汀は「よろしく」とだけ言って曲がり角の向こうに消えた。
*
某月某日木曜日。午前九時に高専のロータリに集合するよう指示されていた虎杖は欠伸をかみ殺しながら見慣れた黒いセダンに近寄った。運転席の伊地知に窓越しに会釈し、後部座席に乗り込む。すでに竹汀がシートに座り、資料に目を通していた。
「竹汀が任務に出るのって初めてじゃねえ?」
竹汀は苦笑し、虎杖に視線を向けた。
「人手不足極まってるね」
「猫の手も借りたいって?」
「猫の体で来れば良かった」
運転席の伊地知が「シートに毛が付くのでやめてください」と控えめにそれを咎める。
前日に虎杖、伏黒、釘崎が祓ったはずの呪霊が再び現れたということで急遽ねじ込まれた仕事だった。昨日のうちに伏黒と釘崎は別件で出張になっていたので、虎杖と竹汀の急拵えコンビにお鉢が回ってきた。単純な祓除だけなら虎杖一人の実力で十分だが、複雑な活性化条件を持ち、一定の手順を踏まねば祓いきれぬタイプの呪霊相手ではそうもいかない。
「こんな言い方あれだけど……竹汀、大丈夫なのか? 呪霊と戦えんの?」
「無理だよ。呪力で殴ることくらいは出来る。あとは逃げの一手」
虎杖が心配して竹汀の顔を覗き込むと、竹汀はくすぐったそうに笑った。
「守ってくれるんでしょう?」
からかうような声音であったが、虎杖は神妙に頷く。
「ガンバリマス」
伊地知により車が発車される。虎杖は竹汀の手元の資料を覗きながら「でもなんで竹汀が現場に?」と首を傾げた。
「悠仁は性質も素直だし、スタイルも真っ直ぐだからね。この手の呪霊への対処はひねくれ者に任せてよ」
資料を繰りながら竹汀が呟くと、虎杖は「今すっげーポジティブに脳筋って言った?」と顔をしかめる。竹汀はそれには答えず微笑むに留めた。
都立中学校の敷地内、片隅の朽ちかけた電話ボックスの前に虎杖と竹汀は並び立つ。呪霊の姿はないが、生々しい残穢と禍々しい気配が残っている。
窓と補助監督の再調査によれば、この学校には電話ボックスにまつわる怪談話がある。かつてボックスにまだ公衆電話があった頃、この電話はサトルくんに繋がると言われていた。このボックスの公衆電話から自分の携帯に電話をかけるとサトルくんに繋がる。二十四時間以内に携帯にサトルくんから折り返し電話があり、その電話口でサトルくんは現在地を告げてくる。サトルくんはだんだん近付いてきて、やがて携帯の持ち主の背後に迫る。
現れたサトルくんはどんな質問にも答えてくれる。ただし、背後を振り返りサトルくんの姿を見てしまったり、質問をしなかったり、答えが分かっている質問をすると殺されてしまう。怪談というよりも都市伝説に近いかも知れない。「メリーさんからの電話」の亜種だ。
数年前に公衆電話が撤去され、その噂は「暗くなった頃にあの電話ボックスからスマホで自分のスマホに電話をかけるとサトルくんに繋がる」とディティールが変更されたらしい。時代ですねえ、と伊地知が感慨深げに呟いていた。
「サトルって五条先生の名前といっしょだな」
虎杖は何気なくそう言う。竹汀は肩を竦めて笑った。
「五条には何聞いても適当な答えしか返って来なさそう」
「たしかにな」
「こっちのサトルは真摯だ」
スマホにも対応してくれるんだから勤勉だしね、と竹汀が茶化すと虎杖は噴き出して笑ったが、仕事中であることを思い出し真剣な顔を作った。
