「誰かを本気で殺したいと思ったことある?」

 私は教科書の内容を書き写すだけの益体もないノートから顔を上げた。誰もいない図書室にもかかわらず、先輩が向かいの席に座っている。長く美しい髪を今日は二つに結わえ、肩に垂らしている。耳のあたりで脱色した髪が筋状に入り混じり綺麗だ。先輩は毛先を鼻のあたりまで持ち上げ枝毛を探しながら、何でもないようなことのように尋ねてきた。
 先輩は部活動をしていないのか、受験勉強をする気がないのか、そのどちらもなのか、ほとんど毎日放課後を図書室で過ごしている。どういう素性の生徒であるのか探ろうとしたのだが、友人のいない私には難しかった。

「ないです」

 私が答えると、彼女は枝毛から視線を外そうともせず鼻で笑った。

「私があんたなら親を五百回は殺したいと思ってるよ」

 殺してるかも、と先輩は枝毛を摘まみ指で裂く。私はそれを聞きながら、先日の夏油の話を思い出していた。思うことは簡単だ。実行されない殺意と叶わぬ夢は似ている。私だって父母の、祖母の死を心から願ったことは幾度となくあった。しかしそれは決して実行出来ないからこそ抱えることの出来る感情だった。だからきっと実質的に私の殺意は無いも同然であった。

「先輩」

 私はシャーペンの芯を無意味に出したり引っ込めたりしながら声をかける。私から会話の糸口を作ったのは初めてであったかもしれない。先輩は意外そうに眉を上げた。

「なに」

 そう言う声音は思いのほか優しかった。私はシャーペンを置く。

「先輩にその能力があって、資格も権利も十分にあって、決して咎を受けないとしたら、誰かを殺しますか?」
「殺すよ」

 間髪入れずに答えがある。先輩は淡い色の大きな瞳で私をじっと見ていた。虹彩の縁が不思議な色をしている。多分、カラーコンタクトだ。私はその異様に力強い双眸から目を逸らす。

「……そうですか」
「殺さない理由って何?」

 逆に、と言われ、私は肩を竦めて「さあ」と答える。図書室のドアが開き、副担任が顔を覗かせる。私と先輩が向かい合わせで座っているのを見て怪訝そうな顔をした。だがすぐに嘘っぽく笑う。

「お、なんだ、女子会か?」

 友達のような調子でそう言いながらテーブルの方まで歩いてくる。先輩はあれほど副担任を悪し様に貶していたにも関わらず、明るく笑って副担任の前腕を手のひらで叩いた。

「女子会とかおもしろー、せんせも入る?」

 副担任の表情が満足げに緩む。

「おいおい、おまえんとこの担任が出席が足りないって心配してたぞ。女子会より先に授業に出なさい」

 はあい、と先輩は鼻にかかった声をあげる。副担任はへらへら笑って腕を組む。

「女子会とか言って一年生の純粋で大人しい子捕まえて、自分の引き立て役にしようってんじゃないだろうな」

 私は副担任の発した何気ない言葉の滴るような悪意と嘲弄に眉をひそめた。だが私が嫌な気分になるより前に、先輩が媚びたような笑みを引っ込める。

「は? トモダチなんだけど」

 冷ややかな声音に副担任は「しまった」という顔をした。居心地悪そうに身動ぎし、テーブルから半歩離れた。

「女の争いは怖いからなあ、何かあったら言うんだぞ」

 副担任は私に向かって半笑いでそう言うとそそくさと図書室から出ていく。閉められたドアに向かって先輩は中指を立てた。

「何しに来たのアイツ」
「女子会じゃないですか」
「ウケる、何が女子会だよ。脳味噌が自分が大学生の時で止まってんじゃねえの」

 先輩は椅子に深く腰掛け腕を組む。ターコイズブルーに塗られた爪が苛立たし気に二の腕を打っている。

「ああやって私の目の前であんたイジれば、私が喜んで乗っかって仲良くなれると思ってんの。馬鹿だって舐められてんだよ。ムカつく」

 私は先輩の物言いに唇の片端を上げて見せた。

「実際みんなそうでしょう。あの先生、人気あるし」
「馬鹿ばっかりだな、みんな死ねばいいんだ」

 みんなしねばいい、私はその強烈な呪いの言葉を口の中で小さく繰り返す。私は本棚の隙間から漏れるシメイシナイデ、ヒトリニシテ、と呟く声を聞きながら、ノートとペンケースをバッグにしまう。先輩は椅子を傾けながら私を見上げた。

