四
誰もいない図書室のテーブルで昆虫図鑑を読む私を、先輩は本棚の間をうろうろしながら「勉強ばっかしてると思ったら今度は読書かよ」と腐した。私が鮮やかなカラー写真とキャプションを眺めながら「先輩も読みますか」と言えば先輩は私の傍らに立ち、手元を覗き込んできた。
「いやー、ムシとか無理だわ。写真も無理」
私は苦笑してページを繰る。葉の裏に密集する毛虫の写真から先輩は悲鳴を上げて視線を逸らした。
「なんで集まるんだよぉ、きもいよぉ」
「さあ、小さくて弱いからじゃないですか」
「ううー無理無理無理」
先輩があまりに拒否反応を示すので、私は溜息をつき本を閉じた。裏表紙に記された書籍の定価を見て、先輩は淡い色の目を剥く。
「たっか、嘘でしょ」
フルカラーの分厚い図鑑はそれなりの値段がする。少なくとも高校生が気軽に買える値段ではなかった。私はそれを、三冊もらっている。申し訳ないと思った。ありがたいと思った。何度もお礼を言った。だが私は、だんだんとあの人に何かを与えられることに慣れてきていた。
「ムシの写真にこんな値段払う奴いるんだ。あ、目の前にいた。あんたバイトしてんの?」
私は首を横に振る。定価の印字を指でなぞった。
「バイトしてないのによく金あんね。家も貧乏でしょ」
直截な物言いに私は苦笑いをした。
「もらったんです」
先輩はさして興味もなさそうに「ふーん」と鼻を鳴らし、私の向かいに座った。
「バイトしたらいいのに。好きなものは何でも自分で買ったほうが気持ちいいよ」
私は脚を投げ出して座る先輩の姿を見る。爪を鮮やかなターコイズブルーに塗った指に、華奢なリングが光っている。手首にはめた揃いのブレスレットがニットの袖から見え隠れしていた。綺麗に垂らされた髪は複雑に染め分けられていて――インナーカラーというらしい、先輩が教えてくれた――多分私の一回の散髪の何倍もお金がかかっている。
先日、副担任が廊下で私を呼び止めたときのことを思い出す。副担任は人目をはばかるようにきょろきょろしながら私を生徒指導室に呼んだ。身に覚えのない私は、だが諾々とそれに従った。副担任は部屋のドアを閉めるなり一人の女生徒の名前を挙げ「最近よくつるんでいるみたいだが」と切り出した。私は先輩の本名をそこで初めて知った。私はうつむき「はい」と答える。副担任は眉尻を下げる。
「友達が出来るのはいいことだよ。あいつも――悪い奴じゃない」
ちょっと派手だけどな、と副担任は言って、自分で笑った。私も曖昧に口の端を上げて見せた。
「でもちょっと……よくない仲間とつるんでいたり、いかがわしいバイトをしてるって噂があったりしててな、そういうこともあるから、もし何かあったらすぐ俺に相談するんだぞ」
私は副担任の優し気な顔を見上げる。本心から心配している顔だった。私は先輩の派手な身形を思い出す。声をかけられなければ、話すこともなかったような相手だろう。私は制服も気崩さず、授業も欠席せず、校則を遵守している。家庭がおかしくて、友達がいなくて、呪力があることを除けば、模範的な生徒だ。その二人が一緒にいたら、私が搾取されていると思うのは仕方ないのかもしれない。だが、私は先輩の耳に届かないところでそういうことを言う副担任を、少し卑怯だと思った。それはきっと私が先輩に肩入れしているからで、客観的には副担任の言うことに理があるのは分かっていた。「でも先生、そう言いながら先輩に私をイジるように仕向けましたよね」とは言わなかった。そんなところで波風を立ててもどうしようもなかった。
「先輩、何のバイトしてるんです?」
何気なさを装って私が尋ねると、先輩は事も無げに「スナック」と答えた。私の脳裏にポテトチップスとかポップコーンのパッケージが一瞬浮かぶ。私の考えていることが分かったのか、先輩は小馬鹿にしたように唇を尖らせ「お酒とか出すとこ」と言う。ああ、と私は呻く。副担任の言うことがでたらめではなかったことに、少しだけ落胆した。
「別にエロいこととかしないし、ママ優しいし、バイト代高いし。死にかけみてえなじいちゃんにお酌すんのは最悪だけど、でもこんなんで稼げんのって今だけだしさあ、じゃあやるでしょ」
