図書室で普段帰宅する時間まで課題をしていても先輩は現れなかった。待ち合わせをしたことはない。毎日会おうと言ったこともない。だがどうしてか寂しかった。私は文具類をバッグにまとめ人の気配のないひっそりとした階段を下りていく。遠くから運動部の声が聞こえる。吹奏楽のワンフレーズが繰り返される。昇降口で靴を履き替える。裏門から出ようと人気のない校舎裏を歩いていると、ふっと煙草のにおいがした。それにひき寄せられるようにして、私は紫煙の出処を探す。
 廃部になった運動部のプレハブ部室に寄りかかるように立ち、先輩が煙草をふかしていた。朽ちかけたプレハブは小柄で細身な先輩が寄りかかるだけで崩れ落ちそうだった。先輩は制服姿ではなかった。黒のスウェットの上下を着て、いつも綺麗に伸ばされ丹念に前髪を流している髪は乱れていた。頬と瞼が赤く腫れていた。私はその一切に触れず、プレハブの土台のコンクリートに腰かけた。膝下丈のプリーツスカートが大きく広がる。

「制服汚れるよ」

 先輩が吐き出す煙とともに言った。私は入学数か月ですでに毛羽立っているスカートを指先でいじる。

「いいですよ別に、おさがりだし」

 卒業生が不要になった制服を新入生に譲渡する制度がこの学校にはあった。数年前に変更になった制服はそれほど在庫がなかったが、なんとか揃えた苦い記憶が蘇る。私は周囲のみんなが折り目も美しい新品の制服で記念写真を撮っている中、微妙にサイズの合わない制服に色の変わったリボンをしていた。
 先輩は溜息のように笑う。

「あたしも上着買ってないんだ。あんなダッセえ服に何万も出せねえよ」

 私は肯定も否定もせずにただ笑う。先輩は煙草を華奢な指で摘まんだ。図書室でうっすらと煙草の香りを纏わせる彼女は大人びてなんでも出来るように見えたが、細い指で煙草を吸う彼女は痛々しく幼く見えた。

「あんた昨日休んだ?」
「一応登校したんですけど、体調悪くて帰っちゃいました」
「あ、じゃあアイツが救急車で運ばれたの知らない?」

 私は先輩の腫れぼったい横顔を見上げた。朱を帯びた金色の夕日が先輩の髪の毛を淡く輝かせる。

「なんかアレルギーとかでさ、顔とかパンパンでヤバかったらしいよ。イケメンだったのにね、もう取り柄ないじゃんね」

 小さくザマミロと先輩は呟いた。

「死ねばいいんだ、あんな奴」

 私は肩を竦めて首を横に振る。

「死にませんよ、死ぬほど苦しいだけ」

 先輩は指先で煙草をいじり「そっちのがヤだな」と笑った。私も笑った。先輩は吸いかけの煙草を私に差し出す。

「吸う?」

 からかうような声音だった。私は頷き、先輩の手から紙巻き煙草を取る。先輩はぎょっとし、おろおろと私を見た。私は先輩の唾液で湿った吸い口を控えめに吸った。棘のある煙が喉を焼く。私は噎せ、身を折る。昨日の副担任みたいだな、と思った。先輩は私から吸い殻をもぎ取り、地面に捨てると靴底でもみ消す。