「帰んの?」
「はい」
「ふうん、じゃ、明日」

 私は目を丸くし、何と答えるか迷う。先輩が怪訝な顔をするまでぼんやりと立ち尽くしたあと、私はやっと「また明日」と答えた。



 裏門を出たところに黒い乗用車が停まっていた。気にも留めずにその傍らを歩いて通り過ぎようとすると、パワーウインドウが音もなく開く。長い髪を纏めた男が運転席に座っていたが、私は視界の端にそれを映しながら先輩のことを考えていた。名前を呼ばれ、私ははっとして顔を上げる。運転席に座っていたのは苦笑する夏油だった。気が付けなかったのは、常の法衣ではなく白いシャツを身に着けていたからだ。

「や、ひさしぶり」

 私は足を止め、狼狽えながら会釈する。ひさしぶりという程、以前会ったときから日数は経っていない。

「ちょっと忙しくしてたんだけど時間が出来てね。少しいいかな」

 道路の真ん中で立ち尽くす私に夏油は笑い、シートベルトを外すと路上に降りてきた。黒いスラックスに白いシャツ姿だと、いつもよりずっと若く見えるし、普通の人に見えた。夏油は少し芝居がかった動作で助手席のドアを開ける。

「どうぞ、乗って」

 私はほんの少しだけ躊躇い、だがおずおずと車の助手席に足を踏み入れる。母の運転する軽自動車以外に乗るのは本当に久しぶりだった。助手席のドアが丁寧に閉められる。夏油が車の後ろを回り運転席に戻ってくるのを、ルームミラー越しに覗く。運転席に乗り込んできた夏油からは、法衣から漂うのと別の香りがした。
 私の百足を自在に操っていた手がシフトレバーを操作する。滑るように車が発進した。何か聞く? と夏油はインパネに触れる。その途端、オーディオから最近流行っているアイドルソングが流れ出した。夏油の手が慌ててポップでキッチュな曲を止める。

「菜々子が流したいって聞かないんだよ。そのままだったの忘れてた」

 私は決まり悪そうな夏油の横顔を盗み見た。あ、この人、人間だったんだ、と思った。幻滅したわけではない。安堵した。私は夏油に「君は私と同じものを見ている」と言われても、いまひとつ実感が持てないでいた。壇上に立ち、ゆるりと法衣を靡かせ、その一挙手一投足に大勢の信者が一喜一憂する男だ。それと同じだと言われても、ただただ困惑した。今の夏油になら、多分少しだけ共感が出来る。

「あのあと蟲はどう? 制御できてる?」

 前方に注意を向けたまま夏油は尋ねる。私はスカートの襞を見下ろしながら「ええ、はい……まあ」と煮え切らない返事をした。制御は出来ている方だと思う。不意に視界に蟲が湧くことはほとんど無くなった。あったとしても、落ち着いて対処出来るようになった。だが私は、また祖母の部屋を蜚蠊で覆った。もう何年もそれがいるのが当たり前になってしまっていて、すっきりとして明るい祖母の部屋は奇妙に感じられた。弱った祖母も見たくなかった。祖母がぽそぽそと真言を唱える声も、お茶を啜る音も、聞きたくなかった。蟲の羽音の方が心落ち着いた。自分が部屋に入るときは蜚蠊の大群を壁と天井に移動させる。その程度は出来るようになった。
 夏油はおそらく何か感づいたのだとは思うが、何も追及してこなかった。そっか、よかった、とだけ言った。
 赤信号で車が停まる。私は夏油さんと横顔に呼びかける。ん? と夏油はこちらを見た。私は人差し指を立て「角短」と名を呼ぶ。指に大きな蜂が留まる。黄色く鋭い顎が、私の指をかりかりと甘噛みする。夏油は眉を上げた。眦に本心からの驚きが滲んでいる。