竹汀は電話ボックスのドアに手を掛け、がたがた揺らしている。虎杖は調査の一環か何かかとそれを眺めていたが、どうやら錆び付いたドアを開けるのに難儀していると気が付いた。虎杖は竹汀をどかし、ドアを開けてやる。確かに開けにくいが、そう手間取るほどでもない。虎杖は竹汀に心配そうな目を向ける。
「マジでちょっと体鍛えた方がいいんじゃね?」
「……少し考える」
朽ちているとはいえドアの一つも開けられぬことに多少思うところがあったらしく、竹汀は不承不承ながらそう呻いた。
竹汀はボックスの中に体を滑り込ませる。特に異変はない。ただ残穢だけが重苦しく残っている。虎杖までボックスの中に片脚を突っ込んだ。公衆電話が撤去されているとはいえ、ボックスの中にはそれなりに長身の二人が入りきるスペースはない。
「前はここから呪霊が見えたんだけど」
虎杖がぐっと身を乗り出してきたので、竹汀は顎を引いた。曇ったガラスの向こうには人の寄りつかなくなった敷地のやや荒れた草地が見えるだけだ。
「いないね」
「あー、伏黒がいれば玉犬で呪霊を追えるんだけどなあ」
虎杖が言うと竹汀は少々むっとして虎杖を睨む。
「出来るよ、追える」
「あ、犬に魂替えして?」
虎杖が手を打ちそう言うと竹汀はさらにむっとした。
「ちがう。呪霊の気配くらい追える。デキる呪術師なので」
「あ、ああー、なるほど、ごめん」
竹汀は拗ねたふりをして見せ、虎杖は手を合わせて頭を下げる。そうしていると、使われていない倉庫の影から少女が姿を見せた。この中学校の制服を着ている。少女は二人の姿を見るなり踵を返し走り去ろうとする。虎杖は少女の背中に声をかけるが止まる気配はない。愚直に少女を追おうとする虎杖の背後で竹汀の体が頽れた。
虎杖は狭い電話ボックスの中であちこちにぶつかりながら倒れる竹汀に気を取られ、少女から目を離す。はっとして少女の方に目を向けると、今にも逃げだそうとしていた少女は悠々と虎杖の前まで歩いてきた。幼い顔が、らしくなく大人びた表情をする。少女の中で竹汀が片眉を上げ、にっと笑った。
「ほらね、少しは役に立つ」
虎杖は状況を飲み込み、頬を掻く。
「すげえけど……ちょっと強引じゃね?」
「急いでる。それにその体は足も遅い」
竹汀は電話ボックスの中で倒れる呪骸を指さすと、ふと視線を宙に向ける。
「小林実空、この中学校の一年生、父と母と弟と住んでいてハムスターのタマを可愛がっている……ハムスターなのにタマ? まあいいけど。五歳からピアノを習っているけど、最近勉強が忙しいから辞めたいと――あーこんなの関係ないな。やっぱり難しい」
虎杖が「何が」と聞くと竹汀は珍しく苛々したように眉を寄せる。
「嶋宗に魂から情報を効果的に引き出す方法を聞いた。全然上手くいかない」
嶋宗、と聞いて虎杖は目を丸くする。
「お、会ったんだ。どんな感じだった?」
「驚くほど善良な鳥好き」
魂替えの風上にも置けないお人好し、とは竹汀は口にしなかった。
「ああ……すげー鳥好きだよな。鳥の話始めると止まんねえもん。あの人すげえデカくて高いオウム飼ってるらしいぜ。写真見せてもらった?」
竹汀は首を横に振る。その間にも竹汀は小林実空の先週の夕食のメニューだとか、好きな男の子の誕生日だとか、益体もない情報に溺れていた。
「俺、土曜日に見せてもらうんだ。嶋宗さん自分の寝室とキッチン以外、鳥用に改造してるらしいよ」
「いいな、大きな鳥」
「竹汀も来る? 俺聞いてみる。多分嶋宗さん鳥見たいって言ったら喜ぶよ」
