母は弱い人だった。
 人並みに優しく、人並みに図々しく、人並みに善良で、人並みに小狡く、何もかも人並みだがきっとその弱さだけが致命的だった。誰かに、何かに、依存せずにいられない。頼り頼られることに何よりも己の存在価値を見出してしまう。環境に恵まれれば母のそういう性質は献身という名の美徳になったであろうか。だが現実には母は利用され搾取され踏みにじられるだけだった。家族、職場、友人、夫、義母、押し付けられる役員、宗教団体、出処不明のボランティア、胡散臭い健康食品とそれを売る目が異様にギラギラした仲間たち――母はそういう者に生きたまま体液を啜られていた。
 だから母が「週末は盤星教の会合があるから一緒に出ない?」と言ったとき、私は「また宗教か」と思った。母の人間関係はおおよそが最悪であったが、中でも宗教はその中で一番最悪だった。勧誘のために近所を回らせられるからだ。母がにこにこと笑いながら知らない家のインターホンを押したときの、膝の裏と脇の下にどぷどぷと汗をかく感覚をきっと母は一生知ることはないのだろう。私はひたすら自分の傷んだスニーカーの穴の開きかけた爪先を見つめて「留守でありますように」と願い続ける。あの頃はまだ祖母が元気で、毎日小学校が終わった後は友達と遊ぶことも許されず勧誘――祖母が言うには真理を知らぬ可哀想な人を導いてあげる手伝い――のために連れ回された。

「シューキョーはやらない」

 私が高校の課題から顔も上げずに言うと、母はむっとしたように眉根を寄せた。「盤星教は変な集まりじゃないわよ」と苛立たしげに言う。私は「あっそ」と短く答えた。春に高校生になった私では、もう勧誘に連れ歩いて訪問相手の歓心を買えるようなあどけなさはない。それだけが救いだった。

「教祖様はね、あらゆるものを見通す目をお持ちで、病気も治してくださるのよ」

 病気、という言葉に私は眉をひそめる。シャーペンを持つ手の甲を赤い蟻が列を成して這っている。私はそれに気が付かないふりをする。普段は本部にいる教祖様が週末は支部にお見えになり有難いお話をお聞かせしてくださり衆生に救いを齎すのだと母は熱を帯びた口調で捲し立てる。

「別に具合悪くないけど」

 数式を解くためにシャーペンを走らせると赤い蟻はわっとノートの上を逃げ惑うように走りはじめた。母は私の肩に手を置く。優し気な温かい手だった。思いやり深く触れてくれるそれさえなければ、私はきっともっと容易く母のことを嫌いになれた。

「一緒に行きましょう、ね?」

 私は課題をやりかけのノートを閉じる。ページの間で蟻が潰れてぷちぷちと音を立てる。それが這い出てこないように念入りにノートの表紙を撫でつけた。ぶち、ぶつ、ぶち、と紙の間で蟻が死んでいく。何匹かはページの合間から逃げ出しテーブルの上を這いまわりやがてどこかに消えていく。母はそんな私を一瞬気味悪そうな目で見て、それからおずおずともう一度「教祖様に診てもらいましょうね」と言った。私はまだ新しいノートの表紙を見ながら黙って頷いた。


