神様、仏様(二)
ガラス障子から差し込む朝の日差しを瞼の裏に感じ、虎杖は慣れない重い布団の中でふと目を覚ました。いまだはっきりとしない視界に白っぽいものが写り、虎杖は数度まばたきする。その白っぽいものが枕元に座り込んで虎杖の顔を覗き込む竹汀の顔だと気が付き、虎杖は思わず短い悲鳴を上げた。
「竹汀!?」
「おはよう悠仁」
「いや何!? 怖い!」
「起きないなって思って」
「普通に起こしてくれよ……」
虎杖はもそもそと布団から抜け出し、寝ている間に外れた帯をシーツの合間から手探りで探す。嶋宗さんは、という欠伸混じりの虎杖の問いに、竹汀は「朝風呂」と微笑む。虎杖はやっと見つけ出した帯を腰に巻きながら「ふうん」と軽い返事をする。虎杖のことを「修学旅行じゃないんだから」などと諫めた割には案外暢気だと思いもした。
虎杖が俺も朝風呂行こうかななどと考えていると、廊下につながる木戸が開けられる音がした。襖戸が開けられ、すでにスーツを着込んだ嶋宗がスマホとタブレットを手に部屋に戻ってくる。
「本部から資料届きました」
開口一番そう言う嶋宗の姿を目の当たりにし、虎杖は勢いよく竹汀の方を振り返る。
「めっちゃ働いてんじゃん!」
目を剥く虎杖に竹汀は肩を震わせて笑った。嶋宗だけが二人のやりとりを怪訝な顔で見ていた。
顔を洗い、着替え、菓子パンで朝食を済ませた虎杖は、広縁に設置されたテーブルで向かい合って話し込む二人を見て「旅館の謎スペースを有効活用してる人はじめて見た」と思った。
制服に着替えた虎杖を見て、竹汀は眉を上げる。
「朝風呂してこないの?」
「してる場合じゃないでしょ」
よかったのに、と竹汀は唇をとがらせる。
「死んだり生き返ったり殴ったり殴られたり忙しいんだから、高専を離れたときくらいのんびりしていいんだよ」
「竹汀はのんびりしすぎ」
虎杖の言葉に竹汀は肩を竦める。呪霊自体は人間を傷つけることはないが、周囲への影響は無視できない。早く解決しなければと気負う虎杖に、竹汀はひらひらと手を振る。
「悠仁が言うならしょうがない」
竹汀は煤けた籐椅子に深く座り直すと、嶋宗が用意した資料が虎杖に見えるようにタブレットを差し出す。
「まずは、呪霊が活性化した理由について調べましたが、これというものは特にありませんでした。五年前の秋に大きな地震があり旅館の裏手の神社の設備が一部破損したようですが、直接的な関係があるかは不明です」
嶋宗は窓が撮影した画像を二人に示す。古びた社であるが手入れはされている。鳥居に書かれた庚申の墨文字を見るに庚申社であるようだった。
「一応事前に調査はしてありますが、残穢は発見できませんでした。それと、三年前に旅館の経営者である鶴岡家では自家用車の買い換えをしているんですけど……これは関係ありますかね?」
いやあないんじゃないかなあ、と竹汀は天井を仰ぐ。虎杖が勢いよく手を挙げた。
「はい! 事故った車だったとか!」
「新車です。ホンダのステップワゴン」
「じゃあ違うか……」
肩を落とす虎杖にかわり、竹汀が眉をひそめた。
「ステップワゴンって、かなり大きめの車だよね」
「ええ、お子さんが多いようです」
「子供は何歳?」
ええと、と嶋宗は資料を遡る。
「長男十三歳、次男八歳、三男六歳……長女三歳」
あ、と嶋宗は声を漏らす。竹汀が片眉を上げた。
「まずはその線からいこうかな」
