疲れ果て眠りこけ、だが夜中にふと目が覚めるとどうしようもなく目が冴え、怖くなり、私は布団の中でまんじりともせず真っ暗の見慣れた天井が徐々に薄明るくなるのを見つめていた。と、と、と、と、と早く浅い心臓の音がアナログ時計の秒針の音と重なり合ってずっと耳に障っていた。
 人が死んだ。私がやった。父親を殺した。私は冷えた指をゆっくりと握ったり開いたりした。実感らしい実感はなかった。私は稚気にあふれた駄々をこね、地団駄を踏むのと変わらぬ気軽さで手首をひらめかせた。癇癪に似た殺意はいとも容易く実行された。これが呪い、と私はぼんやりと思った。
 罪悪感らしい罪悪感を、私は感じることが出来なかった。それが私は、何より恐ろしかった。何年も会っていない、顔も声も朧な、嫌いだった父親の命を奪うことに、人はどの程度の心の傷を受けるべきなのだろうか。あまりに簡単なそれは、命の重さに対して呆気なさ過ぎた。蟲に蹂躙される人間一人がひどく矮小に思えた。悲鳴も、怒声も、血も、死体も存在しない死は、輪郭を持たずふわふわとしていた。昨日のことは全て夢だったような気もした。薄暗闇で手だけを布団の外に出し、枕元のスマホを手にする。点灯する液晶の青い光が目を焼く。母の連絡先ばかりが並ぶ発信履歴の一番上に夏油の連絡先が表示されていた。だから多分夢ではなかった。
 やがて窓の外は白く明るくなっていき、室内の暗闇は部屋の四隅に追いやられていく。まだ起きるには早い時間だったが、私はごそごそと布団を抜け出した。しばらく布団の上でぼうっとし、髪を手櫛で梳く。立ち上がったところで、引き戸の向こうから名前を呼ばれた。母の声だった。

「起きてる?」

 控えめに声をかけられる。私はしばらく身動きもできずに立ち尽くしたあと「うん」と答えた。母は引き戸を開ける。昨晩と同じ服のまま、母は父が倒れていた床の上に立っていた。寝ていないのだろうか。もしかすると、一晩中そこにいたのかもしれない。
 母の顔色は蒼白だった。今際の父の方が健康的だった。母は私の姿を見るなり駆け寄り、私を抱きしめた。温かい手が凍り付くように冷たかった。寝間着代わりの中学時代の運動着越しにさえ、五指の形が分かるほどだった。母は私を抱きしめながら引き攣るように啜り泣いた。

「ごめんね、ごめん……私のせいね、私のためにやったのね、あなたは優しい子だものね、ごめんね」

 母はそう言う。そうかもしれなかった。だが違うかもしれなかった。私は、己を守り我を通す方法を知ってしまった。圧倒的に強い立場から暴力を振るう快楽も。私には、父に黒山のようにたかった蟲しか見えていなかった。母はいったい何を見ていただろうか。
 母の腕の力が強くなる。押し潰されそうだった。

「昨日のことは誰にも言わないから……誰にも、絶対に……」

 うん、と私は呟く。言ったところで、誰も信じてくれない。それを私は誰よりもよく知っていた。

「秘密にしましょう、しかたがなかったんだから、しかたがなかったんだって……」

 私は母の痩せた背中に手を回す。母の嗚咽がいっそう激しくなった。

「もうしないで、絶対にしないで、二度と……あなたの力は、教祖様みたいに誰かを救うためにあるの……お願い、約束して、教祖様にみたいになるって」

 私は細く溜息をつく。母の背に回した腕にきゅっと力を入れた。

「もうしない、約束する。……ごめんなさい」

 母は痙攣のように息を吸った。起き抜けの縺れた髪を何度も梳かれる。心地よかった。私はとろとろと目を閉じる。よかった、よかった、と母は何度も呟いた。私は母が泣き止むまでずっとそうしていた。
 母の手がすっと離れていったとき、私は名残惜しく感じた。母は腫れた目の縁を指先で拭い、無理のある笑みを顔に浮かべて「あさごはんにしよっか」と言った。私は小さく首肯した。もう登校の時間が迫っていた。
 母が台所でお湯を沸かし、非日常から目を逸らすように日常に没頭する間、私は顔を洗い、髪を整え、制服に着替えた。制服姿で台所に現れた私に、母はぎょっとしたように視線を移ろわせる。