私はあっけらかんとそう言う先輩をじっと見た。なんで、と言いかけると、被せるように先輩が先を続ける。
「金がいるんだよ。あたし卒業したら家出るから」
「そうなんですね」
「やっぱり金だよ。金ってさ、力じゃん。世の中金か暴力だよ。あたしは、あんたもだけど、女だし、暴力なんて全然駄目だから、金なきゃクソだよ。舐められるもん」
力強い双眸が私を射貫く。その表面に可愛らしい色を乗せた薄い硝子が乗っていなければ、私はその目を直視できないだろう。無造作に髪を掻き上げる先輩のきらきらときらめくブレスレットごしに青黒い痣が見える。私はそれに言及したことはなかった。これからもしない。
「あんたもやる? あたし紹介するよ。あんた一年だけどメイクすりゃいけると思う。まあママ面食いだからどうなるか分かんないけど」
先輩は持ち歩いているぺしゃんこのバッグから、バッグの容積の半分はありそうなコスメポーチを取り出す。ピンク色のリップスティックを取り出すと、テーブルに身を乗り出し私の顎を手でがっちりと固定した。唇にするするとそれを塗られる。リップスティックのピーチの香りと、先輩の香水と残り香のような煙草の香りがする。先輩はスティックをぽいとポーチに戻しながら私の顔をまじまじと見た。
「あー、色付きリップは駄目だな。ガンバッテる中学生みたいで逆にガキ臭くなっちゃった」
わたしはぺたぺたする唇に指先で触れる。それから肩を落としてふっと笑った。
「無理です。話下手なんで」
「あ、そ」
私は昆虫図鑑をバッグにしまい込む。美しいカラー写真の表紙が傷付かないように、薄い紙袋に包むのを忘れない。椅子の下に押し込んでいた大きなバッグを引っ張り出すと、先輩は髪の先を指に巻きつけながら目を丸くした。
「え、何、家出?」
それを聞いて、私は首を横に振る。
「知り合いの家に泊まりに行くんです」
「平日じゃん、明日ガッコ休むの? ゆーとーせーなのに、珍しい」
「明日は直接学校まで送ってもらうんで、普通に授業出ます」
「休めばいいのに、真面目かよ」
本当は週末に遊びに行きたかったが、週末は母が仕事を休めないので祖母の様子を見ている人がいなくなってしまう。なので夏油に迷惑をかけることを承知でそういう日程になってしまった。
椅子をしまう私に先輩は「気ぃつけてね」とだけ言った。私は会釈をして図書室を後にした。
高校の敷地から少し離れたコンビニの駐車場で見覚えのある黒いSUVに駆け寄る。薄いスモークのかかった運転席のウインドウごしに夏油の姿を見つけ、私は助手席に回り込んだ。ドアを開け「こんにちは、よろしくお願いします」と挨拶する。夏油は「や、こんにちは、どうぞ乗って」と運転席を示した。
母の中古の軽の劈くようなエンジン音が馬鹿々々しくなるほど、軽自動車より質量のある車が静かに発車する。私は夏油の横顔に「本、読んでます。ありがとうございます」と投げかけた。夏油の視線が一瞬横目にこちらを見、細められる。
「君の術式はイマジネーション勝負なところがあるからね、多分その気になればもっと色々出来る」
はあ、と私は曖昧な返事をする。その気になれば、と言われてもよく分からなかった。私は自分の意に反して蟲が湧くことさえなければ、それでよかった。あとは日本史のつまらない先生の退屈な授業中に、真剣に教科書に視線を落とすふりをして机の上でテントウムシを競争させるくらいでいい。
数度の眩暈を経て、何度か尋ねた雑居ビルに到着する。私が車を降りるなり、菜々子と美々子が通用口から飛び出てきた。菜々子が後部座席から私の荷物を人質にとり、かわりに美々子が私にピンクのショッパーを押し付ける。大きさの割に軽く、ふかふかしている。
「なに、これ」
「お姉ちゃんのパジャマ買っておいたから」
これでいつでも泊まりに来れるよね、と美々子は笑った。そういうわけにも、と私は苦笑する。
「えー、なんでよ、来てよ。つーかここから学校通えばよくない?」
