偏差値でいえば中の上、特筆すべき部活動での活躍もなく、校舎は古び、設備は騙し騙し利用されている。数年前に制服が一新されたことだけが取り柄の公立高校への進学を決めたのは、家から近いことだけが理由だった。今は少しだけ後悔している。通学時間が長ければ、私はその分だけ何者でもなくいられたはずだった。
 学校は嫌いだ。人が多い。人が多いと空気が凝る。空気が凝ると四隅が淀む。四隅が淀むと蟲が湧く。だが家よりは少しだけマシだった。
 私は放課後の図書室で授業の予習をしていた。窓から西日が淡く射している。校庭から運動部の掛け声が聞こえた。廊下からは吹奏楽のワンフレーズが何度も繰り返し聞こえてくる。私はふと顔を上げる。本の隙間から小さな目玉がこちらを見ていた。いつものように知らぬふりをしてノートに視線を戻した。いつから見て見ぬ振りが上手くなったのかさえ忘れてしまった。多分両親が離婚した頃だ。
 私は教科書の演習問題をノートに書き写していた手を止めた。ことん、とシャーペンを置く。夏油の言葉を思い出していた。それは呪いで、人間の負の感情から産まれるもので、大抵はおそるるに足らない。私は椅子をひき、立ち上がる。まだ新しさの残る上履きが床とこすれてキュキュと音を立てた。
 夏油は弩雷鳥を抱く私に連絡先を教えてくれた。それらは明らかにプライベート用のもので、私はどうしたらいいのか分からなかった。大人の男の人から連絡先を教えられたのは初めてのことで、私も教え返さなくてはいけないのかと思った。だがそれは少し怖いような気がして尻込みした。どうすれば礼儀正しかったのだろう。戸惑う私に夏油は笑って「何かあったら連絡してくれたらいいから」とだけ言った。私は何度もお礼を言い、夏油は「礼を言うのはこっちの方だ」と答えた。眩いライトの当たる壇上に立ち、大勢を見下ろす男が、まるで私が一端の人間であるかのように扱う。こそばゆく、気恥ずかしく、だが嬉しく誇らしかった。
 帰り際に夏油は私にお菓子を持たせてくれた。私はそれをやはり何度もお礼を言いながら受け取った。運転手の付いた車で母と一緒に家まで送ってもらっている最中に、私はお菓子の紙袋の中に小さな封筒が入っているのを見つけた。お菓子の添書か何かかと取り上げる。可愛らしい花柄の封筒だった。中を覗くと紙幣が入っていて、私はぎょっとして封筒を取り落しそうになる。封筒には群青色のインクで「困ったときの足しにしてください」と端正な字が記されていた。少額ではなく、だが高校生の私にもそれほど心理的負担のない金額が封筒に収められていた。封筒からは件の香りがふっと立ち上った。
 私は家に帰ってすぐ夏油にお金のことでメッセージを送った。ありがとうございます、でも受け取れません、次お会いしたときにお返しします、という意味の、私が頭をひねって何度も打ち直したメッセージに「気にしないで、高校生はお金が必要なものだよ。使い途がないならお母さんと美味しいものでも食べておいで」とあっさりとしたメッセージが返ってきた。私はそのお金を使うことが出来ず、母にも言い出せず、いい香りのする封筒のまま部屋の鍵のかかる引き出しにしまい込んでいる。

 私は夏油の言葉を、夏油自身のことを思い出しながらゆっくりとその目玉に向かって歩いていく。ぎょろ、とそれがこちらを睨みつけた。大丈夫。私は病気じゃない。怖がらなくていい。
 突然背後から名前を呼ばれ、私は肩を震わせ立ち止まる。本の隙間から単調で細い笑い声が聞こえてくる。

「何してるんだ、課題か?」

 副担任が机の上に広げたままの私のノートを覗き込んでいた。私は曖昧に返事をし、机に戻る。片手でさりげなくノートを閉じた。若い男の先生で、痩せて垢抜けているのでクラスの女子に人気があった。生活指導をしているが「話が分かる」というので男子にも人気がある。

