自らの肉体を破壊し呪いそこに己の魂を縛る意味を考えている。
 死を待つだけの緩やかな時間のほとんどをそれに注ぎ込んでもたいした成果は得られそうになかった。己のことであるはずなのに、誰のことよりも分からない。脅迫か、大義か、自棄か、酔狂か、戯れか、いずれにせよ竹汀は自分自身を許せそうになかった。
 なあ、おまえのせいでおまえはひどいことになっているよ、と竹汀は自身の胸を掻き毟りたくなる。死にたいならば楽な方法がいくらでもあっただろう。どうして己を巻き込んだ。どうしてこうも陰惨な方法を選んだ。
 目的は、という五条の言葉を何度も反芻する。忘れてしまったそれを求めて虚数を探すように無味乾燥な記憶を辿る。己がそのとき何を思ったのか。何を望んだのか。血を吐くような苦痛と恐怖を己に科してさえ手に入れたかった物はいったい何か。それは肉体も、記憶も、平穏も、正気も、全て擲つ価値があったのか。仮におまえにあったとして、己にもその価値は共有されるのか。あったところで己は何も分からないまま人間としては死んでいく。

「ああ、厭だ……」

 幼ささえ滲む高い声が呪骸の鼓膜を揺さぶる。

「え、何が?」

 虎杖が目を丸くして言うので竹汀はふっとそちらに視線を向ける。自身の膝に突いていた頬杖を外す。

「なんだろうね」

 竹汀が苦笑すると虎杖は物言いたげな顔をしたが、何も言わなかった。
 浅草観光の約束を明日に控え、竹汀はいよいよ浮き足立っている。いつもは虎杖に迷惑を掛けないよう他の生徒といるときはあまり出しゃばってこない竹汀がことあるごとに「明日、楽しみだね」と声を掛けてきた。
 夕日の差し込む虎杖の部屋の掃き出し窓に竹汀は腰掛けている。背に落ちる細い髪が夕焼けの色を映していた。室内に入ってこないのは、五条に禁じられているかららしい。曰く「一応男子寮だし」ということで、五条はとりあえず竹汀を女子として扱うことにしたらしかった。
 竹汀は虎杖が授業や任務の間は敷地内をうろうろしている。竹汀を見かけて声を掛けると中身が空っぽであるということが何度かあった。そうなるとただの人形同然であるので、ぴくりとも動かない。
 ここ数日で竹汀の呪骸がそのへんに落ちていることに他の生徒も慣れてしまい、パンダ先輩などは「竹汀落ちてたぞ」と空の呪骸を虎杖に届けてくれる。呪骸とはいえ少女が食堂やベンチで呆けていれば、世話も焼きたくなるだろう。竹汀にしてみれば空の体を勝手に動かされると迷子になるから少し困るらしいのだが。
 虎杖が浮つくほど、竹汀は自身の外殻に頓着していない。それを突きつけられるたびに虎杖は申し訳ない気持ちになる。
 あのさ、という言葉を二人は同時に発した。そして同時に口を噤み、ごめんと呟く。おさきにどうぞ、と竹汀が微笑むので虎杖は頬を掻きながら言葉を選ぶ。

「あのさ……俺、竹汀の見た目に完全に浮かれてる。分かると思うけど」

 言葉にすれば余計情けなさが募る。顔がかっと熱くなった。それを聞いた竹汀は大きな瞳を丸くし、次いで眉尻を下げる。

「いいよ、そのためにこの外見を選んでる」
「よくねえよ……ほんっと情けねえ……」

 はー、と虎杖は溜息をつきながら頭を抱える。想定していた以上に深刻に捉えられ、竹汀は薄い肩を竦めた。

「体をいつでも変えられるから、あんまり思い入れがない。それで好かれれば嬉しいし、嫌がられたら変えればいいだけだし。服装に気を遣う感覚に近い」

 竹汀の言葉に虎杖は納得がいくようないかないような妙な気分になる。そうだといわれればそういう気もしたが、やはり良心が痛む。
 竹汀は虎杖を見上げた。

「悠仁はさ、この姿だけ覚えていてくれたらいいから」

 竹汀が頭を動かすと夕日が髪の毛に反射してきらきらした。笑う口元に人工的に美しい歯列が並ぶ。夢で見たような、非の打ち所のない理想の女の子だ。虎杖はぎゅっと眉根を寄せる。

