八
高専正門に十一時集合と約束した虎杖は少し早めに部屋を出ることにした。何を着ていったらいいものかと頭を悩ませ、結局パーカーになる。竹汀は茶化してデートと言うが実際のところ竹汀がどういう心積もりで虎杖を誘っているか掴み切れていない。己が気合を入れて出向いたのに竹汀が普段通りであったら気恥ずかしくてどうしようもない。もっとも虎杖は気合が入っていてもパーカーを選ぶのだが、一応虎杖なりによそ行きのパーカーと普段着のパーカーがある。
男子寮の共用玄関を出たところでばったり竹汀に出くわし、虎杖は「あれ、集合時間間違えてたか?」と尋ねた。竹汀は普段通りの呪骸初期装備で、虎杖は「気合入れてこなくてよかった」と思う。声をかけられた竹汀は気まずそうに表情を歪める。
「間違えてない」
「そうだよな、というか早いくらいだし」
なんでここに、と言いかけると竹汀は眉尻を下げる。
「早く集合場所につきすぎてしまって……うろうろしてた」
「待ちわびすぎだろ……」
竹汀は照れ隠しのように肩を竦めて笑った。だって楽しみにしてたしね、と開き直る。
「実は俺も浅草って真面目に見て回ったことないんだよ。あのへん観光客多すぎだし」
「フジヤマ、ハラキリ、ゲイシャ」
「急に何!?」
「あこがれの日本文化」
「日本人だろ」
「忘れた」
「あ、そっか」
竹汀は見るからに上機嫌に言う。
「呪骸で遠出するの初めてかも、これ置いていくと大変なことになってしまうからちょっと面倒だね」
「マジで置いていかないで、絶対やめて」
虎杖は空の竹汀を担いで帰る自分を想像して眉間にしわを寄せた。警察に声をかけられそうだ。
「鳩に魂替えして空から雷門見たい」
「えっ、そんなことできんの、すげ」
「出来るよ、高所恐怖で吐きそうになるけど」
「じゃあやるなよ」
視界の端で伏黒が自室の窓からこっちを見ている。虎杖がそちらに顔を向けるとしれっと視線を外された。なんなの、と虎杖は伏黒にいらないお土産を買っていくことを決める。
最寄りの駅――といっても距離がかなりある――まで歩いている途中で、竹汀の耳元でピアスが揺れているのに気が付く。竹汀が歩を進めるごとに金色の細い鎖に吊るされた石がゆらゆらと揺れている。ぼうっとそれを見ていると、竹汀は虎杖の視線に気づいて己の耳元に触った。
「これ、野薔薇が貸してくれた」
「へー、いいね」
「揺れるのがいい」
「あ、わかる」
虎杖は何の気なく竹汀の耳元で揺れるピアスを指先でつつく。竹汀の歩みに合わせて揺れていた一定のペースが乱された。竹汀は首をすくめて「壊したら野薔薇に叱られるよ」と言う。たしかに、と虎杖は手を引っ込める。
「ピアスなんて付けてた?」
「昨日野薔薇が開けてくれた」
「え、そんな簡単に開くもん?」
「穴開ければ開く体だからね。コンパスの針で開けた」
「コンパスの針!?」
手首を吹き飛ばされたことも心臓を抜かれたこともあるにも関わらず、虎杖の背筋を悪寒が走る。なんでそんな田舎のヤンキーみたいなことを、と顔をしかめた。虎杖の痛々し気な表情を何と勘違いしたのか竹汀は自身の胸に手を当てた。
「まずいかな、賃貸なのに」
賃貸、という言い方が面白くて虎杖は笑う。敷金返ってこねえじゃん、と答えると竹汀も笑った。
幸運にも電車は空いていて二人並んで座れる。座席に座った途端に竹汀の目が素早く乗客をチェックするのが分かった。虎杖は竹汀がそうするのを何度か目の当たりにしている。癖なのだろう。
「今竹汀が入れそうだなって思った人当てよっか?」
「え?」
「ドアの横の席に座ってるばあちゃんと、あそこでうとうとしてる男の人」