嶋宗が「その線っていったって……」と口ごもった。確証があるわけでもないのに本人に接触したところで得られる情報はたかが知れている。まさか非術師相手に「最近現れた呪霊について何か知りませんか」と尋ねるわけにもいかない。
どうやって状況を探るかと頭をひねる嶋宗に、竹汀は事も無げに笑って見せた。
「悩む必要あるかな、これ以上ないほど適任がいるのに」
竹汀は虎杖の方を見、それに倣い嶋宗も虎杖の方を見る。虎杖は目を丸くして己の鼻先を指さした。
*
温泉街からは少し離れた公立中学の校庭に猫がごろりと寝転がっていた。それを見た少年は始業のチャイムまでまだ少し時間があることを確認して猫に駆け寄る。少年は屈みこみ、逃げるそぶりのない猫の背をそっと撫でる。虎杖はささやかな罪悪感に駆られながら少年の背中に声をかけた。
「なあなあ、聞きたいことがあるんだけど、いい?」
少年は突然話しかけてきた虎杖が見慣れぬ制服を着ていることと、明るい髪色であることに怯えたような顔をした。虎杖は笑みを浮かべ、両の手のひらを少年に向ける。
「……なんですか」
立ち上がり後ずさる少年が抱えるバッグについたラゲージタグを見て、虎杖はついとそれを指さす。
「そのバンド、好きなの?」
少年は無言で頷く。虎杖は景気よく破顔した。
「えー、俺も結構好き。それ、ライブ行った? 良かった?」
少年はうつむきがちにタグを指先でいじった。
「行ったわけじゃないです。このへん田舎だし……。通販で買ったやつ」
「めっちゃいいじゃん。いつかライブ行けたらいいね、高校生になったらとか?」
にこにこ笑う虎杖に少年はわずかに微笑み軽く頷いた。
「呼び止めてごめんな、聞きたいことあって。俺ね、きみんとこの温泉泊まってんだ」
「……あっ、ありがとうございます」
「めちゃいいお湯だった」
温泉を褒めると少年の表情が綻んだ。
「それで、聞きたいのが……うーんと、温泉で最近変なことない?」
腹芸の苦手な虎杖は単刀直入にそう尋ねた。一度緩んだ少年の表情が強張る。虎杖は青ざめた少年の顔を見て眉尻を下げた。
「信じられないかもしれないけど、俺ならちょっと役に立てるかも。話だけでも聞かせてくれねえ?」
座る? と虎杖は校庭の端に積まれた古タイヤを指さす。少年はおずおずと頷き、タイヤに腰掛けた。白い毛の太った猫が、ぼてぼてと少年の後を追い制服の膝によじ登る。少年は猫の頭に手を置いた。
急に変なこと聞いてごめん、と言いかけた虎杖の言葉を少年が遮る。
「泊まってて、変なことなかったですか?」
青ざめた顔を正面に向けたまま、少年はぽつりと言う。虎杖は少年の横顔に視線を注ぎ何を言うか迷った後、少年の膝の上の白猫を指先で撫でた。
「獣臭いと思った」
少年は声にならない細い呻き声を漏らす。虎杖は任務に当たるたびに、巻き込まれた人たちにどれほど寄り添えばいいのか加減が分からなくなる。本当は呪いのことも何もかも話して、全部俺に任せてくれと言ってしまいたいような気もした。
「何か……いるのかもしれないんです。こんなこと、誰にも言えないんですけど」
少年は誰かが聞き耳を立てているかのように声を潜める。虎杖は急かさぬように「うん」と慎重に返事をした。少年は猫の頭を撫でる。日に焼けた手で一方向に撫で付けられるたびに伏せられた猫の耳がぴょんと立った。
「原因とか、きっかけとか、分かるか?」
虎杖の問いに少年は眉をひそめた。
「妹が産まれてからです。うちでは女の子は不吉だって、ばあちゃんが言うんです。めったに産まれないし、産まれても赤ん坊のうちに死んじゃうって」