「……学校、行くの?」

 私はいまだに上手く結べないリボンの左右非対称な端を指先でいじりながら「うん」と答えた。母はなんでもないように「そう」と答えながら、私を何か別の生き物を見るような目で見た。そのとき、玄関のチャイムが鳴る。こんな時間に誰だろう、と私は思う。こんな時間でなくとも、我が家に訪問する人間などいなかった。コンロの前に立っていた母は「誰かしら」と言った。だが、いっこうに玄関に向かう気配がない。「私、出ようか?」と言うと、母は被せるように「いいから、私が出るから」と言う。だが立ち尽くしたまま玄関先に向かおうとしない。
 もう一度、チャイムが鳴らされた。

「お母さん、鳴ってるよ」
「うん、今出るから……」

 また、チャイムが鳴る。

「私出るよ」
「お母さんが出るから」

 チャイムが鳴る。

「お母さん、大丈夫?」
「今日は学校お休みしなさい」

 チャイムが鳴る。

「だめだよ、今日数学の小テストがあるから。ねえ、お母さん、私出るね」
「いいの、休みましょう。お母さんと美味しいものでも食べに行こう」

 がちゃん、と錠が開く音がした。私ははっとして顔を上げる。母も目が覚めたようにばたばたと廊下に向かった。玄関から男が三人入ってくる。どれも知らない顔だった。土間の端に、何度も家に来た信者の中年女に庇われるように祖母が立っていた。祖母は泣きはらした赤い目を私に向けた。母は「いったいなんですか、警察を呼びますよ!」と震える声で叫ぶ。

「こっちは呼ばれて来たのにその言いぐさはないだろう!」

 男は低い声で母を恫喝した。私は咄嗟に一歩前に出、母は私を庇うように私の前に立った。祖母が壁伝いによろよろと私の方に這ってきた。祖母は縋るように私の手を握る。私は枯れ枝のような指を握り返した。

「おばあちゃん、和上様にお願いしたからね、おばあちゃんがなんとかしてあげるからね、もう怖いことはないからね。おばあちゃんがたくさんお願いしたから、大黒様が直接会ってくださるって。よかったね、よかった……もう怖いことはないんだよ……」

 襖戸のない祖母の部屋の日に焼けた畳に、電話の子機が死骸のように転がっていた。ああ、と私は思う。昨晩「孫を助けてください」と唱えていたのは、宙に向かって放たれた言葉ではなかったのだろう。大黒様は、祖母の教祖様だ。

「帰ってください! あなたたちには関係ないでしょう!」

 男たちを押しのけようとする母を、男の一人が取り押さえる。「大黒様がお見えになっているんだぞ!」と顔を真っ赤にして怒鳴った。私は祖母の震える背中を撫でた。祖母は祖母なりに私を愛してくれた。その方法が合っているか間違っているかなど、誰にも分からない。私も、私が正しいのか分からなかった。だが、私は、自分で何かを解決する力を持たないことはみじめだと悟った。

「おばあちゃん、ごめんね、ありがとう」

 私が言うと、祖母は何度も頷いた。皺の間に埋もれた目から溢れるように涙が零れる。母が男に引きずられていく。母は「やめて! やめなさい!」と叫ぶ。それは男たちに向けられたものではなかった。私に向けられていた。
 男は私の肩に手をかける。半ば引きずられるようにしながら連れ出される。残された祖母は胸の前で合掌し、一心に真言を唱えていた。



