神様、仏様(終)
ふ、と目が覚めたのは夜半の頃であった。真暗い和室の冷たい畳を手で探り、スマホを探す。目を焼く液晶が時刻を表示し、部屋にぼんやりと広がる青白い光が嶋宗の布団が膨らんでいる様子を照らす。その手前にあるはずの竹汀の布団には人の気配がなく平らのままであった。
虎杖は半覚醒のまま「トイレにでも行ったのかな」と思ったが、竹汀がそれを必要としないことを思い出した。室内に視線を巡らせる。ガラス障子の向こうから青い月の光が降り注ぐ広縁に、竹汀が籐椅子の上で膝を抱えて座っていた。竹汀は虎杖の視線に気が付くと、ゆるく手を上げる。洗濯を繰り返し模様と地色が曖昧になった浴衣が椅子の肘置きを滑り落ちた。
虎杖は深い寝息をたてる嶋宗を起こさぬようそっと布団を抜け出す。竹汀が座るものと対に置かれた籐椅子に腰かけると、華奢な椅子はばりばりと不穏な音をたてた。ぎょっとして腰を浮かす虎杖に、竹汀は肩を揺らして笑う。
「何してんの」
虎杖が問うと、竹汀は窓の方に首を傾けながら「何も」と言った。あ、そっか、と虎杖は小さく呟く。竹汀の体は不安定な魂の入れ物にすぎず、食事も睡眠も必要としないことをいつも忘れてしまう。竹汀の視線を追い窓の下を覗くと、暗闇の中を黒い大犬がもつれた毛を引きずりながら通り過ぎるところであった。虎杖はそれを見下ろしながら息をひそめる。こちらに襲い掛かってくることはないと分かっていても、なんとなく落ち着かなかった。
「もう五周はしてる」
竹汀は籐椅子から身を乗り出し窓ガラスにてのひらを当てた。虎杖は横目にそれを見上げる。
「昼間は不規則に動いているのに、夜は同じ場所を回り続けるんだよ」
竹汀は呪霊を見送ると、窓ガラスから手をはなす。ガラスには手の跡も皮脂も残っていなかった。
「起こしちゃった?」
「いや、目ェ覚めただけ」
虎杖は首を横に振る。竹汀は何かを言いかけ、口を閉じた。虎杖は過不足なく人間に見える竹汀に「あのさ」と口を開く。
「今日会ったおばさんがさ――」
「勝手に人の運命を覗こうとして両面宿儺に拒絶されただけだよ。悠仁は悪くない」
「そうじゃなくて……言ってたじゃん、人と違う力があると良くない使い方をしたくなるって」
虎杖はそれを聞いてから、何度となくそれを思い出していた。それは虎杖に向けられた言葉ではなかった。だが、虎杖には己への託宣のように聞こえた。竹汀は片眉を上げる。
「あの人、予言の術式持ちかと思ったけど、呪言か何かだったのかな」
茶化すなよ、と虎杖は眉を下げる。
「竹汀もそうだった?」
笑みの滲んでいた竹汀の目元が硬質な光を帯びる。竹汀は黙ったまま首を傾げ先を促す。
「良くない使い方をしたいと思った?」
竹汀の双眸がじっと虎杖を見つめる。虎杖はあまりに不躾な質問であったかと前言を撤回しようとした。謝罪を口にしかけた虎杖を遮るように竹汀は口を開く。
「逆だよ。良くない使い方をしたかったから、人と違う力が欲しかった。多分ね」
「……多分?」
「前のことはなんにも分かんない」
竹汀は口の端に笑みを浮かべる。虎杖はそれ以上追究が出来なかった。
「本当は、力の使い方は当人次第だと言いたい。でも、人の身に余る力というのは――存在し得る。面白いおもちゃを思い切り使ってみたいという欲望を一人で押しとどめるのは難しい」
虎杖は冷ややかな竹汀の言葉に暗澹とした気分になる。
「俺が……宿儺の力を、」
竹汀はそれ以上を虎杖に言わせなかった。
「周囲の誰かが悠仁の力になる。これはきれいごとじゃない。人間ってのは案外そういうものだよ」
冷笑主義で皮肉屋の竹汀にしては真っ直ぐで情熱的なことを言うので、虎杖は目を丸くする。竹汀は自分で言った言葉にうんざりしたような顔をした。
「柄じゃないこと言った?」
「そうかも」
虎杖は笑い「でも、あんがとな」と続ける。竹汀も目を細めて笑った。
