Truce(下)
ノートパソコンをコーヒースタンドのWi-Fiに接続し物件情報サイトを熱心に睨む逸架に七海の心臓はもうずっと低く妙なリズムで跳ね続けている。呪術師に復帰することを決め五条に電話をするときでさえこうも緊張しなかった。
いっしょに住む部屋を探してほしい、と言われ、七海は当然激しく困惑した。七海は逸架のことが好きであるし尊敬している。一緒に住めと言われたら決して無理ではない。逸架の性質を鑑みれば誰かと暮らすことは生活を営むにあたり有力な選択肢に入るだろう。だが己でいいのか、と七海は狼狽した。
いい歳をした男女二人が一つ屋根の下に住むということはつまりそういうことなのでは、と七海は静かに取り乱す。たとえ両者間にそういう気持ちがなくてさえ、世間はそうは扱わないだろう。逸架はそれを承知で言ったのだろうか、と七海は訝しむ。言っただろうな、と即座に思い直した。逸架は馬鹿でも常識外れでも世間知らずでもない。むしろ馬鹿げた呪力量と常識外れの術式を持ち、狂った時間感覚で世間一般並みの生活を送れぬ逸架がかろうじて常人の範疇に収まっている――ように見える――のは、逸架が真面目で誠実で熟慮型の人間であるからだ。これでその箍さえ失っては逸架は本当にオシマイである。五条よりひどい。
七海と逸架は学生時代も周囲から揶揄される距離感ではあった。七海は逸架の部屋の合い鍵を持っており、寝室以外は自由に出入りしていた。互いに人好きのしない性質で、また静かに一人でいることを好み、それでもときには誰かを頼りたくなる寂寥を抱え、互いに互いが心地よかった。七海にとって逸架は良き先輩であり師であり友人のようでもあり姉のようでも妹のようでもある。勢い余ってプロポーズのような真似もした。断られたが。
七海は逸架の部屋に泊まったこともある。任務で鍵もない壁もあるようなないようなボロ宿に共に泊まったことも、終電を逃した山奥の駅の待合室で夜を明かしたこともある。だが一緒に住むとなると話は別だ。
そこまで考え、七海は四年前の己の短慮を悔いた。いきなり結婚を申し込まれた逸架もきっと同じような気持ちだっただろう。結婚のほうが遙かに人生に与える影響は大きい。二十歳の自分は前のめり過ぎだったな、と恥ずかしいやら感嘆するやら妙な気分になる。逸架にも申し訳なくなったのでほとぼりが冷めたら謝っておこうとも思った。
七海は何か言おうとし、ぐっと唇を噛んでそれを抑えた。一度結婚を申し込んだ男がたかが同居、たかがルームシェアで怖じ気づくというのも格好が付かない。ここは素知らぬ顔で「いいですよ」と言うしかない。そもそも逸架なりのわかりにくい冗談であるかもしれない。七海が受け入れたら慌てて「冗談です、すみません」と眉尻を下げるかもしれない。七海は己が想定したよりずっとへろっとした声音で「いいですよ」と答えた。逸架は心底ほっとしたように長い溜息をつき「よかった、七海以外には頼みにくいので」と言った。七海は冗談ではなかったのかと一瞬呆然とした。そして今に至る。
「特に住みたい場所もないし、予算もはっきりしていないし、設備にこだわりもないし、そうなると全く絞れないね」
ノートパソコンのタッチパネルの上で指を滑らせ、検索結果を雑にスクロールしながら逸架は呟く。いまだ衝撃と困惑と狼狽から立ち直れていない七海は逸架に「七海はおすすめの立地なんかありますか」と聞かれ、ぼんやりと「暖かい場所がいいですね……石垣島とか……」とうわごとのような返事をした。逸架は一瞬不思議そうな顔をしたが検索窓に「石垣島 賃貸」と入力する。七海は我に返ってそれを止めた。
「逸架さん、冗談です。ブラウザバック」
「……でもいいな、南の島。憧れる。のんびりしてそうだし」
「うちなータイムも逸架さんのことは許してくれません」