 車で連れられたのは教室ほどの広さの部屋だった。もとは何の建物であっただろうか。床は板張りで、葬儀場のような金の飾りがあちこちに設えてある。幼い頃、祖母に連れられてきたときは、その広さと荘厳な飾りに圧倒された。だが今は、飾りに不釣り合いな古びたつくりのアルミサッシであるとか、曇った蛍光灯カバーであるとか、そういうものばかりが気になった。
 部屋には信者たちが鮨詰めになり、祖母のと同じ真言を唱えていた。異様な熱気と人いきれと太鼓の音が室内に満ちていた。母は何度か殴られたのか顔を腫らしてぐったりしていた。母は部屋の隅に打ち捨てられ、私は縄で縛り上げられた。妙なにおいのする水をかけられる。多分、お酒だった。

「この娘の魂は畜生道にあるぞ」

 壇上でふんぞり返る初老の男がそう言った。その言葉に信者たちは息を呑み、震えあがる。男は黒衣に袈裟を纏っていた。似合っていない、と私は思う。誰と比べたかは明らかだった。

「この娘は元は敬虔な信者であったが、弱さゆえに魔の囁きに魅入られ魂が堕ちてしまった。だが肉親の一心な祈りが通じた、必ず救われるぞ」

 すくわれるぞ、すくわれるぞ、と周囲の男たちが口をそろえて復唱する。信者たちが異様にぎらついた目を向けてくる。さざなみのような真言を、私はぼんやりと聞いていた。ここでしばらく見世物になり、ここにいる者たちを満足させ、それで帰れるならそれでいいと思った。あとは何もないふりをして、今までのように生きていく。母と暮らし、時折夏油に会いに行く。それで十分だろう。母がそれを望むなら、それでいいだろう。私は自分にそう言い聞かせる。
 太鼓の音が激しくなり、真言が圧を増す。私はそれを目を閉じてやりすごした。もう数学の小テストが始まる時間だった。場の興奮が最高潮に達した頃、若い女が男に警策を手渡す。硬い樫の木で出来ている。私は幼い頃、それで「矯正」される人間を一度だけ見た。
 男はまるで何か強大な化物と戦うように厳めしい顔をして、その木の棒を私の背中に振り下ろした。肉を打ち骨を軋ませる衝撃と痛みに私は悲鳴を上げ逃げようと藻掻くが、縄が体に食い込むだけだった。母が叫びこちらに這いずってくる。それを若い男が殴り倒した。母が板の床に頭を打ち付けるゴトンという音が、真言の中で妙に鮮明に聞こえた。
 体を丸める私の背中に二度、三度、と警策が振り下ろされる。そのたびに息が出来なくなり、背中は熱を持っていく。やめて、殴らないで、何も悪くない、と叫ぶ母がまた殴られた。部屋の隅で顔を食い破られた男が継ぎ接ぎだらけの顔で私をにやにやと見ていた。私はもううんざりだと思った。冷たい怒りが腹の底で渦巻く。歯止めが効いていない自覚はうっすらとあった。もはや私は蔑まれ侮られることに我慢がならなくなっていた。
 私は血の味がする口で小さく呟く。

「足高」

 鴉が翼を広げたような巨大な姿だった。黒い翅が空を乱し、鋭い顎が音を立てる。足高は男の顔に取り付き、鋭い顎で男の肉を毟り団子にすると床に捨てた。悲鳴と血が飛び散る。男は手足をばたつかせたが、足高は構わず男の肉を毟っては丸め捨てていった。
 室内は一瞬静まり返り、誰かが悲鳴を上げたのを皮切りに恐慌に陥る。狭い出入り口に人が殺到した。それを幹部たちが席に戻るように押し戻す。誰かが私を引きずり起こし、殴ろうとする。母が足を縺れさせながら私を庇うように抱きしめた。誰かが母の背を蹴り、髪を引っ張る。私は床に転がされ、母の呻き声が降ってくるのを聞きながら藻掻いた。

「お母さんどいて! 死んじゃうよ!」

 警策が母の背中に何度も振り下ろされる。教祖の男は相変わらず肉を毟られていた。もうほとんど人の形をしていなかった。血の滴る肉団子が傍らに山になっていた。母に男たちが寄って集って取り付き、私から引き剥がそうとする。私も母の体を押し返そうと縛られた体を捩った。