「この短期間ですごいな、筋がいい」

 褒められた喜びでいっぱいになりながら、私は自身の失敗に気が付き肩を落とす。

「ありがとうございます……すみません、でもこれ羽斑です……」

 信号が青に変わる。一瞬、座っているのに立ち眩みのような奇妙な感覚があった。夏油はハンドルを撫でながら笑う。

「すぐに慣れる」

 はい、と私は苦笑する。それから夏油の横顔に話しかけた。

「すみません、どこに行くんですか。遅くなるなら母に連絡しないと……」

 夏油は前を見たままインパネをいじる。絞った音量で私の知らない曲が車内に流れ出した。

「君のお母さんには連絡させてる。帰りはあまり遅くならないうちに家まで送るよ、心配しないで」

 ありがとうございます、と私は恐縮しきってフロントガラスに向かって頭を下げる。今日は母は夜勤明けで家にいるはずだから、祖母のことは気にしなくていい。私は蟲だらけの薄暗い部屋にいる二人を想像し、すぐにそれを振り払った。
 「教祖様」である夏油に私が認められてからこちら、母はすこぶる機嫌がいい。仕事に疲れ苛々し、些細なことで私を叱ることもなくなった。私は学校で必要なものをねだるために母の機嫌を伺う必要もなくなった。
 母は働き蟻のように働き、疲れ果て帰ってくるとうっとりと私の頭を撫で「教祖様と同じ力があるのね」と呟いた。そして必ず「教祖様と同じように、大勢の人を救ってね。あなたの力はそのためにあるのよ」と続けた。私はそれを聞きながら、曖昧に笑って「わかった」と答える。だが私は、私にそんなことが出来るとは思わなかった。私は夏油と同じものを見てはいたが、同じようにはなれない。私はただ、ぽろぽろと蟲を産むだけだ。その力で何が出来るとも思わなかった。出来たとしても、おそらくしないだろう。そうとて他人を害してやろうとも思えなかった。私は私の力を他人のために使うほど世界に期待しておらず、私のために他人に振るうほど世界に絶望してもいなかった。
 私がぽつぽつと母のことを言うと、夏油は横目に私を見た。

「お母さんは優しいね」

 そう言われ、私はサイドミラーに映る自分の顔を一瞬見た。私の面差しは母に似ている。私は顔を伏せ、細く息を吐く。

「そうかもしれません」

 だから良いように使われるんです、とは言えなかった。でもね、と夏油は続ける。

「お母さんの言うことは話半分……いや、四分の一くらいに聞いておいたほうがいい。君のお母さんは君が何を見ているのかを知らない。何を背負っているのかも。妄想みたいな期待ばかりかけられて、君が疲弊する必要はない」

 そんなことを言われると思っていなかった私は、進行方向に向いたままの夏油の横顔を盗み見る。車が信号で停車し、夏油は顔ごとしっかりとこっちを見て「絶対に」と言い切った。窃視がばれた私は慌てて視線を前に戻し、何食わぬふりをして「はい」と答えた。

「覚えておいて、私はあそこにいる誰も救わない。救うのだとしたら――救うのは、君だけだよ」

 私はまた「はい」と答えた。
 発車の瞬間、また眩暈に似た感覚があった。私は周囲の光景がそのたびに一変していることに気が付く。

「夏油さん、あの……」

 私がおずおずとそれを尋ねようとすると、夏油は「あ、ばれた?」と唇の端を上げる。

「君を怖がらせたくなくて車で来たけど、ちょっと近道してる」

 私は車窓から外を見る。それほど長い時間乗車していないのに、もう見知らぬ道を走っていた。

「問題です、どこで継いでるか分かった?」

 ハンドルを握る手の人差し指がいたずらっぽく立てられる。私はその長い指を見ながら、車が走り出してからのことを思い出していた。

「……信号機?」
「お、ほぼ正解だ。やるじゃないか。正確には四ツ辻だね。それから――」

 車が高架橋にさしかかる。通り過ぎる瞬間にまた眩暈を感じる。

「橋だ。もうすぐ着くよ」

 夏油は雑居ビルにしか見えない建物の一階ガレージに車を停めた。私はそういえばどこに行くのかをはぐらかされていたことを思い出す。エンジンを切った瞬間、車の外から「夏油様!」と幼い声が聞こえた。夏油は私に目配せし、ドアを開ける。私もそれに倣い、車のドアをガレージの壁にぶつけないよう細心の注意を払いながら車から降りた。