「真面目だなあ、入学したばかりでそんなに一生懸命だとすぐ疲れちゃうぞ」

 副担任は笑いながら言う。私は曖昧に返事をし俯く。真面目で一生懸命だから勉強に時間を割いているわけではない。それしかやる事がないからだ。それに、少しでもいい成績を残したら何かが報われる気がした。

「勉強ばっかりじゃ退屈だぞ。部活には入らないのか?」

 私のお仕着せの笑顔が凍り付く。そうですね、と細く答えた。机の上の文房具を無意味に拾ったり転がしたりする。副担任は「部活に入れば友達もできるしな」と、自分がかつてバスケ部でいい仲間に恵まれ今でもチームメイトとやり取りがあることを滔々と語った。そうですね、とまた細く答える。

「祖母の体調が悪いんです。早く帰って様子見てないとならないんで」

 私はノートとペンケースをそそくさとバッグに放り込んだ。副担任は私の言葉に一瞬気まずそうな顔をしたが「そうだったのか」と何度も頷いた。

「大変だな、困ったことがあったら相談してくれよ。担任の先生には言えないこともあるかもしれないけど、俺はまだ年が近いから話しやすいだろ?」

 私は「ありがとうございます」と答えながら本の隙間を見ていた。肉のこびりついた骨のような指がかりかりと本棚を引っ掻いている。ダレニモキラワレタクナイ、ダレニモキラワレタクナイ、というすすり泣くような呟きが単調に聞こえてきた。私は心の中で「わかるよ」と答えた。
 せんせー、と廊下の方から生徒が副担任を呼ぶ声がし、副担任は私に向かい「おばあさん、良くなるといいな。そしたら思いっきり遊ぶんだぞ」と言い残し図書室を後にする。私はほっとして体から力が抜けていくのを感じる。

「アイツさあ、ウザいよね」

 突然そう声を投げかけられる。私はぎょっとして息を呑んだ。図書室の本棚の間から女子生徒が私の方を見ていた。指定のベストのかわりにベージュのニットを羽織っている。長く伸ばした黒髪の内側は華やかに脱色されていた。踵の潰された上履きの色から、彼女が三年生であることが分かる。
 私は何と答えたら分からず先輩をじっと見た。先輩は私が今まで座っていた席に座る。不思議な香りが鼻先を掠めた。甘い香水の香りと、なんだろうか。覚えのある香りだ。

「そう思わない?」

 気だるげにかき上げた髪の合間から穴だらけの耳朶が覗き見える。私は「さあ」と小さな声で答えた。

「それほど知らないので」
「あ、そ。賢いじゃん。親ヤバイのに」

 先輩はけらけら笑った。私は彼女の大人びた横顔を怪訝な目で見る。みんな言ってる、と先輩は唇の端を上げた。小学生の頃に宗教勧誘で近所中を回ったからだろうか。それとも同級生の家族に天然成分の洗剤を売って回ったからだろうか。私にとってはどちらも大昔の話だ。今はその頃よりは平穏だった。だが、私にとっては過ぎた話でも、他人にとってはほんの数年前の話だ。

「アイツさあ、生徒にへらへらしてて本当キモいわ。他の先生と違う俺に酔ってんの。俺は生徒の気持ちがわかってますぅって、ばっかみてえ。あのノリ、おっさんになってもやんのかな? ヤバくない?」

 そういうものか、と思った。そう感じる人もいるのかも知れない。私は曖昧に笑うとその場を離れようとする。先輩はそういう私を鼻で笑った。

「あんたはさ、そうやって自分だけは波風立たないようにしてんだ。あんたが立てなくても周囲が勝手に立ててんのに」

 私はむっとして眉をひそめた。

「いけませんか?」
「別に。でも舐められるのってムカつかない?」
「さあ、分かりません」

 私は踵を返し図書室を後にする。サッカー部の声とボールの弾む音を背中で聞きながら裏門をくぐろうとしたときに彼女の纏う不思議な香りの正体に思い至った。香水と煙草の香りだった。感じの良くない人に絡まれたな、と私は鼻のあたりを指で擦る。まだあの香りが纏わり付いている気がした。