辛辣な言葉に逸架は物言いたげな目を七海に向ける。
「それは引退後に取っておいてください。逸架さんが重視すべきは最寄り駅の電車の本数が多いこととゴミ出しと管理会社への問い合わせが二十四時間可能なことです。逸架さんは自動給湯の風呂でないと浴槽を見張り続けるので出来ればそれも条件に入れてください。それから、即日入居可であれば面倒事は少ないとは思います。無理にとは言いませんが」
何しろ期限が目前に迫っている。逸架はそれを聞き条件を絞っていく。いくつか物件を見て「あ、これいいな」と逸架が示した物件を七海は覗き込んだ。七海が提示した条件を満たし、築浅でセキュリティもしっかりしている。多少家賃は張るが、呪術師の収入を思えば大した問題ではない。
「少し手狭ではないですか」
七海が言うと逸架は眉根を寄せて物件情報欄に目を走らせる。そうかな、と逸架は首を傾げた。
「でも、まあ、家には寝に帰るようなものだし」
「これからはきちんと家に帰って休んでください」
「……心がけます」
「休ませます」
「…………よろしくお願いします」
同じ仲介業者が扱っている似たような条件の物件をいくつか候補にあげ、逸架は業者の営業時間の欄を七海に指で示す。
「これ、今電話掛けても大丈夫ですか」
「私がかわりに電話をしましょうか。時間の指定をされたら困るでしょう」
そもそも逸架の携帯端末は死に体である。逸架はカウンターテーブルに額がつきそうなほど頭を下げた。七海は向けられた頭頂部と旋毛を見ながら業者に電話をする。内見をしたい物件があること、他にも似たような条件で良い物件があれば紹介してほしいことを伝えると、営業風の愛想の良い男が「いつでも対応いたします」と明るく答えた。オフシーズンであることが幸いした。
七海は長らく置きっ放しで湿気ったカップを手に取り、ゴミ箱に捨てる。七海も覚悟を決めた。たとえからかわれようと、後ろ指を指されようと、逸架の頼みは無下には出来ない。
「今から内見をさせてもらえるそうです。早いほうがいいでしょう」
「すみません、忙しいところを付き合わせてしまって。ぱっと決めてしまいます」
「いえ、よく考えて決めます」
「……はい」
己も住むのだから、と七海は言わなかった。
業者とのやりとりは私がメインでいいですか、と七海は念を押す。築年数、最寄り駅までの所要時間、契約の期限――物件の契約でその手の話が出ないことはない。逸架は時間に纏わる話題をそれらしく躱すことは出来るが理解は出来ない。そして根が真面目な逸架はそういう話題に対して適当に誤魔化すことがあまり好きではないのを七海はうっすら感じていた。
逸架はお願いしますとまた頭を下げる。逸架もカップの中身を飲み干し、ゴミ箱に捨てる。その足で仲介業者に向かった。
電話に出たのと同じ男が七海と逸架をにこやかに出迎えた。カウンターには連絡済みの物件の資料と、他にもいくつか条件の似通った物件の資料が用意されている。席に着き名刺を渡され無難な挨拶を交わし、物件の話に移る。
ここは立地も良くて人気の物件で、というような営業を聞きながら七海は資料に目を通していく。詳細な間取りや床面積を見て「やはり二人で住むには手狭では」と思った。逸架はキッチンにこだわりがないようだが、七海としてはコンロはガスコンロ、IHでも性能の良いもの、贅沢を言えば三口はほしい。激務の中で本当に使うのかと言われると言葉に詰まる部分がないでもないが、あって困るものでもない。あくまで希望だ。
寝室は当然別であるし、なるべくなら離れている方が望ましい。お互いに仕事が不規則で深夜早朝の帰宅となったときに気を遣わずに済む。
「やはり少し狭いのでは。もう一室くらいあってもいいですよ」
「そう? 十分だと思うけど」