「ねえお母さん! みんな殺せるから! 私みんな殺せるよ! どいてよ! ねえ! お母さん!」

 母はいっそう私を強く抱きしめた。どうして分かってくれない。屈強な大男も、私は鼻をかむより簡単に殺せる。力がある。母がそう産んだ。そう産んだんだろう。どうして止める。ただ平穏でありたいだけなのに。私が守りたいのは私の尊厳だけなのに。病気だと言われるのも、霊感少女と謗られるのも、殴られるのも、母が殴られるのを見るのも厭だった。馬鹿にされ軽く見られみじめな扱いを受けるのはたくさんだった。それだけだ。それだけなのに、どうして母が止めるのだろう。母が私を認めてくれないなら、私はどうすればいいのだろう。
 抑えられない私の怒りと屈辱と恐怖と絶望と寂しさと悲しさと遣る瀬無さは母に向いた。

「はなせよ! みんな殺してやる!」

 母は腫れてどす黒くなった顔で私を見、悲しそうな顔をした。何かを言いかけ開けられた母の血だらけの口の中から、八つの目が私を見ていた。あ、と私は小さく溢す。母の顔の皮膚が内側から押し上げられ、食い破られ、破裂する。母の皮を食い破り手のひらほどの蜘蛛が無数に産まれ落ちた。蟲は文字通り蜘蛛の子を散らすように床を這い、男たちの、幹部たちの、逃げ遅れた信者たちの喉笛を食い千切っていく。男も女も老人も子供も薙がれる草のように死んでいく。私はそれを呆然と眺めていた。今更どんな感慨も湧かなかった。太鼓の音と真言で満ちていた室内は悲鳴すら聞こえなくなる。蜘蛛の子が死体の体液を啜る音だけがした。
 やがて蜘蛛の子は寄り集まり身をくねらせ四対の脚を絡ませ合い一塊になる。見上げるほど大きな体に灰色の短い毛がみっしりと生えている。黒真珠のように美しい目が八つ、私をじっと見ていた。大蜘蛛は私の体を戒める縄を噛み切り、崩れるように消えていく。
 開け放たれたままの出入り口に夏油が立っている。いつからそこにいただろうか。私はのろのろとそちらに顔を向け「夏油さん」と呟く。夏油は何も言わなかった。血だまりと肉塊を踏み分け、私の前に立つ。蜘蛛のことも、室内の惨状も、大して気にかけていないようだった。夏油は何も言わず、長躯を屈ませ私をやわく抱きしめる。殴られた背中が鈍く痛んだ。肩で法衣の袖が滑る。重たい沈香の香りが肺に深く沈んでいく。私は夏油の首筋に頬を寄せた。
 私はその時、美々子が言っていた「世の中のみんなを呪術師にしようとしているんだよ」という言葉の意味を唐突に理解する。

「夏油さん、ごめんなさい。私間違ってました」

 私は溜息交じりにそう言った。夏油は目を細め、痛々し気に私の体のあちこちに出来た痣を指でなぞる。

「猿はみんな殺さないと」

 噛みしめるように囁く。私の頬の痣に触れていた夏油の指がぴたりと止まった。頬の産毛をなぞるように、夏油の手がさっきと違う触れ方をした。

「何も知らなくて、何も出来なくて、可哀想だもの」

 私が言うと、夏油は穏やかに笑った。

「君は優しいね」

 母は弱い人だった。だがその存在は私を此岸に強く繋ぎ止めていた。そして彼岸へ突き飛ばしたのも母だった。夏油は私から少し離れると、大きな手を差し出した。

「私と来るかい?」

 私はその手を取る。迷いはなかった。迷う理由も、失ってしまった。


******


 数日ぶりに帰った我が家のドアは鍵が開いたままだった。私はドアノブを握ったまま背後に立つ夏油を振り返り苦笑する。

「不用心ですね」

 そうだね、と夏油も笑った。金属製の重いドアを押し開ける。籠もった空気が流れてくる。数日空けただけの我が家のにおいが、他人の家のように感じられた。
 スーツ姿の夏油が窮屈そうにネクタイと襟の間に指を入れる。私はそれを見て「ごめんなさい、すぐ済ませます」と言った。夏油は慌ててネクタイから手を離し「いいよ、ゆっくりやりな」と私の背を押した。