「夏油様、おかえり!」

 夏油が車から降りるなり二つの小さな人影が夏油に殺到する。夏油は中腰のまま二つの頭を撫でる。

「ああ、ほら、一回どいてくれ。ドアが閉められないだろ。危ないから」
「夏油様、ちゃんといちじてーしした?」
「誰も轢いてない?」

 二人の少女だ。着ているものの趣向も雰囲気も全く違うが、顔立ちは似ている。似ているというより、瓜二つだ。同じ顔が並んでいる。双子なのだろう。勝気そうな子が私を指さし「あ!」と大きな声を上げる。

「この人が夏油様が言ってた人!?」
「そうだよ、挨拶して」

 少女は私を頭から爪先まで見ると「えー、めっちゃフツー!」と手を叩いて笑った。ふつう、と言われ、私は面食らう。生まれてこの方そんな扱いをされたことはなかった。もう一人の物静かな少女が「菜々子、失礼だよ」とそれを諫める。そうであるなら、きっとこの子は美々子なのだろう。

「ねえ、蟲を出すんでしょ! 見せて見せて!」

 はしゃぐ菜々子を夏油が制止する。

「菜々子、まずは挨拶。それから中に入って、お茶でも飲んで、それからだ」

 菜々子は頬を膨らませて見せ、それからぱっと破顔する。

「はじめまして、私が菜々子、あっちが美々子。間違えないでね」

 美々子が抱えたぬいぐるみをきゅっと抱きしめながら、ぺこりと頭を下げる。

「間違えないよ。うるさいのが菜々子」

 美々子が言うと、菜々子はむっとする。

「くらーいのが美々子!」

 私はエネルギッシュな二人に気圧される。夏油はそんな私を見て苦笑し、二人の背中を通用口の方に押した。

「お客さんをこんなところに立たせちゃ駄目だろ」

 美々子が私の方を見た。ぬいぐるみの手足がぷらぷらと揺れた。

「お姉ちゃん、何飲む?」

 私は咄嗟に答えられず口ごもる。夏油が私を手招きしながらかわりに答えた。

「お茶でいい? 私もそうするから」
「あ! 私が夏油様の分も準備する!」

 夏油が言い終える前に菜々子が建物の中に飛び込んでいった。美々子が「わたしが聞いたのに」と唇を尖らせながらその後を追っていった。嵐のようだ。ぽかんとする私に夏油は面白そうに肩を震わせた。

「元気だろ?」
「ちょっとびっくりしました」
「びっくりさせたかったんだ。いい子たちだよ、仲良くしてあげて」

 私は淡く笑んで頷く。

「普段はもう少し聞き分けがいいんだけどね、多分君が来たからテンション上がっちゃってる」

 私は夏油を見上げる。どうして、と聞く前に夏油が先を続けた。

「年の近い仲間はいないから、嬉しいんだよ」

 私は制服のベストの裾を指先でいじりながら「私もうれしいです」と答えるのがやっとだった。私の存在が、見えるものが、湧くものが、無条件に受け入れられ喜ばれるのは初めてだった。夏油は何も言わず目を細め、通用口のドアを開けると「おいで」と私を招き寄せた。私は小走りに夏油の後に続いた。
 外観は雑居ビルにしか見えないが、中は人が住めるように改装されていた。廊下の作りや間取りに雑居ビルの面影がうかがえる。何かの事務所のロゴが剥がされたガラスドアの向こうで菜々子が大きく手を振っていた。事務所の名残であろう応接セットに小さな缶が並んでいる。お茶が二つと、フルーツジュースが二つ。

