暗い空に青白い星の光が灯っている。このあたりは星が美しい。竹汀は貸し与えられた自室の窓から夜空を見上げる。
 悠仁の隣室が良い、あわよくば同じ部屋が良い、という竹汀のそれとない要求は五条に笑顔で却下された。問答無用で五条が寝起きする部屋の隣を宛がわれている。
 肉体を失った竹汀は当然肉体の休息も必要としない。睡眠をとらない竹汀に夜は長すぎた。これまでは己の記憶の手がかりを探して町をうろついたりもしていたが、死を待つだけになった今となってはそんなことをする必要も無い。
 長い夜は竹汀に恐怖を思い出させる。それは死への恐怖であり変異への恐怖であり喪失への恐怖だった。不意に泣き出したくなる。己がいったい何をした。――何かしたのかも知れないが、それは記憶も肉体も失った己に関係のあることだろうか。諦めたはずの怒りが身を焦がす。竹汀は身食いする獣のようにがりがりと呪骸の二の腕を掻いた。何度もそれをやったせいで傷一つ無い少女の体であった呪骸は二の腕だけ引き毟られ毛羽立っている。泣き喚くことが出来たら気が晴れるだろうか。だがこの体は血を流すことも涙を流すこともない。
 毛羽立った皮膚を毟りながら窓の桟に頭を凭れかけさせ、ぼうと屋外を見る。トラツグミの鳴く声がする。郊外とはいえ東京でその声を聞くとは思わなかった。竹汀は窓硝子に額を当てて暗闇に目を凝らす。木の幹に寄り添う小鳥の姿を視界の端に見つけた。その瞬間に視界がぱっと広くなる。人間の目には暗いばかりの景色が色彩を帯びた。鳥の視界は好きだ。鮮やかで美しい。
 窓に顔を押しつけたまま眠ったように動かない少女の姿を見て地面をちょんちょんと跳ねる。夜闇で飛ぶのは気が引けた。そのうち練習しようかと思い、そのうちなど己にないことに思い至る。溜息をつきたい気分になったが小鳥の身ではそれも出来なかった。
 途中、無防備に地で跳ねるトラツグミに忍び寄ってきたハクビシンに魂替えする。やはり四ツ足はいい、と竹汀は軽快に目的の場所に駆けた。虎杖の部屋は一階だというのに窓が開け放たれたままだ。起きているのかとも思ったが、白いレースのカーテンが夜風で揺れる室内には寝息だけが響いている。不用心だ。
 竹汀は鼻先をカーテンの隙間から室内に入れる。安い柔軟剤とリンスインシャンプーと石鹸と汗と脂のにおいがした。不鮮明な視界に寝返りをうつ虎杖の姿を捉えた。

 ふ、と世界が無音になる。黒く澄んだ水が足を浸す。竹汀は自身の手を見下ろした。骨張った男の手だ。指を数え、過不足無く十あることを確認する。手を握り、開く。動きにも問題は無い。細く安堵の息を吐く。

「またオマエか」

 うんざりとした調子の声が耳朶を打つ。ほとんど反射的にその場に膝をついた。黒いデニムが水を吸って重くなる。うなじの毛が逆立ち、指先が痺れていく。死ぬときもこういう感じなのだろうか、と蕩ける頭でぼんやりと思った。
 牛骨の座に退屈そうに寝そべる両面宿儺が竹汀を見下ろす。

「殺しても死なず、余興のひとつも出来ず……少しは面白いことをしてみろ」

 震えて身を縮こまらせる竹汀の傍らに両面宿儺が立つ。力加減を知らぬ手が竹汀の顔を掴んで上向かせる。鋭い爪が頬を抉った。首筋を血が流れていく。

「だがオマエの肉体の方は面白いことになっているな」

 低い笑い声が降ってくる。剥き出しの犬歯が唾液で濡れて光っている。
 竹汀は恐怖で身動きが取れなくなる。毛穴から侵入する密度の濃い悪意に、鈍麻した生存への欲求が叩き起こされ狂ったように警鐘を鳴らす。吐き気を催すほどの恐怖と不安の中で、竹汀はひとかけらほど安堵する。己はまだ生きている。まだ人間らしさが残っている。死への恐怖はそれを上回る恐怖だけが上書き出来る。灼き切れるような恐怖を感じている間だけは恐怖を感じない。

