三
痛みを伴わぬ教訓に意味は無く、恐怖を伴わぬ危惧に価値は無い。
だからつまりそれはそういうことだった。竹汀は両面宿儺の脅威を完全に見誤った。竹汀は両面宿儺の知識は持っていたが、知っていたということを覚えているに過ぎなかった。二面四臂の鬼神、不滅の怨嗟、呪いの王、いくら異名を諳んじたところでそれそのものを前にすれば何の意味もない。伸ばした針の先よりも細い呪力は一瞬で絡めとられ、出所を辿られ、魂の輪郭を崩され、引きずり込まれた。それに気が付いたのは墜とされた後だった。
何もかも規格外で悔やむ気にもならない。咄嗟に術式を解除し他の体に飛ぼうとしたがそれすら叶わない。糸のように細い呪力が纏わりついている。当てつけのように細く伸ばした呪力だ。たったそれだけで竹汀は身動きが取れなくなる。そもそも魂替えの術式は排除への対処を求められることはあっても、魂を閉じ込められることへの懸念などする必要がない。故に対処法が存在しない。もしかすると竹汀の記憶から失われているだけかもしれないが、それでも今の竹汀が為す術ないことには変わらない。
眩いほどの闇である。目を開けていられないような気さえした。たん、と水滴が水面を打つ音がする。途端に塗り潰したような暗闇から滲むようにきらめく水面が現れた。絶えず漣立つ黒く澄んだ水を湛えている。どこまでも透明な水は生き物の気配を感じさせない。底の見えぬ水はきっと地獄まで続いている。
「人形をとることを赦す、蚊柱を吹き飛ばしたところで面白みに欠ける」
冷ややかな声音が水面を震わせるのと同時に空気が粘ついたような圧迫感が竹汀にのしかかる。己の輪郭がぶわぶわと膨れ、縮む。ひとのかたちを、ひとのかたちとは、全ての思考が痺れていく。存在しない胃の腑が引っくり返り、存在しない全身の毛穴から体液が漏れるような気がした。
そこに恐怖が立っていた。二本足の恐怖だった。
竹汀は呆然とし、猛然と突破口に思考を巡らせ、どうにもならぬと呆然とすることを数秒おきに繰り返す。体があったら泣いていた。なくてよかった。よくはない。怖い、痛い、辛い、苦しい、そういった心の作用が涙として表出するのは全く不可思議だ。泣いたところで誰が見逃してくれる。少なくとも目の前のそれは心にかけもしないだろう。竹汀は考えるのをやめ、全面降伏することを決める。
「男か、女か」
「――なんだ」
「臺下の望む姿をとります」
竹汀が言えば両面宿儺は遠慮なく哄笑した。澄んだ水面が揺らめく。
「女だな、若く美しい女だ」
竹汀は誰のものかも分からぬ記憶を探り長い黒髪の女の姿をとる。人間の形をとった瞬間ぶるぶると手足が震え、立っていられなくなった。頽れるようにその場にひれ伏す。二足での立ち方さえ忘れたのかと思った。
俯く竹汀の頬を両面宿儺の鋭い爪がなぞる。
「なるほど媚の売り方が堂に入っている。哀れなまでの弱さだ、いっそ愛嬌ですらある」
下顎を掴まれ、上向かせられる。虎杖と同じ顔をしていた。だが別人だった。邪悪が虎杖の姿をしていた。
「そう怯えるな。もっと反抗的な目をしてみろ、そのほうが俺好みだ」
両面宿儺は喉を鳴らして笑い、猫撫で声で言う。先ほどまで指を絡めていた手と同じ形の指の背が竹汀の頬を擽るように撫でた。竹汀はぎゅうと目を閉じる。眼窩を冷たい汗が伝っていった。
「魂替え屋とは、また黴の生えたような連中がよくも現れたものだ。オマエらの隆盛など俺が死ぬ前のことだろう――それで、その黴臭い呪術師がいったい俺に何の用だ」
