神様、仏様(一)
呪術高専の敷地の隅でごろりと寝そべる茶虎の猫に、補助監督の嶋宗は眉を下げて話しかけていた。疲労のあまり奇行に走っているわけではない。高専には自在に肉体を替えられる呪術師――呪術師、と呼称することには賛否あるであろうが――がいる。
嶋宗自身もそうであるのだが、同じ術式持ちと言われると「まあ、そうなんでしょうけれど……」と口籠る羽目になる。嶋宗は上着より気軽に肉体を替えるようなことはしない。魂替えする体は吟味したいし、鳥より複雑な思考をする生き物に魂替えは極力したくない。術式がどうであるとか、呪力がどうであるとか、呪術師としてのセンスがどうであるとか、そういう些末な差異以前に、嶋宗は竹汀のことを精神性が違いすぎて理解が及ばないと思っている。
「竹汀さん、お願いしますって、怒られちゃいますよ……」
嶋宗が猫に向かってそう言うと、猫はぷひぷひと鼻を鳴らしながら引っくり返って背中を地面に擦り付ける。嶋宗は両手で猫の脇の下を撫でた。
「今高専は猫の手も借りたい有り様で――あ、猫の手ってそういう意味ではなくてですね」
そもそも学生も前線に投入する組織の人的資源が潤沢なわけがない。呪詛か呪物か呪術師か判然としない状態であろうと、人格を有し協力的で有用であるならばとことん使い倒すというのが上の意向であるらしい。自明ではあるがこの「上」というのは五条悟のことである。嶋宗は竹汀に対しては比較的同情的であるので、何もこんな状態になってまで労働に勤しむことはないのにと思う。竹汀が出張る任務では嶋宗自身が碌な目に逢わないということも竹汀を仕事に連れ出したくない理由の一つであったが。
呪霊の祓除に最適とは言いがたい竹汀が現場に召集される機会はそれほど多くない。だがひとたび呼ばれるとなれば、大抵は厄介で複雑で面倒な任務ばかりだ。
ついさっきまで機嫌よく嶋宗に撫でられていた猫ががぶりと嶋宗の手に噛み付く。嶋宗は悲鳴を上げて手を引っ込めた後、溜息混じりに項垂れる。
「あれ、嶋宗さんじゃん。何してんの?」
背後から声をかけられ、嶋宗はぱっと振り返った。敷地の隅で屈みこむ嶋宗に不思議そうな視線を向け、虎杖は「小鳥でも落ちてた?」と笑う。その背後で背の高い少女の呪骸が胡乱げな顔で嶋宗を見ていた。
「あれ!? 竹汀さん?」
一応名前を呼んで確認すると、呪骸は片手を軽く上げて肩を竦める。嶋宗が足元で転がる猫に視線をやれば、猫は嶋宗の脚にすりすりと頭を擦り付けた。黒いスラックスに白く細かい毛がついた。
「お、猫じゃん。嶋宗さん猫も好きなの?」
虎杖は嶋宗の傍らに屈みこむと猫の頭に手を伸ばす。猫は虎杖の手をすり抜け藪に駆け込んでいった。「驚かせちゃったかなあ」と虎杖は猫の消えた方向を見ながら手を握ったり開けたりした。嶋宗は呻くような曖昧な返事をする。恥ずかしいところを見られてしまったが、ここは猫を可愛がっていたということにして素知らぬふりをする。
「……虎杖くん、竹汀さん」
嶋宗は柔らかくて温かい猫の感触を思い出しながら立ち上がる。
「任務です」
言葉短に嶋宗が言うと、虎杖はきゅっと眉のあたりに力を入れる。竹汀はにこにこと嬉しそうな顔をした。
「悠仁と同じ任務だ」
気楽げな竹汀の言葉に虎杖は眉尻を下げて笑う。がんばろーな、と突き出される虎杖の拳に、竹汀はほっそりとした拳をこつんとぶつけた。それから竹汀はにこにこ笑ったまま嶋宗に顔を向けた。
「嶋宗」