菜々子がそう言いながら建物の中に私のバッグを放り込む。あ、もうちょっと優しく、と思ったが、別に壊れ物は入っていないのでいいだろう。
私は二人に追い立てられるままに二人の居室に迎えられる。これ程部屋数があるというのに、広い部屋に申し訳程度の衝立を建て左右対称に使っている。仲がいいのだな、と私はそれを羨ましく微笑ましく思う。
「ねーちゃんスプラトゥーンしよ」
やたら大きい液晶に最近発売され人気を集めているらしいゲーム画面が表示される。私はバッグからノートを取りながら首を横に振った。
「ごめんね、課題あったの忘れてたの。これをやってからでもいい?」
ええー、と抗議の声を上げる菜々子を美々子が制止する。
「邪魔しちゃだめだよ、それまで私が対戦してあげる」
「げっ、美々子上手すぎるからな……それなら共闘してよ」
「菜々子下手すぎるからイヤ」
私は二人のやりとりを聞きながら、ミニテーブルに教科書とノートを広げる。菜々子が私の隣に座り、ノートを覗き込む。
「勉強とか嫌い。猿の理論を学んで猿の尺度で測られるの、マジでばかばかしくない?」
私は明日の一時限に指名されるであろう範囲の練習問題を解きながら「勉強はしといた方がいいよ」と無難な返事をする。そうだよ、と美々子がそれに乗っかった。
「猿がやってることくらい出来ないって、恥ずかしくないの?」
二人が憚りなく非術師を猿と呼ばわることに、私は最初ほどぎょっとしなくなった。それに共感したわけではない。ただ、ここではそれがあまりに当たり前で、私は少しずつ順化させられていた。
うえ、と菜々子はわざとらしく舌を出す。
「ねーちゃん聞いてよ、美々子中学受験すんだよ。やば、ガリ勉かって」
「へえ、すごいね、頑張って」
私が言うと、美々子は誇らしげに顎を上げる。私は膨れっ面の菜々子に顔を向ける。
「別の中学だと、少し寂しくなっちゃうね」
言うと、菜々子は「そんなんじゃないけど」とむっとした。菜々子が黙り込んだのをいいことに、私はさくさくと課題をこなしていく。私が最後の問題を終えシャーペンを置くと、二人はホーム画面をつけっぱなしにしていたゲームに飛びつく。
「ブキ何にする?」
すでに選択画面を操作しながら菜々子が聞いてきた。
「スプラチャージャーかな」
「ええ……使いこなせないんだからやめなよ……」
美々子が抱えたぬいぐるみの手で私の脇腹をつついた。だってかっこいいし、と私が言うと、美々子は「フォローするこっちの身にもなって」と言いながらコントローラーを取り上げる。頼もしい。
そこにノックの音がして、二人はコントローラーを投げ出してドアの方に殺到する。彼女達が何より好きで大切にしているのは、私より、ゲームより、夏油だった。
「少し出かけてくるから、何かあったら連絡して」
直綴姿の夏油が部屋を覗き込みながら言う。手に雑にまとめた袈裟を提げている。私が会釈すると、夏油は軽く微笑む。
「子守を頼むようですまないね」
子守、と言われ二人は拗ねたように夏油を見上げた。
「むしろこっちが呪術のこととか教えてあげてるし」
「油断するとすぐ蟲出しちゃうもんね」
私は恥じ入って肩を竦める。これでもどうにかなってきた方なのだが、そうは言わないほうが良さそうだった。はいはい、と夏油は二人の頭に順に手を置く。
「じゃあ彼女のことをよろしく」
よろしくされてしまった私は眉尻を下げた。三人で通用口まで夏油を送った後、菜々子と美々子とゲームを始める。お腹が空いた頃に夕食づくりをはじめた。四人分作ったが、食べ始める前に夏油が帰ってくることはなかった。残ったおかずにラップをかけていると、美々子が「映画観ようよ」と声をかけてくる。手にはレンタルビデオ店の袋を提げていた。何借りたの、と尋ねると、美々子は映画のタイトルを次々読み上げていく。私が知っているのは風の谷のナウシカだけだった。テレビで放送されているのを観たことがある。
私は皿を冷蔵庫にしまいながらいいねと答える。美々子は早速鑑賞の準備を始めるため、大きなテレビがある部屋に向かう。菜々子が私の足元の冷凍庫からさっとアイスクリームを取り出す。私は先日教えてもらったカトラリーの棚からデザートスプーンを三本取り出し、二人の後を追った。