「ジュースは一日一本だろ」
「まだ一本目ですー」

 目を逸らしながら答える菜々子に美々子が「嘘、二本目でしょ」と言った。「なんで言うの!」と菜々子が美々子を睨む。夏油が肩を竦めて「今日は特別だぞ」と溜息をついた。私は促されるままソファに座りながらそれを眺めていた。
 私がソファに納まるなり両隣に菜々子と美々子が陣取る。立派なソファは二人掛けにしては余裕があったが、小柄な少女とはいえ二人に両隣に座られるとそれなりに狭苦しい。菜々子の期待に満ちた視線から逃げるように左を見れば、美々子の大きな瞳と目がかち合う。正面を見ると夏油がおかしそうな笑みをこらえていた。

「蟲出すとこ、見たいな」

 美々子までそう言う。私が困り果て夏油を見ると、夏油は組んだ脚に肘をつきながら「もう見せるまで離してくれないよ」とからかうように言った。夏油は身を乗り出し、私に手を出すように言う。言われるがままに手を差し出すと、夏油は私の手のひらに何かを落とした。それは小さな何かだ。鼠の胎児のようであったが、脚が三対ある。ばらばらに手足を動かしながら、ぢい、ぢい、と鳴いている。

「呪霊だ。変えてごらん」

 私はそれを見下ろす。自分の意思で蟲を引っ込めることには慣れてきた。だが産むのは、まだ勝手がわからない。相当不安そうな顔をしていたのだろう。夏油はテーブル越しに私の手を呪霊ごと両手で包み込む。

「君はね、出来るよ」

 夏油にそう言われると、出来るような気がした。だがそう思う自分が、私は少し怖かった。夏油の手がゆるゆると離れていく。私は手の内の呪霊をじっと見つめた。小さな鳴き声が途絶え、しゅるしゅると糸を吐き、蛹になる。蛹はじわじわと色を変え、蠢き、その背中がぱくりと割れた。黄色い翅の小さな蝶がぱっと羽ばたく。蝶はひらひらと天井の照明の周囲を飛んだ。

「ほら、出来ただろ」

 夏油が言う。私はぼんやりとそれを見上げながら頷いた。それを見た菜々子と美々子は小さな歓声をあげる。

「すごーい! でも地味!」
「……だから、失礼だよ」

 地味、と言われた私は眉尻を下げた。実を言えば少し格好をつけた。女の子二人に喜んでほしくて蝶にした。地味だろうか。そうなのだろう。私は初めて会ったときに夏油が背後に控えさせていた巨大で美しく恐ろしい長虫のことを思い出していた。しかし嫌な気分ではななかった。私自身さえ受け入れがたいこれを軽やかに地味と一蹴されるのは、どうしてか胸がすっとした。
 光を透かすような薄い翅をひらめかせながら、蝶は菜々子の鼻の頭にとまる。菜々子は目を丸くし、くすくすと笑った。吐息で蝶がふわふわと飛ばされ、美々子の頭にとまった。私が「ありがとう」と言いかけたのを、単調で間の抜けた電子音が遮る。菜々子が「ご飯炊けたよ」とソファから立ち上がる。その音が炊飯器の報知音であったと気が付く前に、夏油は私に向かって「夕飯、食べていくだろ?」と言った。
 恐縮する私をよそに三人はさっさと席を立つ。私は慌ててその後を追った。元は飲食店のテナントであったろう一室のアイランドキッチンは、今は家庭のキッチンと変わらない調味料やレトルト食品やお菓子の袋が雑然と置かれていた。

「今日はハンバーグ。ハンバーグ好き?」

 美々子が焼くだけの調理済みハンバーグのパックをこちらに掲げる。菜々子がフライパンを出しながら「ハンバーグ嫌いな人いないよ」と茶化す。私は白いシャツの上からエプロンを付ける夏油をちらと見た。