「冗談だよ、ばかじゃん」

 目に涙をにじませ咳をする私に先輩は呆れたようにそう言った。私が苦い溜息をつきながら朱から紺青に変わりつつある空を見上げると、先輩は私を見下ろし鼻を鳴らす。

「早く大人になりたい。子供ってほんとみじめ」

 先輩は誰に言うでもなくそう吐き捨てた。

「あたしさ、あんたに声かけたの、あたしよりみじめな奴を見つけて嬉しかったからだよ」

 私は美しいばかりの空を見ていた目をゆるゆると先輩の方に向けた。先輩の充血した目が睨むように細められていた。

「でしょうね」

 そういうのは、分かるものだ。露見していないと思うのは本人ばかりだ。先輩は苦々し気に眉を寄せ、地面の吸い殻を未練がましく爪先で転がす。

「サイテー?」
「さあ。でも、見積もりが甘かったんじゃないですか」
「そうかも」

 先輩は額にかかる髪を掻き上げた。それからふっと笑う。先輩はスウェットのパンツからライターを取り、二本目の煙草に火をつける。私はそれをぼんやりと眺めていた。

「あたし、卒業したら死ぬほど金稼いでめちゃくちゃ綺麗な部屋住むよ。そしたら遊びに来てよ」

 先輩は不意にそう言った。私は「絶対に行きます」と答えた。
 足元から夜が忍び寄り、周囲は青く薄暗くなっていく。色を失う風景の中で、先輩の煙草の火だけが小さく明々としていた。私はそろそろ帰らねばとゆっくり立ち上がる。先輩は横目にこちらを見て、自身の手の甲をこちらに向ける。煙草を咥えたままの不鮮明な発音で「ネイル、似合ってるよ」と言った。



 小走りに帰宅した私は自宅のドアノブに鍵を差し入れる。今日は母が仕事で留守にしている。家には祖母が一人だ。いつもよりかなり遅くなってしまった。がちゃん、と大袈裟な金属音ががらんとした外廊下に響く。ドアを開けると、母の底のすり減ったスニーカーが三和土に揃えられている。返事のない室内に向かってただいまと呟くはずであった私の唇は「あ」の形で何も言えなくなる。

「こんな時間まで何してたの?」

 電気もつけない室内で、ダイニングテーブルに座っていた母が低い声でそう言った。私は壁を伝うように室内に入り、電気をつける。ぱ、ぱ、と切れかけた蛍光灯が不安定にまたたく。

「……友達と話してた」
「おばあちゃんを一人にして?」

 私はどうして今日に限って母の勤務予定が変わったのだろうと訝しむ。どう言い訳しようかと考え、どうしようもないので正直にそう答えた。母は語尾を怒りに震わせながら言う。

「おばあちゃん、具合が良くないのわかってるでしょ? どうして一緒にいてあげられないの? おばあちゃんには、家族しかいないのよ? 家族は助け合わないとならないのよ、そうでしょう?」

 私は溜息をつきたい気持ちをこらえ、壁際で人形のように頷き続ける。分かってる。全部分かっている。全部分かっているうえで、全部厭になった。ずっと厭だった。私は口を開け、何かを言おうとし、諦めて口を閉じる。ごめんなさい、と吐息のように溢す。

「昨日学校休んだんだって?」

 母は険しい顔でそう言った。担任から連絡があったのだろうか。私が「具合悪くて」と消え入りそうな声で言い訳すると、母は高級ブランドの小さな紙袋をダイニングテーブルの上に音をたてて叩きつけた。中でエナメルボトルがごとごとと重い音を立てる。美しいボトルの姿を思い出し、乱暴に扱われる紙袋に胸が痛んだ。

「こんなの……どうしたの!? お金は!?」

 母は椅子を蹴立てて立ち上がり、私の方に詰め寄ってくる。私の肩に手をやり何かを言おうとし、すんと鼻を鳴らす。唖然としたように私を見つめ「あんた煙草吸ってんの!?」と金切り声を上げる。瞼に血管の這う双眸に涙を浮かべ、母は私の肩をぐらぐらと揺さぶる。

「あんたいったいどうしちゃったの! こんな子じゃないでしょう!」

 私は気色ばむ母の顔の向こうの、日に焼け黄ばんだクロスを眺めていた。美しく輝く玉虫が壁をゆっくりと上っていた。蛍光灯の光を反射して複雑にきらめく。ちがう。私は、ずっとこうだった。生まれたときから。誰もそう扱おうとしなかっただけだ。
 母が引き攣るように息を吸ったところで、玄関のチャイムが鳴った。インターホンなどという気の利いたもののない我が家であるので、母はいくつも言いたいことのあるような顔をし、かさかさの唇を噛みしめて玄関に向かう。はい、とドアを開けた母は、玄関先に立つ男の姿を見て幽霊でも見たかのようにわなないた。
 そこに立っているのはなんでもない四十過ぎの男に見えた。灰色のスーツを着ていて、上着と近所のパティスリーの袋を手に提げている。男は私に懐かし気な優しい視線を向け「大きくなったね」とぎこちなく笑って見せた。

