五
暗く澄んだ水の中で奇怪なものが蠢いている。蹲る牛ほどの大きさで、乳白色のぬるりとした表面が絶えずぶよぶよと震えている。そこから種々の獣の脚が好きな方向に生え、溺れるように水面を掻いていた。
両面宿儺は禽獣の奇形児のようなそれを見下ろし嫌悪に顔を歪める。
「畜生ばかりに魂替えするからだ。獣臭い。どうにかしろ」
返答の代わりに羽根を毟られた鳥の翼がびたびたと水面を叩く。両面宿儺はそれの上にどかりと腰掛けた。尻の下で生白い肉が蠢く。頭部も目鼻もないそれは抗議の声を発しようもない。
「獣らしく鞭をくれてやろう」
薄笑いと共に放たれた打擲は毛の無い皮膚を容易く破る。弛んだ皮が弾け、生臭い血を噴き出した。肉塊は大きく震え痙攣を繰り返すと輪郭を撓ませた。あちこち拉げたそれは痩せた青年の姿に変じる。
青年の姿をとった竹汀は大きく喘ぎながら呼吸する。がひゅ、がひゅ、と湿っぽく痙攣的な呼吸音が響く。竹汀は震え、両面宿儺の尻の下で藻掻く。やがてぱったりと動かなくなり、伏臥の背中に両面宿儺を乗せたまま死んだように水面に頬を浸す。
「死なん相手を殺し続けるほど俺も暇じゃない。何の用だ」
両面宿儺の問いに答える声はない。間髪入れずに二度目の打擲が竹汀の背を打つ。竹汀は体を大きく跳ねさせ、短く悲鳴を上げる。頭を庇うように丸くなる竹汀のひどく衰弱した様を見て両面宿儺は眉をひそめた。先だって遊びすぎただろうか。加えて魂の変質も進んでいる。もはや人形をとることもままなっていない。
「他に、行く場所が、ない、ので」
切れ切れと竹汀は呻いた。回収される己の肉体をむざむざ見送るわけにもいかない。とはいえ急場凌ぎに逃げ込んだ野良猫の体で車を追うことは不可能だ。ならば関係者の体に隠形するしかない。五条悟は論外だ。高専生の三人の姿を捉えたときに、伏黒はいかにも神経質げな呪力を纏っていた。釘崎には今ほど五条が押し込んだ呪力の残滓が巡っている。どちらも魂替えには骨が折れそうだった。衰弱しきった今なら尚更。
竹汀は両面宿儺になぶられることを承知で虎杖の体に逃げ込むしかなかった。良くも悪くもおおらかな性質の虎杖の中は心地良い。強烈な呪いが巣食っていることを除きさえすれば。
己を害そうとするものが何であっても、幸か不幸か死は訪れない。竹汀は死を望むような苦痛を享受し続けさえすればいずれ時間が過ぎることを覚悟した。諦めたと言っても良かった。
ぼんやりと頬を濡らす水の感覚を辿る。いっこうに痛みが来ないので、竹汀はのろのろと視線を背の方に向けた。両面宿儺と目が合う。
「歌は歌えるか」
唐突な問いの意味が分からず竹汀はしばらく黙り込んだ。三度両面宿儺に背中を打たれ、呻きながら首を横に振る。竹汀が記憶している歌謡は童謡くらいだ。目覚めてこちら歌を歌おうという気分になったこともないので歌唱力も知れない。
「何か芸事は出来ないのか。俺の無聊を慰められるなら軒先を貸してやる」
竹汀はそれを聞いて回らぬ頭を懸命に回した。とはいえ自身に関する記憶の一切を失っている竹汀に芸事らしい芸事が身についているわけがない。竹汀は苦痛から逃れたい一心で無味乾燥な情報を引っ繰り返す。面白いもの、両面宿儺の歓心を買うもの、何か引っかかりはしないかと砂漠のような記憶をたどる。
「猫とかけてお化け屋敷とときます」
「――は?」
「その心は、どちらもきゃっとなるでしょう」
首を落とされた。
これは面白くないのか、と竹汀は離れていく自身の胴体を見て思った。感情に紐付かぬ記憶はこれだから役に立たない。
竹汀の姿がかき消える。首が転がっていたあたりに小汚い猫が丸くなっている。両面宿儺はそれを見下ろし鼻を鳴らした。
竹汀はよろよろと立ち上がり、その場でうろつく。一番最後に魂替えした猫と、先程の自身の発言に完全に影響されている。竹汀は己の魂が人間の形を取られないことにぞっとする。これまで己の姿は忘れていても、人の姿ではあれたのだ。