首を捻る逸架に営業の男が微笑んだ。
「間取り図や面積を見るだけと実際家具なんかを置いてみると違ってきますから」
「そうなんですね」
「この部屋は一応ファミリー向けではありますが、入居はお二人のご予定ですか」
「いえ、一人です」
えっ? と七海の口から思いの外大きな声が漏れた。男と逸架が同時に七海の方を見たので、七海は声を抑えてもう一度「……え?」と逸架の顔を覗き込む。逸架も「えっ?」と不思議そうな顔をした。男も「えっ?」と困惑したように目の前の二人の顔を見比べる。
「一人だけど……あ、サボテン?」
「サボテンの助数詞は人ではないです」
「じゃあ……一人だよ」
「いっしょに住む部屋を探して――ああ……」
七海は言いながら己の早とちりに気が付きぎゅっと目を閉じた。顔から火が出そうだ。逸架もなんとなく察したのか気の毒そうに眉を下げる。男だけがおろおろと成り行きを見守っていた。
はー、と七海は深い溜息をつく。
「逸架さん、もう私は覚悟を決めてしまったので逸架さんも決めてください」
七海が言うと、逸架は「はい?」と眉を寄せた。ここで引き下がるのも馬鹿馬鹿しい。逸架は誰の手も借りない一人暮らしが難しいのだから、七海が同居してある程度面倒を見るのは決して悪い選択ではない。
「二人で住むならもう一室か、収納があった方がいいと思います。あと個人的にはパントリーがあると嬉しいです」
「七海?」
「これは多分勢いに乗ってしまった方がいいやつなので」
「七海、ちょっと……」
「いいんじゃないでしょうか、この際兄妹でも婚約者でも夫婦でもなんでも装います」
「七海、こっちを見てください」
「従業員の方も困ってしまいますし」
急に話題にあげられた男はぎょっとして二人の顔を見る。サングラスをかけた硬い雰囲気の男と、眉根を寄せ淡々と男を諫める女は、どう見ても新居を探しに来た明るいカップルには見えない。装うとか言っていたし。気まずさに苦笑いを浮かべる営業の男に、逸架は申し訳なさそうに肩を竦めた。
「七海……少し外で話しましょう。――すみません、今日は資料だけ頂いてもいいですか。お時間取らせてしまって申し訳ございません」
逸架はカウンターの上の資料を指して言う。男は慌てて資料を封筒に入れると逸架に手渡した。連れ立ち店を出て行く二人に営業の男は「なんだったんだ」と首を傾げた。
不動産業者の店舗の窓から見えていた小さな喫茶店に入り、七海はコーヒーを、逸架は紅茶とチーズケーキを注文する。注文を終えるなり七海は低く呻いた。
「すみません、逸架さんの言ったことを誤解していたみたいです」
それを聞いた逸架は数度ゆっくりとまばたきした。
「いえ、こちらこそ言い方が悪くて……でも、誤解をあの場で力業で押し通そうとしたのは……ちょっと……」
逸架の言うことに理がありすぎて七海は何も言えなくなる。多少自棄になっていた感は否めない。
「良い案だと思ったのですが」
「まあ……でもそこまでは、してもらえないかな」
逸架の反応が思いのほか悪くなかったので、七海はじっと逸架の顔を見つめる。逸架は七海を見返した。
「嫌ではないんですか?」
「七海と? ……別に嫌ではないよ。そう思ってくれたことは、嬉しいかな。ありがとう」
「では一緒に住めば良いのでは?」
「そういうわけにも……いかないのでは?」
テーブルに注文した品が置かれる。七海はコーヒーに口をつける。駅のスタンドのものより好みの香りだった。
「逸架さんはお一人で生活されるのはかなり厳しいとは思いますが」
「そこは高専に掛け合うか、人を雇うかかな。七海には迷惑かけないようにするよ」
七海はカップをソーサーに戻す。かちん、と硬い音がした。
「逸架さん」
はい、と逸架はチーズケーキをフォークで切り分けながら七海に視線をやった。