「じゃあ俺が良くない力の使い方をしそうになったら、竹汀は俺を止めてくれんの?」
「いや、止めない」
「え?」
話が違う、と虎杖は脱力する。頼りないガラスのサイドテーブルに額を打ち付けそうになる虎杖を見た竹汀は声をひそめて笑声を上げる。
「それは他の人の役目だよ」
「……じゃあ竹汀の役目は?」
「悠仁がどうしようもない極悪人になってもついていく」
虎杖は口の中に突然レモンを突っ込まれたような顔になる。虎杖はたまに、竹汀の考えていることが本当に分からない。
「宿儺の力を使って世界征服するぜ、とか言い出しても?」
「うん」
「百人殺しても?」
「うん」
「竹汀のことなんか嫌いだって言っても?」
最後の問いにだけ、竹汀は暗い天井を見上げた。
「うーん、それは少しいやだな。でも、そうだね、うん、いいよ、ついていく。というか、もう離れられないから」
竹汀は苦笑を浮かべながら小枝のように細い小指を立てた。
「なんで?」
なんで、と素朴な言葉をこぼす虎杖に、竹汀は淡く微笑んだ。
「どうしようもない極悪人だって一人は寂しい」
「そういうもの?」
「うん」
そっか、と虎杖は呟く。古ぼけたサッシの隙間から獣臭が忍び込んできて虎杖の鼻腔を刺した。それに気をとられて窓の外を見ると、先ほどと全く同じ歩様で呪霊がこちらに近付いてくるのが見えた。
「また来た」
「地球みたいだな」
虎杖がなんとなく放った言葉に竹汀は怪訝な顔をする。虎杖は付け足すように言葉を続けた。
「ほら、地球も太陽のまわりをぐるぐる回ってるじゃん。あれ、逆だっけ? 太陽が地球のまわりを回ってるんだっけ?」
「ガリレオに怒られるよ」
竹汀は決まったルートを周回し続ける呪霊を見下ろす。何かを中心に回り続けていることは察しが付いていた。その中心が鶴岡家の三歳の長女であることも。夜は決まったルートを辿り、昼は不規則に徘徊するのは、昼間は少女が活発に動き回っているからだ。
竹汀はそれを、呪霊が一定距離以上は少女に近づけないのだと考えていた。拝み屋の話していたように、他者の行動や思考を操る術式がかかっているのならばそれも可能なはずだ。一つ奇妙なのは、なぜそうしたのかが分からないということだ。それほど複雑な術式を行使する術師が、あの程度の呪霊を祓えぬものであろうか。同じ術をかけるならば、完全に対象者に興味を失わせ放逐するよう洗脳すればいい。
呪霊になんらかの術式を刻んだ術師には、それをしない理由があった。
「――あ」
小さく呟く竹汀に虎杖は「お、なんか思いついた?」と期待に満ちた視線を向けた。
「思いついた」
「なに?」
「あなたが今考えていることは、全部誤った方向に進んでいる」
昼間の女の言葉を反芻する竹汀に虎杖は露骨に「わからん」という顔をした。
「説明してくれる?」
「しない」
「だよなあ」
もうそのあたりには虎杖も慣れてきている。竹汀は極端な秘密主義者で、確信が得られるまで仮説を他者に開陳することはほとんどない。言葉は言霊足り得、耳から忍び入る情報は人心を惑わす。それが竹汀なりの気遣いと優しさだとは承知の上で、虎杖はもう少し色々教えてくれてもいいのにと思う。
竹汀は癖一つない淡い色の髪を無造作に掻き上げた。
「インチキ占い師の言ったとおりになったのが癪だ」
「インチキではないだろ」
諫める虎杖に竹汀は鼻を鳴らす。
「占い師の看板を掲げて呪術で他人の運命を盗み見るのはインチキだよ」
「……まあオーバーキル感はあるよな」
虎杖は籐椅子の上で姿勢を正す。竹汀が何か思いついたなら、次は虎杖の仕事だった。
「それで、何からすればいい?」
真剣な虎杖の声音に、竹汀は真剣な顔をした。
「朝まで寝る」
「……なんて?」
拍子抜けて思わず間の抜けた声を上げる虎杖に竹汀は虎杖の布団を指差す。
「こんな夜中にばたばたしちゃ他のお客様のご迷惑だから」
「え、竹汀、そんな気遣いがあるんだな」
「それに夜は寝るものだよ」