「使える道具なら手元に置きたいものだが、成った瞬間破壊される段取りのようだ。カワイソウになあ」

 心底愉快そうな笑声が鼓膜を震わせた。竹汀は痙攣的な息を吐く。両面宿儺は竹汀の耳元で囁く。

「助けてやろうか」

 声音はぞっとするほど優しかった。糖衣の悪意が流し込まれ、腹の底に澱のように溜まっていく。
 ふと己が眼前の呪詛に惹かれていると分かる瞬間がある。それは首を落とされたときであるとか、はらわたを捏ねられているときであるとか、頭蓋を砕かれているときであるとか、今現在この状況であるとか。被虐の気でもあったものか、それともなぶられすぎてとうとうどこか配線が狂ったものかと思いもしたが。
 呪いはより強く烈しい呪いに惹かれ集まるものだ。竹汀は呆然と両面宿儺を見上げた。己は確かに呪詛となりかけているらしい。怖いとも思ったし、厭だとも思った。だがどうでもいいとも思った。

「オマエはそこで呆けて首を縦に振るだけでいい」

 鼻にかかった猫撫で声が背骨を伝う。竹汀ははくはくと唇を開けたり閉めたりした。

「呪詛として在るのも悪くはない。まあ、芸事の一つは身につけておけ。封印されるととにかく暇だ」

 軽やかな語り口は聞こえがいい。蠱惑的ですらあった。もう何も考えず首肯してしまいたい。脳髄が痺れるほどの恐怖が恍惚を帯びる。抗いがたい眠気に似た感覚が竹汀の思考能力を奪う。竹汀は顔を両手で覆い項垂れる。悲しくもないのに涙がぼとぼとと水面に落ちていく。行き場のない感情が水分になって漏れ出している。食いしばった歯の間から呻き声が零れる。
 竹汀は顔を覆い身を折り曲げ、額付くように蹲りながら首を横に振る。頭上で舌打ちの音がした。

「何をしに来たんだオマエは」

 苛立たし気な声に竹汀は涙と鼻水でぐずぐずの顔を上げる。へらへら笑って「臺下にごあいさつに」と言うと両面宿儺は虎杖そのままの顔貌で竹汀を見下ろし「俺が忠告してやる義理もないが壊れてきているな」と哂った。


******


 竹汀は暇さえあれば虎杖のスマホを借りて浅草寺周辺の観光スポットを調べている。ここに行きたい、あれを見たい、それを食べてほしいと、逐一虎杖に報告しては嬉しそうににこにこしている竹汀を見ていると、虎杖は竹汀が呪詛に侵されていることも死を目前にしていることも忘れそうになる。
 現状竹汀の外観は虎杖とそう年齢の変わらない少女で、その容貌は端正である。それが臆面もなく好意を露わにしてくれるので、虎杖は正直なところ全く悪い気はしない。戸惑いはするが。
 だが虎杖には竹汀が初対面で二十前後の男の姿をしていた印象がどうにも強く、ふとした瞬間にそれを思い出し冷や水を浴びせかけられたような気分になることがある。竹汀のガワは魅力的だがそれは竹汀自身ではない。外貌にばかり浮き足立つのは竹汀に失礼な気がした。たとえ竹汀がそれを許容したとしても。

 食堂で昼食をとる虎杖の向かいの席で、竹汀は目を細めてそれを眺めている。ふっくらとした唇が堪えきれないように笑みを滲ませていた。あまりに凝視されるので虎杖は箸を持つ手を止める。