虎杖が言うと、竹汀はなぜかむっとする。
「あってるけど、あてられると恥ずかしい」
「なんでだよ」
なんとなく、と竹汀は溜息交じりに口元を隠す。虎杖は前々から聞いてみようと思っていたことを聞いてみる。
「竹汀たまに俺の中に入ってるでしょ?」
竹汀は一瞬すっとぼけるように電車の吊り天井を見た。
「怒ってねえから」
「……はい」
「やっぱり」
虎杖は無意識のうちに腹のあたりを撫でた。
「中で宿儺に鉢合わせたりしないのか?」
己の中に巣食う呪詛の己によく似た姿を思い出しながら問う。竹汀は少しの間何か考えるように黙り込み「ないよ」と答える。そういうものか、と虎杖は思った。
「鉢合わせてたら二、三発ぶん殴ってもらおうかと思ってさあ」
竹汀は無言で微笑む。その表情で虎杖は己が相当の無茶を言ったことを知る。
「無理?」
「無理」
乗換駅につき、慌ただしく電車を降りる。乗り換え電車を待つ駅のホームで虎杖が菓子パンを買い食いするのを竹汀はにこにこしながら眺めていた。食いづれえ、と虎杖は呻く。
「カレーパン食べてよカレーパン」
「なんでだよ」
「悠仁がカレーパン食べてるところが見たい。奢るから」
「財布あんの?」
「問題はないよ」
「ダメ」
「メロンパンは?」
「パンの種類の問題じゃねえの」
竹汀はすぐ他人の財布で虎杖に食べ物を奢ろうとする。竹汀は悪気もなさそうにそういうことをするが、そうして呪術を私利私欲に濫用するのはいかがなものか、と虎杖は思う。やられた側にしてみれば数百円とはいえたまったものではない。虎杖はたまにある「あれ、財布にもう少し入っていたはずなのに!」という瞬間の何割かは竹汀のような呪術師のせいなのではないかと思い始めている。それを伏黒に言ったところ「それはオマエが杜撰なだけ」と言われたが。
やがてホームに滑り込んできた電車に乗り込む。今度の車両は混んでいて、竹汀は人に揉まれながら「体が邪魔だ、体が邪魔だ」とぶつぶつ言っていた。ちょっと面白かった。目当ての駅に到着すると他の乗客も浅草観光が目的なのかどっと降車をはじめる。二人はもみくちゃにされ吐き出されるようにホームに降りた。竹汀は出発前のはしゃぎようが嘘のようにうんざりした顔で髪の毛を指で梳いている。虎杖と目が合うと溜息交じりに自身の胸を指さし「これ脱いで来ればよかった」と呻いた。
人の流れに流されるままに駅を出る。目立つところに浅草寺の方向を示す看板が出ていた。人出が多く、中には着物姿の人もいる。竹汀はそれを物珍しそうに見ている。以前は雷門で引き返してしまったが、今回の目的は浅草寺参拝だ。人の合間を縫う竹汀に仲見世の店員が「お嬢さん、だんごはいかが」と声をかけた。竹汀は目を丸くし、己の両頬に手を当て「あらやだ、おじょうさんだって」となぜかおばさんのような反応をした。
竹汀はものを口にしないし菓子パンひとつでは小腹も空いているので虎杖はだんごを食べることにした。一本購入し、受け取りながら悠仁は竹汀の方を見る。
「竹汀は男と女の体だとどっちの方が好き?」
虎杖の言葉に竹汀は「考えたこともなかった」という顔をした。どうかなあ、と首を傾げる。虎杖はだんごを二玉いっきに頬張る。頬の内側を串の先が引っ掻いた。
「男かな、デカいから」
「物理かよ」
「歩幅も大きいし、あと無防備な人が多いから入りやすい」
「実用一辺倒だな」
「そんなもんだよ」
竹汀は苦笑して虎杖を見る。目線はそれほど変わらない。ひょっとすると竹汀の方が背は高いかもしれない。
「でもしばらくこのガワだからね、結構影響されてしまう」
「そういうもん?」