睡眠をとることのできない竹汀が言うと、有無を言わせぬ圧力がある。虎杖は竹汀の示すままわずかに体温の残る布団に戻った。布団の合間から広縁を見ると、竹汀が先と変わらぬ姿勢で外を眺めていた。竹汀は視線だけを虎杖に向けると「おやすみ」と微笑む。虎杖は何か答えたのだが、自分の言った言葉を認識するより先に眠りに落ちてしまった。
*
翌朝虎杖が目を覚ますと、すでにスーツに着替えた嶋宗が所在なさげにうろうろしていた。嶋宗は虎杖が起き出したのを見ると眉尻を下げて「竹汀さんがいないんですけど、どこに行ったかご存知ですか」と情けない声を出す。
虎杖は「昨日はそのへんいたけど」と布団を抜け出し広縁を覗く。広縁に置かれた籐椅子の背に脱ぎ捨てられた浴衣がかけられていて、人の姿はない。虎杖は窓の外と押し入れの中を確認したがやはり竹汀はどこにもいなかった。押し入れを開ける虎杖を見て嶋宗が「そこにはいないんじゃないですか……」と言うので、虎杖は「こういうとこにたまにいるよ」と答える。
「本当にいない。どこに行ったんだろ」
虎杖が首を傾げたところで、入り口の方から物音がした。ドアノブを何度も中途半端に回すような音である。何事であろうかと虎杖はおそるおそる古びた金属製のドアノブに手を伸ばす。開け放ったドアの向こう、日に焼け擦り切れた深緑のカーペットの廊下に、幼い少女が立っていた。
「え、あれ、どうしたの? 迷子?」
膝を曲げ視線を合わせる虎杖に、少女は日本人形のような黒々とした目を細めて笑った。
「ふざけてる場合じゃないよ悠仁、お仕事の時間だ」
「……竹汀かよ! いや待って誰その子!?」
いったいどこの子の体を勝手に拝借してきたんだと青褪める虎杖に竹汀は平然と自身のもっちりした頬を撫でる。
「これ? 鶴岡美優」
「誰!」
「鶴岡家の不吉な長女」
ますます青褪める虎杖に、竹汀は幼子らしいぽてぽてした足取りで室内に入ってくる。虎杖の脳裏に誘拐の二文字が踊った。さすがに自身も魂替えである嶋宗は察しがよく、竹汀の姿を見るなり顔を覆って天井を仰いだ。
「今の時間は新館の朝食で鶴岡家は忙しいからしばらくはバレない」
「いや駄目でしょ!」
個性よりも幼気のまさるふくふくとした顔が虎杖を見上げ、幼く高い声音に見合わぬ落ち着いた調子で虎杖を諭す。
「今しかない。すぐに終わる。まったく年季の入った本物の呪詛は性質が悪い」
虎杖は反駁しかけたが、そうしている時間も惜しいのは理解していたので溜息一つで気持ちを切り替えた。
「分かった。何する?」
鋭い声音で即座にそう言う虎杖に竹汀は満足そうに笑う。
「今回、悠仁は保険だよ。何かあったら、後のことはよろしく」
「……何?」
虎杖の疑問を竹汀は明らかに黙殺した。
「祓除すべき呪霊はあれじゃない。あれは拝み屋が鶴岡家の女児を守るために置いた木偶だよ」
だから呪霊は長女の周囲を徘徊し続けている。長女を付け狙っているのではない。長女を守っているのだ。術師が死に、鶴岡家が女児が夭折する理由を忘れ、呪いの本体という誤解を受けてなお、鶴岡家の女児を守るよう呪われている。
「守るって何から?」
「ここは歴史ある湯治場だから、病み傷付いた人間の負の感情が玉のような女の子に向くこともあるんだろうね」
女児の口から吐き出される物騒な言葉に虎杖は顔をしかめる。竹汀は虎杖に何もかも黙っているのは不誠実かと、慎重に情報を抽出した。
「命を奪われるのは若い女、地域に根付いた庚申信仰、かつて術師が置いたのは犬の呪霊、――それにここは温泉地だから、呪霊の正体も自ずと推測が付く」
ね、と竹汀は言うが、つい数か月前まで呪いとは無縁の学生であった虎杖には見当もつかない。目が泳ぐ虎杖を見て、竹汀は胡乱な顔をした。
「高専の教育体系はどうなってるの」
竹汀は嶋宗に向かい同意を求めたが、嶋宗は嶋宗ですっと目を逸らしたので竹汀は幼げな顔に似合わぬ深い溜息をついた。