両面宿儺は痩せこけた猫の首を掴み上げる。艶のないまばらな毛の生えた腹をしげしげと見て不愉快そうに顔をしかめた。
「どうした、猫を殺しても面白くない」
されるがままに力なくぶら下がる猫を両面宿儺はぽいと放り投げた。猫らしく着地も出来ず、竹汀は水面に叩き付けられる。
両面宿儺は完全に竹汀に興味を失い踵を返した。竹汀は何もない暗闇に取り残される。しばらくうろうろした後、どうにも出来ずその場に蹲った。
******
呪術師竹汀の肉体は生きながら呪物になろうとしている。
切断された四肢、焼き潰された顔貌、炭化した皮膚。徹底的に個としての記号を消された竹汀の体は確かに誰かというよりは何かに見えた。呪いの影響を受けた肉体はねじれ歪み男女の別もつかない。体格の推測すら不可能だ。歯も残らず抜かれているので歯列の照合も出来ない。DNA鑑定に生焼けの肉を回したがおそらくまともな結果は出ないだろう。紫の痣が和牛のサシのように入った腐肉はおおよそ人間のものとは思えなかった。焼け焦げ腐敗し何かになりかけた肉体は、だがすうすうと細く小さいながら絶えず呼吸をしている。
反転術式で竹汀の肉体を回復させるよう依頼された家入硝子は鼻を手で覆いながら首を横に振った。曰く、すでに呪いになりかけた肉は反転術式では回復しない。竹汀の肉体は竹汀の意思と裏腹に人体の概念を失おうとしていた。
コインロッカーで竹汀の体を見つけた五条悟は本部に連絡をし回収班を要請、さらに補助監督の嶋宗の身柄を保護するよう指示を出した。嶋宗というのは呪術高専に所属する魂替えの術師である。休日を自宅で過ごしていた嶋宗は家に上級の呪術師が数人押しかけて来たものだから肝を冷やしたようだが、無事を確認した五条は胸を撫で下ろした。次いで竹汀の肉体を回収したハイエースの乗り心地の悪い後部座席で、今年の六月以降に姿を消した魂替え師がいないか調査するよう指示を飛ばす。
五条悟が危惧したのは、何者かが魂替え師の肉体と魂を使って呪具を作ろうとしているのではないかということであった。そして中途半端な状態で放置され呪物になりつつある竹汀はその被害者であり失敗作である。生きた人間を呪具には出来ない。もちろん人体も物体であるからそれそのものに呪力を込めることは出来る。しかしそれに魂が耐えられない。生きた呪具として完成する前に魂が破壊され結果的に肉体も死に至り、ただの呪具にしかならない。だがそれは肉体と魂を切り離せない人間の場合だ。魂替え師はその限りではない。
呪いは負の感情エネルギーだ。生きながら呪具にされた人間の恐怖、辛酸、怨嗟、悲憤、遺恨がどれほどのエネルギーを産み続けるか、考えるだに恐ろしい。加えて――ここからは完全に五条の無根拠な推測になるが――生きたまま呪具となったそれが、人間であった頃の術式を使えるとしたら。確かなことは何一つ言えない。そんな悍ましい呪法を試したことがある者はいない。しかし、竹汀の肉体を呪いたらしめた何者かがそれを目論んでいたのだとして、その目的はほぼ間違いなく両面宿儺とその器たる虎杖悠仁の肉体を奪うことだ。両面宿儺の絶大な力を欲する人間は数多い。そのためならば人倫を犯す人間などいくらでもいた。虎杖悠仁の肉体の主導権を奪うことの出来る呪具を手にし得るのならば、たかが魂替えの命の十や二十、物のうちにも入らない。
なんらかの理由があり呪法の途中で竹汀の肉体が放置され失敗に終わったのか、失敗作であるから放置されたかは分からない。だが五条の推測が当たっているならば、凶行は続くはずである。この悪趣味な呪法を執り行った何者かは、呪具が完成されるまで諦めることはないだろう。
五条の報告を受けた上層部の意見は割れた。今すぐ竹汀の肉体を破壊すべきか、或いは呪物として完成するのを待つべきか。中には今からでも呪具として調整して有効に使うべきだという奇矯な意見もあったがそれをまともに取り扱うほど上層部は進歩的ではなかった。中途半端で不安定な現状であれこれ手を入れるよりは、呪物として安定してから破壊乃至封印したほうが確実なのは事実だ。だがその中途半端で不安定なものを所持保管し続ける危険とは隣り合わせとなる。