何を言っても死ぬのだろうな、と竹汀は思う。愉悦と苛立ちに歪んだ鋭い牙の居並ぶ口元を竹汀は見上げる。青褪め震える唇で恐れ謹んで申し上げますと前置きすれば両面宿儺は破裂したように笑いだした。
「謙虚な呪術師がいるものか、記憶とともに傲岸さも置いてきたな」
竹汀は反応に困り唇を噛む。腹を抱えて笑っているのだろう。竹汀の視界には地を掻くように折り曲げられる足の指だけが見えていた。
「長生きする性分だな、俺が保証してやろう」
平伏し晒されるうなじに嘲りを帯びた笑声が降ってくる。声音で産毛が震えるたびに全身を鳥肌が這いまわる。竹汀は痺れる唇をこじ開ける。乾いた口内で舌が蠢く。
「魂替えの呪術師をご存じありませんか」
「オマエいつから体に戻っていない」
竹汀は眉根を寄せて呻く。どうせ死ぬなら何がしかの達成感を得てからと思ったが、そんな些細な願いすら叶えてくれる気はないらしい。いつから、と竹汀は口中で反芻する。下水で煮しめたような布団で目を覚ましてから今日で十七日になる。それ以前のことは分からない。
「肉の殻を失った人の魂は脆いな。己自身の呪力に飲み込まれかけている。まあ碌な死に方はしないことは覚悟しておくといい」
うっすら自覚しかけていたそれを突きつけられ、竹汀は喉を詰まらせる。もはや己は己の体に戻ることが出来ない。たとえ己の素性を暴き記憶を取り戻したところで変質した魂は人間の肉体に定着することはない。ではどうすればいい。死ぬまで他者の肉体を転々とするか、変質し続ける己の魂に怯え消滅を待つか、どちらにせよ恐ろしいことには変わらない。
両面宿儺は竹汀を見下ろし短く「立て」と命じる。竹汀は操られたようにふらふらとそれに従った。虎杖と変わらぬ体躯は、竹汀が立てば目線はほとんど同じだ。緋色に淀む二対の凶眼が竹汀の瞳を覗き込んで細められる。
「長生きしたな、では死ね」
ばつん、と女の首が吹き飛んだ。
******
急にひきつけを起こしたように若い男が椅子から転げ落ちた。白いクロスを男の筋張った手足が苦し気に掻く。ドリンクスタンドの長居に向かないテーブルで竹汀の行方が分からず途方に暮れていた虎杖は飛び上がって男に駆け寄る。
「ちょ、大丈夫っすか……!?」
先ほどまで涼し気な顔でコーヒーを飲んでいた男は眦が切れそうな程目を見開き、喉を掻きむしる。こめかみに浮いた血管が今にもはちきれそうだった。男は駆け寄った虎杖の腕を強く掴む。痩せた肩が震えしゃくりあげるようにわななくが見開かれた両目は乾いたまま宙を睨んだ。
「――竹汀!?」
まさかと虎杖が名前を呼ぶと男は全身の震えを押さえるように体を強張らせる。ふーっ、ふーっ、と獣じみた荒い息を繰り返し、虎杖の胸に額を当てて懸命に呼吸を落ち着かせようとした。虎杖はどうしていいか分からなかったが、とりあえず男の背中をさすっておく。バイトの店員がおろおろしながら「救急車呼びましょうか」と声をかけてきたので「あ、大丈夫っす。コーヒーが美味すぎて感激してるだけなんで」と答えた。店員は怪訝な顔をしながらカウンターに戻っていく。
「竹汀、おちつけ、ほら吸って、吐いて……」
竹汀は数度生唾を飲み込み、呼吸を落ち着ける。せわしない瞬きを繰り返す目がやっと虎杖を見た。虎杖は竹汀の体を椅子の上に引っ張り上げる。男の体は背丈こそ高いが体重は虎杖の半分ほどしかなさそうだった。
「…………ゆうじ?」
「そうです虎杖悠仁です。どうしたんだよ、急に消えるからどうしようかと思った」