「な、なんで……なんで今頃……」

 母が呆然と呻く。

「少し話がしたくて来たんだ、入るよ」

 母はぎゅっと眉根を寄せて私に向かって「部屋に行っていなさい」と言った。すかさず男が「ここにいなさい、おまえにも関係があるから」と言う。私はそのやりとりを聞いて、なんとなくその男が父なのだろうなと察しをつけた。両親が離婚をしたのは私が小学二年か三年のときのことで、私は両親の離婚がひどく嫌であったことは覚えていたが、父の姿も声も朧だった。それ以来父には会っていない。写真は残っていたと思うが、好んで見返そうとは思わなかった。
 おとうさん? と私が言うと、父はほっとしたように微笑んだ。母は声を荒げ「向こうに行ってなさい!」と私に向かって口角泡を飛ばす。父はうんざりしたように母に視線をやりながら、三和土で靴を脱ぐと部屋に上がり込んできた。ダイニングテーブルでパティスリーの袋から紙箱を取り出す。色とりどりのケーキが蛍光灯の安っぽい光に照らされた。
 父は私に向かって「おまえはいちごのケーキが好きだったよな」とショートケーキを取るよう促す。そうだっただろうか、と私は思ったが、諾々とそれを受け取る。母が荒っぽい動作で取り皿とフォークを用意した。どれも柄も大きさもまちまちで、父に出されたフォークは塗装のはげた子供向けの先の丸いものだった。父はそれを「お、懐かしいなあ」などと言って喜んで使う。私はそれをどこか白々とした気持ちで見ていた。
 父は私の通う高校の名前を挙げ、あそこに合格するなんて優秀だなあなどと箸にも棒にもかからぬ世辞を言う。私は曖昧に返事をした。父はいくつか近況を尋ね、それからわざとらしく声をひそめた。

「まだ、変なものが見えることはあるのか?」

 私はぼんやりと父の顔を眺める。父が家を出ていったのは私のせいだった。私が蟲に脅え泣き暴れ、祖母は宗教にのめり込み、母もそれに倣った。父はそれを止められず、やがて愛想を尽かし離婚した。
 
「変なこと言わないで!」

 母が割って入ってくる。父は母の方に顔を向けると「また宗教にハマっているんだってな。おまえは好きにすればいいが、この子に必要なのは怪しい壺でも数珠でもなく医者の助けだ」と言った。母は「盤星教は本物よ! この子はね、教祖様と同じ力があるのよ!」と叫んだ。父は溜息混じりに首を横に振る。

「まだそんなことを言ってるのか」
「病院ならこの子が小さな頃に何度も連れて行ったわよ! あんたは知らないわよね! 家のことは私に任せっぱなしだったものね!」
「今は医療も進歩しているんだ。いい薬もある」
「この子を病気扱いしないで!」
「病気じゃないならなんだ! ええ? 狐憑きか? それとも悪魔か? いい加減にしろ!」

 父はダイニングテーブルを手のひらで叩く。大きな音がして、私はびくりと肩を震わせた。その途端、古い記憶が雪崩のように思い起こされる。毎晩のように聞こえる、襖の向こうで両親が言い争う声。祖母の念仏。母の金切り声と、父の呆れ声。物を叩く音、何かが落ちて割れる音。私は足の踏み場もないほど蟲の湧いた部屋で、布団にくるまりそれを聞いていた。

「この子は連れて行く。俺の娘でもあるんだ」

 父ははっきりとそう言った。私はそれをどこか夢見心地で聞いていた。毅然とした父と、ぼんやりとする私と、母だけがいきり立ち顔を真っ赤にしていた。

「娘も母親も捨てた男が何を偉そうに!」
「それは今関係ないだろう。少しでもいい環境を子供に与えたいと思うのが親じゃないのか、この子に母さんの介護までさせて、おまえは親失格だ」
「家族に向き合う気もないくせに!」
「おまえの言う家族に向き合うというのは、新興宗教に金を積むことなのか」