******


 盤星教の会合は他の宗教法人と変わらず陳腐に異様であった。集まった人々は目を爛々と光らせ教祖様と幹部たちがいかに素晴らしく、慈悲深く、正しく、そして己を救ってきたかを初対面の私に滔々と語ってきた。皆、私の愛想笑いと気のない相槌を気にも留めない。この後の展開を私は知っていた。その教祖様と呼ばれる、評判と裏腹になんでもない風の誰かが現れ、何でもないことを大袈裟に話し、信者たちはそれを目に涙を浮かべて有難がる。
 母はあれほど熱心に私を連れてきたのに、私のことを忘れたかのように他の信者とお互いの不幸を慰めあっていた。その不幸にはきっと私の存在も含まれている。来なければよかった、と思った。
 しんと静まり返った公民館の講堂のようなホールの壇上に袈裟の男が現れた。周囲に倣い、母の隣で頭を下げていた私は前髪の間からそっとその姿を窺う。想像したより遥かに若いように見えた。年の頃は二十半ばほど、僧形であるにも関わらず黒い髪を長く伸ばしている。端正な顔には穏やかな微笑みを浮かべている。私はその男から目が離せなくなった。正確にはその男ではなくその男の背後にとぐろを巻き信者たちを舌なめずりしながら見下ろす奇妙な長虫から目が離せなくなった。黒くぬめる鱗がホールの白っぽい照明を反射して虹色にきらめいていた。なんだあれはと思った。綺麗だとも思った。誰もそれを指摘しない。気が付いていないのか、それともこれが当たり前なのか、どっちだろうか。私は戸惑い、混乱し、ただぼんやりと壇上の男と奇妙で美しい獣を見ていた。
 男は説法のさなかにこちらに目を向けた。私ははっとして顔を伏せる。叱られるだろうか。壇上に引きずり出され、論われ、糾弾されるだろうか。きっと母は私を連れてきたことを後悔するだろう。小さく縮こまる私の頭上にマイクを切った男の声が投げかけられる。

「そこの君」

 マイクなしでもよく通る声だった。私はひんやりとした汗をかきながら上目遣いに壇上を見上げた。男はまっすぐ私の方を見、指さしていた。

「君、こっちに」

 聴衆がざわめく。体は冷え固まっているのに手足は力が抜けてふわふわした。硬直する私の隣で母が歓喜の吐息とともに体を震わせた。「教祖様に呼ばれた、教祖様に」と嬉し気に周囲に漏らしながら壇上を見上げる。周囲の何人かが母の背を勇気づけるように押した。母は促されるままに男のもとへ向かう。私はそれを呆然と見ていた。ほっとしたような気もしたし、嫉妬に似た感情が己の中を渦巻くような気もした。呼ばれたのは、絶対に私だった。見下ろす制服のスカートの襞から蜉蝣のような半透明の小さな羽虫が夥しい数立ち上る。大半は私の顔の高さまで飛ぶ前に絶命し足元で白っぽい死骸の山になった。
 男はやはり私の方を見ていた。呼び付けられた犬のようにはしゃぎこけつまろびつしながら足元に縋る母を一瞥した涼やかな視線が私に注がれている。男は一瞬うんざりしたようにかぶりを振ったがすぐに端正な笑みを唇の端に上らせた。

「あなたは?」
「半年前から盤星教の一員として奉仕させていただいております」

 私はマイクで拡声される母の声を聞きながら「半年も前からやっていたのか」と他人事のように考えていた。

「悩んでいるね」

 男のなんでもない言葉に母は奇跡を目の当たりにしたかのように息を呑む。聴衆からも感嘆の吐息が聞こえてきた。

「はい、その通りです。教祖様のお教えを受けるために励んでおります」
「娘さんのことだね」

 母はとうとう目に涙をため、縋るように男の足元に這いつくばる。聴衆が波打つようにどよめく。

「はい、はい、そうです……娘は……」

 私は立ち尽くしたまま手を握る。マイクのハウリングだと思ったのは私自身の耳鳴りだった。母は私の話を人にするのが好きだ。私がいかに難しい病気を抱えており、そのために離婚し、女手一つで病身の娘を育て上げ、そして今もどれだけ苦労をかけさせられているか。母はその話をするときは立て板に水のように嬉々として話した。私はそれを聞かされながら、いつも居たたまれない気持ちで宙を見る。時折「お母さんに感謝しなさいね」という言葉を投げかけられ、私は無感情に笑った。今回もそうだと思った。私は諦めて視線を高い天井に向けていた。
 だが母の言葉は男によって遮られる。