竹汀は両手で顔を覆い、溜息をつく。どうして死んでいない、と痺れる思考を巡らせる。魂を破壊された。普通は死ぬ。死ぬことは恐ろしい。だが死ぬべきときに死ねないのはもっと恐ろしい。それを幸運だったで済ませることが出来るほど竹汀は己の人生が祝福されていると思っていない。竹汀は両面宿儺の言葉を思い出す。肉体から引きずり出され切り取られ変質し歪んだ己の魂はいったい何になろうとしている。鼻の奥が恐怖で引き攣り熱を持ったがそれが涙となって発散されることはない。
竹汀は細い指の合間から虎杖の心配そうな顔を見る。
「悠仁、もし、自分の正体が分からなくて、記憶も戻らなくて、体も失ったままで、そうなったら、そうしたら――」
化物と成り果てる前に、どうか自分を殺してはくれないか――と、それを舌に乗せる前に虎杖は明るく笑って身を乗り出す。
「それでもいっしょに遊びに行こうな。次は焼き肉行こうぜ」
予想だにしなかった返答に竹汀は面食らって口を開けたり閉じたりする。何を言うか逡巡し「味しないんだって」とだけ答えた。あ、そうだった、と虎杖は笑う。
「じゃあ食レポ特訓しとくわ」
「そのときは奢るよ」
「誰かの金だろ!」
「金持ってそうな体を拝借していく」
「おい!」
竹汀は淡く笑い、虎杖の手を取る。
「書置きの理由は分からないけど、会えたのが悠仁でよかった」
それは本心だった。
「まだなんの役にもたってねえけどな」
「今日はありがとう。ここでさよならだ。また会いに行く」
それは一部嘘が含まれる。
竹汀は己の魂を緩める。帰途につくためではない。もう少し頑張ってみようかと思った。無造作に飛ぶだけなら手に触れなくても出来る。それでも虎杖の手を握ったのは、己を勇気づけたかったからだ。
ふつ、と音が途切れる。澄み切った黒の水面。白く光る牛骨の座。そこに座すのは二面の呪詛だ。虎杖と寸分たがわぬ形相は、今は戯れの色もなくただ憤懣で歪められている。
「なんだオマエは」
それだけの言葉で膝が笑う。竹汀は胸中で「そんなこと自分が一番知りたい」と毒づき己を奮い立たせる。己には大した呪力も術式もない。ついでに記憶も体もない。だが両面宿儺から欲しいものを引き出すことが出来るかもしれない方法は一つだけあった。
両面宿儺は指先をついと竹汀に向ける。男の姿をとっていた竹汀の上半身が吹き飛び塵になる。しかし瞬きの後にはそこに女が立っていた。顔は青ざめ、脂汗が滝のように頬を伝い、表情は痛々しく引き攣っている。は、あ、と竹汀は喘ぐように呼吸する。
「魂替えの呪術師をご存知ではありませんか。――臺下、根競べをしましょう」
半ば自棄にさえ聞こえる言葉の反響が消える前に女の骸が水底に沈んでいった。
死なぬとはいえ魂を破壊されて全く平気かといえばそんなことはないので、殺されれば死んでしまえばよかったと思う程度の苦痛は竹汀の精神を苛む。切り裂かれれば切り裂かれただけ、焼かれれば焼かれただけ肉体を模した精神は痛覚に似た信号を竹汀に発した。肉体だと思うから痛むのではないかと魂を破壊される感覚を直に受けようとしたところ「痛い」ではなく「ヤバい」という感覚があり「あ、これダイレクトに受け続けたらどうにかなるな」という確かな手ごたえがあったので、消去法で肉体の痛みと仮想してそれを甘受し続けている。
どれくらい時間が経過したのかよく分からない。両面宿儺の領域には昼も夜もない。殺された数が百を超えたあたりで両面宿儺も趣向を変え竹汀を死なぬ程度に嬲ることにしたらしい。そうでさえ強大な両面宿儺の呪力は呆気なく竹汀の魂を破壊する。猫にいたぶられる鼠より悲惨だ。これまで下顎を砕かれ剥き出しになった口蓋から薄い骨を突き破って脳髄を掻きまわされたのが一番キツかった。それからしばらくどういう殺され方をしたのか全く記憶にないので相当のダメージだったのだろう。だが今、己のはらわたが蟲に食い荒らされているのを見て記録は更新された。やはりこういうシンプルなやつが一番厭だ。