「私は大学卒業後、証券会社に勤めていました」
「そうだったんだ、知らなかった」
「自賛するわけではありませんが、営業成績はかなり良かったです。知識のない金持ちに見込みのないクズ株を売りつけるような仕事もしました。誇れるようなことではないですけど」
逸架は眉をひそめる。咎めるのではなく、七海の言葉に心を痛めている表情であった。
「なので、私には馬鹿正直な朴念仁の逸架さんを口八丁で丸め込むなんて赤子の手を捻るより簡単です」
「……七海?」
逸架の気の毒そうな表情が一転して胡乱気なものになる。
「私にそんなことをさせたいんですか」
「…………いや、」
「私もしたくはないです」
「七海、」
「そういうことです」
「七海……脅迫はだめだよ……」
逸架はチーズケーキの皿を差し出す。七海は無言で大きく切り分けられたケーキを一切れスプーンで拾い上げた。口に入れるとなめらかなチーズが舌の上でとろける。
「この際、私の迷惑は度外視してくださって構いません。他人に何を言われたっていい。逸架さんの風評なんかもうすでにおかしなことになっているわけですし」
逸架は小さく呻き、テーブルの上で頭を抱えた。七海がコーヒーを飲み終え、一度お手洗いに立ち、戻ってきた頃に逸架は顔を上げていた。
「あのね、七海」
「考えていただけましたか」
「うん、あの……ちょっと言いにくいんだけど……」
「はい」
「七海が、以前、私で……抜いたと言ったことを――」
「え? ……は? 私そんなこと言いましたか?」
七海はしばらく逸架の口から発された言葉の意味を飲み込みかねたのであるが、やっと飲み下し絶句した。言ったか? 言ったような気もする。何を言っているんだよ四年前の自分は。と七海は過去の己を絞め殺したくなった。
逸架は冷め切ったカップを両手で包み目を泳がせる。
「え? いや、わからない、自信なくなってきた……」
「いえ、すみません。言ったと思います。謝りたくて」
「あ、そうだよね、よかった……よくないけど」
逸架は紅茶の鮮やかな水面に溜息を溢した。
「なので、あの……さすがに同居は、七海の心身の健全な発育のためによろしくないのかとも思うのですが」
いかがでしょうか、と言われ七海は思わず「は?」と呻いた。逸架はカップを置き指輪を回したり付けたり外したりをしている。
七海の記憶が確かならば、それは受験勉強のストレスがピークのときであったはずだ。その頃の己は諸々限界であったのだと思う。
「逸架さん、余計なことを伝えてしまったことは本当に申し訳なく思いますが、私は成人男性なので心身の発育まで気に懸けて頂かなくても結構です」
「あ……はい。そうですね、ごめん」
「それにあれは母親、五条さん、逸架さんの誰かといわれたらでギリギリのところで逸架さんだったので実質ノーカウントでは?」
「えっ、その中でギリギリなんだ」
逸架は何とも言えない表情で七海の顔を見る。七海は素知らぬ顔で「僅差でしたね」と返した。僅差、と逸架は口の中で呟く。逸架は七海の中の己の立ち位置がよく分からなくなってきた。別にそういう対象でありたいわけではないが、肉親、男性と並んでしまうとちょっと事情が変わってくる。
「初めて会った頃の方は?」
次いで問われ七海は閉口する。四年前の己を刺し殺したくなった。
「それは完全に若気の至りなのでノーカウントです」
なるべく堂々と言い張ると逸架は「そういうものだろうか」という顔をしながら天井を回るファンを見上げた。こういう事態でさえ相手の事情を最大限汲もうとする逸架が七海は心底心配である。この状況で言えた義理ではないが。
「まあ……はい、じゃあ、それはそういうことにしましょう」
早々に逸架は折れた。でも、と言い募る。