「俺は、竹汀がどんな見た目でも一緒にいて楽しかった。知らねえおっさんでも女子高生でもホームレスでも、浅草も行くし焼き肉も行くよ。竹汀のこと、ふつーに好きだ。変な意味じゃなくて」

 力みすぎた虎杖のこめかみがどくどく鳴る。竹汀はふと笑う。

「五十代の頭が薄くて腹の出たおじさんかもよ」

 聞いてたのかよ、と虎杖は呻いた。

「それでも関係ねえよ。人間としてさ、好きだよ。いい奴だもん」
「人間として?」
「うん」

 虎杖が強く頷くと竹汀は自身の膝を抱いた。丸みを帯びた膝頭に額をつける。

「悠仁はいい奴すぎるな、呪術師なのに。心配だよ」

 虎杖は竹汀の華奢なうなじを見ていた。

「悠仁に好かれたくてこの見た目にしたけど、好かれてどうこうしたいわけじゃないよ。気を遣わせてごめん」
「うええ、いや、ほんと、こちらこそ……」

 しどろもどろになる虎杖を髪の毛の隙間から見上げて竹汀は笑う。

「ただ――ただ、悠仁はいい奴過ぎて呪術師としてやっていけるか心配で……」

 言葉が途切れる。竹汀の瞳は夕日の色をしていた。

「もう少し近くで見ていたかった」

 虎杖は唇を噛んだ。うん、と小さく答える。

「死にたくないなあ……」

 軽い溜息が聞こえる。虎杖はまたうんと答えた。
 鼻の奥が熱くなる。虎杖は目を見開き天井を見た。俺だって死んでほしくない、と言いかけてやめる。あまりに酷な気がしたからだ。

「明日、楽しみだね」
「そうだな」
「明日は辛気くさいの無しにしよう」
「わかった」

 虎杖が神妙な顔で頷くと竹汀はのんびりと立ち上がる。そろそろ部屋に帰らないと、と竹汀は尻についた埃を払った。虎杖は思わずそれを目で追う。竹汀は虎杖の視線に気が付いたのかくるりと振り向くといたずらっぽく唇を尖らせた。

「すけべ」

 いっきに頬に血が上ってくる。何か言い訳をしなければとあれこれ考え、虎杖は結局諦める。

「スミマセン……」

 虎杖が深々と頭を下げると竹汀はおかしそうに声を上げて笑った。冗談だよ、と目を細める竹汀に虎杖は「マジでそういうのやめて」と呻いて自分のパーカーの胸のあたりを掴んだ。

「竹汀、さっき何か言いかけてたろ」

 早々に話題を変えるためにそう言うと、竹汀は手を背中の方で組む。細い指先が絡まる。

「悠仁に会えてよかった」
「……それだけ?」
「それだけ」

 ばいばい、また明日、と竹汀は小さく手を振る。虎杖はそれに手を振り返した。


******


 澄んだ昏い水の中に痩せた男が蹲っていた。両面宿儺は丸められた薄い背中を眺める。
 竹汀の呪力は日に日に強さも質も変化している。両面宿儺の領域の内にあってしばらくの間は存在を覆い隠し気配を気取られない程度にはその濃度を増していた。恐怖と悲憤と怨嗟が竹汀の呪力を煮詰めていく。実力に余る呪力だ。そのうち器が壊れるだろう。限界は近い。
 他者の魂に直接干渉するには魂替えの術式が必要だ。虎杖悠仁の内部に生得領域を展開し思う儘にやっている両面宿儺でさえ、他者の魂をそこに無理矢理引きずり込むことは出来ない。髪の毛の先でも領域の内部に侵入すれば、当然その限りではないが。
 触れなければ祟られない。加えて触れたとて本体は領域の外に置いておける。それは両面宿儺に対しての大きな優位性である。そうであるにも関わらず竹汀は幾度となく虎杖の体に魂替えし、両面宿儺になぶられている。それを望むかのようだった。事実として望んでもいた。
 竹汀の焦点の合わぬ双眸が宙を見ている。両面宿儺はその前に立った。顔の前に手をやると竹汀は両面宿儺の手の甲に猫のように額をすり寄せる。倦み疲れた目が夜闇の獣眼めいて一瞬青白い光を帯びた。はたり、とまばたきをするとその光が消え、かわりに恐怖と怯えが瞳に滲む。ひ、と男の喉が小さく鳴った。
 近頃竹汀は好んでこの痩せた若い男の姿を取っている。両面宿儺と竹汀が虎杖の中で初めて見えたときに居合わせた男だ。どういう理由かは分からないが印象に残っているらしい。
 竹汀は両面宿儺の姿を仰ぎ見る。両面宿儺が「今度は何だ」と問えば竹汀は少しの間呆然とし、首を傾げた。