「ただいま」

 つい癖でそう呟く。廊下は私が連れ出されたときのままだった。壊れ踏み抜かれた襖戸が横たわり、引き抜かれた母の髪の毛とヘアピンが床に散らばっていた。台所は換気扇が回りっぱなしで、ダイニングテーブルの上で手のつけられていない朝食が乾燥している。祖母の部屋からつけっぱなしのテレビの音が聞こえてきた。
 私はまずダイニングテーブルの上に投げ出されたハイブランドコスメの小さなショッパーを取り、バッグに大切にしまいこんだ。それから自分の部屋から必要なものを探す。それほど多くはなかった。下着と、着替えがいくつか。着替えも気に入っているものだけを数枚選んだ。この数日で菜々子と美々子が雑居ビルの一室に私の部屋を仕立て上げ、クローゼットの中もどんどん埋められていた。古い服を入れる余地はそれほどなさそうだ。
 投げ出されたスマホを拾い上げ、ポケットに滑り込ませる。私は自分にそれほど大切なものがないことに愕然とした。

「もういい?」

 夏油が言う。私は俯き、頷いた。用意したバッグの半分にも満たない荷物が少し恥ずかしかった。
 私はバッグを玄関先に置き、祖母の部屋に足を踏み入れる。数日換気をしていないだけで饐えたようなにおいがした。ベッドのサイドテーブルに食べかけの菓子パンの袋が口を綺麗に折り込んで放置されている。祖母は顔をこちらに向けもせず、じっとテレビを観ていた。
 午後の報道番組は世俗的で猥雑で、夕方の報道番組でさっと流れただけの宗教団体による集団自殺のニュースを面白おかしくセンセーショナルに煽っていた。信者達の死因は農薬系の毒物による中毒死ということだった。そういうことになったらしい。その手の番組は夏油が見せてくれなかったので、今まで知らなかった。夏油の手がリモコンを取り上げ、テレビを消す。

「私がやってもいいんだよ」

 夏油の言葉に、私は「ありがとうございます、でも大丈夫です」と囁くように答えた。私は祖母の枕元に膝をつく。祖母は曖昧とした目を私にゆっくり向けた。数日見ないうちにめっきり老け込んだように見えた。祖母は枯れ枝のような腕を重そうに持ち上げ、私の頭を撫でる。

「元気になったねえ、よかったねえ」

 私は微笑み、「うん」と小さく呟く。私の手のひらの上で白い芋虫が糸を吐き繭になり羽化する。柔らかな純白の毛の生えた丸っこい体に、不釣り合いな小さな白い翅のついた蛾だ。飛べもせず、私の手の上でよたよたと歩き回った。私は蟲を祖母の顔の近くまで運んでやる。蟲は祖母の顔に時間を掛けて乗り移り、飛べない翅をふるふると震わせた。銀色の鱗粉が粉雪のように舞った。それを吸い込んだ祖母は穏やかに微笑み、そのまま事切れる。私の頭から祖母の手が滑り落ちていった。私はベッドの外にだらりと下がった祖母の腕を布団の中にそっと戻した。

「これで済んだね」

 夏油が言う。私は狭苦しい公営住宅の天井に頭がつきそうな夏油の長身を見上げた。夏油は微笑み、私の頭に手を置く。私は目を細めてそれを受け入れた。
 私は玄関先のバッグを取り、外廊下に出る。施錠すべきか考え、やめた。侵入されて困る理由が見つからなかったからだ。