「料理をされるんですね」

 夏油はねじれたエプロンの肩紐を直しながら苦笑した。

「いや、実はそれほど」

 普段は別の仲間がやるよ、そうでなければ外食か買ったもので済ませる、と夏油は言う。会話の糸口を奪われた私は「あ、そうなんですね」とひどく気の利かない言葉を返すしかできなかった。夏油はエプロンの腰紐を結びながら「でもせっかく君が来るから、いいところ見せたくて」と微笑む。
 菜々子と美々子も各々可愛らしいエプロンを身に着けながら「ねーちゃんはそこで座ってててよ」と言った。私はカウンター席の背の高い椅子に座り、三人がハンバーグを焼き、カット野菜を皿に盛り付けるのを眺めていた。夏油の腰のリボンが、動くたびにふわふわと揺れる。菜々子が「私の皿にトマトは入れないで」と言うが、美々子は素知らぬ顔をして全員の皿に野菜を分けていく。私は誰かが食事の準備をするのを待つなんて何年ぶりだろうと思った。母は忙しく、一緒に食卓を囲むことは稀だった。あったとしても私が作って置いていたものを温め、大急ぎで掻きこむだけだ。私は祖母にくたくたにした食事を食べさせ、それから一人で自分の作った料理を死なない程度に胃に入れる。
 私は賑やかに準備をする三人を見ながら、たまらない気持ちになる。ずっと諦めてきた。私は病気だから、家族に迷惑をかけているから、多少の不自由は受け入れねばならないと。そうであるのに同じ境遇の菜々子と美々子が、これほど幸福そうにしている。どうしようもないことなど分かっている。彼女たちには彼女たちなりの不幸があるだろう。醜い嫉妬だ。傲慢な怒りだ。目の奥がじんわりと熱くなる。泣いてしまわないように見開いた目の縁から、ずるりとヤスデが這い出た。カウンターに落ちたヤスデは脚をじたばたさせ平たい体をくねらせる。二匹、三匹、次々落ちてくるそれを私はただ呆然と見下ろす。誰にも見られたくない。誰にも知られたくない。己の情動とよく似た醜く悪臭を放つ蟲だ。消えてくれ、と私は強く念じる。だが思いと裏腹にカウンターテーブルに蟲が山になっていく。
 絶望する私に、夏油が視線を向ける。私が両の眼からずるずると蟲を排泄し続けるのを見て、夏油はエプロンで手を拭きながら「おっと」と片眉を上げた。私はなすすべなくテーブルの木目を見下ろしながら「ごめんなさい、すみません」と謝る。

「大丈夫、ちゃんと息をして」

 夏油は私の背後に立つと、カウンターテーブルの上で固く握られた私の手をほどき、握る。異変に気が付いた菜々子と美々子がこちらに駆け寄ってくる。私は震えながら「来ないでくれ」と願う。菜々子と美々子はテーブルの上を這いまわる醜悪な蟲を見るなり大きな声を上げる。だがそれは悲鳴ではなく、歓声だった。

「うっわ、おっぞー! やば! かっけー!」
「チョウチョよりこっちのほうが良いよ」

 美々子の小さな手がピンク色の蟲を掬いあげる。菜々子が美々子の手の中を嬉々として覗き込む。その途端、あれほどどうにも出来なかった蟲がぞろぞろと統率のとれた動きで私の袖口やスカートのポケットに入り込んでいき、そのまま姿を消した。ごめんなさい、ありがとうございます、と繰り返す私の背中を夏油が優しく撫でた。撫でながら「あ、まずい、菜々子、フライパン」と言う。菜々子は今度こそ悲鳴を上げコンロに戻りフライパンの中を覗き「あっ……ああー、多分セーフ!」とこちらに向かって親指を立てた。美々子は手際よくご飯をよそい、四人掛けのテーブルに並べている。私は椅子を下り、美々子に声をかけた。