「臺下の無聊をお慰めに」

 青褪めた唇がそうだけ言う。両面宿儺はそれを鼻で笑った。眠らぬものに星のない夜は長すぎる。両面宿儺も、竹汀も。ただそれだけだった。
 竹汀の体は両面宿儺に睨め付けられたところから冷えていく。薄い唇が苦しげにはくはくと開いたり閉じたりした。

「小僧に惚れているのか」

 両面宿儺の冷ややかな問いに竹汀は体を強張らせる。縋るように両面宿儺を見上げ、目を伏せる。竹汀は虎杖のことは好きだったが、惚れているのかと言われるとよく分からなかった。己の性的指向も失っている。今さらそれを取り戻そうとも思わない。
 虎杖のことは大切だった。友人のように恋人のように伴侶のように家族のように我が子のように愛しているような気もしたし、そのどれとも違うような気もした。
 竹汀は眉根を寄せ、首を横に振る。いいえ、と小さく呻く竹汀を両面宿儺は笑った。両面宿儺は俯く竹汀の前に膝を折り、爪の先で竹汀の頬をなぞる。

「そうだろうな」

 上機嫌に目を細めながら頬を手の甲で撫でられた。胃の腑が裏返りそうな恐怖と抗いがたい陶酔感が一度に身の内を巡り目の奥がしくしくと痛んだ。

「人情の機微などオマエの中からはとうに失われているものな」

 竹汀は息を詰まらせる。両面宿儺の放った言葉を何度も反芻し、意味を飲み込み、激しく首を横に振る。

「そんな……そんなこと――」

 両面宿儺は駄々をこねる子供のように首を振る竹汀の顎を掴む。指先がぞろりと竹汀の頬を撫でる。

「我々は指向性を持った負の感情だ、そうでしかない」
「ちがう……やめて……」

 優しさを帯びる声音に反して表情が凶悪な愉悦に歪んでいく。記憶を失った竹汀がやっと手に入れた今生への所縁がいとも簡単に毟り取られようとしていた。竹汀は力なくそれに抵抗するが、意味の無いことなどわかりきっている。

「向かう先を見失い箍が外れているな、白面にはままあることだ」
「ちがう、ちがういやだ……」

 竹汀の双眸に涙が滲む。ひ、ひ、と断続的で苦し気な息がこぼれる。

「情も愛もあるものか、オマエはただの執着と妄執だ」

 竹汀は身を折り嗚咽を漏らす。ちがう、ちがう、と譫言のように呟きながら何も映らぬ水面を見つめる。

「ちがう、すきなんだ、たいせつにしたい……ほんとうに……これだけは……」

 両面宿儺は竹汀の青褪めた顔を上向かせ覗き込む。緋色の二対の目が毒心を孕んでいる。

「まったく、色を覚えたての仔猿のようで見ていられん。どれ、俺が先達として手ほどきをしてやろうな。それの扱い方も、手懐け方も、発散の仕方も」

 それを虎杖と同じ顔で言う。竹汀は堪らなくなって顔を両手で覆った。何も見たくなかったし、聞きたくなかった。両面宿儺は竹汀の手首を掴んで苦痛と混乱で歪んだ顔を露わにする。竹汀はささやかに抵抗しようとし、諦める。枯れ枝のような腕がだらりと下がる。強く目を閉じると両面宿儺は竹汀の耳元で「目を開けろ」と囁いた。

「己の獣性を受け入れろ、賢しらぶって人間の真似事などやめろ、思う儘に振る舞え、享楽を貪れ、なに戸惑うのははじめのうちだけだ、やがて法悦に至るぞ」

 悪意が竹汀の全身を愛撫する。竹汀は震えわななき喘ぎぼとぼとと泣いた。

「やめてください……おねがいします……いやだ……いやだ……」

 両面宿儺は竹汀の眼前で舌なめずりをする。赤い舌先が鋭い歯をなぞっていく。

「俺に請うたところで呪詛は止まらん」

 ううう、と竹汀は子供のように泣き声をあげた。強張る体で身悶える。

「こわい、死にたくない、死にたい、いやだ、こんな、こんなのいやだ」

 己のなけなしの人間性が虫にたかられたように食い潰されていく。獲得したばかりの感情が弄ぶように剥ぎ取られていく。せめてそれを厭だと思えるうちに死にたかった。