How'd I get here, sitting next you (上)
某月某日、準一級以上の術師に緊急で共有された逸架の術式が呪詛師により略取されたという報せは多くの関係者に衝撃を与えた。術式を奪う呪詛師がいるというだけで呪術師にとっては震駭の極みであるというのに、よりによって被害者が逸架である。速度に干渉し時間の枠さえ歪める強力な術式を不逞の輩に奪われるくらいならば、己の術式を奪われた方がまだ救いがあったと考える呪術師は一人や二人ではなかった。
時空を掌握する逸架の術式の前には力も速さも小細工以下の意味しかない。極端に間延びさせられた時間に対抗し得るのは無限を生み出す無下限術式か、或いは完成された領域だけだった。あの五条でさえ一報を受け「マジで? やらかしたね逸架」と半笑いを浮かべる程度に事態は深刻であった。上層部としては術式を奪われ波瀾の種を蒔くくらいならば、逸架にはその場で死んでいてほしかっただろう。
幸か不幸か逸架自身は無傷であり、体調にも変化はなかった。だがその体の内側から、術式だけがすっぽりと抜け落ちた。家入の診察を受け「精神的ショック以外はいたって健康」の診断を受けた逸架はそのまま自宅待機を命じられた。術式のない逸架には今までどおりの仕事がこなせない。
自宅待機を命じられた逸架は途端に行き場を失った。荷物を七海の家に預けるという名目での半居候状態が忙しさにかまけそのままであったことが災いし、家もなく仕事もなく突然放り出されることとなった。ひとまず七海の部屋で静養することになった逸架は目に見えて消沈していた。もとより陽気な人間ではないが、話しかけるのが憚られるほど沈鬱とした。
呪術師にとって術式は全てだ。その人間の根幹にさえ関わる。それが奪われたのは、アイデンティティを剥奪されたに等しい。さらに奪われた術式が何に悪用されるか分からないという事実が逸架を追い詰めた。そうとて逸架自身には何も出来ない。術式のない逸架は、莫大な呪力を持て余すだけのよく分からない生き物だった。
深夜に自室に帰りついた七海はどこかから漏れる小さく絞った音を聞いた。音を辿ると浴室からだった。照明をつけない浴室には人の気配がないが、磨りガラスにぼんやりと青白い光が映っている。七海はガラスの向こうに「逸架さん」と声を掛けた。返事はなく、物音もない。逸架の好きなストップモーションアニメの物寂しいBGMだけが浴室に反響しながら七海の耳朶を擽る。手探りで浴室の照明をつけると、磨りガラスに映るうっすらとしたバスタブのシルエットに、逸架の肩甲骨から上のシルエットが連なっている。ちゃぷん、と水面が揺れる音がした。
はい、と小さな声がガラス越しに聞こえる。七海はひとまず逸架が生きていたので安堵した。湯船に浸かりながら眠りこけ溺れてはいないかとぞっとした。七海はその場を離れ上着を脱ぎハンガーにかけると、冷蔵庫から水のボトルを取り出す。浴室のドアを細く開け、蓋を外したボトルを差し入れた。ありがとうございます、と申し訳なさそうな声が鈍く反響する。水音が鳴り、ボトルがそっと受け取られる。磨りガラスに映るシルエットが喉を反らしボトルを空けていく。
「いつからそうしているんです」
七海が問うも返答はないので、聞き方を変える。
「それ何周目ですか」
空いた手で浴槽の縁に置かれたスマートフォンを示す。逸架は首を傾げて「二回くらい、かな」と呟いた。これは三、四周目の口振りだ。七海は鼻先に纏わりつく蒸気を払うように息を吐く。七海は手のひらを天井に向け逸架に差し出す。困惑気な沈黙だけが返ってきた。
「スマホ、渡してください」
七海が言うと、逸架はしばらく七海の手のひらを見つめていたが、不承不承水滴とともにスマートフォンをそこに落とした。ドアの隙間から手を引っ込めようとする七海の手首が掴まれる。差し入れた左手に、妙に水っぽい皮膚の感触がした。湯に浸かっていたために温かいが、あまり健康的には感じられなかった。七海は腕を軽く引くが、逸架は手を離さない。
