四
生来人懐こい性質である虎杖悠仁には友人が多い。老若男女に可愛がられる虎杖は西にカラオケをやる面子があるとなれば「じゃあ虎杖呼ぶか」となり、東にもらいすぎた土産物があるとなれば「虎杖くんにおすそ分けしましょう」となる。メッセージアプリのおともだち一覧には他校の友達の友達から中学生のときに隣のクラスに留学してきた中国人の名前から溺れているところを助けた少年の父親の名前まで並ぶ。交友関係の広い虎杖ではあるが、肉体を持たない友人というのは初めて出来た。
年齢、不詳。性別、不詳。出身、不詳。素性、不詳。おまけに住所不定無職。本人が宣言した通り正真正銘の怪しい者である。だが困っているというのならば助けねばなるまい。虎杖の善性は生来のものであり、また祖父の遺言による呪いでもあった。
竹汀と別れてから数日、虎杖はそれとなく先輩や補助監督に魂替えの呪術師についての話を聞いた。おそらくこういう場合に最も頼りになるのは五条悟であるが、それは今のところ保留している。竹汀に少し待ってほしいと言われていたし、勘の鋭い五条には言葉の端から全て暴かれそうな気がしたからだ。どこから何まで話していいのか分からない虎杖は沈黙に徹している。竹汀の「己が極悪呪詛師であったらどうしよう」という言葉が気にかかっていた。たとえ竹汀がかつて悪行を働いていたとして、それが人心に悖り悪逆の限りであってさえ、今の記憶も肉体も失い困り果て彷徨うだけの竹汀が謗られる謂れはあるのだろうか。虎杖はそれでも己の行いの責任は取るべきだという気もしたし、無関係なのではないかというような気もした。
おっかなびっくりな聞き込み調査の結果大した収穫は得られなかったが、魂替えについて分かったことはいくつかある。
一つ、呪術高専の補助監督には一人、魂替えの術式を持つ者がいた。とはいえ他の魂替え師と同様、戦闘能力らしい戦闘能力はないので呪術はもっぱら斥候や情報収集に使うらしい。それとなくその補助監督に聞いたところによると、魂替えの術式を持つ者は市井にぽつぽつといる。そう言う補助監督の肩には慣らした小鳥がとまっていた。それに魂替えし、斥候をするのが常套だと言う。虎杖が竹汀のことを思い出し「人混みでぽんぽん人と人の間を魂替えしたら便利じゃん?」と問えば、彼は苦笑して「それは相応の呪力と器用さが求められるね」と答えた。竹汀は、魂替え師としては優秀な方であったようだ。
二つ、魂替えの用途は大きく二つに分けられる。一つは魂替えした肉体の主導権を取り思うままに使役すること。しかしこれは他者の意識を呪力の物量で押し切り封殺する必要があるのでほぼ非術者相手に限られる。一つは他者の肉体に潜んでの情報収集。肉体の持ち主に気が付かれぬよう魂を滑り込ませる。肉体の持ち主しか行き得ぬ場所の情報を得るだけでなく、滑り込んだ肉体が内包する魂に刻まれた情報もある程度共有することが出来る。それを聞いた虎杖は思わず己の胸を押さえた。虎杖は一度竹汀に浸入を許している。それを見た補助監督は「記憶の伴わない情報が無作為に並んでるんだ。何が重要かそうでないかは分からないから意外と役に立たない」と笑った。感情と記憶というタグのない膨大な情報から必要なものを探すのは無限に近い時間が必要だ。
三つ、魂替えを行う際には自身の魂そのものを飛ばす術師と、魂の複製を飛ばす術師がいる。これは両者一長一短でありどちらを選ぶかは好みによる。魂を飛ばせば文字通り敵の懐に裸一貫で飛び込むことになる。複製を飛ばせば自身の魂は無防備極まりない状態で放置されることになる。
虎杖は聞きかじったそれを脳内でぐるぐると考えながら不忍池の鯉にパンくずを投げていた。先日竹汀と次の待ち合わせの約束をするのを忘れてしまった。携帯電話とメッセージアプリという利便の恩恵に慣れきると人は迂闊になる。台東区を中心に手掛かりを探しているであろう竹汀に見つけてもらえぬかと、虎杖は暇さえあればそのあたりをぶらぶらしている。
虎杖が手元のクリームパンの皮を千切っては投げるたび、緑がかった水面が黒い魚鱗で盛り上がりごぼごぼと泡立つ。無感情に開いたり閉じたりする大きな口が我先にと小さなパンくずを飲み込んでいく。白く柔らかいパンがまとわりついたカスタードクリームは自身の口に放り込む。