「五条が教師をやっているようだから駄目なんだよ。あの術式と六眼じゃ真正面から力で押し通すことしか教えられないじゃないか」
嶋宗、と竹汀は小さな手で嶋宗を呼び寄せる。嶋宗はおずおずと畳に膝をついた。
「呪霊の周囲に帳を下ろして。狭ければ狭いほどいい」
「それは……閉じ込めることは不可能なのでは?」
呪霊にはあらゆる干渉が無効化される。それは結界術も例外ではない。
「閉じ込めなくていい。幸いにあの呪霊の動きは鈍い。ルートに合わせて帳をかけ直し続ければいい。要は、あの呪霊の存在を隠して、かつあの呪霊からこの体の気配が辿れなくなればいい」
はあ、と嶋宗は曖昧な返事をする。要求自体は大して難しいものではなかった。帳は結界術の初歩だ。補助監督ならばある程度自由に扱える。
「呪霊を隠したら悠仁に電話して」
「……了解です」
嶋宗は時計を確認しながら部屋の外に出ていく。その後姿を見送ったあと、竹汀は虎杖を見上げる。
「僭越ながら、うっかり雑魚術式を持って産まれてしまった哀れな術師の立ち回り方を教えてあげるよ。……まあ、悠仁には役に立たないだろうけど」
「教えてもらっても真似できねえよ」
虎杖が肩を落としながら言うと、竹汀は楽しそうに笑った。
嶋宗から電話が来るのにそれほど時間はかからなかった。通話を繋いだまま、虎杖は嶋宗の誘導の通りに嶋宗のもとへ急ぐ。短い手足でもたもたと走る竹汀は早々と虎杖に抱きかかえられた。
旅館の裏手の空き地は従業員の駐車場になっていた。今の時間は人の出入りもほとんどない。呪霊の祓除には好都合だった。半径三メートルほどに範囲を絞られた帳が、そこだけ夜が明けないかのように駐車場の端に凝っている。竹汀はそれを見て虎杖に抱えられたまま「もっと狭く」と言う。嶋宗は眉尻を下げた。
「動きが遅いとはいえ、これ以上はすぐに抜け出されてしまいますよ」
「すぐに張り直せばいい。もっと狭く」
竹汀は虎杖の腕の中から砂利の上にひょいと飛び降り、二、三歩よろめいた。竹汀は虎杖の制止に聞こえないふりをして、暗い帳に近付いた。
「嶋宗」
「これ以上狭くは無理ですよ」
「合図をしたら帳を解除して」
「え?」
裏山に続く山道の、生い茂った灌木がざわざわと蠢く。あたりに漂う獣臭がむっと強くなった。虎杖は拳を握り臨戦態勢をとり、嶋宗はこめかみのあたりに冷たい汗をかく。ギャア、ギャア、と不快な獣の叫び声が耳を劈いた。斜面を駆け下りる四つ足の獣の足音がする。
一際高い唸り声とともに茂みを飛び出してきたのは、白い毛の巨大な猿の姿をした呪霊だった。全身から発散される呪詛の濃度は濃く、階級をつけるならば一級は下らないであろう。大猿は竹汀の姿を見るなり涎を垂らしながら地面を掻く。剥き出しになった長い牙ががちがちと鳴った。
「嶋宗」
竹汀が短く合図をする。嶋宗は咄嗟に帳を解除した。凝りがほどけ、内側から帳より黒い巨犬が姿を現す。無心にとろとろと敷地を徘徊し続けていた愚鈍な姿は鳴りを潜め、黒い毛は逆立ち赤い目がぎらぎらと光る。地鳴りのような唸り声が大猿の声をかき消した。
「そうら、袋から犬が出る」
竹汀は桜色の唇でころころと笑った。目論見が上手いこと運んだときの笑い声だった。
巨犬は帳から飛び出すなり大猿の喉笛に食らいついた。白い毛がみるみる血で汚れていく。大猿は怯えた叫び声を上げながら地面に引き倒され、力なく地面をのたうつ。強大な呪霊がせいぜい二級の呪霊に圧倒されていた。呆然とその様子を見つめる虎杖に、竹汀は得意げに笑って見せる。
「呪いというのはこういうところがある。つまり、文脈と舞台装置だよ」
「……っす、勉強になります」
地面に倒れ伏す白い大猿はぼろぼろと崩れて消えていく。ふ、ふ、と荒い息を吐いていた犬も猿の姿が消えるのと同時に、やっと役目を終えたとばかりに一声吠えてざふざふと灰になって消えた。消える直前、犬の耳元に壁蝨のように白い虫が貼り付き、ぼそぼそと何事かを囁き続けているのが見えた。その虫も犬の姿が消えるとぱっと霧散した。