「はい」
「鯖虎の猫が好きだよ」
茶虎じゃない、と言われ、嶋宗は一瞬瞑目した。
*
山間にぽつりと現われた温泉街に、車窓から外を眺めていた虎杖は歓声を上げる。レンタカーの拭きあげられた窓に額が当たりごつんと大きめの音が鳴った。竹汀は目を丸くし「大丈夫?」と心配そうな顔をする。
某県某所の温泉街は地方の小さな湯治場である。かつて弘法大師が錫杖で地を叩いたところ湯が湧き出たという日本国内に同じ逸話を持つ温泉が百はあるだろうという陳腐な謂れを後生大事に抱えている。近年は湯治場としてよりも観光地として売り出そうと試行錯誤しているらしい。ぽつぽつと新しくモダンな宿泊施設が見られるのはそういう理由である。
今日の現場はこのあたりで最も大きく歴史のある旅館邑鶴に巣食う呪霊であった。何ということのない呪霊である。階級でいえば三級、いいところで二級といったところか。敷地内を徘徊する呪霊に、周辺の木っ端の如き負の感情が呼応し一帯で呪霊による被害が見られるようになった。先遣隊が送り込まれたが本丸の呪霊の祓除が果たせなかったため代役として竹汀が立てられた。呪霊と呪術師にはときに如何ともしがたい相性というものがある。中には全ての相克も駆け引きも無に帰す呪術師もいるが、そういう人材は常に多忙だ。
砂利敷きの駐車場に停められた車から降りた虎杖は、砂利を踏んだ途端眉をひそめる。
「なんか……獣臭くねえ?」
虎杖は後部座席の竹汀に向けてそう言ったのであるが、返事は運転席の嶋宗からあった。
「あ、本当だ」
虎杖が嶋宗の顔を見て「今の嶋宗さん?」と尋ねると、嶋宗は諦念の表情のまま首を横に振る。虎杖が車から降りた竹汀に「竹汀……それやめな」と眉尻を下げながら言う。竹汀はレンタカーに押し込められ山道で揺すられた肢体を伸ばしながら首を傾げた。
「呪骸は嗅覚が弱いんだよ」
「せめて一言断ってから借りないと泥棒だろ」
「うーん、それはよくない」
竹汀は嶋宗の方に「今度は一言断ってから借りるね」と微笑んだ。はあ、と嶋宗は生返事を返す。嶋宗に体を貸す意思があるかどうかの確認はおそらくされないのだろう。
あたりを漂うむっとした獣臭は強さを増す。風情のある土塀の向こうから、巨大な黒い影が這い出す。縺れ絡み合い木の葉や塵埃を引きずる長く黒い毛が重たげな四足の獣である。何とも判別の付かない黒い塊と化したそれは、毛の間から突き出す鼻面と荒く短い呼吸の音でかろうじて犬を象っていることが分かった。
「竹汀!」
虎杖の鋭い声に竹汀は放り投げられた虎杖のバッグを受け取り車の陰に隠れる。基本的に竹汀の術式は呪霊との真っ向勝負には不向きで、肉体は虚弱に虚弱を重ねた軽量仕様である。旅先でガワを損傷すると不便なのでなるべく無傷で帰着したい。
虎杖は竹汀が退避したのを見届け、呪霊に向かい拳を構える。足元の砂利が弾け砕けるほどの踏み込みから放たれる強烈な拳打が呪霊の頭部に打ち込まれる。呪力の差を考えれば、それだけで十分に祓除が可能な一撃であった。だが虎杖の拳は呪霊の体をすり抜け虚しく宙を掻いた。
「うえっ!?」