「そうなんだ。大変だな。妹ちゃんは元気にしてるのか?」
少年は浅く頷く。
「はい、妹は元気です。でも温泉で気分が悪くなる人がいたりして、ばあちゃんが拝み屋さんに見てもらった方がいいって」
虎杖は昨晩耳にした会話を思い出していた。
「見てもらう?」
少年はぎゅっと眉根を寄せ、乾燥した砂の地面を見つめた。学校指定の垢抜けないスニーカーの爪先が砂を掘り返す。
「じいちゃんの妹は拝み屋さんに言われてよそで暮らさないとならなくなったから」
だから見せたくないのだ、と少年は言った。虎杖は昨晩耳に挟んだやりとりの「若女将がいやがっている」というくだりを思い出した。少年の母が拝み屋を頼りたくないのは、拝み屋を信じていないからではない。信じているからだ。
人気のない校庭に予鈴が鳴り響き、少年ははっと顔を上げる。あの、すみません、と辿々しく言葉を紡ぐ少年に虎杖は「あ、ごめん、遅刻?」と苦笑いした。少年の膝の上の猫がのたのたと虎杖の膝の上に移る。立ち上がり、慌ただしくその場を去ろうとする少年に虎杖は声をかけた。
「俺はきみに何をしたらいい?」
少年は眉尻を下げ、泣きだしそうになるのをこられるような表情を浮かべる。
「家族と妹と一緒に暮らせるようにしてほしい。あと、変なことが起こらないでほしい」
そう言い残して走り去る少年を虎杖は見送る。虎杖の膝の上で太った猫がごろりと腹を出し短く鳴いた。黒い制服に白い抜け毛がいやというほど張り付いていた。
*
明らかになった事実は多くない。一つ、旅館邑鶴の敷地内には呪霊が巣食っていること。二つ、呪霊はあらゆる干渉を無効化し、また呪霊自身も何者にも干渉しないこと。三つ、呪霊の活動が活発になった時期は鶴岡家に長女が産まれた時期と合致すること。四つ、鶴岡家では古くから女児は不吉とされていたこと。
「そして、この騒動になんらかの形で拝み屋が関与していること」
ここに到着してから短期間で二度も耳にする羽目になった単語を舌の上に乗せながら竹汀は首を傾げた。温泉街に戻る途中、山中の寂れた食堂で昼食を取る二人の前で、竹汀は水の入ったグラスを意味もなく手に取ったり戻したりしていた。
食堂に入っても注文をせず同行者の食事を眺めるだけの竹汀に老齢の店主が胡乱な目を向けていた。
嶋宗は五目ソバを前に手を合わせ割り箸を割る。竹汀は嶋宗の鞄からタブレットを取り上げ、本部から届いた資料に目を走らせた。
この地域一帯で拝み屋として慕われている女は、もとは呪術師に連なる血族であった。明治期に加茂家の狼藉により御三家の軛が弛んだことを皮切りに、体制側と手を切り呪術師ではなく地域の拝み屋として在ることを選び今に至る。協会への繋がりと呪術の体系を手放してはいるが、緩やかな監視対象になっている。今のところせいぜいよく当たる占い師の枠を出ない動きしかしていないため、静観されている状況だ。
それを聞いた虎杖は何気なく「そういう術師って結構いるのか?」とワンタンメンを啜る合間に問う。そういう? と竹汀はタブレットから顔を上げた。虎杖は水を一口飲んだ。
「そういう、呪詛師ではないけど、呪術師でもないような」
虎杖の素朴な問いに嶋宗と竹汀は顔を見合わせた。
「……誰もが、呪霊を祓うのに向いた術式を持っているとは限りませんから」
嶋宗は苦笑気味にそう言った。虎杖はなんとなく失礼なことを言ってしまったのだろうかと小さく「あ、ごめん」と呻く。竹汀が口の端で笑った。