低く名前を呼ぶと、逸架の手がぬるりと離れていく。「なんですか」と尋ねると「いや、なにも」と歯切れの悪い言葉が返ってくる。ドアの隙間から手を引き抜き、水滴のついた腕時計を右手の袖で拭う。渡されたスマートフォンのスピーカーから耳慣れぬ言語が流れている。七海は動画を止め、濡れたスマホをタオルで拭い洗面台に置く。
「シャワー浴びたいんですが」
ガラスの向こうに声をかけるが、問い返されたのでまたドアを細く開け声を張る。逸架が「え、ああ、すみません」と浴槽から立ち上がったので七海はドアを閉める。めまいがする、と低く呻く声が聞こえ七海は「長風呂しすぎです」と素っ気なく答えた。
逸架と入れ違いに浴室でシャワーを浴び、リビングに戻ると逸架は何をするでもなくぼんやりとソファに座っていた。七海は無言で隣に座る。寝ないんですか、と尋ねると「さっき起きた」とだけ返された。逸架さん、と七海は逸架の横顔に声をかける。逸架はふっと視線を七海に向けた。
「――大丈夫ですか」
「ん? ……うん、お水ももらったし」
「いえ、そっちではなく」
七海の言葉に逸架は一瞬苦い顔をする。だいじょうぶ、と言いかけた逸架は口を噤み、もう一度開いた。
「あまり元気ではないです」
「でしょうね」
エアコンの音にかき消されるような逸架の溜息が耳に障った。術式が奪われてから一週間あまり、逸架はずっとこの調子であった。泣くでも嘆くでもしてくれれば、慰めようもあった。七海はまた逸架が酒に頼ることを懸念したが、それは堪えたようだった。
「あれほど呪術師をやめたかったのに、いざ仕事がなくなると何をしたらいいか分からなくて」
逸架は囁く。こういうときに「まあ休暇だと思って羽を伸ばしなよ」などと明るく気楽な提案をするべきなのかもしれない。七海には出来なかった。逸架も求めてはいないだろう。だが、おそらく彼女にはそれが必要であった。七海は己の代わりに彼女にそういう楽観的な言葉を掛けられる人間を記憶の中から探そうとし、途中でやめた。
「逸架さんは仕事以外の時間は大抵迷子でした」
「ああ、そうだったかも」
場を和ませるつもりが逸架は一層表情を曇らせ頷いた。七海は慰めか励ましの言葉を口にしようとし、それを飲み込む。やはりそういうものは己には向いていない。
「今の逸架さんが気を揉んでもどうにもならないでしょう。呪詛師は五条さんが追っています。あとは五条さんを信じるほか無い」
逸架は浅く頷く。逸架の術式は簡素で単純だが簡単ではない。術師の体にも周囲にも影響が大きい。逸架もかつては生傷が絶えなかった。逸架がそれを言うと七海は鼻を鳴らす。
「呪詛師の心配をしてどうするんですか。それともまさか五条さんの心配ですか。無用でしょうあの人には」
冷たく聞こえさえする断定的な声音に、逸架は目を伏せる。そうだね、と眉を寄せた。逸架はくたりとソファの背もたれに寄りかかる。
「戻らなかったら、どうしようかな」
それは憂うようにも願うようにも聞こえ、七海の胸が詰まる。どうするんですか、と鸚鵡返しに尋ねると逸架はどうしようねと他人事のように壁を見つめていた。
七海は逸架の術式がなければと幾度も考えたことがある。なかったことにし共に呪術師をやめてくれぬかと請うたこともある。だが実際に術式を失い塞ぎ込む逸架を見てまさか喜ぶことも出来なかった。
七海は目に見えて痩せた逸架の横顔に向けて「私は寝ますけど」と声をかける。逸架は半分ほど飲んだボトルを両手で持ったまま「うん、おやすみ」と答える。
七海は自室に戻り、冷たいシーツに潜り込む。逸架が部屋に戻る音は聞こえない。防音設備がいいからか、逸架が部屋に戻らないからか、どちらとも言えない。耳を澄ましているうちに七海は眠りに落ちた。