バランスを崩した虎杖は砂利の上で蹈鞴を踏む。素早く呪霊に向き直る虎杖に、呪霊は怒り狂って咆哮した。腹の底がびりびりと震えるような本能に訴えかける唸り声である。呪霊は巨大な牙の並ぶ顎を大きく開け、虎杖に踊りかかる。飛び退り避けようとする虎杖に、竹汀が「悠仁、受けて!」と叫んだ。虎杖は咄嗟に顔の前に腕を構え、迫りくる顎を捕えようとした。がちん、と虎杖の目の前で顎が閉じる。虎杖の顔を生臭い息が撫で回す。いかにも悔し気な唸り声を上げながら、呪霊は何度も空を噛むような仕草をした。虎杖は呆然とその姿を見上げ、次いで竹汀のほうに視線をやる。竹汀はがむしゃらに何もいない空間に向けて攻撃を繰り返す呪霊を見て淡い色の目を細めていた。
やがて呪霊はがちがちと牙を鳴らしながら虎杖に背を向ける。縺れた黒い毛を引きずりながら、ずる、ずる、と土塀の向こうに姿を消した。
「――こういう理由で」
運転席から出られないままであった嶋宗が、やっと降車しながら二人に向かって申し訳なさそうな顔をした。
「単純な強さでは大したことのない呪霊ですが、どういうわけかどの術師の干渉も無効化されてしまう」
「触れられないんじゃ祓えないね」
竹汀が車のボンネットに寄りかかりながらのんびりとした口調で言う。
「でも向こうからも干渉できないなら、無害と判断してもいいんじゃないかな?」
「そうもいかないんです。あれのせいで周囲の呪霊が活性化して手に負えない」
そうなんだ、と竹汀は虎杖のバッグを抱え直した。竹汀はスポーツバッグのナイロン生地を撫でながら眉をひそめる。
「悠仁、このバッグ、硬くてごつごつしたものがやたらと入ってるんだけど、何これ」
「え……スイッチ持ってきちゃった。あとマリカー専用コントローラー」
気まずげに目を逸らしながら言う虎杖に竹汀は声を上げて笑い、嶋宗は「修学旅行じゃないんですから……」と眉尻を下げる。
竹汀はにっと笑って嶋宗に視線をやる。気楽に敷地内をうろつく猫とも、ふらふらと授業を冷やかす少女とも異なる顔をしているので、嶋宗は「あ、やっとやる気になってくれた」と胸を撫で下ろした。
「嶋宗、厄介な任務だよ。あの呪霊の正体を探り、なんとかして干渉し、祓除。そのうえマリカーをする時間も確保しなきゃならないなんて」
「マリカーは遠慮します……」
嶋宗の呟きに竹汀は聞こえないふりをする。
「考えるべきことと調べるべきことは山ほどある。でも、まあ、まずやらなきゃならないことは――」
自動車の脇で立ち話をしていた三人に、旅館の従業員が「三名でご予約の嶋宗様でしょうか」と話しかけてくる。嶋宗がそれに肯んずると、従業員は愛想よく「ようこそいらっしゃいました」と挨拶口上を述べながら三人組を不思議そうに見た。三十代の男と、十代の少年少女である。親子にしては年齢が近く、兄弟にしては年齢が離れている。
竹汀はバッグを虎杖に返しながら唇の片端を上げる。
「まずは、温泉に入る」
「えー、いいのかよそれで」
「呪霊の正体が分からないことには動けないからね。そういう面倒ごとは、嶋宗と自分に任せておいてよ」
ね、と笑顔を向けられ、嶋宗は「はあ、まあ、がんばります」と肩を竦める。自身の荷物を持ち歩かない竹汀は空の手を体の脇でぶらぶらさせながら楽しそうに笑った。
「修学旅行みたいだ。修学旅行知らないけど」
*
旅館邑鶴新館の売りは半離れの露天風呂付き特別客室である。露天風呂から臨む四季の景色を楽しみ、部屋食で豪勢な懐石に舌鼓を打つ。大人のための贅沢な時間を提供する宿だ。その案内パンフレットを眺めながら、竹汀は日に焼けた畳に寝そべっていた。旅館邑鶴旧館は古き良き湯治場の趣を強く残している。寝起きするだけの簡素な和室は全体的に白っぽく色褪せていた。どの時間に行っても薄暗い穴倉のような温泉に浸かり、共同の炊事場で自炊して長期逗留するスタイルの温泉宿だ。