「魂替え屋なんか一般人相手に小金を稼いでいる方がずっとローリスクハイリターンだろうね」
そういうものか、と虎杖はスープの中に漂う薄いワンタンを箸でつつく。
「嶋宗さんは芸をするインコの動画とか作ったらバズりそう」
「うちのみかんちゃんは魂替えしなくても芸をしますよ」
嶋宗は素早くスマホを差し出す。液晶には止まり木で器用にくるくる回る小鳥が映っていた。動画は鳥の「ミカンチャンカワイイ!」という金切り声とともに終わった。虎杖はそれを見ながら「鳥が覚えるほどみかんちゃん可愛いと繰り返しているのだろうな」と思った。嶋宗が次の動画を見せようとする前に、竹汀は早々に話題を戻す。
「この女は今六十代……前回鶴岡家の女児を家から出すよう指示したのは?」
「先代です。拝み屋は血族内で似た術式を持つ者で世襲しているので」
じゃあ直接話は聞けないか、と竹汀は日に焼けた天井を仰ぐ。壁に貼られたメニューの紙を三周ほど眺めたあと、視線を嶋宗に戻した。
「術式は?」
「式神使いに分類されると思います。予言獣を召喚して託宣を得る」
「あ、それは一般人相手に卜筮屋をしていたほうが分がいい」
ははは、と竹汀は肩を揺らして笑う。それからワンタンメンを食べ終え空の丼に向かって手を合わせる虎杖に笑顔を向けた。
「悠仁、この呪骸なら占い好きで山奥までやってきた無邪気な女の子に見えるかな?」
竹汀は芝居っぽく小首を傾げて見せる。夜蛾謹製の呪骸と分かっていてさえ、息が詰まるほど可愛らしい。虎杖は気まずさと気恥ずかしさに目を逸らしながら「うーん、占いが無くても幸運を掴み取りそうに見える」と呻いた。竹汀はふふと小さく笑う。
「宿に戻る前に仕事の吉凶でも占ってもらいに行こう」
言うなり席を立ち車に戻っていく。虎杖と嶋宗が会計を済ませ店を出ると、竹汀は車に寄り掛かり眉根を寄せてタブレットを見つめていた。その姿を見た虎杖は傍らの嶋宗に耳打ちする。
「竹汀って、なんだかんだ真面目だよな」
それを聞いた嶋宗は一瞬変な顔をした。
「……まあ、常軌を逸した努力家ではあるんだと思います。あとは虎杖君可愛さですかね」
「え、俺?」
「竹汀さんがリスクを取ってまでこっち側にいるのは、虎杖君のことを大切に思っているからでしょう」
一般人相手に小金を稼いだほうが分がいい、と笑う竹汀を思い出し、虎杖は「そうなんだ」と呟く。竹汀には一般人相手に財布の小銭を拝借する悪癖があるが、二人の言うのはそういうことではないのだろう。虎杖は嶋宗をおずおずと窺い見た。
「嶋宗さんはなんで補助監督してるの?」
虎杖の問いに嶋宗は目を丸くし、次いで照れたように頬を掻く。
「俺ですか? 俺は……まああんまり器用じゃないんで。普通の会社勤めよりはマシかなって」
嶋宗はそう言いながらキーレスキーで車のドアを開ける。タブレット片手に後部座席に乗り込む竹汀が「善良だからだよ」と言った。え、なに? と虎杖が竹汀の顔を覗き込むと、竹汀はタブレットに視線を落としたまま顔も上げなかった。
「嶋宗が魂替えのくせに補助監督をしている理由」
竹汀の言葉に運転席の嶋宗は恐縮して「ありがとうございます」と肩を竦める。虎杖は「嶋宗さん、多分褒められてねえよ」と呟き、竹汀は「ほら、そういうとこ」と笑った。