敷地内に常に漂っていた獣臭が消え失せている。虎杖は竹汀が鶴岡家の長女の体を無断で囮にしたのだと気が付き眉根を寄せる。だから頑なに計画について他言しなかったのだ。さすがにそれは諫めようと口を開いた虎杖の耳に、二種類の悲鳴が同時に飛び込んできた。
「美優がいない! どこにいったの! 美優!」
「女の子が倒れてる! 息をしていない! 救急車!」
それを聞いて竹汀は丸い目をくるくるさせながら「あ、まずいね」と言った。虎杖と嶋宗が同時に慌てる。
「いやどーすんの! その子を返して……いや呪骸の回収が先!?」
「まずは呪骸です! どこに置いてきたんですか!?」
「……どこだっけ?」
「竹汀……!」
呪骸の回収と鶴岡家長女の処遇に奔走する二人を後目に竹汀は暢気に笑っていた。
*
あの後、なんとか事態の収拾に成功した虎杖と嶋宗は自室で帰宅のための荷造りをしていた。荷物を持ち歩かない竹汀はどうやら気に入ったらしい広縁でだらだらと二人の姿を眺めている。
「竹汀、俺の時計知らない?」
「知らない」
「えー、どこ置いたかな……」
ここ着いて、着替えて、温泉入って……と到着からの動きをシミュレーションする虎杖は、押し入れの前で服を脱ぐ動作をしながら「あー、もしかして脱衣所置きっぱなしかも。探してくる」と言うなり部屋を飛び出していった。竹汀はその忙しない後姿を見送る。
「なんか全然修学旅行っぽくなかった」
竹汀は不機嫌そうにそう唇を尖らせる。嶋宗は「はあ」と気のない返事をした。
「報告を少し遅らせて後泊できないかな。マリオカートもしてない」
「できますけど……自費になるかも」
あ、できるんだ、と竹汀は途端に上機嫌になる。
「どうせ自費ならここじゃなくて新館のきれいな部屋に泊まりたいな」
「それは完全に自費になりますけど」
「いいよ、全員分自分の給与から天引きするように伝えておいてよ。どうせお金なんかあっても使い道がないんだから」
広縁でやる気がなさそうにうだうだしていた竹汀はきれのいい動きで籐椅子から立ち上がった。嶋宗は荷造りの手を止め、スマホに手を伸ばす。
「お二人の帰着が明日になることを伝えて、新館に予約を取ります。帰りは迎えに来ますか? 無料のシャトルバスもあるみたいですけど」
嶋宗の言葉に竹汀は怪訝な顔をする。
「急ぎの仕事があるの?」
「ないですけど……え、まさか俺の分も出してくれるんですか?」
新館のきれいな部屋、といえば一人分でもちょっとした家賃のような価格である。狼狽える嶋宗に竹汀は気のなさそうに「うん」と言った。
「いや……でも、悪いですよ……」
「あ、そう。じゃあ帰ってもいいよ」
「ご相伴に預かります!」
遠慮しきれなかった嶋宗に竹汀は呆れたような顔をした。ほくほくと本部に後泊の連絡を終えた嶋宗は、喜びを隠せないまま竹汀に「竹汀さんのことだから虎杖くんと二人で遊びたいのかと思いました」と言う。竹汀はそれを聞いて「それはまあそうだけど」と珍しく口籠った。
「でも、多分、悠仁ならこうするよ」
ぽつん、と竹汀はそれだけ言った。その真意を嶋宗は測りかねたが、追究もしなかった。嶋宗は途中まできちんと行った荷造りの残りを雑にこなし始めながら、それにしてもと言葉を続ける。
「昔の拝み屋さんが悪意のある仕事をしたわけじゃなくてよかった。虎杖くんはそれを随分気にかけていた様子だから」
人の心の機微に聡い嶋宗は、とうにそれに気が付いていた。嶋宗は虎杖に、呪術師として一線に立たずとも能力を人のために有効活用する人間がいることを知っていてほしい、と願ってもいた。竹汀は「呪霊を使って呪霊から子供を守るなんてすごいなあ」と感心する嶋宗を鼻で笑う。
「あの術式なら、猿の方に呪詛を施せばよかった。別のものに標的を変えることも出来たはず」