 私はふらふらと席を立つと、自分の部屋に向かう。父が私に向かって「父さんと暮らそう、いい病院にかかればきっとよくなるから」と言う。母が父に食ってかかった。

「今頃何よ! どこから聞きつけてきたの!?」
「聞かれると困るのか? 俺が誰から何を聞いていようが娘を心配するのは当たり前だろう!」

 掴み合いの喧嘩になりそうな剣幕の二人に背を向けたまま、私は自室の引き戸を後ろ手に閉めた。父の言うことは正しい。父の言うことはいつも正しかった。だが父の正しさの矛先は父自身に向けられることはなかった。明晰で鋭い正しさの刃は、いつも他者にだけ向けられていた。そうだ、思い出した。私はそんな父が、嫌いだった。正しさの刃を握る手を少しでも緩めてくれていたら、或いはその刃を己自身にちらとでも向けていてくれたら、我が家はここまで最悪にならなかったのではないだろうか。
 私は照明もつけないまま自室の窓辺に座る。冷たい窓硝子に頭を預けた。息苦しい気がして窓を細く開けた。ひんやりとした風が吹き込んでくる。白い月がぽかりと空に浮かんでいる。吐く息からふわふわと雪虫が立ち上った。月の光を受けて淡く光る。制服のポケットからスマホを取り出す。高校入学を機に買い与えられたそれには、母のスマホと母の職場の電話番号しか登録されていなかった。今は、夏油と、菜々子と美々子と、それと数度顔を合わせた夏油の仲間たちの連絡先が登録されている。素っ気ない透明ケースには、菜々子と美々子が勝手にステッカーを貼っていた。
 私はステッカーの縁を数度指でなぞった。心地よい凹凸が指先を刺激する。美しく染められた爪を見て、私は連絡先の夏油傑の文字をタップした。何度かメッセージを送ったことはある。だが通話をしたことはなかった。出てくれるだろうか、と私は思う。夏油は忙しくしていた。もしかすると今この瞬間もどこかの信者たちの前に立っているかもしれない。だが私はなんとなく、出てくれるだろうという確信があった。思惑にたがわず、それほど待たずして「はい」と夏油が電話に出た。優しく名前を呼ばれる。私は細く開けていた窓を閉めた。

「こんばんは、夏油さん。急にごめんなさい」
「いいよ、どうしたの」

 私は窓に反射する自分の顔を見、目を逸らす。引き戸の向こうで二人が言い争う声がした。祖母が念仏を唱える声が聞こえるような気がしてきた。

「夏油さん……私、もう夏油さんに会えなくなってしまうかもしれません」

 私が小さな声で囁くと、電話の向こうからは沈黙だけが返ってきた。私はスマホを震える両手で握りながら、ごめんなさいと呟く。誰に、何をかは、自分でもよく分からなかった。

「そうか……残念だね。寂しくなる。菜々子と美々子はきっと泣いてしまうだろうね」

 私はどういう返答を期待していただろうか。夏油の言葉に私は少しだけ落胆した。はい、と私は掠れ声で囁く。電話口でかさかさと不思議なノイズが鳴る。なんだろうかと思い、私はそれが法衣の衣擦れをマイクが拾っていることに気が付く。その途端、脳が勝手に件の香りを感じる。蕩けるように優しく、穏やかな、品のある香りだ。私は抱えた膝に強く額を押し付ける。

「父が、私を病院に連れて行くって……もう、夏油さんには会わせてもらえないと思います……だから――」

 私の言葉を、夏油は優しく遮った。

「それは猿共の事情だろう。君は、どうしたい?」

 そう言われ、私は自分の心臓が低く強く鳴るのを聞いた。こめかみのあたりまでどくどくと音がした。私はしばらく黙り込んだ。壁の向こうの二人の言い争う声はいよいよ激しくなっていた。どうしたいかなんて、そんなの、夏油に電話を掛けた時点で決まっていた。

「夏油さん、私、夏油さんたちといっしょにいたいです」
「うん」
「病院には行きたくない。私は病気じゃない」
「うん」

 強く何かを叩きつける音と、母の金切り声が夏油の声をかき消す。けたたましい足音が二つ、押し合いへし合い絡み合い廊下の壁にぶつかりながら私の部屋の前まで近付いてきた。乱暴に引き戸が開けられる。シャツをくしゃくしゃにされた父が額に青筋を立てて私の部屋の前に立ちはだかった。その背後で母が喚きながら背中に縋りついている。