「詳細はいい。あなたの娘さんは救われる。もちろんあなた自身も」

 母の咽び泣く声が聞こえた。私はそちらに目を向けられなかった。白いライトがいくつも並ぶ天井だけを見ていた。うねるような歓声と拍手が会場を揺らしていた。それは壇上の男と母に向けられていた。
 しばらく海鳴りのような歓声の中でぼうっとしていると、私は若い女性に肩を叩かれた。綺麗な人だった。優しく名前を呼ばれたのでこくこくと頷く。女性は秘書然とした佇まいで「どうぞ、こちらに。教祖様がお呼びですよ」と言った。一刻も早くこの場を離れたかった私はただ黙って女性についていった。壇上の母も誰かに手をひかれ裏手に連れて行かれるところだった。

 ホールの喧騒が嘘のように控室は静まり返っていた。母は「よかった、よかった」と何度も繰り返しながら私の肩を抱いた。若い女性はまだふわふわする私の手を優しく握り膝の上に乗せてくれていた。
 重たげなドアが開き、先ほど壇上に立っていた男が着物の裾を翻しながら現れた。母はそれだけで息を震わせ、今にも床に頭を擦りつけそうだった。私はそういう母が恥ずかしくて堪らない。男はドアの前に立ち、私を見た。優し気な目だった。母は深々と頭を下げ、感謝の言葉を幾度も口にしている。男は母の方に目を向けた。なんだろう、私を見るときとは違う目をした。男は母を見ながら手首を翻す。たっぷりとした着物の袖がたふたふと揺れる。骨張った手首が露わになる。その手首に鳥が留まっていた。先ほどまではいなかったはずだ。鳥は――鳥ではなかった。脚と翼の付いた砲台のような奇妙な生き物だった。私はさっきの獣を思い出していた。筒状の胴体は内側まで柔らかそうな羽毛に覆われ、その穴から男の横顔が見えた。頭もないのにそいつはキョッキョッと存外に綺麗な声で鳴いた。
 私は思わずその鳥を目で追う。筒状の胴体越しに男と目が合った。「見えているね」と男は言い、微笑んだ。私は慌ててそれから視線を外し、俯く。女性がきゅっと手を強く握ってくれた。

「娘は……病気なんです。幼い頃からありもしない幻覚を見て……。悪霊に憑りつかれていると言われたこともあります、でも私は娘を信じています……きっと治る病気なんです。どうか助けてください」

 母は涙ながらに男の着物の裾に縋りついた。男は母の肩に手を置く。

「娘さんは病気などではありません。選ばれた子です。その魂に素晴らしい才能と可能性を秘めている。御母堂が気に病む必要などない。あの子は素晴らしい。我々と共にあれる」

 それを聞くなり母は双眸からぼとぼとと涙を零した。

「病気ではないんですか?」
「まさか、病気だなんてありえない。そのような言い方はやめるべきだ」
「悪霊のしわざでもない?」
「誓って、ありません」

 母は悲鳴のような泣き声を上げ、私を抱きしめた。私とおそろいの安いシャンプーの香りがする。私は母の泣き声を聞きながら男と、その肩に留まる白い鳥を見ていた。私は病気じゃないんだ、と思った。ほっとした。だがどうでもよかった。これが何であれ見えていることには変わらない。これからの人生も、変わらない。いっそ病気だと言ってもらったほうが良かった。嘘でも治ると言ってほしかった。私はしゃくりあげ震える母の背中を撫でる。でも母が嬉しそうだから、少し嬉しかった。これから嬉々として病気の話をされないのだと思うともっと嬉しかった。

「お母さん、よかったね」

 私が言うと母は一層激しく嗚咽を漏らし私をきつく抱きしめた。私はされるがままで制服のブラウスに母の涙が染み込むのを感じていた。

「娘さんと話をさせて頂きたい、二人で」

 男は女性の方に目配せする。女性は泣きじゃくる母の手を取り室外に連れ出す。母は譫言のように「ありがとうございます、ありがとうございます」と繰り返していた。その細い声がドアの向こうに消え、聞こえなくなる。私は急に心細くなり、ソファの上で身を縮こまらせた。汗ばむ手でスカートを握りしめる。男は私の前に立つ。壇上の印象よりずっと背が高かった。布地をふんだんに使った法衣と袈裟姿で目の前に立たれるとまるで壁のようだ。
 怯える私の前に男は膝をついた。しゅるしゅるという衣擦れの音が静かな部屋に響いて耳が痛いような気さえした。空気を含んだ着物からいい香りが押し出されるようにこちらに漂ってくる。線香のような香りだった。だが線香よりずっと豊かで色っぽい香りがした。男は今までで一番柔和に目元を和ませた。