 自宅は高校の窓から目を凝らせば見えるほどの距離にある。山の斜面を切り崩し、そこに貼り付くように建てられた公団住宅だった。全く同じ姿の、巨大でのっぺりとした四角い建物が等間隔に並んでいる。無数に空いた窓がこちらを睨んでいるようだった。
 私は湿ったコンクリートの階段を上がっていく。三階の角が自分の部屋だった。母は留守だ。今日は準夜勤なので昼過ぎには家を出たはずだ。母は私が授業が終わるなり家に帰り祖母の様子を見ていると思っている。私は少しの罪悪感を抱えながら、祖母が空腹を訴える時間まで図書室で時間を潰している。
 母はここ数年、近所の介護施設で働いている。客観的には良い職場とは言えないだろう。薄給で激務で満足に休暇も取れず、やりがいを盾に搾取される。だが母にとっては天職だった。家では祖母を介護し、職場では誰かの祖母を介護している。私は「母の人生っていったい何なんだろう」と思う。しかし母は満足そうだった。それこそ盤星教のことがあるまで、私はこれほど平穏な時間を過ごしたことはなかった。
 色褪せた鉄製のドアの前に立ち、家の鍵を取り出す。外廊下の曲がり角から二人組が飛び出してきて私を閉じ込めるかのように立ちはだかった。

「フサヱさんは! いるんでしょう!」

 中年の女が金切り声を上げる。着物姿の大柄な男が拳でドアをガンガンと叩いた。私は身を縮こまらせる。

「やめてください! 祖母は具合が悪いんです!」

 男を止めようとするが、手の一振りで払いのけられる。男はドアに向かって叫んだ。

「信心が足りないんだ! 信心が足りないから病気になるんだ! 信心だよ! あんたは信心が足りないんだ! だから孫もおかしいんだ! 取り憑かれてる! 信心が足りないんだ! あんたこのままだと死ぬからな! 死んで地獄に落ちるんだ! いいのか! いいのか!」

 男は喚きながらドアを叩き続ける。私は逃げ出そうとしたが階段は二人の向こうにしかなかった。背後は冷たい壁があるだけだ。女は和服の男の背後から叫んだ。

「フサヱさんのために和上がいらっしゃってますよ! ありがたいことですよ! これは本当にありがたいことですよ!」

 私は震えて壁に貼り付いているしかなかった。吐き気を催し荒い息を吐き出す口から百足がぞろぞろと逃げ出していく。頬の内側を無数の足が引っ掻く。私は涙で滲む目で右往左往する百足を見下ろしていた。黒く艶々とした胴体に付いた鮮やかな青色の足が忙しなく汚れたコンクリートの上を動き回っている。
 女は私の手から鍵を毟り取る。やめてください、と私は小さく抗議の声を上げたがドアを叩く音にかき消される。私は男に睨まれながら、ドアを解錠しようとする女の姿をなすすべ無く見ていた。
 ばちん、と音がして女の手の内から鍵がキーホルダーごと弾け飛んだ。鍵は奇妙な軌道を描いて飛んでいく。私にはそれが、翅の生えた生き物が女の手から鍵を奪っていくように見えていた。だがおそらくそれは――私にしか見えていない。生き物が帰りつく先を見て私は瞠目した。

「夏油さん」

 震え声で呟く私に夏油は「やあ」と短く言いながら片手を上げた。その手の中指に私の家の鍵がぶら下がっていた。

「近くまで来たものだから。夕飯時にごめんね、色々買ってきたから、一緒にどう?」

 もう片方の手に提げられていたコンビニの袋を、夏油は顔のあたりまで上げて見せた。以前と変わらず黒衣に袈裟姿で、その格好でコンビニの袋を持ち古びた団地に立っているのは少し奇妙な感じがした。
 夏油は耳に心地良い衣擦れの音をさせながら立ちはだかる二人のすぐ前まで歩いてきた。二人は気圧されたように呆然と立ち尽くしていたが、女がはっとしたように「なんですか、あなたは」と先程までの威勢の窺えない声音で呻いた。
 夏油はそれが聞こえなかったかのように悠然と二人の合間から私に鍵を差し出す。女の肩に法衣の袖がかかっていた。キーホルダーの鎖がちゃりちゃりと鳴った。私は両手でそれを押し頂くように受け取る。冷たい金属の温度を手のひらで感じると、少しだけほっとした。