「私も手伝うよ」
「じゃあ、お箸お願い」

 キッチンに戻ると夏油が戸棚を指さす。そこを開けると大量のカトラリーが保管されていた。箸を四膳取り、食卓に並べる。私は箸を並べながら、美々子に小声で尋ねた。

「ごめんね、気持ち悪かった?」

 美々子はなんでもないように首を横に振る。

「別に。私の術式の方がヤバいよ」

 そう言ってふふふと小さく笑う。それは慰めでもなんでもないようで、私はほっとして泣き笑いのような顔をした。

「よかった、今度見せてね」
「えー、どうしよっかな」

 美々子は抱えたぬいぐるみの腕をこちらに向かって振って見せる。夏油が「美々子、ハンバーグ運んで」と声をかける。美々子はぱっと顔を上げ私に目配せするとキッチンに戻っていった。私もその後を追う。
 食卓を整え、四人で囲み、手を合わせる。二人の「いただきまーす」という元気な声の後で、私は小さな声で「いただきます」と唱えた。そんなことをしたのも久しぶりな気がした。何の変哲もないハンバーグが、涙が出るほど美味しかった。食事を終え、ごちそうさまでしたと皿に向かって手を合わせる。菜々子が「美味しかった?」と聞いてくるので、私は本心から「美味しかったよ」と答えた。菜々子は嬉しそうに笑った。夏油が私の皿を下げようとしたので、私は慌ててそれを止める。

「あの、片付けくらいします。お皿洗わせてください」

 夏油は「そんなことしなくていいよ」と言いかけたが、思い直したのかふと口を噤む。

「じゃあ、お願いしようかな」

 夏油の言葉を聞き、私は自分の皿と夏油の皿を重ねて流し台に運ぶ。背後を各々の皿を運ぶ菜々子と美々子がついてきてくれた。スポンジはそこ、洗剤はあれ、生ごみはあっち、と丁寧に教示してくれる。私はスポンジに洗剤をつけて泡立たせた。洗い終えた皿を籠に並べると、菜々子と美々子が争うように皿を取り合い、拭き、食器棚に戻す。それを夏油がカウンターに座って眺めていた。
 皿を洗い終え、フライパンを洗っているところで菜々子がカウンターから身を乗り出してくる。

「ねーちゃん、それ終わったらアイス食べながら映画観よー」

 私はフライパンの泡をすすぎながら苦笑した。

「それは……あんまり遅くなるとお母さんに心配かけちゃうから」

 フライパンを洗い終えるのを布巾片手に待ち構えていた美々子が私を見上げた。

「お母さんも一緒に来たらいいよ、お母さんの術式って何?」

 私はのろのろとかぶりを振る。

「私のお母さんは……術者じゃないよ。私のことも、ほとんど知らない」

 それを聞いた菜々子が大きな瞳を私に向ける。

「は? ねーちゃんのお母さんって猿なんじゃん。じゃあ別に心配とかどーでもよくね?」

 私の手がぴたりと止まる。冗談か何かか、最近の小学生の間ではそういう物言いが流行っているのか、と私は菜々子の方を見た。菜々子は先ほどまで年齢相応の無邪気さを湛えていた瞳を冷ややかに細めていた。私は戸惑い、美々子の方を見る。美々子も同じような目をして心底不思議そうに首を傾げる。

「猿のところに帰るの? なんで?」

 なんでって、と私は口の中で呟く。ざあざあと水が流れる音が私の耳朶を打っていく。

「非術者なんてみんな猿だよ。ゴミじゃん。ねーちゃんさ、そこいて楽しいの? 幸せ?」
「私たちといっしょにいよ、私、お姉ちゃんに呪術のこといっぱい教えてあげる」
「猿に囲まれてたら、ねーちゃん可哀想だよ」
「私の術式も見せてあげる。猿といたらそんな話できないよ」

 矢継ぎ早に言われ、私は立ち尽くす。どうしようもなくなり、私は夏油に視線で助けを求めた。夏油が彼女たちを諫めてくれるのではないかと思った。だが夏油はゆっくりと立ち上がり、ざあざあと流れていく水道を止めただけだった。

「わがままを言って困らせてはいけないよ。――皿、ありがとう。そろそろ帰る?」

 私は濡れた手の先からぽつぽつと雫を滴らせながら、無言で頷いた。心臓が妙な感じで拍動していた。



 日の長い時期ではあるが、外はもう暗くなっていた。車窓の外を街の明かりがきらめき通り過ぎていく。菜々子と美々子は帰り支度をする私に何度もそれを惜しむ言葉をかけてくれた。別れ際に連絡先を交換して「また絶対に来てね」「今度はいっしょにゲームしようね」「術式も見せるね」「どこか遊びにも行こうね」と念を押した。私はそれを嬉しいと思った。嬉しいと思ったが、胸のあたりに氷塊のようなものがつかえたような気持ちになった。
 私は何も言わず前方に注意を向ける夏油に声をかける。ん? と柔らかな声音が返ってきた。