嶋宗は荷物をまとめる手をぴたりと止めた。顔に浮かんでいた柔和な笑みが強張る。嶋宗は魂替えのくせに善良すぎる。呪術師には向いていなかった。
「あの二体の呪霊のために、このあたりでは女児が産まれるたびに呪いによる事故が絶えなかった。一度で祓いきってしまうより、はるかに実入りが良かっただろうね。地域からの尊敬もうなぎ上りで、この温泉地は拝み屋なしでは存続できなくなった。神仏にも縋りたい人間の弱みにつけ込む鬼畜の所業だよ。この術師とはいい酒が飲めそうだ」
茶化すように付け足された一言に、嶋宗は眉根を寄せる。
「それはちょっと……穿ちすぎではないですか? どうしてそう思うんです?」
そんな証拠はどこにもないじゃないですか、とささやかな抵抗を試みる嶋宗に竹汀は至極穏やかに微笑んだ。
「自分ならそうする」
嶋宗の背筋が一瞬粟立つ。やはり嶋宗は竹汀が少し怖かった。黙り込む嶋宗に竹汀は「悠仁には黙ってて」と囁いた。
*
腕時計を見つけて戻ってきた虎杖は二人に新館への後泊が決まったことを告げられ両手を挙げて喜んだ。新館の部屋に荷物を運び、虎杖と嶋宗が部屋についた露天風呂で手足を伸ばしている間、竹汀はやることがなく美しく整えられた庭園を散策していた。温泉に入ることのできる体を物色している、と言い換えてもいい。夜蛾謹製の呪骸は温泉に浸かることを想定しておらず、浴槽に浸した竹汀の爪先はみるみるうちに茶色く変色してしまった。それでも温泉に入ると言って聞かない竹汀を虎杖が「呪骸汚すと夜蛾先生が悲しむからやめなよ」と諫めた。
竹汀は飛び石を踏みながら庭園をうろうろする。人の気配がしたので何気なさを装ってそちらに近づいた。件の拝み屋の女が、鶴岡家の人間から手のひらに載るほどの包みを受け取っているところであった。女はそれを流れるように押し頂き、和服の胸元にするりとしまった。
鶴岡家の人間に何度も頭を下げられながら門前に停められた送迎の車に戻ろうとする女は、竹汀の姿を見て眉を上げる。竹汀は彼女が気まずげにそそくさと帰っていくと踏んだのだが、女は鶴岡家の人間に一言断ると竹汀の方に歩いてきた。
「昨日ぶりね、あなたのお仕事は……上手くいったのね」
獣臭さの消え失せた清浄な空気を吸いながら女は声をひそめて言った。竹汀は何も答えないまま唇の片端を上げる。女はほっとしたように微笑む。
「お手間をかけさせてごめんなさい。私もご先祖様の後片付けをしてはいるのだけど、なかなか手が回りきらなくてね。そろそろ引退したいのだけれど」
女は竹汀の顔をじいと見つめる。女の背後で双頭の鳥が翼を広げ何事かを囁いた。
「随分――姿が変わっているものだから最初は気が付かなかったけど……以前あなたとお会いしたわ。覚えているでしょう?」
そう言われた瞬間、竹汀の存在しない心臓が激しく跳ねたような気がした。竹汀は強く眉を顰めながら「いつ」と低く問う。
「一年ほど前よ、あなたは黒い上着で――」
「外貌はいい。意味がない。分かるでしょう?」
冷ややかに一蹴する竹汀に女は「そうね」と肩を竦めた。
「あなたは突然うちに現われて、今やっていることが上手くいくか教えてほしいと頼んで来たの」
「無礼な奴だ、気に食わない」
竹汀は「それで?」と先を促す。女はまるで他人事のような竹汀の口振りに怪訝な顔をした。
「私は……あなたに、あなたの計画は上手くいかないと伝えたのよ」
本当に覚えていないの? と女は言った。竹汀は「覚えてない」と素っ気なく答える。女はゆるゆるとため息をつく。
「山神様の託宣は当たらなかったようね」
「いや、当たってるよ」
竹汀はそうだけ答えた。軽く会釈をしてその場を立ち去ろうとする女に、竹汀は声をかける。
「自分の死期が知りたいと頼んだら、教えてくれる?」
女の背後で鳥が高く鳴く。
「無理よ、あなたもう生きていないもの」
女の言葉を聞いて、竹汀は肩を揺らして笑った。