「荷物を纏めなさい、お父さんの家に行くぞ」
「やめて! 帰って! 帰ってよ! 今さら家族ヅラしないで!」

 私はそのやりとりが夏油に聞こえているであろうことが心底恥ずかしい。電話口で我が家は本当はここ数年もっと穏やかだったと言い訳したくなる。私はのろのろと立ち上がる。それを見た父は母に向かって勝ち誇ったような顔をした。
 私はゆるく握った右手を耳のあたりまでするりと上げる。

「角短」

 そっと名を呼ぶと、手の甲に蜂が留まる。今まで見たことがない姿をしていた。体は大きく、腹の縞模様は鮮やかで、尾の先の針から毒液が滴る。角短はカチカチと顎を鳴らすと激しい羽音とともにまっすぐ父に向かって飛んで行った。目にも止まらぬ速さで父の顔に留まり、頬に尻の針を突き刺す。刺し跡はみるみる腫れ上がる。父は顔を押さえ悲鳴を上げた。大きく開けられた口腔を角短は容赦なく毒針で刺し貫いた。父は声も上げられずに床に倒れこむと、ぶるぶると痙攣した。曲げられないほど腫れた指が虚しく床を掻く。息が出来ないせいか、腫れのせいか、顔は真っ赤になっている。母は目を白黒させ、床にへたり込むと這いずりながら後ずさる。
 父の体はスーツが内側から弾けそうなほど腫れ上がった。身動きも取れず、父は床に転がる。刺し跡から肉が腐り血が染み出しぐずぐずと柔らかくなっていく。電話の向こうから夏油の声がした。

「人を向かわせようか?」

 私は泣き笑いのような顔をしながら首を横に振る。

「平気です」

 床に山になった肉の泡のようになった父親の向こうで、祖母の部屋の襖戸が内側から弾け飛び廊下の壁に叩きつけられた。暗い部屋から蜚蠊の大群がまるで一つの巨大な黒い生き物のように押し寄せ、父の死体に集る。ごうごうと風を感じるような勢いだった。腹のいっぱいになった蟲からぞろぞろと私のブラウスの袖の中に消えていく。全ての蟲が収まる頃には、床には糸くずのようなスーツの布切れしか残っていなかった。私は布切れに染みたわずかな血液を懸命に舐めとる最後の一匹に「戻っておいで」と声をかける。そいつは少し名残惜しそうにしながら従順に戻ってきた。
 母は全身の力が抜けたように床に座り込み「なに、なんなの、どうして」と意味のない言葉を連ねていた。

「夏油さん」

 私は静かな通話口に語り掛ける。ん? と柔らかく先を促される。

「私、小さい頃、いちごのケーキが好きだったんです」

 そうなんだ、と笑み混じりの声が帰ってくる。

「美々子が好きな喫茶店にいちごのムースがあって、私も食べたけど結構美味しかったよ。紅茶にあうんだ。今度連れて行ってあげる」
「やった、ありがとうございます」
「それじゃあ、また。おやすみ」
「はい、おやすみなさい」

 私は通話を終えたスマホを窓辺に放り投げた。父が転がっていたあたりの床板を踏み越え、母の脇を通って風呂場に向かう。割れて横たわる襖戸を飛び越えた。通りがかったダイニングで色とりどりのケーキがすっかり食いつくされていることに気が付く。蟲たちはついでにデザートまで堪能したらしい。私は溜息をついた。
 シャワーを浴び、髪を乾かし、歯を磨き、部屋に戻る。祖母の部屋から祖母が男の名前を呼び啜り泣いているのが聞こえた。多分父の名前であるのだと思う。廊下を塞ぐ襖戸をどうにかしようかと思ったが、襖紙はびりびりに破れ、桟は木っ端微塵に折れ、もはや立てかけることも難しそうだった。祖母は「孫を助けてください、孫を助けてください」と一心に呟いていた。私はやりきれなくなり、襖を無視して部屋に戻る。部屋の前ではまだ母が呆けていた。その横を通ると、母は肩を震わせ、私と何もなくなった床を何度も繰り返し見た。

「少し早いけど寝るね」

 返事はなかった。

「帰るの遅くなってごめん」

 私はそう言って部屋の戸を閉めた。冷たい布団に潜り込み、膝を抱える。どこかで蟲がかさかさと這い回る音が聞こえた。