「竹汀」
「うん」
「食いづらい」
「……ごめん」

 竹汀は苦笑する。

「そんな見るくらいなら食えばいいじゃん」

 ほら、と虎杖は昼食の膳についていた小さなカップゼリーを竹汀に押し出す。竹汀はリンゴの断面がプリントされたフタをしばらく見ていたが、眉尻を下げてそれを押し戻す。

「食えないわけじゃないんだろ?」
「悠仁が食べてるところを見てる方が楽しいよ」

 竹汀にとって他者の肉体を使った食事は給餌に似ていた。同じ餌遣りならば、魂を素通りする喜びのない食餌よりも、誰かの幸福そうな食事を眺めている方が満たされる。

「食レポするか?」
「いらない」

 練習したのに、と虎杖は不服そうな顔をした。竹汀は思うところがあり眉を上げる。

「悠仁、食レポって芸に入る?」

 突然そう聞かれ、虎杖は面食らう。どうだろうか。それそのものがテレビ番組になるくらいであるから芸であるのかもしれない。

「入る……かなあ、どうだろ、なんで?」
「一発芸を身に付けたい」
「いやなんでよ」

 急にどうした、と目を丸くする虎杖に竹汀は誤魔化すように微笑む。

「練習しようかな」
「飯食わねえのに?」

 即座にそう言われ、竹汀は眉根を寄せた。

「だめかな」
「食わない食レポは未来過ぎるだろ。一発芸ならモノマネ教えてやろうか」

 虎杖は揚々と箸を置き、最近テレビでよく見る芸人のモノマネをする。どうだ、と竹汀を見れば、竹汀は反応に困ったような半笑いで宙を見ている。

「え、似てなかった?」
「誰の真似したか分からなかった」
「あ、ああー、そうか記憶ないもんな」

 あっても分かったかは定かではないが。

「誰かの真似をするって面白いかな」
「竹汀は誰にでもなれるしなあ。でも結構すぐ竹汀だって分かるよ、似せる気ないだろ」

 すぐに分かる、と言われ竹汀は口元に笑みを乗せる。

「分かる?」
「なんか、雰囲気とか」
「そっか」

 何かを言いかけ口を開けた竹汀は背後から名を呼ばれ口を噤む。食堂の入り口に立つ五条が竹汀を手招きしていた。竹汀は虎杖にスマホを返し、席を立つ。

「またあとで」
「おん」

 虎杖がぷらぷらと手を振ると竹汀も笑って手を振った。虎杖は心の中でおっさん、ヤンキー、ホームレスと唱える。やはりガワだけはどうしようもなく好みだった。
 はーあ、と溜息をつく虎杖は背後から釘崎にどつかれ前のめりになる。

「デレデレしてんじゃねえよ、はっ倒すわよ」
「もうはっ倒してるじゃん!」

 いってえ、と虎杖は頭を抱えてテーブルに伏せる。釘崎は勝手に椅子を引き虎杖の隣に腰掛けた。

「どういう神経してんの? 相手は呪いよ」
「まだ人間だろ」

 虎杖が言うと釘崎は「甘い」と言わんばかりに鼻を鳴らす。

「マジな話してんだけど。うかうかして食われでもしたらどうすんの」

 呪い、食われる、というワードに虎杖は胃のあたりを手のひらで擦る。

「食う方だったら俺だし」

 釘崎は表情を引き攣らせ仰け反る。生じた誤解に思い至った虎杖は椅子から飛び上がってそれを訂正した。

「ち、ちがう、 竹汀が呪いだとして、いやまだ呪いじゃねえけど、そうだとして、俺宿儺の指食えるし、そういう意味で、あぇ何言ってんの俺」
「くっそキモい、無理」
「釘崎!?」

 釘崎は竹汀の腐肉のにおいを嗅いだときと同じような顔で虎杖を睨む。

「竹汀が実は五十代のおっさんで薄らハゲで腹出てたらどうするわけ?」
「どうもしねえよ! 竹汀は友達だって!」
「はァ!? ひっでぇ男! あれは恋する乙女の顔よ!?」
「おまえの言うこと総括すると竹汀は五十代のハゲで腹の出たおっさんで恋する乙女ってことになるけど」
「そうよ」
「めちゃくちゃじゃん……」

 項垂れる虎杖に釘崎はずいと詰め寄る。

「写真撮ってきてよ」
「なんで」
「面白いから」


******


 アイス食べる? と問われた竹汀は丁重にそれを断った。五条の私室は物が少ない。高専の敷地内ではここを拠点にしているだけで、私邸は別にあるのだろうか、と竹汀は思う。
 話があるから、と五条は竹汀を私室に連れ込んだ。五条は自分のベッドに座ると冷蔵庫の方を指さす。

「僕は食べようかな。冷凍庫から取ってくれる?」

 竹汀はなぜ自分がと思いはしたが、断る理由もないので背の高い冷蔵庫の前に立つ。「冷凍庫は一番下」と言われ、最下段の冷凍室を引き出した。

「わぅ」

 竹汀は冷凍室の内部から顔を逸らす。思わず変な声が出た。間仕切りを外された冷凍室に己の肉体が冷凍されていたからだ。丁寧にパウチで真空パックまでされている。一瞬、食品か何かかと思ってしまったことに嫌悪感が募る。背後から「あはははびっくりした?」という暢気な声をかけられ、竹汀は溜息交じりに冷凍室のドアを閉めた。

「びっくりした」
「サプラーイズ」
「それも最悪の部類の」

 五条は口の端を上げながら竹汀にソファを示す。竹汀は不承不承そこに腰掛ける。

「こうでもしないと虫とにおいがひどくて。でもこうして僕が面倒見るっていう約束は守ってるよ」
「……あれ生きてる?」
「生きてるね」

 無慈悲な返答に竹汀は苦い顔をする。死んでほしいわけではない。肉体が死ねば魂もそのうちどうにかなる。戻れなくなっているとはいえ己の体だ。だが真空パック状態で冷凍されて死んでいないとなるとそれは別問題だ。