「夏油さん、夏油さんも……呪力を持たない人を猿だと思いますか?」

 乾いた喉で、掠れた声で、そう問う。夏油はそれに答えず「君はどう思う?」と言った。私は明滅する車窓の光で影になり光になりする夏油の横顔から目を逸らす。

「……分かりません。だって……だって、私も、少し前までそっち側だったし……」

 夏油に強く名前を呼ばれる。私はびくりと肩を跳ねさせた。

「呪力は、術式は、魂に刻まれたものだ。君の力はまさしく天賦のものだよ。君が「そっち側」であったことなんて、一度もない。生まれてこの方」

 私は指をスカートの上で絡めながら小さな声で「はい」と呟く。今までの私が否定されたような気もした。だが報われたような気もした。

「菜々子と美々子はね、今よりずっと幼い頃から呪術のことを何も知らない人間にひどい目に遭わされてきたんだ。彼女たちの両親もろともね。だから、非術者を憎んでいる。物言いがキツくなることもある」

 私は暗い車内でこくこくと誰に向かってでもなく頷く。彼女たちは親も呪術師なのか、と納得する。

「でも……私は、父も母も呪術師じゃないです」

 家族に思うところはある。だが猿と呼び蔑み憚らないことが、自分に出来るだろうか。車が赤信号で停車する。夏油は私の方を見た。

「私の両親も非術者だった」

 その言葉の意味を咀嚼し、飲み込み、私は心臓のあたりがひんやりした。ご両親はどうされているんですか、というそれだけのことが、恐ろしくて聞けなかった。対向車のヘッドライトで夏油の顔は強く影になっている。薄い唇の口元は、常の笑みを形作ってはいない。私は、笑みを湛えていない夏油の顔が鋭く冷ややかで威圧感があることを、そのとき初めて知った。
 夏油は公営住宅の駐車場で停車する。ありがとうございました、楽しかったです、と車を降りかけた私を夏油は呼び止める。

「忘れるところだった」

 夏油は後部座席に上半身を乗り出し、紙袋を取り上げた。それを私に渡す。中は数冊の昆虫図鑑が入っていた。どれも分厚く、カラーの鮮明な写真がふんだんに掲載されている。

「君にあげるよ。きっと役に立つ」

 私は紙袋を抱えて「ありがとうございます」ともう一度深々と頭を下げた。車を降り、ドアを閉め、また小さくお礼をする。夏油は窓越しに「じゃあ、また。おやすみ」とひらひら手を振った。私はぼうっとしながらそれにひらひらと手を振り返した。そうしてから、手を振るのは失礼だったかと思った。だが夏油は笑って窓を閉めただけだった。
 車は駐車場の砂利を鳴らしながら発車した。私はそのテールランプが見えなくなるまで見送り、重い足取りで湿ったコンクリートの階段を上る。最近は階段の踊り場や廊下に人が隠れていないか確認するのが癖になっていたが、それも忘れて黙々と三階まで上がる。突き当りの鉄製のドアを開ける。がちゃん、と古めかしい解錠の音がする。ただいま、と室内に入る私に母が駆け寄ってきた。

「おかえりなさい、教祖様の招待を受けたのね。きっとためになるお話をされたのね」

 母はうっとりと私の頭を撫でる。私は母の顔を見た。いつの間にか私は母の背丈を越していた。こけた頬、潤いのない髪の毛、苦労とともに刻まれた目尻の皺が、母を年齢よりずっと老けて見せている。私はそんな母を恥ずかしいと思っていた。私と母は似ているから、私の将来を見ているようで恐ろしかった。

「よかった……あなたが娘で、本当によかった……」

 目に涙をためる母を、私は力なく見返す。私は母の肩のあたりに額を寄せた。ただいま、と小さく呟く。母は優しく私の背中を撫でる。この手がこれほど優しく温かくなければ、私はずっと容易に母のことを嫌いになれたのに。母からは染みついて取れない消毒液のにおいがした。