竹汀は「どうせなら新館がよかったなあ」と畳の上で寝返りを打つ。冷たい髪の毛が頬に触れた。呪骸では食事も温泉も大して楽しめないが、それはそれとして気分の問題である。虎杖と嶋宗とともに男湯に入ろうとして叱られたことも響いていた。「女の見た目をしたいるだけで女ではない」という竹汀の言い分は、虎杖の「いや、ダメでしょ」の一言で却下された。男の呪骸を借りてくるべきだった。
竹汀はもそもそと起き上がり窓の外を眺める。まだ日の高い時間ではあるが、階下の通路を老爺が覚束ない足取りで湯治に向かう様子が見え、竹汀は眉を上げた。
首尾よく男の体を拝借した竹汀はいち早く浴場に向かおうとするのであるが、どうにも動きの悪い体であった。膝は曲がらぬし、腰は伸びない。竹汀はぜえぜえと死にかけのような呼吸をしながら浴場に辿り着いた。鄙びた湯治場の平日の午後である。脱衣所の籠は二人分しか使用されていない。竹汀は衣服を脱がないまま浴場へのガラス戸を押し開ける。白っぽい黄色に曇ったガラス戸はそういうものであったのか、経年と温泉成分でそうなってしまったのかは定かではない。熱く湿った空気が竹汀の乾き皺ばんだ皮膚を強制的に潤していく。
虎杖はよたよたと浴槽に近付いてくる服を着たままの老爺を見て目を丸くする。
「え、おじいちゃん、ここもう着替えないと駄目――」
竹汀がひらひらと手を振ると虎杖は何とも言い難い顔で口をへの字にした。
「竹汀、そこまでして混浴したいのかよ」
「そうだよ。悠仁と嶋宗ばっかりずるいな」
竹汀はしれっとそう言うと、ズボンの足首をまくり、気の遠くなるような時間をかけて風呂の縁に座る。虎杖がおろおろと竹汀の体を支えた。痩せて血管の浮き上がった足を湯に浸す竹汀を見た虎杖は湯に浸かり直しながら眉尻を下げる。
「じゃあ普通に服脱いで入ったらいいじゃん」
「この体で服を脱いでいたら朝までかかる。それによぼよぼのじいさんの裸なんか見たくない」
「おまえ……人の体を勝手に使っておいて」
呆れる虎杖を後目に竹汀は嶋宗の名前を呼ぶ。湯船の端で脚を伸ばして天井を仰ぎ我関せずを決め込んでいた嶋宗は、突然呼び立てられ飛沫をあげながら体を起こした。
「あの呪霊にまつわる報告が上がるようになったのはいつから?」
嶋宗は顔にかけていたタオルを浴槽の縁に置きながら記憶を辿る。
「窓が調査した限りでは三年ほど前です」
「三年?」
竹汀が訝しげな声を上げる。嶋宗は「はあ」と汗ばんだ髪を掻き上げた。
呪霊の姿はそれほど新しいものには見えなかった。呪霊の性質と外観に絶対の相関関係があるとは限らないが、ある程度はリンクするものがある。古びた獣の姿をした呪霊だ。もっと古い呪霊か、或いは古くから蓄積した感情により産まれた呪霊に見える。報告が三年前ということは、蓄積した感情から何かのきっかけを経て三年前に発生した可能性がある。
「――或いは、かつて封印された呪霊が三年前に解放されたか。……嶋宗、新館の建設は何年前だった?」
「詳しくは資料を見ないと分かりませんが、十年以上は前のはずです」
「じゃあ新館は関係ないか」
言い交わす二人を見て、虎杖は「なんか呪術師っぽい」と呟く。それを聞いた二人は同時に照れた。
「え? そう? 格好いい?」
「そんな、俺はただの補助監督ですよ」