「作りすぎたローストビーフみたいになっちゃって……」

 頭を抱えて呻く竹汀に五条は「焦げすぎでしょ」と笑った。
 五条は持て余し気味の脚を組み、目隠し越しに竹汀を見る。

「竹汀をああした奴らが何者かっていう話なんだけど」
「目覚める前の記憶は無い。これだけは嘘じゃない。必要ならあれを捌くなりしても構わない」
「捌くのはなあ……解凍が大変そうだし。うちのレンジに入らない」

 人の大事な体を冷凍豚こまのような口振りである。竹汀はソファの上で脱力する。せめて丁寧に自然解凍してほしい。

「悪事が露見しにくくするために一番重要なことって何だと思う?」

 五条に問われ、竹汀は「なんでしょう」と気のない返事をする。五条は竹汀を指さす。

「関係者を極力減らすこと」

 思いの外まっとうな答えが返ってきたので竹汀は拍子抜けする。五条は立ち上がると竹汀が座るソファに近寄る。長身の男に見下ろされると威圧感があった。こういうとき女の体は小さくて不安になる。

「この仕事に必要な最低人数を考えてみる。たとえば竹汀が魂替えをしている最中に空の体を誘拐したとする。これが一番簡単だろうからね。車でドヤに竹汀の体を運び込み、手足を切り落とし火をつけ呪詛を刻む。そして撤収。たとえ竹汀が小柄な女性、或いは子供だったとしても二人か三人は人手がほしい。いつ竹汀が戻ってくるかも分からないしね、間違いなく単独犯ではない」

 特に異論は無いので竹汀は黙って五条を見上げた。

「ところが、ここに魂替え師というイレギュラーが発生するとそうもいかない。魂替え師は自らの足でドヤに向かい、自らの手足を切り落とし、自らの体に火をかけることが出来る。たっぷり時間を掛けてね。必要人員はゼロ。加害者一人、被害者一人、同一人物。これほどシンプルなことはない。――竹汀を疑っているわけじゃないよ。だけど排除できる可能性は早めに潰しておきたい。我々は人間を生きたまま呪具に変える正体不明のカルト集団をこれからも追うべきか?」

 薄布越しにさえ射貫くような視線を感じる。体があったら冷や汗をかいていただろう。竹汀は己の華奢な手を握ったり閉じたりしてみた。ふう、と細く息を吐く。何から話せば良いか、と言葉に迷う。

「魂替えは大きく二種類のやり方がある」
「魂そのものを飛ばすか、魂を別所に括り複製を飛ばすか」

 間髪入れずに五条が言う。話が早くて助かる。どうせ調査済みなのだろう。竹汀は自身の胸を指先でとんとんと示した。

「今こっちは複製」

 次いで、冷蔵庫を指さす。

「あっちが本体」
「マジ? 冷凍しちゃった」
「もっと大切に扱ってほしい」

 五条は薄く笑って肩を竦める。

「普通自分の体に自分の魂は括らない」
「リスクが高いからね」

 竹汀は首肯する。やはり調査済みらしかった。涼しげな表情が憎らしい。
 複製を用いた魂替えの手順は煩雑だ。まず自身の肉体から魂を切り離し何者かに憑依する。その状態で自身の魂の核を他の器に括る。器はなんでもいいが、呪具が好ましい。己の魂の気配を呪具が纏う呪力で隠せるからだ。自身の肉体に括ることはあまりない。印鑑と通帳を暗証番号のメモと一緒にしまうようなものだ。

「これを誰かに強制されたのだとしたら、記憶を失う前の自分は一度誰かに憑依し、その間自分自身の体がめちゃくちゃに破壊されるのを指をくわえて眺め、呪物寸前のぎとぎとの達磨に自分の魂を括った」
「考えにくい?」
「どうかな、一族郎党人質に取られてたら或いは。でも全部自分でやったって方がしっくり来る」

 五条は竹汀を見下ろす。竹汀は五条を見上げた。

「いつから気付いてた?」
「先日何回か死んだとき」
「目的は?」
「忘れた」

 五条は冷ややかに「すぐ処分しておくべきだったかな」と囁く。竹汀は淡く笑った。

「そうかも。今壊してもいい。本体は無防備だから簡単に壊せる」

 そのかわり、と竹汀は立ち上がる。女性にしては高い身長の体だが、それでも五条の肩の辺りまでしかない。

「悠仁には絶対に言わないで」

 五条はしばらく黙っていたが、静かに「わかった」と呟いた。

「壊さないよ。どうせすぐ駄目になるし。まあそれまで女子高生を満喫しなよ」

 竹汀が力なく「ありがとう」と言うと五条は竹汀の頭を撫でた。それにどういう意図があったのか竹汀にはよく分からなかった。