「身も心も女の子になっちゃうな」
「言い方」
だんごの最後の一玉を一応「食う?」とお伺いを立てれば予想通り竹汀は首を横に振った。最後の一玉を食べきる虎杖を竹汀は眺めた後、ふと真面目な顔をする。
「自分が何者であるかを何を以って規定するかは重要だよ、ミスるとこうなる」
竹汀は皮肉っぽく自身の顔を指し示した。虎杖はさすがにそれを笑う気にはなれず渋い顔をするにとどめた。人を避けて蛇行する竹汀の手の甲が虎杖の手の甲に一瞬触れる。虎杖は思わず手を引っ込めた。
浅草寺の本堂に参拝を済ませると竹汀は「おみくじを引きたい」と言う。いいね、と答えると竹汀の目がごく当たり前のように今おみくじを引いている女性の二人連れの方に向いたので慌ててその手首を掴んだ。竹汀は驚き丸くなった瞳を虎杖に向ける。
「どうしたの」
「今あの人の体使っておみくじひこうとしただろ」
「お金払わないでおみくじひいたら罰が当たりそう」
「だからって勝手に人の金でひくなよ!」
ほら、と虎杖は竹汀に百円玉を握らせる。竹汀は手の中に落とされた銀色の硬貨をしげしげと見下ろした。まるで大切なもののように百円玉を胸の前で強く握りしめる。
「ありがとう、一生大切にするね」
「いやおみくじひけよ」
虎杖が言葉短く言うと竹汀は唇を尖らせながら不承不承御籤の列に並んだ。そのうち手に小さな紙片を手に虎杖のもとに戻ってくる。すでに封は開けられ、竹汀は内容に目を落としていた。
「どうだった?」
「願望、叶いにくいでしょう。病気、安心できないでしょう。失物、出にくいでしょう。待ち人、現れないでしょう。新築、引っ越し、中止しましょう。結婚、付き合い、旅行、悪いでしょう」
竹汀が読み上げる託宣は血も涙もない。
「ボッコボコじゃん」
「馬鹿にしていたけど、意外と当ててくるものなんだね」
竹汀は御籤をくるくると丸めるとポケットに収めた。何と慰めたらいいものか口ごもる虎杖をよそに竹汀はそれほど気にした様子もない。諦めてもいるのかもしれない。それが虎杖を堪らない気持ちにさせる。
「……どら焼き食いたいな」
ぽつりと言うと竹汀は嬉しそうに表情を綻ばせた。竹汀が浅草寺の仲見世には美味しいどら焼き屋があるのだとしつこく言っていた。本堂に来るまでにそれらしい店は見かけたが、店の前に行列が出来ていたので素通りしてきてしまった。竹汀はうんうんと大きくうなずく。
「ほんと? 今から行く? じゃあ仲見世通っていったん戻ろうか、それからスカイツリーを見に行きたい」
「いいけど……え、浅草寺これで終わりでいいのか?」
「花より団子、寺よりどら焼き。花やしきも行きたかったんだけど、どうかな。観覧車の一番上でキスしてよ」
「花やしき観覧車ねえよ」
「じゃあいいや」
あっさりと竹汀は来た道を引き返していく。虎杖はその背中を追いながら「今あいつキスって言った?」と思ったが深堀するとからかわれるだけなので触れないことにした。
見つけたどら焼き屋は先ほど通り過ぎたときより一層行列を伸ばしていた。最後尾に並びながら虎杖はとっさにどら焼きを食べたいと言ったことをじんわりと後悔し始めていた。だが上機嫌に行列の先を覗き込む竹汀に「やっぱり別のにしよう」とは言い出せない。じりじりとしか動かない列に「この五分であの人数が捌けたから俺の番は……」と皮算用をするしかなかった。
「悠仁、行列並ぶの好き?」
竹汀は苦笑めいた表情を顔に浮かべながら言う。虎杖は少しだけ迷い、変に気を遣わせてしまったことを申し訳なく思いながら「あんまり」と答える。その瞬間、竹汀の体がぐらりと傾いだ。虎杖は慌ててその体を抱きとめる。相変わらず冷たく、そして軽い。見た目よりもずっと軽いのは女の子であるからとか華奢な体格であるからとかそういうものではなく、明確に素材と造りが人体と異なることを示していた。