「お互いプライバシーもあるわけですし……恋人なんかも呼びにくくなっちゃうよ」
「いないです。あと懸念事項は」
「いえ別に有無を聞いたわけでは……これから出来るかもしれないし……」
「それはそのとき検討しましょう」
「あ、ああ……すごい……丸め込まれている感じがする……」
「まだ丸め込んでいません。逸架さんが勝手に丸まっているだけです」
逸架は黙って俯きケーキを一切れ口に入れた。七海は真正面から逸架を見つめる。
「逸架さん、真面目な話をします。これは丸め込もうというのではなくで、私の本心だと思って聞いてください」
七海の真剣な声音に逸架は目を上げ頷く。
「逸架さんは時間の感覚が常人と乖離しているだけで、それさえなければごく普通に生活が出来る。ならば、その些細な手伝いくらいさせてください。私にはそれでも返しきれない恩義が逸架さんにあります」
逸架は何か言いかけたが、ふと口を閉じると黙ったまま首肯した。伸びかけの前髪が揺れ、瞼をなぞる。
「それに――私は二年間社会人として一人暮らしをしました。気楽といえばそうですが、嫌になる瞬間は何度かありました。疲れて真っ暗な部屋に帰るときとか、面白いことがあったのに話す相手がいないときとか、たまの休日に作った手のこんだ料理を食べてくれる人がいないときとか。でもまあ、誰かに気を遣って生活するよりはマシですよ。その程度の寂しさです」
逸架はその感覚に心当たりがあるのか、唇の端で苦笑する。
「逸架さんはそれを丁度良く埋めてくださるので」
「……七海、それは買い被りすぎです」
「いいえ」
短くいいえとだけ言われ逸架は言葉に詰まる。逸架は目を伏せ、しばらく黙り込み、それから七海を見る。
「気持ちは本当に嬉しい。でも、いい機会だから一度自分がどこまでやれるか試してみたい気持ちもある。もちろん色々な人の手も借りる必要はあるから、これは本当に私の我が儘なんだけど……」
七海は逸架の遠慮がちな表情を見て唇を引き結ぶ。眉根を寄せ、溜息をつく。
「それなら出来る限り手助けします」
「いや……七海に助けられてしまうとつい甘えちゃうから……」
「ではほどほどに手助けします。それから逸架さんが限界だと感じたら問答無用でストップをかけますので」
「うん、そのときはよろしくお願いします」
逸架は再会してからやっと目元を和ませた。四年ぶりに逸架の顔を見てから半日ほどしか経っていないのに、もうずっと長いこと一緒にいるような気がした。
そのとき七海のスマホが上着のポケットの中で鳴動した。逸架に一言断ると逸架は冷めたお茶に口をつけながら「どうぞ」と指で示す。七海は液晶に表示される名前を見て思い切り顔をしかめた。五条悟、という文字列を逸架に見せると、逸架は飲み物を口に含んだまま眉を上げた。
「やっぱり出なくていいです」
「居留守はちょっと……かわりに出ようか?」
心配そうにそう言われ、七海は渋々電話に出た。先輩にそこまでさせるわけにはいかない。出るなり軽い調子で「七海、今逸架ちゃん先輩と一緒でしょ? ほんっとそろそろ先輩離れしなさいって」と笑われ七海は一瞬本気で通話を切ってやろうかと思った。
「どう――」
「宿舎の取り壊しの予定が早まったって逸架ちゃんに伝えてあげてよ」
「は――」
「総務が痺れを切らしてたから、僕が逸架ちゃんの荷物は運び出しておいたよ。僕は先輩思いの優しい後輩だからね」
「なん――」
「というか逸架ちゃん家財少なすぎない? ミニマリストなの? あ、終活?」
「ちょっと――」
「荷物は事務室の伊地知のデスクに置いといた。早く回収してあげないと伊地知がカワイソウだよ。じゃあそういうことで」
「おい――」
アッハッハ、という笑い声が最後まで聞こえる前に電話は一方的に切られた。七海が耳にスマホを当てたまま呆然としていると、逸架が不思議そうな顔をする。七海は「まずそれを食べきってください」と呟いた。