笑って「そうしようかな」と言いかけた竹汀がぴたりと動きを止める。プリーツスカートのポケットの中からスマホの着信音が聞こえた。竹汀は迷わずスマホを取る。虎杖が制止する前に通話開始ボタンをタップする。
竹汀はスマホを耳に押し当てる。ざらざらとしたノイズが耳を打つ。ごぼ、ごぼぼ、と水中で息を吐くようなくぐもった音が聞こえる。
「今、校舎の一階に、いるよ」
それだけを言って通話は切れた。スピーカーから漏れる異様な音と気配は虎杖にも伝わったらしい。険しい顔で竹汀の手元のスマホを睨んでいる。再びスマホが着信する。竹汀は通話ボタンをタップする。ざらざらしたノイズ。水音のようなこもった音。
「今、サッカーコートに、いるよ」
竹汀は眉を上げる。
「近付いたね」
虎杖は首を伸ばし校庭の方を見る。建築物の構造上、今いる場所からサッカーコートは見えない。どうする、と虎杖は竹汀の方を見る。
「そうだなあ、少し移動しよう」
「え、どこに」
「校舎の一階」
竹汀が校庭を避けるようルートを選びながら走り出すので、虎杖は後を追おうとする竹汀の呪骸をどうするか迷ったが、竹汀が「すぐ戻るから置いてていいよ」と言うので、寝違えそうなほど折り曲げられた首だけ少し直してやり、上体を起こしてボックスの壁に寄りかからせておいた。駆け足で前を行く竹汀に走って追いつく。いつも同じ目線の竹汀の顔が肩ほどの位置にある。
「なんで校舎?」
「校舎からこっちに近付いてきてる。この体が校舎に向かったら呪霊は折り返すと思う?」
「…………えっ、興味!?」
「半分はそう」
竹汀は笑う。必死で走る竹汀の脇で虎杖はジョギングをするような顔色で並走していた。
「竹汀、急いでる?」
「そう見えなくて申し訳ない」
竹汀が皮肉交じりに答えると虎杖は何も言わずに竹汀を担ぎ上げた。竹汀は短く悲鳴を上げる。虎杖はそのまま速度を上げた。竹汀は思わず虎杖の首にしがみつきフードを掴む。
「あああああ悠仁おさえておさえて……!」
「急いでるんだろ? 急ぐぞ!」
あああ、とか細い少女の悲鳴だけが尾を引く。午前中の人気のない昇降口のタイルに下ろされた竹汀はくしゃくしゃになった髪を撫でつけた。ポケットの中でスマホが着信音を鳴らす。
「今、倉庫前に、いるよ」
それだけ言って通話が切れる。虎杖は首を巡らせ、昇降口から倉庫らしき建物を見る。人気のない校庭に、小さな人影がぽつりと立っていた。あいつだ、と虎杖が言うと竹汀は「この子を追ってる。しかも結構早いね」とスカートの埃を払った。
「どうする?」
虎杖の言葉に竹汀はきゅっと目を閉じ嫌そうに唇を歪め、虎杖に向かって諦めたように両手を差し出す。
「伊地知のところに戻る。……急ぎです」
「おう、任せろ」
虎杖は竹汀を抱き上げ来た道を走る。竹汀はぐったりとされるがままになることを覚えた。顔を強く押し付けた虎杖の肩から柔軟剤のにおいがした。すでに懐かしいような気さえした。やはり生身はいい、と竹汀は思う。香りを感じるのと感じないのとでは生への実感が段違いだ。
見知らぬ少女を抱えて走ってきた虎杖を見て伊地知はぎょっとして運転席から飛び出してきた。虎杖の肩からへろへろと下りた少女が「い、い、いじち、とばり、とばり」と目を回しながら繰り返すのを見て、なんとなく状況の察しをつけ周囲に帳を下ろす。墨を流したように周囲が薄暗くなっていく。少女のスマホが鳴動した。
「今、体育館脇に、いるよ」
通話を切られたスマホを見下ろし、次いで竹汀は虎杖を見上げた。
「なんでも答えてくれるサトルくんに聞きたいことある?」