嶋宗が胸の前で手を振ったために水面が漣立ち、竹汀のズボンの裾を濡らす。竹汀はのろのろと脚を上げようとしたが、それが叶うころには波はおさまっていた。
「断定はできないから仮説の一つとしておこうかな。温泉から上がったら嶋宗は三年前を中心に呪霊に影響を与えていそうな出来事がなかったか本部に確認してね。悠仁は自分と敷地内に何かないか調査するから」
嶋宗は「体よく追い払われたなあ」と思ったが、役割分担としては異議がなかったので口にはしなかった。
「悠仁はどうだった? あの呪霊に相対してみて、何か気が付いたことある?」
赤茶に濁った水面を眺めていた虎杖はふと視線を上げる。
「あのさ、あ、変なこと言ったら無視してほしいんだけど、あの呪霊、玉犬に似てなかった?」
虎杖が言うと、竹汀は片眉を上げた。思いのほか鋭い視線を向けられた虎杖は竹汀の考え事を邪魔してしまったかと「いやほんとなんとなくなんだけどさ」と言い募る。遠慮する虎杖に竹汀は微笑んだ。
「いいよ、聞かせてほしいな」
「……あー、伏黒がさ、呪霊を食ってる玉犬に次の命令を出したときと同じような動きだなって思ったんだよ」
「お預けされた犬みたいな?」
「そういう。犬みたいな見た目だからそう思っただけかも」
虎杖の言葉を聞いた竹汀は何を考えているか掴みかねる老い弛緩した表情のまま動かなくなる。それって、と嶋宗が口を挟む。
「何者かに操られている呪霊の可能性がありますか」
「呪霊操術の呪詛師が噛んでいるって? そんなレア術式持ちがうろうろしているんじゃたまったもんじゃないよ。魂替師じゃあるまいし」
魂替え自虐ジョークに笑い合う二人を見て、虎杖は手を挙げる。
「質問なんだけど、あれって式神ってことはねえの?」
「悠仁はどう思った?」
問い返され、虎杖は眉根を寄せる。はっきりと判別できるわけではないが、呪霊だと言われて違和感はなかった。虎杖の答えに竹汀は肩を竦める。
「悠仁は鋭いね。式神に呪霊を装わせる方法が全くないわけではないよ。その可能性も十分に考えるべきだ」
呪霊にあらゆる干渉が無効化されるのは、おそらくなんらかの縛りがあるからだ。呪霊は何者にも干渉されないかわりに、虎杖への攻撃を禁じられている。何者にも干渉されず、何者にも干渉しない。縛りとしては十分に成立している。だが重要なのは、誰が、何を目的としてその縛りを呪霊に科したかだ。呪霊が己自身に科したのだとすれば、全く意味の分からない縛りだ。
「悠仁の指摘は重要かもしれない」
竹汀はそう言ったきり黙り込む。窓の外で山鳩が飛び立っていった。しばらく湯口から流れ出る水音だけが響く。竹汀? と虎杖が声をかけると、老爺が困惑気な目を虎杖に向ける。
「……なんで風呂に服のまま?」
「あー! すんません! 立てます!?」
虎杖は慌てて老爺を脱衣所まで連れて行った。
*
風呂からあがった虎杖に軽いお叱りを受けた後、竹汀は情報収集を兼ねて旅館の敷地内を散策していた。古びた旅館は廃墟めいた趣であるが、怪しいところは特に見当たらない。浴衣に茶羽織の虎杖に倣い、常の薄着の上から浴衣を着込んだ竹汀はスリッパをぱたぱたいわせながら薄暗い廊下を歩いていた。窓の外はとうに日が暮れ真っ暗になっていて、廊下の突き当りの消火器の赤いランプばかりが目立つ。
「なんにもないなあ」
ぼやくような虎杖の言葉に竹汀は「そうだねえ」とあまりふさわしくない暢気な答えを返した。暗い窓の向こうを大きな黒い影がずる、ずる、と這っていく。ガラス越しとはいえ呪霊は一度攻撃された虎杖に見向きもしない。二人並んでその姿を見送った後、虎杖は不意に「はらへった」と呟いた。竹汀は片眉を上げる。