私が室内に入る頃には、すでにレンタルブルーレイの予告編画面が流れていた。大きなソファに三人座り、映画を見進めていく。有名映画だが、こう腰を据えてきちんと観るのは初めてかもしれない。評価の高い作品だけあって面白いのだが、画面に蟲が映るたびに一時停止して「これ! これ出せる!?」「これに乗れたら格好良くない!?」と二人が大騒ぎするので全く集中できない。私はそのたびに「いや……無理だよ……」と何度も呻いた。
「王蟲くらいはいけるよ! ほぼほぼダンゴムシだもん!」
私は指先にダンゴムシを這わせる。菜々子が「それをもっと大きくして!」と両腕を広げる。私はそれを握りこみひっこめた。
「大きいダンゴムシ見たい?」
「見たくはないけど……」
じゃあやめとこ、と私が言うと、菜々子は残念そうに肩を竦める。
「でも、出来たら夏油様ちょー喜ぶと思うよ、役に立つし」
役に立つ、と私が怪訝な顔をすると、美々子が菜々子を咎めるように睨んだ。菜々子はきまり悪そうに目を逸らす。私は一時停止した画面に視線をやる。それから二人に視線を戻した。
「二人は、呪力がもっと強くなったらいいって思う?」
私が言うと、二人は揃って「どうしてそんな当たり前のことを聞くんだ」という顔をした。私はそんな二人を、どうしてか自分と違う生き物のように思った。私は細く溜息をつき、手のひらの上にダンゴムシを出し、サイズを変える。みし、ばき、と音を立てて外骨格が肥大する。おお、と二人から歓声が上がった。鋼色に光る胴体が両手のひらから零れ落ちそうなサイズになったとき、無数の足が苦し気に藻掻きはじめた。そのままぶるぶると震え、絶命する。二人から残念そうな声が聞こえた。
「子供王蟲くらいはいったね」
美々子が言うので、私は眉尻を下げて笑った。
「昆虫って、大きなサイズにはなれないらしいよ」
外骨格の限界と、解放血管系の限界がある。私が図鑑に載っていた内容を噛み砕いて説明すると、美々子は首を横に振った。
「それって猿の常識でしょ? 私たちはさ、ちがうんだよ」
菜々子はダンゴムシの死骸を指でつつく。
「呪力が足りないのかも、もっと強い呪いとか呪霊とか使ってみたら?」
「あとはイメージの問題だよ。お姉ちゃんのつまんない常識が足を引っ張ってる」
二人は映画そっちのけでダンゴムシの死骸を片手に議論を始める。私はソファに沈み込み、映画の一時停止を解除した。映画を観ていると、ちょうど終盤のあたりで美々子がそっと私に耳打ちする。
「夏油様はね、世の中のみんなを呪術師にしようとしてるんだよ」
ひみつだよ、と美々子は言った。私は映画に半ば気を取られながら「そうなんだ、すごいね」と答えた。そうなったら、私はどれだけ生きやすいであろうか。私のような思いをする人間が、どれほど減るだろうか。そうなるといいな、と私が小さく囁くと、二人は心底嬉しそうににっこりと笑った。
映画を見終え、順繰りにお風呂に入り終える。二人が用意していてくれたパジャマに着替えた。柔らかなタオル地のベージュのパジャマは着心地が良かった。美々がチョイスした二本目を観ながら、風呂上がりのぼんやりした時間を過ごす。閑静で長閑な村を殺人蜂が襲来したあたりで、私は首を傾げた。
「美々子、これって……」
「キラービー殺人蜂大襲来」
私は閉口し、じっとりと双子のよく似た顔を睨む。菜々子がいたずらっぽく笑いながら「あとはビッグバグズパニックと、極地からの怪物大カマキリの脅威、ゴキブリに襲われるやつと、巨大グモが出るやつ」とディスクをずらりと並べる。私は急激に眠気に襲われたような気がしてきた。
菜々子はもうとっくに映画鑑賞に飽きているのか、ソファに寝そべりスマホをいじっていた。そうであるのに私には「ねーちゃんは観てなきゃ駄目だよ」と映画鑑賞を強制してくる。十五分おきに私が寝ていないか、他のことに気を取られていないかを確認してきた。
「ねーちゃん、めっちゃ手きれいだよね」