「おい、あんた、どこの宗派だ」

 男は羽織の裾をばさばささせながら夏油に詰め寄る。男は大柄だが夏油の前に立つと小さく見えた。夏油は男に視線もくれず、男の鼻先に長い指を突きつける。夏油の手の甲に私が吐き出した青足の百足が絡みついていた。私の足下で狼狽えたように蠢いていただけの百足は、夏油の手から素早い足取りで男の顔に乗り移っていった。無数の足が男の赤らんだ顔を捉え、鋭い顎が鼻の横を食い破る。平たい体が骨と肉を裂くようにねじ込まれていく。男は突然顔から血が噴き出したことに驚き悲鳴を上げ、それから痛みに身悶えした。女は男の血を浴びながら悲鳴を上げる。
 私はそれをぼんやりと見ていた。百足が男の手の甲を食い進み前腕から頭を突き出しているところだった。

「入っても?」

 夏油は背後の凄惨な状況に目もくれず、私の部屋のドアを指さす。私はこくこくと頷くしか出来なかった。
 震える手で鍵を開け、中に夏油を通す。ドアを閉めるときに体に湧く虫の幻覚を払うように全身を掻きむしる男と、ただただ悲鳴を上げるだけの女の姿が見えた。硬質な音を立てて鉄のドアが閉まる。私は急いで鍵を閉め、チェーンを掛けた。ドアの外はしばらく騒がしかったが、やがて人の気配は消えた。
 わたしは安堵の息を吐き夏油の方に向き直る。夏油は外廊下のことなど気にも留めていなかった。先程の百足はいつの間にか夏油の手の内に戻っていて、夏油の大きな手のひらを這い回っている。夏油は手を裏返したり表返したりしながら百足の姿をじっくりと眺めていた。私は恥ずかしくなって押し黙る。
 不意に百足は夏油の手の内で輪郭の定かでない黒い影になった。細長い影がしゅるしゅると丸まり、形が定まる前に輪郭が崩れてふっと消える。夏油は何もなくなった手のひらを見つめて「あ、やっぱり駄目か」と言った。何が、と私は思ったが、尋ねることは憚られた。

「すみません、ありがとうございます」

 私は深々と頭を下げる。夏油は手をひらひらさせた。

「私は何もしていないよ」
「――あの」
「あれを追い返したのは君の力だろう」

 ちから、と私は口の中で呟く。夏油は私を病気ではないと言った。それは才能だと。嬉しかった。ほっとした。だが頭からは信じられないでいる。それを端から信じ込み喜び受け入れたら、私は母と一緒になる気がした。それは厭だし、怖い。
 私はとりあえず夏油を居間に通した。母に電話をした方がいいのかとも思ったが、仕事中に連絡をしても気が付くのは夜中だろう。

「困るよねえ、宗教家だなんだと人の家に押しかけて――ああ、私もか」

 夏油はテーブルにコンビニ袋から品物を取り出しながら笑う。フィルムで包まれたおにぎり、パスタのトレイ、カップサラダ、私はそれらを居心地悪く見ていた。

「夏油さん、コンビニ使うんですね」
「現代人だからね」
「なんだか……意外です」
「したり顔で説法くれる坊主がベンツを乗り回しキャバクラに通う世の中だよ、コンビニくらい可愛いものだろう?」

 夏油は肩を竦めた。私は少しだけ笑った。
 細い声で祖母が私を呼ぶ声がした。私は「すみません」と一言断り、祖母の部屋に向かう。
 トイレに一番近い部屋が、祖母のための部屋になっていた。私は日に焼けた襖戸を細く開ける。廊下から明かりが差し込み、薄暗い室内で暗闇がざわめく。カーテンは開いている。南向きの窓からは穏やかな陽光が差し込んでいる。それでも室内が暗いのは、窓硝子も砂壁も畳も真っ黒になるほどの蜚蠊で覆われているからだ。棘の生えた細い足が壁を引っ掻くかさかさという音が幾重にも折り重なりわんわんと響いている。黒くぬらぬらと光る蜚蠊がお互いを押し合いへし合いしながら居場所を探すように蠢いている。
 私は嫌悪感を押し殺し祖母の部屋に足を踏み入れる。足下の蜚蠊がわっと逃げ出した。逃げ遅れた数匹が足の下で潰れてくしゃくしゃと音を立てる。避けて歩くのも、振り払うのも、ずっと昔にやめた。それをすると祖母の献金が増え、母が子供の精神病に効くとかいう健康食品ばかり買い込む。私が少し我慢をすれば済むならそうする。
 私は祖母の介護用ベッドの枕元に膝をつく。スカートの上を蜚蠊が這い回る。祖母の顔の上を蜚蠊が上っていく。祖母は皺ばんだ枯れ枝のような手で私に数枚の紙幣と小銭を握らせる。