「こんにちは」
掠れた声が背後からかけられた。聞きなれぬ声音だがぴんと来るものがあり、虎杖は勢いよく振り向く。
「竹汀……おっ、」
そこに立っているのが竹汀であろうという確信はあったが、その姿が異臭を放ちそうなぼろぼろの衣服に穴の開いた靴の顔色の悪い垢じみた老年の男――まごうことなきホームレスであったので言葉に詰まる。
「またすごいの連れてきたな……」
「これしかなかった」
はあ、と竹汀は溜息をつく。むきだしになった黄色い歯がいくつか欠けていた。虎杖は「とりあえずどこか座るか」と促す。竹汀はずるずると足を引きずりながら虎杖に促されるままベンチに座る。饐えたにおいが虎杖の鼻先を掠める。
「風呂入れよ」
「自分の体じゃないし」
「いやそうだけどさ……」
竹汀は皺ばんだ瞼の向こうの淀んだ目を虎杖に向ける。
「ちょっと無茶したからしばらく人間には魂替えできなかった……久しぶりに人間やってるけどキツイ」
「俺もキツイわ。正直めちゃくちゃクサイ。……わりいけど」
「我慢してくれると助かる」
「するけどさあ」
虎杖は自身の鼻の頭を掻く。
「久しぶりに人間ってことは、今まで何やってたんだ?」
「スズメ、スズメ、ネズミ、スズメ、ネズミ、カモ。カラスはアホな人間より頭いいから無理」
「え、マジ? 俺とカラスならどっちが入りやすい?」
「いい勝負かな」
「おっ、お? おお……」
「冗談だよ。もちろん悠仁の方がずっと魂替えしにくい」
竹汀は笑い、口髭に覆われたひび割れた唇がめくれ上がった。それからふと竹汀は真剣な表情をする。
「ごめん、悠仁に言ってなかったことがある」
顔色が悪いという状況を通り越して土気色の顔で竹汀は言う。水気のない白目は黄ばみ、黒目は濁ってあらぬ方向を見ている。虎杖は間近でそれを見てぎょっとする。体調が悪そうというよりも、どう見ても今すぐ救急車が必要な状態に見える。
「待て待て、その前にそのおっちゃん大丈夫か? めちゃくちゃ具合悪そうじゃん」
竹汀は伸び放題の眉毛を片方上げる。
「大丈夫だよ、もう死んでる」
「――は?」
「ホームレスの死体を拾った。中身が空だから動かしやすい」
「……いや、駄目だろそれは」
竹汀はきょとんと虎杖を見る。
「なんで」
「なんでって……こう、なんか、倫理的にさあ!」
虎杖の脳裏に亡くなった祖父の姿がよぎる。綺麗に湯灌され、着物を替えられ、白木の棺に納まった祖父の姿だ。こんな小さな箱に納まってしまうのかと寂しくなるのと同時に、その穏やかな死に顔にほっとした。全ての死者はそうあるべきだ。たとえどういう人間であっても、死してなお亡骸を弄ばれるようなことがあってはならない、と虎杖は思う。
「どんな事情があってホームレスしてたかは知らねえけどさ、死んだらゆっくりさせてやろうぜ」
「そういうもの?」
「そういうもん」
そう、と竹汀は呟いたきり何も言わなくなる。気分を害したのかと虎杖が竹汀を窺い見ると、男は生気のない目を空に向けて動かなくなっていた。虎杖は男の肩を揺する。抵抗なく体が揺れ、据わらぬ首がぐにゃぐにゃと遅れてついてきた。
虎杖は眉を寄せ、それから男に手を合わせる。スマホを取り出し、110番に電話を掛けた。
******
それからが大変だった。虎杖は警察官が到着するまでそこに残るよう指示され、そのまま警察署に連れられた。変死体の第一発見者であるのだから宜なるかなである。担当の警察官は「親切にありがとうね、ごめんね」と何度も繰り返しながら調書を取った。たっぷり半日は拘束された後、空きっ腹を抱えて虎杖は溜息をつく。かつ丼出なかったな、などとぼやきながら警察署を出たところで「ホームレスの死体見つけちゃったんだって? いや災難災難」と軽やかに声をかけられる。五条悟が伏黒と釘崎を伴い立っているのを見て、虎杖は目を丸くする。
「五条先生! ……なに? お迎え?」
「そ、お迎え」
五条は虎杖の肩に腕を回す。
「お仕事だ。場所は清川の旅館――といっても実態はきったないドヤだけどね」
それを聞いて虎杖は表情を強張らせる。そのワードだけで虎杖の中に心当たりがあった。空腹が一瞬で吹っ飛ぶ。釘崎は「え、風情のある温泉旅館じゃなかったの!?」と悲鳴を上げた。