C級映画だと思っていたパニックホラーが思いのほか面白くてすっかり夢中になっていた私は、不意にそう言われ「え?」と問い返す。美々子までが私の手元を覗き込み「私も思ってた。指、細くて長いよね」と言う。私は恥ずかしくなってパジャマの袖に手を隠した。何で隠すの、と二人がかりで羽交い絞めにされる。菜々子が「美々子、そのまま押さえてて!」と言うとソファから飛び起きどこかへ走り去る。戻ってきた菜々子の手にはプラスチックケースが抱えられていた。中にはネイルエナメルのカラフルなボトルが並んでいる。
「塗っていい?」
明日学校だから、とちらと思ったのだが、断るのも悪い気がした。出がけに落とせばいいだろう。私が頷くと、二人は額を突き合わせて何色を塗るか相談を始める。しばらく侃々諤々の議論があったが、二人は明るいネオングリーンとはっきりしたヴァイオレットのボトルをこちらに掲げた。
「どっちがいい」
私は二つのボトルを何度も見比べる。どちらも初心者には難易度が高いような気がした。私は散々に悩み、ヴァイオレットの方を選ぶ。
「私塗るから、ねーちゃんはちゃんと映画観ててね」
そう言われても、手元でごそごそされていては集中しようにも難しい。私は菜々子の手で自分の指が濃い紫色に染められていくのをちらちらと盗み見た。右手の小指を塗り終え、菜々子が「できた!」と満足そうに息を吐く。無精で伸ばしっぱなしにしていた長い爪が、美しく染められていた。
「やっぱり虫タイプは黄緑か紫じゃん?」
「む、虫タイプ……?」
私は照明を反射しきらきら輝く十枚の爪を見てほうと感嘆の息を吐く。
「すごくきれい……ありがと……」
何度も指先を矯めつ眇めつする私に菜々子と美々子は喜びすぎだってと苦笑した。私はネイルエナメルがよれないよう、細心の注意を払いながら映画の続きを観る。二本目を見終えると美々子がすかさず三本目を流し出した。この三本目がひどくつまらなくて、私は観ながらうとうとしてしまう。二人でスマホをいじったりおしゃべりをしていた菜々子と美々子が、私が舟を漕ぐたびにくすくす笑った。
起きなきゃ、と思う頻度がどんどん減っていき、液晶に映る映画のストーリーもどんどん切れ切れになっていく。そのうち私はソファに座ったまま眠っていた。
夜中にふと目が覚める。肌寒くはなかった。空調が効いていた。ソファとラグでそれぞれ菜々子と美々子も寝ている。ブルーレイはとっくに停止し、メニュー画面を映し続けていた。起きて、みんなで寝室に行かなくては、と私は思う。だがまたとろとろと瞼が重くなっいく。かたん、とドアの方で物音がした。しゅるしゅる、と衣擦れの音がする。あ、と私は思った。重たげに布地が擦れ合う音と、控えめな足音がソファの後ろで止まる。
「ただいま、…………みんな揃ってこんなところで寝て」
ふう、と小さなため息が聞こえた。私は体を強張らせ寝たふりを続けていた。祖母に連れられた信者のお泊り会で、私は祖母の教祖様に体を触られた。あのときもこうして、みんなでアニメ映画を見て、床に敷かれた布団で眠っていて、教祖様は暗がりの中、私の布団の枕元に立ち、布団の中に手を入れてきた。暗闇と、荒い息と、体を這い回る手の感触と、そういうものを思い出して私の心臓は低くどくどくと鳴った。夏油に聞こえてしまうかもしれないと思うほどだった。
でも触られたとしても、それはそれでよかったのかもしれない。夏油に絶望したかった。そういうものだと諦めたかった。それを理由に夏油や菜々子と美々子と上手く距離を取り、今までのように適度に己の不幸を嘆き泥の味がする日々を貪っていきたい。変わるのは怖い。周囲も、己も。
夏油は私の顔の前でひらひらと手を振る。
「せっかく菜々子と美々子が客間の用意をしてくれたのに、こんなところで寝ちゃ駄目だろ」
白檀と伽羅の穏やかな香りに包まれる。膝の下と背中に腕を回されて、私はいとも簡単に抱き上げられてしまった。正絹の直綴が頬に触れる。体温で温められた香りが直に鼻腔を擽った。私は起きていることを伝えるタイミングを完全に逃してしまい、狸寝入りを決め込んだ。