「そう? 嶋宗も呼んで夕飯にしようか」
「あー、嶋宗さんも夕飯用意してないよな。このへんコンビニあんのかな?」
「カップ麺買ってたよ」
「うわさすが嶋宗さん!」
炊事場ってこのあたりだったよな、と虎杖は廊下の曲がり角を覗き込む。換気扇の回る音と、女の話し声が聞こえた。何気なく炊事場を覗き込むと、腰の曲がった老女が三人いて、台の上に野菜の入った箱を抱え上げようと四苦八苦しているところであった。それを見るなり虎杖は炊事場に飛び込んでいく。
「おばあちゃん、あぶないよ、怪我するって」
言うなり虎杖はダンボール箱を難なく台上に上げた。何使うの? 大根? うわデッケエ! 俺出すよ重いから、これどこで買ったの? えーじゃあ俺も明日そこで買おうかな、とあっという間に祖母ほど年の離れた女たちと意気投合した虎杖は、どういうわけか三人の炊事を手伝っていた。
さすがだなあ、と舌を巻いていた竹汀もあれよあれよと巻き込まれ白菜を切るように包丁を手渡されたが、刃物の扱いのあまりの不器用さに即座に虎杖に包丁を取り上げられた。炊事場の端で所在なくさやえんどうの筋を取りながら、竹汀は老女たちと虎杖の会話を聞いていた。
「さっき他のお客さんに聞いたんだけどね、昨晩、隣の旅館に泊まっていたアベックが帰る道すがらにダムに落っこちちゃったんだって」
アベック、と竹汀は口内で単語を反芻する。さすがに竹汀もその言葉がかなり時代を感じさせることは知っていた。だが虎杖はそれを茶化すこともせず「ええー」と痛々し気な声を上げる。
「何それ、大丈夫だったの? 事故?」
鶏肉を切っていた老女が首を横に振り、わざとらしく声をひそめた。
「なんでもね、心中なんじゃないかって」
「ここ最近多いのよねえ、そういうの。ほら、この間も青嵐荘で小火があったし、その前は喧嘩でしょ? 喧嘩なんかしなくたってお迎えの近いようなジサマが流血騒ぎよ」
軽口に老女たちが密やかな笑い声をあげる。立て続けの事故は活性化した呪いによるものであろう。虎杖の横顔に苦いものが奔る。
「さすがにおかしいっていうんで、大女将が拝み屋さんを呼ぶって言ってるらしいわよ」
「ああ、でも女将は嫌がってるんでしょ? あの人、都会育ちだものねえ」
そうそう、と頷き合う女たちに、竹汀はさやえんどうから顔を上げる。
「拝み屋?」
黙々と作業をしていた竹汀が突然話題に興味を示したことに老女は目を丸くする。
「そうよぉ、このへんには昔から頼りにされてる拝み屋さんがいるの。信じていなくたってちょっと見てもらえばいいのにねえ」
老女は言いながら竹汀の手元からさやえんどうを取り上げ、大きな鍋に放り込むと玉杓子でひとまわしした。鍋の中身を小鍋に移し替え、炊き立てのご飯とともに虎杖に包んで持たせた。それを受け取った虎杖は笑顔でお礼を言ったあと「ばあちゃんたちも気をつけてな、事故とか、喧嘩……はないかもだけど」と言い添えた。老女たちは「あらやだ孫にも心配されないのに」とからからと笑った。
炊事場を後にしながら、虎杖は固い表情で「竹汀」と小さく呟く。竹汀は爪の間に入って取れなくなったさやえんどうの筋を取り除こうと躍起になりながら虎杖に視線だけを向ける。
「さすが悠仁、持ってるね」
竹汀の軽い口調に、虎杖は表情を緩めて苦笑した。