突然そう言われ、虎杖は面食らった。聞いていいのか、と虎杖は思う。
「ねえよ……なんかイヤだし」
「じゃあ悠仁の好きな子の名前でも聞こうかな」
「や、やめろって!」
スマホが鳴動する。「今、電話ボックスの前に、いるよ」通話が切れる。竹汀は手で伊地知に少し離れているよう合図した。スマホが鳴動する。竹汀は通話ボタンをタップしスマホを耳に押し当てた。
「今、あなたの後ろに、いるよ」
それを聞いた途端、竹汀の背後で呪霊の気配が膨れ上がった。竹汀と向かい合わせに立っている虎杖はすでに拳を握り腰を落としている。竹汀は視線で虎杖を制止した。
「どう?」
「……どうって?」
「前見たときと何か違う?」
虎杖は竹汀の肩越しに呪霊の姿を見る。膨れ上がった頭部にちょこんと乗っかる黄色い制帽、零れ落ちそうな巨大な目玉。気配こそ濃厚だが呪霊は身動きを取らない。目だけをぎょろぎょろと忙しなく動かしている。
「いや……変わんねえ、と、思う……」
虎杖の答えを聞いて竹汀は少し眉をひそめた。虎杖の目をじっと見上げ「ああ」と呟く。
「こういうこと?」
竹汀はその場で回れ右をした。被呪者はサトルくんの姿を見てはいけないという禁忌を自ら破る。無感情に立ち尽くす呪霊の足元の地面から巨大な口が勢いよくせり出し、制帽の呪霊ごと竹汀を飲み込もうとした。虎杖は咄嗟に竹汀の腹に腕を回し、共に背後に跳ねる。空を鋭い牙ががちんと噛み、それは悔し気な咆哮を上げながら地中に沈んでいく。虎杖が反撃を入れる隙もない。姿もよく見えなかった。おそろしく速い。
伊地知は二人に駆け寄り「平気ですか!?」と声をかける。竹汀は呪霊の消えた地面を指さした。
「伊地知、あれ、どういう呪霊?」
「おそらく呼応型呪霊の亜種です。被呪者と一定の手順を用いて相対することで簡易的な領域に似たものを展開しています。我々でいう縛りのようなものを用いて捕食の瞬間だけ呪力を底上げしている」
制帽の少年は疑似餌のようなものだ。だからあれを祓っても意味がなかった。本体は定められた手順を用いて初めて地上に現れる。だが縛りによって強化された呪霊は虎杖でも咄嗟に一撃を入れられない程度には素早い。そのような煩雑な手続きを経ないと姿すら見せぬ呪霊である。ひどく臆病ですぐ地中に逃げる。さてどうするかな、と口元を押さえる竹汀に虎杖が詰め寄った。
「竹汀!」
明らかに怒りを帯びた語調で名を呼ばれ、竹汀は目を丸くする。
「どういうつもりだよ、無関係な女の子巻き込んで!」
竹汀は一瞬訳が分からず黙り込んだが、自分の小さな手を見下ろし「ああ」と得心する。
「無関係じゃないよ。この子がサトルくんに電話したから付けまわされてた」
「だからって危ない目に合わせちゃ駄目だろ!」
竹汀は情けなく眉尻を下げた。
「ごめん、気を付ける……」
今にも泣き出しそうな竹汀の表情を見て虎杖は急におろおろする。少女の薄い肩を遠慮がちに叩いた。
「うん、でもまあ……何狙えばいいかも分かったし……というか竹汀キレッキレでビビった……」
「え? 格好良かった?」
けろりと顔中に喜色を湛える竹汀に虎杖は「回復早すぎ、もっと反省しろよ」と額を小突く。そのとき電話ボックスの方から誰かの悲鳴が聞こえた。子供の声ではないので教師であろうか。呪霊か、と身構える虎杖の耳に「女の子が倒れてる! 誰か! AED! 救急車!」という声が飛び込んできた。それを聞いた竹汀が「あ」と小さく呟く。
「体置きっぱなしだった」
虎杖と伊地知は一度に青褪め、声のもとへと走り出した。