滑るように発進する車の後部座席で虎杖と竹汀はタブレットの小さな液晶を覗き込んだ。資料によれば、拝み屋の一族は明治期に完全に体制と袂を分かつ以前から一般人相手に商売を行い叱責を受けていたらしい。文面からは呪術師が非術師相手に能力を行使し財を成すことへの反感よりも、上層部が先見の力を独占したがったようにも見て取れた。
「悠仁はさ、占い好き?」
竹汀はタブレット操作用の手袋の指先を摘まみながら尋ねる。虎杖は眉を上げた。
「朝の星座占いとかはたまに見るかなあ」
「十割当たる予言があったとしたら、悠仁は聞きたい?」
虎杖は座席に寄りかかりながら考え込む。何を当てるかにもよるのかもしれない。たとえば、一月後に気が狂うほど苦しみのたうちながら死ぬのだとして、己は絶望せず一か月を受け入れることが出来るだろうか。
「分かんね、ちょっと怖い」
「そうだね、そう思うよ」
竹汀は溜息混じりに笑った。だが、たとえば虎杖に大きな不幸が待ち構えているのだとして、竹汀はそれを知っておきたい気もした。己に出来ることを、十全に用意をしておく時間と覚悟が欲しかった。しかしやはり知っておくのは怖い気もする。
木々の合間からたまにはっとするほど美しい風景が見える以外は単調な山道を車は黙々と抜けていく。標高が下がり、ぽつぽつと民家が見られるようになった。車は不自然なまでに整備された国道から外れ、舗装の古びた隘路に入っていく。嶋宗が時折不安そうに「これカーナビ合ってますか?」「間違っていたらターンできるところありますか?」と泣き言をこぼした。
背の高い白樺の林を抜けると、突然開けた敷地が現われた。山間の平地に張り付くように、かつて大邸宅であったろう屋敷が建っている。今はその大部分が朽ち、山に飲み込まれようとしていた。不思議と荒れ果てた印象はなかった。山間で倒木が苔むし土に還っていくような趣だった。
「ここ?」
虎杖は十年後には朽ち果て消えていそうな邸宅を眺めて嶋宗を振り返る。そのはずです、と嶋宗は住所とカーナビを何度も見比べた。竹汀は首を巡らせあたりを見た後、広い前庭をさっさと横切り躊躇なく呼び鈴を押した。虎杖はその音色が祖父と暮らした家と同じ呼び出し音であったので一瞬気をとられた。
はあい、と邸宅の奥から女性が玄関に向かってくる気配がする。細く開けられた引き戸の間から、六十がらみの女の顔が覗いた。女は玄関先に、スーツ姿の男と、制服姿の少年、軽装の少女が立っているのを見て怪訝な顔をした。
「あら、どちら様かしら……」
「占いをしてくれるって聞いたんだけど」
初対面の年上の女性に対するものとも思えぬ態度で竹汀はそう言う。虎杖はぎょっとして竹汀と女性の間に割って入る。思えば、虎杖が初めて竹汀に会ったときもこの調子であった。
「すみません、はじめまして。すげー当たる占い師さんがいるって聞いてたんですけど、ここで合ってますか」
女は竹汀と虎杖を順に見て、首を横に振る。
「ごめんなさいね、ご紹介が無いと見てあげられないの。こんなところまで来てもらって悪いのだけど――」
そう言いかけた女を無視して、竹汀は引き戸をぞろりと開け放つ。
「邑鶴って旅館を知ってる? 知ってるなら教えてほしい」
女は一歩後ずさった。
「その旅館は、ここから車で一時間くらい先だけれど……」
「そっちの先代が、その旅館の面倒を見ていたらしい。その不始末がこっちに回ってきているんだけど、何か知っていることは?」
それを聞くなり女は、何かを察したように深い溜息をついた。女の背後がゆらゆらと揺らめく。二つの頭を持つ痩せさらばえた巨大な黒い鳥が、薄い羽をばさばさと羽ばたかせる。巨鳥は女の背後に立ち、双頭を女の両耳に寄せ何事かを囀った。黒い嘴の間から人間のような歯列と分厚い舌が覗く。