「怖がらなくていい。私のことも、君の能力も、こいつも」

 男の手が肩に留まる鳥の背を撫でた。鳥は嬉しそうに体を震わせ、羽毛を膨らませる。母に倣いたどたどしく「きょうそさま」と呼ぶと、男は首を横に振った。

「ゲトウだ。ゲトウスグル」

 それが男の名であるらしかった。こくこくとそういう人形のように頷く私の手を男はそっと取り上げた。スカートを握ったまま強張り固まった指を一本ずつほどき、汗ばむ手のひらに人差し指の先を置く。

「字はね、こう書く」

 男の指先が手のひらをなぞった。少しくすぐったい。夏、油、傑――かわった名前だと思った。男は「かわった名前だろう?」と言い、私の手を大きな手で包んで握らせた。

「教祖様なんて呼ばなくていい。好きに呼んで」

 私は夏油の顔を見た。針の先のような瞳孔がじっとこっちを見ていた。私が「はい」と小さく答えながら首を竦めると、夏油は「隣に座ってもいいかな?」と聞いてきた。三人掛けの大きなソファの端に座り直し、私は頷く。夏油はソファの反対端に座った。体重でソファが大きく沈む。手を伸ばせば届く距離だ。だが夏油は子供の私相手にも不躾に距離を詰めるようなことはしなかった。馥郁とした香りだけは淡く密やかに容赦なく肺腑に侵入してくる。不快ではなかった。私はこっそりその香りを吸い込んだ。
 法衣の肩から鳥が飛び立ち、私の膝に飛び込んできた。私は驚き仰け反る。鳥はキョッキョッと鳴きながら私の腹のあたりに筒状の胴体を掏り寄せた。

「気に入られたね、弩雷鳥と言うんだ。撫でてやって、喜ぶから」

 私は一抱えほどもあるそれのどこを撫でるか迷い、艶々とした羽毛の生えそろった背中を撫でる。想像したよりずっと柔らかく、指先が深く沈んでいく。私はうっとりと何度もその背を撫でた。弩雷鳥はぶわぶわと白い羽毛を膨らませる。筒の穴が狭くなった。奇妙だが、可愛らしいと思う。夏油は和やかに微笑みを浮かべながらソファの肘置きにもたれかかりこっちを見ていた。

「怖いかい?」

 私は膝の上の真っ白で奇妙な鳥を見下ろす。弩雷鳥はくうくうと喉――喉?――を鳴らしながら私のスカートの上で脚を折りくつろいでいる。いいえ、と私が首を横に振ると、夏油は満足そうに笑んだ。

「本質的には君がいつも見ているものと同じだ。言っただろう、怖くないって」

 私ははっとして夏油の顔を見つめる。その言葉だけで「ああこの人は全部わかっているんだ」と思った。きょうそさまも、と言いかけた私を夏油は視線で制した。私は唇を舐め、言い直す。

「夏油さんも、見えているんですか」
「もちろんだ。さっき君の手を握っていた女の人もそうだ。我々のような人間は――数こそ多くないが他にも存在する。君は一人じゃないよ」

 一人じゃない、と私は口の中で呟く。今日一番救われた気がした。私は膝の上の羽毛の塊をゆるく抱きしめる。

「我々はそれを呪いと呼ぶ」

 その言葉を聞き、私は夏油の顔を、膝の上の弩雷鳥を順に見た。その言葉を鸚鵡返しに繰り返す。言葉の響きは馬鹿々々しいような気もした。だが禍々しいような気もした。

「……知りませんでした」
「いいんだよ。これから学んでいけばいい。私たちが教えてあげるから。君はもう仲間だ。我々はきっと家族になれる」

 私は曖昧に笑いながら泣き崩れる母の姿を思い出していた。