「竹汀!?」
ぎょっとして竹汀の体を揺すり、揺すらないほうがいいのかと思いとどまる。どうしたものかと首を巡らせたところで、どら焼きを買い終えた中年の男が列の最前からまっすぐ虎杖の方に向かってきてどら焼きの入った袋を押し付けていった。あ、と思う間もなく虎杖の腕の中から竹汀は起き上がる。
「並ぶの苦手で」
「またそうやって悪用して! 五条先生にチクるぞ!」
竹汀はとぼけた顔で「今のはただの親切な人だよ、よかったね」と嘯いた。虎杖はもう一言二言何か言ってやろうかと思ったが、受け取った袋から甘く香ばしいいい香りが立ち上ってくるのでそんな気も雲散霧消する。
「今回だけ、今回だけだぞ……」
そう唱えながらどら焼きに手を伸ばす虎杖を見て竹汀は意地悪く目を細めた。もう並び続ける理由もないのでさっさと行列を離脱する。後ろに並んでいた家族連れが怪訝そうに見てきたのを黙殺した。
行儀は悪いが歩きながらどら焼きを齧る。行列になるだけあって美味しかった。一応建前として竹汀に「食う?」と聞く。断られると思っていた虎杖は竹汀が首を縦に振ったので面食らった。虎杖が呆けている間に竹汀は虎杖の手ごと食べかけのどら焼きを掴む。左手で耳に髪の毛をかけながらどら焼きに顔を近付けた。唇で生地に触れ感触を確かめるようにしたあと、舌先であんこを舐める。
「食レポするから聞いて」
「……お? おう?」
「この行列に並んで購入したどら焼きですけど、」
「並んでねえし買ってねえよ」
「まだ温かくてほかほかです。生地はふかふかでいい香りがしています。中にはあんこがたくさん入っていて、ねっとりです。――どう?」
「全然味に言及してねえ」
そんなことある? と眉を寄せる虎杖に竹汀も難しい顔をした。
「味のこと言わないとならないの?」
「そりゃそうだろ、食レポだぞ」
竹汀は「やっぱり駄目だなこれ……」とひとりごちる。
虎杖はどら焼きの残りを黙々と咀嚼した。美味いが甘いもの続きで飽きてきた。自販機でペットボトルのお茶を買い、飲みながら歩く。他愛もない話をしていると時折手の甲がぶつかり合う。背の高さが近いから手の位置も近い、と思ったが「そもそも近すぎない?」と虎杖は急にそれに気が付く。竹汀の方を見れば竹汀は微笑む。近くで見ると面皰の一つもない睫毛さえ等間隔に並んだ端正な顔が、急に人外みを帯びて見えた。
スカイツリーの姿はどんどん近付いてきているのにどこから入れるのか分からずしばらく周囲をうろうろすることになってしまった。展望台への入場チケットはいつの間にか竹汀が持っていた。また、と虎杖は呆れたが展望デッキと回廊に上がるチケットは思っていたより高額だったのでラッキーだとも思ってしまう。手に入れたチケットの予約時間はしばらく先だったので、ソラマチで時間を潰した。虎杖はお土産屋で頭が星形のマスコットのキーホルダーを買った。伏黒に押し付けるためだ。竹汀は気が付くと土産物のお菓子の紙袋を提げている。もはやそれを問いただす気にもならなかった。
スマホのアクセサリーショップがあったのでなんとなく陳列を眺める。自分のスマホに合うサイズのスマホケースを手に取っては戻す虎杖の背中を竹汀はしばらく何も言わず見ていた。最下段の陳列を屈んで熱心に見ている虎杖の隣に竹汀も膝を折る。虎杖の視界の隅に竹汀の肩から滑り落ちる髪の毛が映りこんだ。
「ケース買うの?」
「買おうかな、今のやつ汚れてきてるし」