ケーキを食べ終えた逸架に事の次第を話すと、案の定逸架は「ああ」と言ったきり沈鬱に黙り込んでしまう。
「だらだらしていた私も悪いんですけど……」
「逸架さん、怒っていいと思いますよ」
「怒るほどでは……五条くんも直接私に連絡くれればいいのに」
「逸架さんの携帯壊れているじゃないですか」
「壊れてはいないよ。最近ちょっと調子は悪いけど」
それを壊れているというのだ。七海は「さっさと機種変更してもらおう」と最寄りの携帯ショップに考えを巡らせる。それからふと気が付いたことを何の気なしに口にした。
「そういえば、電話が苦手で携帯も故障中の逸架さんがよくあのタイミングで電話してきましたね。驚きました」
電話の内容も、それほど急を要するものではなかった。言われた逸架は「たしかに」と呟き、それから真剣な顔で七海を見た。
「虫の知らせかな」
「呪術師があほみたいなこと言わないでください」
七海がばっさりと切り捨てても逸架はあまり気にした様子もなかった。それどころではないと言ったほうが正確かもしれない。逸架は両手で顔を覆い「とりあえず荷物は貸倉庫かな……」と呻く。
「サボテンはどうするんですか?」
七海に問われ、逸架はどうしたものかと天井を仰ぐ。まさか屋外に投げ出しておくわけにもいかず、貸し倉庫に閉じ込めるわけにもいかない。逸架は微妙に情けない顔で七海を見上げる。言ったそばからこれでは格好がつかないにも程があるが、背に腹は代えられない。
「七海、しばらく七海の部屋にサボテンを置かせてもらってもいいでしょうか……」
「いいですよ。というか荷物預かりますよ。物置になっている部屋があるので」
「それは……ちょっと申し訳ないのでサボテンだけでいいです」
「大した量じゃありませんし。それに貸倉庫の手続きも手伝うことになるなら、私が預かったほうが話が早い」
「そうだけど……」
逸架は空のカップを無意味に持ち上げたり戻したりを繰り返す。やがて観念したように目を閉じ七海に頭を下げた。
「すみません、お願いします。急いで引っ越し先を探します」
「まあほどほどに手伝います」
「お願いします。ほら、後輩の部屋に転がり込む先輩って結構……ダメ感あるから……」
逸架の言葉で七海は編入した大学に後輩の部屋を転々とする男がいたことを思い出す。たしか七年生の途中で八年生が確定したと同時に大学から姿を消してそれきりだ。ぽろりとそれを溢すと逸架は真っ青になる。
「さすがにそこまで落ちぶれたくない」
「別にそんな心配はいらないと思いますけど」
「私は七海の前ではちゃんと先輩したいので」
「逸架さんはいつもちゃんと先輩ですよ」
逸架はほっとしたような何か言いたいような複雑な表情をする。おおかた「先輩を脅迫するな」とか「先輩を丸め込もうとするな」とか、そういうことを言いたいのだろうとあたりをつけた七海はその表情に気が付かないふりをした。それとこれとは話が別だ。
逸架は空のカップに向かい丁寧に手を合わせ、伝票を取り席を立つ。ひとまず伊地知のデスクに積まれているであろう荷物を回収しないことには始まらない。逸架は上着に袖を通しながら七海に視線を向けた。
「こんなことで申し訳ないんだけど、今本当に七海がいて助かったと思ってる。ごめん、あと、ありがとう」
「私も戻ってよかったと思わされそうになっています。危うく先輩をホームレスにするところでした」
「……慙愧に堪えません」
七海はすっかり萎れた逸架に「荷物片付いたら飲みにでも行きましょう」と声をかける。復帰祝いなので奢ってくださいとも付け足す。逸架は恬淡とした顔で、だが声音にぬるいものを滲ませながら「お祝いしましょう」と答えた。