「あなた」
女は飛び石に上がったり下りたりしながら所在なさげに成り行きを見守っていた嶋宗に声をかける。
「青い羽の小鳥の体調が悪いのは、お腹の中に虫がいるからよ、フンを獣医に見てもらいなさいな」
嶋宗はそれを聞くなり「あ、」と声を漏らす。魂替えとも思えぬ分かりやすさに竹汀は肩を落とした。
「教えてよ、素敵な彼氏は出来そう?」
竹汀の問いに女の背後で鳥が囀る。女は眉をひそめ、何事か考えた後、慎重に言葉を選んだ。
「あなたには必要ないし、必要だと思っていないでしょう」
「……それはずるいな。まあいいや、本物ではあるらしい」
にこにこ笑う竹汀を見て、女は観念したように三人を家に上げた。朽ちかけた外観に反して室内は手入れが行き届き住みよく整えられている。女は三人を客間に通し、茶と菓子を出した。嶋宗は表向きの連絡先を女に手渡す。
「依頼を受けて邑鶴の調査をしています」
嶋宗の言葉に女は「そう」とだけ囁いた。女の背後で双頭の鳥が絶えず何かを囀り続けている。予言の力の前では無用な茶番であったかもしれない。嶋宗が順を追って話す経緯を、女は黙って聞いていた。
「確認したい点は三つです。邑鶴に現れた犬の霊に心当たりがあるか。前回鶴岡家の女児が家を出された理由は何か。この騒動を片付ける糸口をご存知か」
どうでしょうか、と嶋宗が懇切丁寧に問う。女は温くなった茶に口を付けながら陽光の降り注ぐ縁側に視線をやった。
「……私と同じようなものを見る人に、家族以外でお会いしたのは初めてよ」
女はそう言ってふっと微笑んだ。それもこんなに若い子たちが、と女は言い、虎杖は慣れない正座に膝をごそごそさせながら肩を竦めた。女は虎杖に顔を向け「どうぞ膝を崩して、お菓子も召し上がってちょうだい」と笑いかけた。先ほど大盛りのワンタンメンを食べたばかりにもかかわらず、虎杖は「いただきます!」と菓子に手を伸ばした。
「先代が邑鶴の件に関わっているのは間違いないと思います。このあたりでそういう奇妙なことがあると、ここに相談が持ち込まれるの。多分記録も残ってる。先代はまめで……少し吝嗇な人だったのね。どんな相談があって、いくら報酬をもらったか、事細かに記してあるから」
少しお待ちになってね、と女は言い残し部屋を去り、日記帳のようなビニール張りの帳面を手に戻ってきた。滲む緑色のインクで年月日と「鶴岡倉雄 孫娘が産まれた頃から頻発する怪異 敷地内を徘徊する獣霊に血族の痕跡か 怪異を鎮めるため孫娘を余所で育てるように助言 金三千円 菓子折り 焼き海苔」と簡素に記されていた。嶋宗は記された日付と手持ちの資料を照合する。その件で間違いがなかった。
虎杖はその記述を見て帳面に触れかけ、古びた紙に触っていいのか迷い手を引っ込める。
「この血族の痕跡って、どういう意味?」
女は黙って首を横に振ったが、その途中で動きを止め紙面を見つめる。
「古くからあの家に憑りついているものみたいだから、先代の、それよりずっと前のご先祖様が、何かをしていたのかも」
黄金色に光る茶の水面を眺めていた竹汀が顔を上げた。
「何か?」
なにか、と女は口の中で繰り返す。背後の鳥は不気味なほどに沈黙していた。心当たりがあるような、何か言いかけて戸惑うような、女はそういう素振りを見せる。竹汀の無機質に陽光を反射する双眸から、女は目を逸らす。