「まあ低級の呪霊がふらふらしてるだけだから気楽にいこう、な」
肩を叩かれ目を覗き込まれ、虎杖はなんともいえない表情でこくこくと頷いた。
連れてこられたのはやはり竹汀が目覚めた簡易宿泊施設である。虎杖は五条へのうしろめたさで無口になる。五条に黙って竹汀に手を貸していたことが露見したらどうしよう。しかしそれ以上に、竹汀との約束を破ることになるかもしれないこと、竹汀の身の安全が気にかかる。竹汀は無茶をしたと言っていた。調子もよくなさそうだった。ホームレスの亡骸とはいえ体を手放させるべきではなかっただろうか。今竹汀はどこにいるだろう。
旅館をうろつく呪霊は五条の言うように低級ばかりであったが、竹汀のことが気にかかり虎杖の動きは精彩を欠く。伏黒がそれをもの言いたげな顔をしながらフォローした。一階から順に片付けていき、五階に至る。虎杖は503号室の錠がかかっていないであろうドアを横目に見た。
三人の後ろで何も言わずに監督していた五条がすいと前に出て、鍵がかかっていないことを知っているように503号室ドアを開け放つ。数日前よりえぐみを増した悪臭がむっと部屋から溢れ出てくる。釘崎が顔をしかめて「クッサ」と吐き捨てた。
五条は迷わず敷きっぱなしの布団をめくる。焼け焦げ血で汚れた敷布団が露わになる。それから部屋の隅のミカン箱の方がまだ上等な小さなテーブルに無造作に投げ置かれた503のタグが付いた鍵と、その下のメモ帳を千切り取ったような紙片に手を伸ばす。摘まみ上げたそれを五条は虎杖に示した。
「さて、悠仁。これの理由を聞こうか。それと僕に秘密で魂替えの呪術師のことを調べていた理由もね」
紙片には潰れた鉛筆の荒れた字で「虎杖悠仁を探せ」と記されている。虎杖は伏黒の深い溜息を背中で聞いた。
観念した虎杖は竹汀のことを洗いざらい五条に話す。一通り聞いた五条は芝居がかって天を仰ぎ額を押さえた。それからぺしんと虎杖の額を平手でたたく。
「悠仁、何事も報告、連絡、相談だよ」
「はい……すみませんっした……」
深々と頭を下げるしおれた虎杖の頭に五条は二度優しく手を置いた。
「大人に秘密のちょっと悪い友達がいたっていいんだけどね」
わるいともだち、という語感に虎杖は体を強張らせる。鼻を手で覆いながら室内を捜索していた伏黒が敷布団の下から鍵を拾い上げた。小さな簡単な作りの鍵だ。白いプラスチックのタグがついている。おそらくコインロッカーの鍵だった。
「残穢がこびりついています。それから呪物の気配が、これと、その布団に。呪霊はこれに引き寄せられてる」
五条は伏黒の手からロッカーキーを取るとしげしげと見つめる。
「これは予想外だな……まさか呪物をコインロッカーに隠す奴がいるとはね」
「追います」
印を組む伏黒の影から大きな犬がぞろりと現れる。玉犬は五条の手の中の鍵に鼻面を近付けるなり駆けだす。それを追った四人が辿り着いたのはビルからほど近い路地裏のロッカールームであった。細長く伸びた敷地の両壁にコインロッカーが立ち並んでいる。それほど手入れが行き届いているとは思えない施設だ。床の端には埃がつもり、施設内には獣の尿臭がうっすらと立ち込めている。コインロッカーは床の接地面からじわじわと錆が目立っていた。
玉犬は奥まったロッカーの前で一声吠えて消えた。超過料金のランプが点滅するロッカーの前に五条が立つ。大型のトランクケースも収納できる縦長のロッカーだ。
「悠仁、小銭」
「え、俺!?」
「そりゃそうでしょ」
「……へい」
虎杖は負い目もあり言われるがままにロッカーのコイン投入口に小銭を投入する。何枚か入れたところでランプが消灯する。五条が鍵穴に鍵を入れると、硬質な音とともに錠が開く。気が逸ってロッカーを開けようとする虎杖を五条が押しとどめた。五条は虎杖の前に立ちふさがるようにしてロッカーの扉を開ける。
どさ、と音がしてビニール袋でぐるぐる巻きにされた何かが倒れてくる。これを入れた誰かは相当焦っていたのだろうか、梱包は雑で倒れた拍子にあちこちが緩んでいる。それと同時に強烈な悪臭が四人の鼻を突く。503号室のにおいと同じで、あれより遥かに強い。これがあの部屋にあり、あの部屋の悪臭の根源であったことは疑う余地がない。