もはや藻掻く気力もなく、脚の多い蟲が肉に頭を突っ込み荒々しく食い荒らす動きで竹汀の体は機械的に揺れる。臓腑のにおいと蟲の排泄物の胸の悪くなるにおいが絶えず鼻から口に抜けていく。それを両面宿儺が当初の愉悦も怒りも忘れたようにうんざりとした様子で見下ろす。
「鬱陶しいことこの上ない、羽虫かオマエは」
今虫の話はしないでほしかった。口を開けようとしたが顔の皮膚と肉もほとんど食い荒らされていた。一瞬意識が途切れ、次の瞬間には黒い水面に仰向けに浮いている。何の形を取るか迷い、いつかすれ違った男の姿を記憶から引っ張り出す。
「その男はさっき殺した。別のにしろ」
竹汀は仰向けで昏い天井を眺めながらそれを聞く。悪意が人の形をしたこの男の領域は、だが不思議なことに静謐で美しい。竹汀は公園で転んで泣いていた幼い少女の姿を取る。間髪入れずに「それもさっき殺した」と一蹴される。
両面宿儺が忌々し気に鼻を鳴らす。
「どこかに楔があるな、本体を叩かねば死なないか」
とうに気が付いていたくせに、と竹汀は両面宿儺を睨もうとしたがぐるりと眼球があらぬ方を向く。魂替え師がたまに使う呪法だ。自身の魂に軛を施し別所に括り、他者に替える魂を複製する。複製した魂をいくら叩いたところで本体を破壊しなければ意味がない。おそらくそれが、己の魂にもかけられている。
「本体はどこだ? それとも、気が狂うまでこれを続けるか?」
竹汀は無言のまま首肯する。両面宿儺は不愉快そうに一瞬顔をしかめたが、すぐに口元にうすら笑いを浮かべた。
「百四十七番目に殺した女がいたな、あれはよかった。顔も好みだし、声もいい」
言われ、竹汀は諾々と姿を変える。栗色のショートカットの女の姿をとった。
「おい、そいつじゃない。数も数えられんのか――まあいい」
両面宿儺は竹汀の顔の横で屈みこむ。幾度となく己を切り裂いた爪が頬をなぞる。何をされるのかという恐怖で心臓が踊り狂った。だがもう指一本を動かす気力すら竹汀には残っていない。殺され、戻り、また殺される。それだけを延々と繰り返していた。
「オマエのしつこさには負けた」
すりすりと指の背で頬を撫でられる。わざとらしい猫撫で声が鼓膜を揺さぶる。竹汀は目を閉じることも開ける事も出来ずぼんやりと宙を見ながら震えるように頷く。
「魂替えの呪術師のことを聞きたいのだったな」
竹汀はまた頷く。ひひひ、と心底楽しそうな笑い声がした。
「そんなものは知らん。――これで満足か?」
ひゅう、と息を吸ったまま何もできなくなる。半開きの口がわななき奥歯がかちんと鳴った。そんなのってあるか、と竹汀は一瞬怒りを抱くがそれを持続させる気力はとっくに毟り取られていた。両面宿儺の悪意に満ちた哄笑だけが脳髄を揺らす。目尻からこめかみに冷たい涙がつるつると落ちていく。あ、泣いてる、と思うのと同時にどうしようもなくなって竹汀は子供のようにヒィヒィと情けない声を上げて泣いた。両面宿儺の嘲笑がいっそう興に入る。
「やはり女の泣き顔はそそる、肉ではないのが悔やまれる」
竹汀は荒い息を吐く。涙と鼻水と痰が喉の奥に溜まってがらがら鳴った。
「もう帰れ、そろそろ飽きてきた」
竹汀の眼球が焦れったいほどゆっくりと両面宿儺へと向く。口の端から粘つく唾液がとろとろと零れていく。湿った笑声が力なく漏れる。
「また来ますね、臺下」
「二度と来るな」