「これをね、和上様に。おねがいね、おばあちゃん、おまえのことを和上様によおく頼んでおくからね」

 私は唇に無理矢理笑みを上らせ、浅く頷く。お金を握った手に天井から蟲がぽとりと落ちてきた。私はお金を握りしめたまま、足早に部屋を出る。祖母は私が小学五年生の時に勧誘の途中で転倒し腰の骨を折った。それ以来急激に老け込み衰え、少しずつぼんやりとしていっている。今は杖と壁伝いにトイレに行くことくらいは出来るが、いずれそれも叶わなくなるだろう。
 廊下に出ようと襖を開ける。そこに夏油が立っていて私は小さく悲鳴を上げた。夏油の目はすいと室内を見た。私は慌てて後ろ手に戸を閉める。痩せ、弱り、言動の曖昧となりつつある祖母を見られたくなかった。それ以上に祖母の部屋の惨状を見られたくなかった。病気ではないと言った。才能だと。喜ばしいと。だがこの部屋の有り様を見ても、夏油はそう言うだろうか。
 怯えて夏油を見上げる私に、夏油は何も言わなかった。ただ笑って「パスタ、トマトとクリームどっちがいい?」と言った。私ははくはくと冷たく拍動する心臓の音を聞きながら「どちらでもいいです」と答えた。
 私は祖母から渡されたお金を母の鏡台に投げ置いた。テーブルからパスタのトレイを取り、電子レンジにかける。温まるのを待つ間、私は小さく縮こまりながら夏油の正面に座った。雑然とした室内で姿勢良く座る夏油の姿を見ると申し訳ない気持ちになった。

「散らかってて……すみません」
「そんなことないよ。それに連絡もなしに押しかけたのは私だ」

 夏油は優しげに目を細め、私を見た。私は膝の上で組んだ指を見つめ続ける。台所の方からブーンと電子レンジの音がした。古く出力の低い我が家の電子レンジは、なんでもないコンビニパスタを温めるだけで途方もない時間がかかる。

「おばあさんの面倒を見ているんだ。偉いね」

 私は苦笑いをして首を横に振った。

「偉くないです。本当は……嫌だなって思ってるし」
「それは仕方の無いことだ。それでもこなしているのだから、君は偉いよ」

 私は居たたまれないような、報われたような、妙な気持ちで小さく頷く。夏油はふっと目元を和ませた。

「おばあさんのことは好き?」

 問われ、私は息を詰まらせる。祖母のせいで小学生時代は暗澹としていた。だがそれも元を正せば私のためではあったのだろう。祖母は祖母なりに私を愛してはくれた。良い思い出もある。だが好きだと屈託無く返せるほど、無謬な関係ではあれなかった。

「……わかりません」

 私は吐息のようにそうだけ答えた。薄情だろうか、と思った。夏油はじっと私を見た。その視線から逃れるように私は言い訳じみた言葉を重ねる。

「小さい頃は……好きだったかも……。でも今は――大変だし、友達も出来ないし、どんどん弱ってるし、変な人は来るし……死んじゃえばいいのにって、思うこともあります」

 私は自分の膝だけを見ていた。どうしてこんなことを言ってしまったのだろう。本心だった。だが、言うべき感情ではなかった。こめかみを冷たい汗が伝った。しゅる、と衣擦れの音がする。はっと顔を上げると間近に夏油の顔があった。涼しげな双眸が心の裡を覗き込むような色をしていた。