「おえ……ありえない、吐きそう」
釘崎は鼻を摘まんだまま呻く。ビニールの破れ目から蛆虫が白い体をくねらせて這い出す。沁みるほどの悪臭のせいで伏黒の目にも涙が滲んでいた。
五条は眉一つ動かさずビニール袋を剥いでいく。露わになった内容物を見て、虎杖は一瞬それが何か分からなかった。焼け焦げた丸太に見えた。一抱えほどの大きさで、歪な形をしている。奇妙にくびれた部分がある。息を止めて目を凝らし、それが焼け爛れた四肢のない人間であることに気が付き声も上げすに後ずさる。
「死体!?」
虎杖はそう叫ぶのと同時に悪臭を思い切り吸い込んでしまい身を折り曲げて悶絶する。喉に胃の内容物がせり上がってきていた。かつ丼を出されなくてよかった、とそれを無理矢理飲み下しながら思う。
五条はそれのおそらく胸のあたりに触れる。五条の指先が触れると腐敗した肉がぐずぐずと崩れ体液を滲出する。釘崎が「よく触れるわね……」と呻いた。
「死体じゃない――まだ生きてる」
五条は言うとスマホを取り出し本部に回収班を派遣するよう連絡する。虎杖の背後で釘崎が深い溜息をついた。
「悠仁には見られたくなかった」
釘崎の声だ。だが釘崎は虎杖を悠仁とは呼ばない。釘崎ははっと口を押さえ、顔を険しくする。呪力でそれを押し返そうとする釘崎の肩に五条が手を置いた。
「追い出さないで。続けて」
釘崎は不愉快そうに顔をしかめて手を下ろした。釘崎――竹汀の目が虎杖の方を向く。
「でも、見つけてくれたのが悠仁でよかった」
いや見つけたのは俺だけど、と伏黒は思ったが黙っておいた。立ち尽くす虎杖の前に、竹汀は重たげに体を引きずりながら立つ。眉根は苦し気に寄せられている。それが釘崎のものなのか、竹汀のものなのかは分からない。
「己が何者か分からないのは怖い。死ぬのも怖い。でも自分自身が何かに変質していくのを見続けるのはもっと怖い……言えずにごめん。自分の体は見つけていたんだ。隠してた」
竹汀の言葉に虎杖はコンクリートの床に転がる黒く爛れたそれを見る。黒く焦げた表層がひび割れ中の赤黒い腐肉が見えていた。表面を蛆虫が這いまわる。これが竹汀の肉体なのだと教えられ虎杖は言葉を失う。
「自分の体に虫がわくんだよ。それを一匹ずつ摘まんで捨てる。毎日、毎日、毎日……気が狂うかと思った」
細く静かに竹汀は溜息をつく。竹汀は虎杖の手を取る。指を絡め、縋るように握りしめる。
「それ、殺してくれないかな。悠仁になら、いいから。多分怖くない。自分が何者かも諦める。もう終わりたい。お願いだから」
虎杖は床のそれと目の前の竹汀を順に見、後ずさる。口の中が乾いて貼り付いた。心臓が低い音で拍動する。
「竹汀――」
掠れた声で名を呼ぶ虎杖に竹汀は淡く笑んだ。何か言いかけた唇を五条が背後から手のひらで覆う。空いた片手で五条が釘崎の背中を軽く叩くと、釘崎は長く息を止めた後のような呼吸をした。
「申し訳ないけどそうもいかない」
五条が冷ややかな声音で囁く。釘崎は自身が虎杖の手を握っていることに気が付き短い悲鳴を上げると虎杖の手を振り払う。悪気はないのは分かっているし悪いのは竹汀だが、虎杖としてはちょっと納得がいかない。
「五条先生、竹汀は――」
大丈夫なのか、体は治せるのか、どうなっているのか、これからどうなるのか、聞きたいことが溢れ喉元で詰まる。五条は虎杖の視線から隠すようにそれにビニールをかけた。
「生きながら呪物になりかけている。雑に言うときったねえ即身仏みたいなもんかな。こんな乱暴で残酷で悪意に満ちた呪法は初めて見たけど」
五条はそこで初めて感情めいたものを口元に浮かべたが、それは一瞬だけだった。
「どうしてこんな……」
呻く虎杖に五条は首を横に振る。
「重要なのは「どうして」じゃない。「誰が」「何を目的に」だよ」
そして後者はおおよその推測が付いていた。
「ここを封鎖して回収班を待つ。いいね」
五条が噛んで含めるように言うのを虎杖はぼんやりと聞いていた。それの、ちょうど顔であろうあたりにかけられたビニールが規則正しく小さく上下していた。ロッカールームの入り口で汚い野良猫が恨みがましくにゃあと鳴いた。