しばらくぐらぐらと揺さぶられ、柔らかなマットレスの上にそっと寝かされる。タオルケットをかけられ、前髪を払われ、額に向かって「おやすみ」と囁かれる。ドアがそっと閉められる音がした。私はその音を息をひそめ聞き、ドアに背を向けるように寝返りを打ち、声がしないように口を押えて一人で泣いた。そのうちまた眠ってしまった。
翌朝、出がけに菜々子が私の靴を隠すというハプニングがあり、ばたばたと夏油の運転する車に乗り込んだ。お待たせしてすみません、と私が急いで助手席に乗り込むと、夏油は小さく笑って「靴は見つかった?」と言った。見つかりました、と私は浅い溜息をつく。
「昨晩、ちょっと遅くなってしまったんだよ。君も、菜々子も美々子もリビングで折り重なって寝てた。覚えてる?」
私は夏油の顔を見られず、スカートを眺めて「いいえ」と小さい声で答える。夏油はハンドルの表面に手を滑らせながらそうかと目を細める。
「起こすのが申し訳なくて、私が寝室に運んでしまった。ごめんね」
謝られ、私は申し訳なさでどうしようもなくなってしまう。数回唇を開けたり閉じたりし「ごめんなさい、本当は途中から起きてました」と消え入りそうな声で呟く。夏油は「ん?」と優しい声音で言い、それからふっと破顔した。
「知ってる」
え、と夏油の顔を見上げると、夏油はハンドルから片手を離し口元を押さえた。長い指の間から隠せぬ笑声が漏れ聞こえてくる。
「ふふ、君があんまり一生懸命寝たふりをするものだから、どうにも……」
私は顔を真っ赤にして、両手で顔を覆った。
「い、いつから……」
「どうかな、ベッドに寝かせる前には気付いてたと思うけど」
ごめんなさい、と繰り返す私に夏油はちょっといじわるく笑う。
「いいよ、私こそいじわるしてごめんね。君が望むならいつでもどこにでも運んであげるから」
冗談めかした言葉に、私はのぼせた顔で力なく笑う。夏油の言うことは、冗談でも誇張でもない。夏油は私のことを、いつでもどこにでも連れ出せる。しないだけで。
車が校門から一本離れた道路の路肩で停まる。私は足元に置いていたバッグを取り、夏油に「お世話になりました」と会釈する。夏油はひらひらと手を振り、ドアを閉めかけた私に「爪、かわいいね」と言った。私はヴァイオレットのネイルエナメルを落とすのを忘れていたことに気が付いた。もう仕方がないので、なるべく隠しているしかない。ブラウスの袖を少し伸ばし「ありがとうございます」と言う。夏油は「またね」と微笑んだ。
昇降口で運動部の朝練の声を聞きながら靴を履き替えているところで副担任に挨拶される。私はあまりいい気分にはならず、淡々と挨拶を返す。副担任は私の爪の色に目敏く気が付いた。
「おい、どうしたんだその爪、校則違反だろ」
私は薄暗い昇降口では黒に近い色に見える爪を見下ろし「そうですね」と答えた。私は心の片隅で「でも他の派手な女子グループの爪の色は見逃していますよね」と思った。
「すみません、明日落としてきます」
私の言葉が反抗的に聞こえたのだろうか、副担任はむっとしたように眉を寄せる。ゆっくりと腕を組み、私を見下ろした。
「やっぱり、悪い影響を受けているんじゃないのか」
誰に、と彼は言わなかった。だが彼の言いたいことは十分に分かった。良い気分はしなかった。先輩の美しいターコイズブルーのネイルも、複雑に染め分けられた髪も、アクセサリーも、副担任が指導をしているのを私は見たことがなかった。
「ちょっと職員室に来なさい」
呼ばれ、私はのろのろと副担任の後に続く。朝の職員室は忙しそうで、生徒指導の副担任に連れてこられた私を見て何人かの先生は怪訝そうな顔をした。だがそれだけだった。副担任は自席に座り、空いた椅子に座るよう私に促した。
「どうしたんだ、おまえはそんな生徒じゃないだろう」
私は曖昧に頷く。そうだ。私はこんなではなかった。だが、副担任の思うような生徒でもない。すみません、と私はなるべく反省しているようにしおらしく言ってみる。だが一度火の付いた副担任は止まらない。
「どうするんだ、校則違反だぞ」
「一度家に帰って落としてきます」
「授業に遅れるだろう」
副担任は散らかったデスクのペン立てから、カッターと未開封の割り箸をとる。