「君にはその能力がある。資格も、権利も、十分にある。咎を受ける謂われなど存在しない――そうであったとしたら、君はおばあさんを殺すかい?」

 冗談だと思った。だが冗談を言っている表情ではなかった。深々とした目が真っ直ぐに私を見る。試されていると思った。何をかは分らない。だが直感的にそう思った。私は手足の先がじんわりと体温を失っていくのを感じていた。耳元で激しい蟲の羽音がする。私はしばらくまばたきも忘れて、夏油の瞳を見つめていた。
 何と答えるべきであろうか、夏油は私にどういう答えを望んでいるだろう、頭が痺れるほど考えていると、台所から電子レンジの呼び出し音が鳴る。私は夏油の視線から逃れ跳ねるように膝立ちになる。膝立ちになり、私は力なく首を横に振った。

「しません……多分、できないと思います」

 祖母に向かう感情は複雑だが、そうまでするほど怒りに燃えてるわけではなかった。肉親の情が消え果てているわけでもない。私は夏油の返答を待たず、逃げるようにパスタを取りに台所に向かう。トマトソースの表面がくつくつと揺れていた。布巾を使いながらそれを手にテーブルに戻る。おそらく私の返答は夏油の望んだものではなかった。だがそれに対して不快に思ったわけではないようだった。
 夏油の周囲を大きな蜂が三匹、激しい羽音を立てながら旋回している。夏油はそれを見ながら苦笑した。

「変なことを聞いてごめんね、すっかりこの子らを怒らせてしまった」

 私は雀ほどの大きさの巨大な蜂の、艶々とした黄と黒の腹をちらと見、顔を伏せる。

「いつもいるんです、そいつら」
「初めて現れたのがいつか覚えてる?」

 私は前髪の間から蜂を見上げた。左から順に指していく。

「そいつは、両親が離婚したとき。そいつは、祖母の教祖様に……体を、触られたとき」

 羽音がどんどん激しくなる。私は最も体の大きい一匹を指さす。

「私、小学生の頃、友達がいたんです。一人だけ。その子は見えなかったけど、私が見ているものの話を信じてくれて……すごいねって言ってくれて……蟲のことは二人の秘密でした。でも、母と一緒に宗教の勧誘に行った家が、その子の家で」

 淡々とした私の声音と裏腹に蟲の羽音は激しくなる。窓硝子がみしみし鳴るほど空気が震える。カチカチと顎を鳴らす音がした。

「次の日から、遊んじゃ駄目って」

 ははは、と私は笑った。夏油は細い眉をひそめる。

「つらかったね」
「……わかりません」

 項垂れる私の肩に夏油の手が置かれる。二の腕の上を法衣の袖が滑る。いい香りがした。線香に似た、深く穏やかな香りだ。夏油の両手のひらがするりと頬に触れる。蕩けるような心地良さとともに、不安で項の産毛が逆立った。

「君の術式は私に少し似ている」

 私は戸惑い、夏油の顔を見つめる。夏油は「だから心配だ」と続けた。

「蟲が怖いかい?」

 問われ、私は鼓膜を揺さぶる蜂の羽音に耳を傾ける。それから小さく頷く。

「……はい」

 夏油はそれを咎めなかった。

「その蟲たちは、君を激しい負の感情から守るために産まれ落ちた。君が壊れないように、飲み込まれないように」

 私は天井を見上げ、それから夏油に視線を戻す。はい、と小さく答える。

「恐れなくていい、ただ君が使役しきれていないだけだ。蟲は君の意のままに動く」

 私は祖母の部屋に溢れた蜚蠊を思い出し苦笑いを浮かべた。そんな気など毛ほどもしなかった。夏油は頭上を飛び交う蜂を指差す。

「手始めに名前を与えてやろう」

 私が首を傾げると、夏油は「名を以て縛るのは呪術の初歩だ」と言った。私はぶんぶんと飛び交う蜂を見上げる。

「えっと……ポチ、タマ、ピヨ」

 思い浮かばずに適当に名前を唱えると、夏油はなんとも言えない顔で眉をひそめた。私はその反応を見て肩を竦めた。

「ごめんなさい……変でしたか」
「いや……いや、変ではないよ。ただ……まあ、ちょっと、らしくないかな。私がつけてもいい?」

 私は首肯した。

「君がさっき挙げた順に、角短、足高、羽斑」

 私はまたこくこくと首肯する。夏油は頭上を示す。

「呼んで」

 私は妙に緊張し、乾いた唇を舐める。

「つみじか、あしだか、はねだら」

 呼応するように羽音が激しくなる。私はおろおろと夏油を見上げた。夏油は笑って右手の親指と人差し指で円を作る。間違ってはいなかったらしい。
 夏油はするすると衣擦れの音をさせながら立ち上がる。