 私は夏油の車に乗せられ、学校に向かう。すでに授業は終わり部活動が始まっている時間だった。母が盤星教に入信していたことよりも、祖母がニュースで取り沙汰される宗教団体にのめり込んでいることの方が近所では有名だった。報道があり、母の訃報が出回り、私が学校を欠席し、きっとそれは人々の好奇心と野次馬根性と全国放送になった事件の渦中の人間が身近にいたことへの高揚感を十分に刺激しただろう。校舎の中は人気が少なかったが、それでもすれ違う生徒は私の顔を見て幽霊に出くわしたような顔をした。
 私は夏油に連れられ退学の手続きに来ていた。校長室で待ち構えていた校長と担任は、好奇の視線を隠そうともしなかった。今回は大変だったね、お悔やみを、と言いながら、言葉の節々で何があったのかを聞き出そうとしてきた。夏油がいなければもっと露骨に質問攻めにされたかも知れない。「なにも覚えてないんです」と微笑むだけの私に代わって、夏油はさっさと書類を受け取った。本当は姿を眩ませてもよかったんだけどね、と夏油は言っていた。だがそれをしなかったのは、私自身が区切りを必要としたからだ。私の我が儘に夏油は快く付き合ってくれた。
 校長室を後にする。向かいの職員室のドアの窓硝子から、何人かの先生が首を伸ばしてこちらを伺っていた。私がそっちを見た瞬間、全員示し合わせたように目を逸らした。

「君は来なくてもよかったんだよ」

 夏油は気遣わし気な声音でそう言う。すれ違った生徒に背後から写真を撮られる音を聞きながら、私は苦笑した。

「いいんです、もう平気です」

 どうせ私は彼らの手の届かない場所にいる。夏油さんこそ、と私は笑った。

「親戚のお兄さんなんて、無理を言うんですね。夏油さん、全然私の親戚って感じがしません。格好良すぎます」

 夏油はネイビーのネクタイを片手で緩め外しながら「君の親戚を演じるためにばっちりキメてきたのに」と茶化す。無難なチャコールグレーのスーツが長身と涼しげな面立ちに恐ろしく似合っていた。近寄り難くさえあった。

「誰かに行かせてもよかったんだよ。でも今手が空いてるのが、私かミゲルかラルゥしかいなくてね。まあ……私が適任だろ?」

 私は名前を挙げられた面々の濃いキャラクターを思い出し「ああ」と呻く。それなら辛うじて私と縁続きを感じさせるのは夏油しかいない。
 私は図書室の前に通りかかり、ふと足を止めた。開け放たれたドアの向こうに先輩が立っていた。先輩は私の方に顔を向け、大きな瞳を見開くと駆け寄ってきた。

「――あ、あんた、大丈夫なの?」

 先輩は色々聞きたいことがありそうな顔をしたが、切れ切れとそうだけ言った。目は傍らの夏油に不審げに向けられている。夏油は私の肩に手を置くと「先に車に戻ってるね」と囁いた。
 夏油の姿が見えなくなると、先輩は夏油が下りていった階段を睨みながら「あれ誰?」と言う。私が「親戚です」と答えるとふうんと鼻を鳴らしすぐに「嘘でしょ」と断言した。私は少し迷い、曖昧に笑い、肩を竦める。

「はい、嘘です」
「だろうね、格好良すぎる。まあ別になんでもいいけど」
「先輩、私学校やめるんです」

 私が言うと、先輩は鮮やかな唇を半開きにし、それからきゅっと眉をひそめた。

「そっか、うん……そうだよね、いられないか、ウザいもんね……」

 真面目に授業に出ていない先輩がそう言うほど、学校は私の話題で持ちきりだったのだろう。学校に通えなくなることに心残りはなかった。愛着が湧くほどの時間を過ごしていない。だが先輩のことは、少しだけ心配だった。
 出来ることなら、先輩も一緒に行けたらいいと思った。

「羽斑」

 囁くと、私の頬のあたりで羽音がした。最も体の大きかった羽斑は、今は華奢で小柄な姿をしていた。青緑色にきらめく体は、腹が膨れ艶々と光っている。先輩は私に向かって怪訝な顔をした。
 私は寂しくなる。先輩は私と同じものを見てはくれない。羽斑の細い羽音がわあんと鳴った。先輩、と私は先輩の顔を覗き込む。