これよくねえ? と歌舞伎の隈取を模したケースを見せると竹汀は「盗まれなさそう」と言った。ケース、スマホリング、保護フィルム、イヤホンを見ているうちに予約の時間が迫る。虎杖が「ここ無限に時間潰せるな」と言うと竹汀は「また来たいね」と笑った。虎杖は一瞬声を詰まらせたが「来ような」と答えた。竹汀は何も言わなかった。聞こえないふりをしていた。
スカイツリーの展望デッキに上がるエレベーターは広いが、そのキャパシティー以上の人員を詰め込まれる。揺れもなく上昇する箱の中でスカイツリーの概要を説明する女性の声がスピーカーから流れていた。外国人観光客の一団に圧倒されながら妙に姿勢が良くなる虎杖の手の甲に竹汀の手の甲が触れる。手の甲以前に竹汀とは肩のあたりが密着していた。清潔感のある優しい香りが鼻先を掠めたが、それが竹汀のものかまでは分からなかった。他の乗客との距離も近すぎたからだ。
触れ合った手の甲がするすると皮膚を撫でる。虎杖の手の形を確かめるように、だが他の乗客に押されてそう感じられるだけのような気もした。背後の子供に押されて一歩前に出た虎杖の手を追うように、竹汀の手もついてくる。中指を指先でなぞられ、ゆるく握られた。やっぱりこれ偶然じゃないよな、と虎杖は戸惑う。嫌なわけではないが、困惑はした。虎杖は竹汀のことは好きだが、顔を見て胸が高鳴るのは仮住まいの呪骸のためだ。理性がそうして己をなだめるのと裏腹に心拍数は跳ね上がっていく。え、どうする、握り返すか、でもそれでまた何か言われたら、あ、考えすぎて手汗がヤバい、たすけて、とぐちゃぐちゃ考え、虎杖はその手を握り返すことを決める。虎杖は竹汀に、縋る手を握り返す人間が一人はいることを知っていてほしかった。
意を決して握り返そうとしたところで、エレベーターのドアが開いた。人の壁が緩み、ドアに向かってほぐれていく。虎杖の手もほどけるように手放された。竹汀は何事もなかったようにガラスに駆け寄っていく。テラスから見える東京の空は陽が落ち淡い青みを帯びている。建造物にはぽつぽつと白い光が灯り始めていた。虎杖は竹汀の後を追い、ガラスに近寄る。
「きれいだね、こんなに高い」
「そうだな、すげーな!……あ、高いところ駄目なんじゃなかった?」
「床があれば平気」
「床がねえことはねえだろ」
竹汀は地平線をを指さし「高専はあっち? 何か見える?」と虎杖に顔を向ける。
「見えるわけねえじゃん」
「そっか、悠仁なら見えるかと思った」
「俺のことなんだと思ってんの……」
竹汀は口元だけで微笑むと手すりに寄り掛かる。そのまま何も言わなくなってしまう。竹汀の目は陽が沈み紺青に変わっていく空を見ていて、虎杖は空を見る竹汀を見ていた。竹汀は放心したように動かなくなり、虎杖はもしかすると竹汀が魂替えして呪骸を置いていってしまったのではないかと少し焦っていた。声をかけるか悩み始めたところで、背後のエレベーターが開き次の予約の一団がどっとテラスに流れ込んでくる。竹汀は顔を上げ、隣に虎杖がいることに安心したような顔をした。
「帰ろっか」
軽食のスタンドもお土産売り場も見ないままに竹汀は言った。本当はもう一段階上層階まで登れるチケットを持っていたが、虎杖は「うん」と答えた。
最後の乗換駅で電車を待つ間、二人は他愛もない話をする。近所の食堂の話、新発売のお菓子の話、隣室の伏黒の部屋から夜な夜な物音が聞こえる話、パンダ先輩がいつも竹汀の抜け殻を宅配してくれること、釘崎が竹汀に入られたことをいまだに根に持っていること。それを聞いた竹汀が「謝ったほうがいいかな」と言ったところでホームに電車が到着する。開くドアを見た竹汀の手が虎杖の手を背後から握る。揶揄うのでも、偶然を装うのでもなく、助けを求めるようだった。