侃々諤々の議論は長引いたが五条の「あれが呪物になるのを待つ。それまで面倒は僕が見る。異論は?」の言葉で幕引きとなった。五条の言葉は虎杖を思ってのことでもあったが、それ以上に竹汀に呪詛を施した者たちの情報を少しでも引き出す必要があったからだ。付け加えるならば竹汀はもうそれほど長い時間人間としての意識を持ち続けることはないだろう。変異への恐怖はさらに変異を亢進する。ここからの変質は加速度的であるはずだ。ならばその短い時間は自由に使わせてやりたかった。
五条はそれを虎杖に伝える。自身の推測を伝えることはしなかった。己の存在が竹汀を産み、さらなる被害者を産みかねない仮定は、仮定であってさえ虎杖の柔い心に爪を立てる。もうじき「死ぬ」竹汀のために教え子に辛い思いをさせる気は五条には毛頭ない。
神妙な顔で五条の言葉に耳を傾けていた虎杖の顔を五条は覗き込む。虎杖の呪力の向こうに奔流のようでありながら強固に封じられた両面宿儺の呪力、そして息をひそめてはいるが確かに異質な呪力が混ざっている。
「悠仁」
「……はい」
虎杖はきゅっと唇を噛みながら五条を見上げる。
「おまえ、入られてるよ」
「え……えっ、マジ!?」
虎杖はぎょっとして自身の腹のあたりを見下ろし、平手でばしばしと叩いてみる。なにやってんの、と五条は呆れて息をつく。五条にすら悟らせぬ巧妙な隠形、というよりも這う這うの体の微弱な気配が両面宿儺の凶悪な存在感に隠れていただけに思えた。五条自身、両面宿儺が封じられた虎杖の肉体に魂替えする術師がいるなど端から頭にもなかった。
「こりゃ全部聞かれていたな。まあそういうことだからよろしく」
五条が虎杖に向かって言う。虎杖の右手がぶるぶると震えた。五条は目隠しの下で片眉を上げる。
「悠仁、なるべくぼーっとして。あんまりもの考えないで。得意でしょ?」
「あ、ああー、あーっ! そう言われるとあれこれ考えちゃうんだけど!」
虎杖は薄目を開け口を半開きにして宙を見る。五条はその顔をスマホで撮影した。ねえ今写真撮った!? と喚く虎杖の手がのろのろと持ち上がりテーブルの上のペンを取る。そのまま力ない動きで虎杖の右手はテーブルに「カラのからだがほしい」とだけ震える筆跡で殴り書きした。それきり動かなくなる。
「空の体? ――死体か核のない呪骸か……」
「死体はナシ!!!」
すかさず胸の前で大きくバツ印を作る虎杖に五条は苦笑した。それにしても、と五条は大小色とりどりの呪力が入り交じる虎杖の裡を覗き込む。
「悠仁の中、呪いのテラスハウスみたいになってんね。ウケる」
******
高専の運動場を見下ろせる石段に腰掛け、虎杖は動き回る人影を眺めていた。禪院の怒号と釘崎の悲鳴がここまで聞こえてくる。
虎杖は五条に「竹汀が人に戻る方法はないのか」と詰め寄った。五条は眉一つ動かさずそれに否を突きつけた。
「戻ることは無理だ。だけど変化を止め現状を維持することは理論上可能だよ」
「それなら、」
「肉体を蝕む呪詛をそれ以上の呪力で竹汀自身が押さえ込む。言っただろ、理論上可能なだけだ。今から竹汀を訓練する? とても間に合わない――それに、竹汀がそれを望むかな」
五条とのやりとりを思い出し、虎杖は眉根に皺を寄せる。殺してくれ、と虎杖に懇願した竹汀の悲痛な声音も否応なしに思い出された。
虎杖と竹汀の境遇は似て非なるものだ。委細承知とはいかずともリスクを覚悟で呪いを飲み込んだ虎杖には、無理矢理呪いに変えられようとしている竹汀の気持ちが分かるような気もしたし分からないような気もした。本当は竹汀に死んでほしくはない。だが竹汀自身がもう終わりにしたいと言うのなら、苦痛に満ちた生を竹汀に強制するつもりはなかった。
どうか最期のときは穏やかであってほしい。虎杖は己の胸を撫でる。
「こんにちは」