「とりあえず、これで取れるだけ取りなさい」
この丁寧に塗られた美しい爪を見て、どうしてそんな残酷なことが言えるのだろう。菜々子と美々子が褒めてくれた爪も指も、ぼろぼろになってしまう。私は差し出されたそれをじっと見下ろした。それから副担任の顔を見る。圧倒的に正しく強い立場から弱い者の横面を張れるじっとりとした愉悦が、正論の鎧の下からうっすらとにおってきた。
私は「どうして私ばっかり、みんなやっているじゃない」などという馬鹿みたいな主張をしたいわけではない。普段は生徒の顔色を伺いへらへらと多少の校則違反を大目に見る副担任が、私のときだけは嬉々として落ち度を咎め論い必要以上の罰を下そうとする。つまり、副担任にとって私はそうしていい存在と見做されている。舐められている。そして、この世の人間の大半は副担任と同じような判断をすることを、私はうっすらと知っていた。私はふと先輩のことを思い出した。
「先生、おまえがちゃんと落とすまでここで見てるからな」
嗜虐の悦びが滴り落ち、副担任の足元に溜り凝る。私は首を傾げ、それを見下ろす。副担任の足元でそれは巨大な芋虫になり、大きく足を広げ座る副担任のズボンの裾から這い上っていく。体の割に小さなむちむちとした足で副担任の顔に留まる。顔面に巨大な芋虫を乗せて「早くしなさい」と腕を組んで私を急かす姿が滑稽だった。芋虫は身をくねらせしゅるしゅると糸を吐く。蛹となり、色が変わり、羽化する。巨大な蛾がみりみりと翅を伸ばし、副担任の顔を仮面のように覆い隠した。翅の大きな目玉模様がぎょろりと宙を睨む。
「おい、聞いているのか。早くしないと授業に遅れるぞ」
ええ、はい、と私は低く答える。蛾は厚みのある翅を羽ばたかせた。金色の鱗粉が副担任の顔の前でわっと舞い上がる。朝の光を反射して、きらきら光って、美しかった。
副担任は手を動かそうともしない私に痺れを切らし苦言を呈そうとすっと息を吸う。その途端顔を真っ赤にして喉を掻きむしった。咳をするように体を折り曲げ、だが腫れ上がった唇からは咳の一つも呼吸も出はしない。近くを通りかかった隣のクラスの担任が、副担任が苦し気に身を折り床に蹲るのを見て「先生、だいじょうぶですか」と声をかける。上げられた副担任の顔が二倍に膨れ上がり、目鼻の判別もつかないありさまであるのを目の当たりにし、彼女は職員室に似つかわしくない悲鳴を上げた。
おい、なんだ、救急車、アレルギーか、と騒然とする職員室を私は黙って後にした。思う儘に暴力を振るう恍惚と、耐え難い罪悪感が胸の内を渦巻き絡み合い捩れながら去来する。おいで、と囁くと蛾はばさばさと鳥のような羽音を立てて私の肩に留まり、ほどけるように消えた。なんにも知らない猿のくせに、と私は小さく呟く。少しだけ胸がすっとした。自分と違う生き物なのだから、思う儘傷付けたって構いやしないだろうと言い訳じみた考えが泡のように浮かんでは消える。だがそれは、本当に己自身の言葉であっただろうか。
私は家まで走って帰り、自分の部屋の鍵の付いた引き出しを開ける。ふっと優しい香りのする封筒を握りしめ、乗り慣れない電車に飛び乗る。私が知っている限り一番高級な百貨店の、一階のコスメ売り場を一心不乱に徘徊し、一番綺麗で格好いいBAのいるカウンターに駆け寄る。カウンターは高級海外ブランドのコスメラインだった。化粧気のひとつもない制服のままの私にBAは怪訝な顔ひとつしなかった。美しく微笑み「何かお探ししましょうか」と言う。
私は自分の爪を彼女に見せた。
「この色に近いものをください」
BAは白い棚に等間隔に並ぶ美しいエナメルボトルを数本取り、私の爪と色を比べてくれた。しばらくそうした後、一番色みの近いものを一本購入した。BAは絶対に必要なわけではないけど、あるとエナメルが長持ちするとベースコートとトップコートの存在も教えてくれた。私はそれも購入した。小さいが高級感のある紙袋を恭しく手渡される。私はそれを胸に抱えBAに深く頭を下げてお礼をした。
私はその日初めて、自分の意思で学校をサボった。