「今でこそ山神様の声を聞くだけだけれど、昔はもっと強い力を持った人がいたの」
「たとえば」
容赦ない竹汀の追究に、女は苦笑する。
「人に見えないものを見て、人に出来ないことが出来ると、どうしてもそれを――あまり良くない使い方をしたくなってしまうものなのかしらね。だから私は、このお役目も、血筋も、おしまいにしてしまいたいのよ」
女の言葉に竹汀は片眉を上げて見せた。虎杖は膝に手をつき頭を下げる。
「俺、その家の子となんとかするって約束しちゃったんで、なんでもいいんで教えてくれませんか」
孫ほどの年齢の少年が真剣に頭を下げる様子を見て、女はきゅっと眉根を寄せた。
「……山神様の声を聞くのではなくて、山神様に囁かせて他者の考えることや感じることを意のままに書き換えてしまう人が」
ぽつ、と女は呟く。竹汀が身を乗り出す気配を虎杖は感じていた。
「それは、人間以外にも通用する?」
「さあ、私も話に聞いているばかりだから」
「今はその術師――あ、その能力を持った人はいないの?」
女は一瞬眉をひそめ、溜息混じりに浅く頷く。
「私の知る限りは、もうずっとそういう力のある人はいない」
そう、と言ったきり、竹汀は黙り込む。刺々しいほどの沈黙の中、虎杖は「あ、そうだ」と雑談を切り出す。
「せっかくだから、ってのも変だけど、俺も占ってもらえたりする?」
殊更に明るい声で虎杖が言うと、女は綻ぶように苦笑する。
「ええ、せっかくだもの――」
女が姿勢を正して虎杖の方を見た瞬間、女の背後で巨鳥が金切り声を上げた。女は息を詰まらせ耳を塞ぐ。巨鳥は恐れ慄き部屋を覆うような巨大な翼を羽ばたかせる。黒い羽がばらばらと部屋中に舞い散り、床に落ちると煤のようにぱっと霧散した。
虎杖は慌てて席を立ち「あ、すみません、大丈夫ですか!」と女の体を支えた。女は青い顔で「大丈夫よ、ごめんなさいね」と途切れ途切れに答える。
「ごめんなさい、申し訳ないのだけれど、今日はこれ以上は――」
「あ、うん、ごめん、俺が変なこと言ったから」
「いいのよ、たまにあることだから……」
女は頼りない動作で立ち上がり、虎杖は無意識の己の腹に手のひらを置く。
「俺が……不用意だったんだと思う。ごめん」
虎杖が竹汀に視線をやると、竹汀は口の端に笑みを浮かべて肩を竦める。嶋宗は部屋を出たがるように身悶えする双頭の鳥をおろおろと見ていた。
女の先導で屋敷を後にする三人を、女は喘鳴まじりに呼び止めた。あなた、と女は嶋宗の方を手で示す。
「あなた……十月三十一日は渋谷に近付いては駄目よ」
言われた嶋宗は自身の鼻先を指差して不思議そうな顔をする。それから、と女は竹汀の方を示す。
「あなた、あなたが今考えていることは、全部誤った方向に進んでいる」
竹汀は眉根を寄せた。
「もっと詳しく聞きたいな」
「私が言えるのはそれだけよ」
女はそうだけ言い残し、のろのろと玄関の引き戸を閉めた。タイル張りの玄関ポーチに取り残された三人は、誰からということもなく門前に停めた車に戻りだす。竹汀は虎杖に「気にしなくていいよ」とだけ言った。虎杖は俯きがちに「うん」と答える。
「……なあ、さっきあの人が言った、今考えてることって、」
「今それについて考えてる」
嶋宗も「え、俺、十月三十一日に渋谷に行くとどうなるんですか」と顔を青くしていた。車の運転席に乗り込む竹汀は半笑いを浮かべて「やっぱり先のことなんか知るもんじゃない」と呻いた。