「能力があって、資格も権利もあって、咎を受けないなら、先輩は人を殺しますか?」

 薄い色硝子の向こうの力強い双眸が私を射抜いた。私は彼女の眼が好きだった。周囲を威圧する眼だ。私の持ち得ない美しい瞳をしているのだろう。色硝子の向こうを見ることがなかったのが残念だった。それとも、幸いだっただろうか。

「殺すよ」

 私は簡潔な彼女の返答を聞いて笑った。それが聞けて良かったと思う。

「先輩、手出してください」

 眉根を寄せながら、先輩は手のひらを差し出した。なんかくれんの? と笑う先輩の手のひらに、羽斑がとまる。羽斑はしばらく華奢なリングで飾られた手の上をうろうろしたあと、白く小さな可愛らしい手のひらに産卵管を突き刺した。手のひらが大きく腫れ、先輩は悲鳴を上げて手を引っ込めようとする。私はその細い手首を掴みとどめた。

「痛いですか?」
「痛くないけど……!」

 腫れた皮膚から長蟲が湧く。むちむちとしたクリーム色の体をくねらせる蟲が三匹、先輩の手のひらの上でのたくった。先輩は声を上げ私の手から逃れようとする。

「なに!? なにこれ!? 芋虫!?」

 手を振り払う先輩のニットの袖に、三匹の蟲がぞろぞろと消えていく。先輩は悲鳴を上げながら何度も手を振ったが、袖からは何も出てこない。

「先輩に代わって、蟲が一度だけ殺しますから。大切にしてあげてください」

 私が言うと、先輩は怯えた目を私に向ける。

「そいつら、煙草の煙が嫌いなんです。先輩、禁煙してくださいね」

 先輩はすでに腫れがひき、細く血を流すだけの手のひらを呆然と見つめた。私はハンカチで先輩の手のひらを拭う。先輩は目を丸くし、口を開けたり閉じたりし、それから深く溜息をつく。

「ふざけんな、連絡先置いてけよ」
「やめたほうがいいです」

 お互いのために、と私は付け足す。先輩はそれ以上言い募らなかった。それじゃあ、さよなら、と私は踵を返し夏油の下りていった階段に足をかける。階段の中ほどで足を止め、険しい顔で私を睨む先輩を見上げた。

「先輩の髪、いつも素敵だなって思ってました」
「――は?」
「真似してもいいですか?」

 私が言うと、先輩は華やかな明るい色のインナーカラーを指先で摘まみ、私に向かって中指を立てた。

「これ目印に絶対見つけてやるからな」

 私はそれを聞いて少し笑った。



 階段を駆け下り、来客用駐車場に停められた黒のSUVの助手席に乗り込む。ネクタイを外し上着を脱いだ夏油が車のエンジンをかける。

「どうだった?」
「挨拶をしてきました。あと、渡すものがあったので」

 夏油は私の顔を見て「そう」と唇の端を上げた。

「君は優しいね」

 私は首を横に振る。

「私は優しくないですし、夏油さんは――結構わるいおとなですね」

 それを聞いた夏油は声を上げ笑い、ハンドルに突っ伏し、肩を震わせる。私はその姿をじっと見ていた。夏油はひとしきり笑うと目の縁に滲む涙を指先で拭い「や、ごめん」と私に向き直る。鋭い目が、私を見た。

「後悔してる?」
「いいえ、――ああ、いえ、どうかな……分かりません」

 囁く私を横目に夏油はシフトレバーを操作する。

「望むと望まずとも、君はこっち側の人間だよ」

 夏油はそれだけ言って微笑んだ。車が静かに発進し、校舎から遠ざかっていく。私はサイドミラーに映る校舎から視線を前に戻した。夏油はハンドルを右手で握ったまま、左手の指の背で私の頬を撫でた。私は目を閉じ、それに頬を寄せる。冷たく骨張った指が心地よかった。