「君は自他の呪いを蟲に変え使役する。今は無意識にそれをしているから制御出来ていない」

 夏油は私の傍らを通り過ぎ、居間の戸を開けると廊下に出て行った。私は慌ててそれを追う。夏油はずんずんと廊下を渡り、躊躇なく祖母の部屋の襖を全開にした。大量の蜚蠊が光から逃げてざわざわと移動する。

「だから、ほどいてやればいい。君がどうしてこれを産んだのか、君には分かっているだろう?」

 廊下の中ほどで足が止まる私の手を、夏油はついと引いた。私は引かれるままによたよたと部屋の前に立つ。爪先が敷居にかかった。
 夏油は私の右手を握ったまま、私の背後に立つ。左手が背中に当てられた。じっとりとかいた汗で冷えた背中に体温が染み込んでいく。

「吸って」

 耳の後ろで囁かれる。私は目を閉じ、深く息を吸った。

「吐いて」

 言われるままに、長く息を吐く。かさかさと翅の擦れ合う音がした。

「私は――」

 右手を握る夏油の手の力が少しだけ強くなる。

「祖母の――おばあちゃんの、弱った姿を見られたくない」
「うん」
「だんだんボケていくおばあちゃんを見たくない」
「うん」
「変なシューキョーの人に見つかりたくない」
「うん」
「それから、少しだけおばあちゃんに苦しんでほしい」
「うん」
「でも、そんな私のこと、私は――」

 言いかけたそれを夏油は手のひらで覆った。夏油の大きな手のひらで口を塞がれ、私は息苦しくなる。

「それはいい」

 夏油は短く言い、私に目を開けるよう促す。おそるおそる目を開けると、日に焼けた畳と砂壁の何の変哲もない団地の一室が視界に広がっていた。介護用ベッドに寝かされた祖母がすうすうと寝息を立てている。私は呆然と立ち尽くし、次いで手足から力が抜けてその場で崩れ落ちそうになった。夏油が私を背後から支えた。

「飲み込みが早い」
「――あ、なんで……」

 なんで、なんで、と熱に浮かされたように繰り返す私の背中を夏油は諭すように優しく撫でた。

「言っただろう、怖がらなくていいって」

 私は夏油に支えられたまま何もいない部屋をぼんやりと眺めた。部屋の隅を一匹の蜚蠊が走り抜けて行く。私が体を強張らせ、夏油に視線で助けを求めると、夏油は眉尻を下げて笑った。

「あ、あれは本物の虫」

 それを聞くなり私は悲鳴を上げ、台所に殺虫剤を取りに走った。



 冷や汗をかきながら虫退治を終えた私は食欲のないまま夏油と食卓を囲んだ。夏油はぬるくなったパスタを食べ終えると、おにぎりのフィルムを剥がした。食事に手を付けない私に、夏油はプラスチックカップのデザートドリンクを差し出す。

「これ、菜々子と美々子が好きなんだよ。美味しいらしいよ」

 私はそれを受け取りながら、知らぬ名前に首を傾げた。夏油はおにぎりを三口程で食べ終えた。口が大きいのだろうか、あっという間に食べた割には急いでいるように見えなかった。

「君と同じ、見える人間だよ。女の子で、今年の春で小学六年生になった。君のことを話したら会いたいと言っていた。いつでも遊びにおいで」

 私はふわふわした心地のまま頷く。受け取ったドリンクのプラスチックの蓋にストローを刺す。ぷちん、と音がして蓋に穴が開く。ストローを咥えて吸うと、太いストローからとろりとした液体が口の中に流れ込んでくる。甘くて美味しかった。