背後から声を掛けられ虎杖はぎょっとする。首をそちらに巡らせると、背の高い少女が立っていた。年の頃は虎杖より少し上に見える。上級生だろうか。だが制服は着ていない。
少女は虎杖の隣、石段に座った。伸びやかで健康的な脚が投げ出される。陽に透ける瞳が虎杖の目を覗き込んで細められた。
「空の体は動かしやすい」
「竹汀!?」
虎杖は泡を食って後ずさる。
「女子だったのか!?」
「それは分からないけど。でも悠仁、こういう子好きでしょう?」
言われ、虎杖は竹汀の姿をまじまじと見つめる。虎杖が部屋の壁に貼っているポスターの海外女優に面差しが似ていた。
「正直めちゃくちゃタイプです」
「そっか、よかった」
「なんで?」
「悠仁に好かれたかったから」
竹汀はふと微笑んでそう言った。思わずぼうっとしそうになる己の頬を虎杖は思い切りグーで殴る。目の前で己の頬を殴り飛ばす虎杖に竹汀は悲鳴を上げる。
「知らねえにいちゃん、スーツのおばさん、いいにおいのねーちゃん、おっさん、おっさん、ねーちゃん、おっさん、ヤンキー、ホームレス、釘崎・・・・・・」
虎杖は竹汀がとったことのある姿を思い出せるだけ念仏のように唱え出す。可愛い外側に騙されてはいけない。中身は竹汀だ。
竹汀は眉尻を下げて笑う。
「俺は竹汀がどんな見た目でも全然一緒に遊んだのに」
虎杖がぼやくと竹汀は表情を曇らせた。
「本当に? あやうく変なぬいぐるみに入れられるところだったけれど、それでもよかった? 一緒に焼き肉行ってくれる?」
虎杖は夜蛾学長が作るフェルトのぬいぐるみを思い出し顔をしかめる。さすがにあれを抱えて外出できる年齢はとっくに超えていた。むう、と唸る虎杖を横目に見ながら竹汀は膝を抱える。膝頭に頬を乗せ、虎杖を見上げた。
「手伝ってくれてありがとう、気持ち悪いものばかり見せてごめん」
虎杖は言葉に詰まる。結局虎杖は竹汀に何をしてやることも出来なかった。縋るように伸ばされた手を無責任に取ってしまった。もっと早く五条や誰かに頼れば、他に手段があったのではないか。
「それと、人間に戻したいと思ってくれて、嬉しかった」
虎杖は「でも出来ないんだ」と言いそうになったが、口を噤む。何を言うか迷い、しばらく黙った後「誰でも思うよ」と掠れる声で答えた。
虎杖には誰にも言えない懸念があった。竹汀のもとに残されていた「虎杖悠仁を探せ」と記された紙片のことだ。竹汀の身に降りかかった出来事に己が関係しているのは間違いなかった。
――竹汀がこうなったのは己のせいではないのか。
それを誰かに言ったところで、誰もが「そんなことはない」と答えるだろう。竹汀自身でさえ。だから誰にも言えない。己の胸にしまっておく。
「おまえをそうしたやつは、俺が絶対見つけるから」
虎杖が低く唸ると竹汀は首を横に振る。
「やめたほうがいい」
その口振りに違和感を覚え、虎杖は竹汀の顔を見つめる。反駁の言葉を探す虎杖に、竹汀は噛んで含めるようにゆっくりと「悠仁には知ってほしくない」と囁いた。
どういう意味、と尋ねかけた虎杖の手を竹汀はするりと握る。健康的な血色の手は、だがぞっとするほど冷たかった。虎杖は直感的に「ほんとうに空っぽなんだ」と思う。
「そんなことを気にするくらいなら浅草デートしよう」
「あさくさでえと」
思わず鸚鵡返しする虎杖に竹汀は笑い声を漏らす。
「このあいだは雷門しか見られなかったから。もう少し観光してみたかった。あとスカイツリーも登りたい」
竹汀はにこやかに行きたい場所を指折り数える。虎杖は一瞬胸が苦しくなったが、すぐに頷いた。
「いいぜ、行こう」
やった、と竹汀は胸の前で小さく両手を挙げる。
「でも今の竹汀の見た目だとめちゃくちゃ緊張するかも。挙動不審になったらごめん」
虎杖が言うと竹汀は肩を竦めて「同年代の男の子にしてもらえばよかった」と嘯く。二人は週末に浅草に遊びに行くことを約束する。ゆびきりする? と笑う竹汀に虎杖は「そうやってすぐからかう」と顔をしかめた。