「帰りたくないな」
虎杖は振り向く。竹汀は怯えるように目を見開いていたが、虎杖の顔を見て泣き笑いのような顔をした。
「帰りたくない。楽しかったから」
「俺も楽しかった」
また遊ぼうな、と言うと竹汀は「そうだね」と苦笑して発車ベルの鳴る電車に乗り込む。虎杖も慌ててそれを追い、閉まりかけたドアの隙間に滑り込んだ。利用者の少ない路線は往路同様空いていて二人並んで座ることが出来る。竹汀の視線はやはり車内の人間を用心深く探ったが、虎杖は今度はそれを指摘しなかった。
たたん、たたん、と規則正しい電車の音以外車内に音はない、暗い窓の外の人工光がまたたく。昨晩緊張で少し眠りの浅かった虎杖は、急に眠気に襲われた。うとうとと舟をこぐ虎杖に竹汀は「寝ていいよ、起こすから」と声をかける。虎杖はその言葉に甘え、俯き目を閉じる。
竹汀はしばらく自身の膝を見ていたが、本格的に寝入ってしまった虎杖が寄りかかってきたのでそちらに視線を向ける。竹汀は俯く虎杖の横顔をじっくり眺めた。日に焼けたなめらかな頬に指先で触れる。起きる気配もない。
目の下の傷をなぞり、頬を指の背で撫でる。竹汀の体では眠る虎杖の体温は熱くさえ感じた。しばらく頬を撫でていると、己の手がつるつると虎杖の皮膚を辿りながら下方に向かう。あれ、と思うのと同時に竹汀の手は虎杖の首に絡みついた。とっさに歯を食いしばり、指の動きを止める。存在しない脳の血管が破れそうになるほど力を込めて自身の体を抑え込む。虎杖を縊ろうとする獣性と、それを拒否する理性がせめぎあって全身が震えた。苦痛と裏腹に竹汀の指先は平和に虎杖の首を撫でている。気を抜くと指が虎杖の首に食い込んでいきそうだった。
虎杖を起こすか、と口を開きかけたが、すぐに唇が切れるほど噛みしめる。虎杖にだけは、己がこんな状態だと知られたくなかった。竹汀は無理矢理呪骸から己の魂を引き剥がす。肉の裂けるような痛みがあった。逃げ込む先は、やはり一つしかなかった。
暗い水に蹲って少女が泣いていた。溌溂とした大きな瞳は恐怖に見開かれ、充血している。ひ、ひ、と病んだ呼吸をするたびに薄い肩が揺れた。そのたびにピアスも揺れ、ちろちろときらめく。両面宿儺は竹汀を容赦なく嘲弄した。
「なんだ、惜しかったな。次はもっと上手く縊るといい」
耳を塞ぎ体を小さく丸める竹汀の首を、両面宿儺は掴み上げた。
「やり方を知らんのか、教えてやろうか」
細い首に指がぎりぎりと食い込んでいく。竹汀の頭の中で血の道が滞るような音が響く。けふ、けふ、と竹汀は小さく咽る。その手を引き剥がす気力はなかった。青褪め、血が滲むほど噛みしめられた唇が物言うように蠢くのを見て両面宿儺は手を放す。ころしてやる、と竹汀は喘鳴のように呻いた。両面宿儺は唇を歪める。
「そうか、殺したいほど憎いか」
両面宿儺の両手が竹汀の涙でふやけた両頬を優しく包み込む。
「圧倒的に正しいな、だが見紛うなよ、オマエが心底憎悪しているのが何者か」
頬に添えられた両の親指がゆるゆると竹汀の腫れた目元を撫で、そのまま眼窩に押し込まれる。竹汀は掠れた悲鳴を上げる。ずぶずぶと眼球が形を変え内容物を露出する。骨を内側からかりかりと引っ掻く音がした。ふーっ、ふーっ、と食いしばった歯の間から獣めいた息が漏れる。血のにおいのする息だった。
竹汀はへらへらと笑う。見紛うはずがなかった。己が怒り、恨み、血を吐くほど憎悪しているのは、最初から最後まで己自身だけだ。