翌朝、七海が寝間着のままリビングに戻ると逸架は昨晩と同じように壁に視線を向けていた。逸架さん、と声をかけると逸架は「朝?」と言う。
「そうですね、少し遅いですが朝です」
昨晩眠りにつくのが遅かったために時間はすでに九時を回っている。逸架は七海の言葉に「そう、……そうだね」とうわごとのように呟いた。
トーストを焼きコーヒーを淹れる七海は逸架に「逸架さんはどうしますか」と尋ね答えを待たずに逸架の分も用意する。七海がコーヒーをリビングのテーブルに置くと、入れ違うように逸架は立ち上がった。どうしたんですか、と問う暇もなく逸架は慌ただしく自室に戻っていった。物静かで動作も小さい逸架が珍しく物音を立てながら何かをしている。ものの数分で部屋から戻った逸架は風呂上がりの部屋着のままであったのが、外に出られる格好になっていた。
「ごめんなさい、ちょっと外に出てきます」
術式を失ってからこちら郵便物を取りにさえいかなかった逸架がそう言うので、七海は呆気にとられる。逸架はテーブルの上に置かれたコーヒーカップを手に取ると心ここにあらずという感じで一口だけ口にした。
七海には逸架の外出を制限する謂れも行き先を詮索する義理もない。だが、突然の心変わりには面食らった。行き先はどこか、どのくらいで帰るのか、何をしに行くのか、大丈夫か、と色々尋ねたくはなったが、それをしてせっかく湧き出た逸架の外出への意欲を削ぐのは避けたい。七海の葛藤に気が付いたのか、逸架は短く「本屋に行くだけです。すぐ戻ります。何か買ってくる?」と言った。七海はコーヒーを飲みながら「いいえ」と答える。七海が言い終える前に逸架は玄関を出ていた。何事だろうかと思った。まさか思い詰めて滅多なことを、とも思ったがそういうようでもない。外に出る気力があるならばそれに越したことはない。七海は逸架が一晩中見つめ続けていた壁にかけている時計を見上げる。
七海は途中で力尽きた逸架が「迎えに来てほしい」と申し訳なさそうに連絡を寄越す可能性を考え、スマートフォンのサイレントモードを解除した。
結果としてそれは無用な配慮であった。逸架はすぐに帰宅した。七海の飲んでいるコーヒーは一口残っていて、逸架が置いていったカップはまだほんのりと温かい。
逸架は最寄駅に入った小さな本屋の袋を提げている。ただいま、と気もそぞろに言う逸架は七海の「何を買ってきたんですか」という問いを曖昧に誤魔化した。訝しむ七海を尻目に逸架は自室に引っ込む。
七海がコーヒーを飲み干し、ついでに逸架が置いたままのコーヒーも飲んでしまい、カップを洗ってリビングに戻っても逸架は自室に閉じこもったままであった。部屋からは物音もしない。七海はしばらく逡巡し、逸架の部屋のドアをノックする。中から呻くような返答があったので、七海はドアを開けた。
逸架はフローリングに両膝をつき蹲り、床にいくつも冊子を広げ何かを書き込んでいる。七海は足下の広げたままの冊子を拾い上げる。
「何してるんですか」
拾い上げたのは未就学児に向けた学習ドリルであった。印刷のくっきりした大きな文字で「なんじ なんふん ですか」という問題文とカラフルな時計のイラストが並んでいる。稚気に溢れたページに不釣り合いなほど端正な字で全てに解答が書き込まれていた。
言葉を失う七海に逸架は床から肘を離すと上体を持ち上げ、呆然と七海を見上げた。
「ふくしゅう」
逸架はそれだけ言うと再び床に突っ伏し黙々と解答を書き込んでいく。静かな横顔は、鬼気迫る激情を滲ませている。七海は何も言えず、解答の終わったテキストを回収すると赤ペンで採点した。全問正解していた。
逸架は昼過ぎまで熱心にテキストに取り組んでいた。七海が昼食を用意し逸架に声をかけたが「すみません、あとで」と言ったきり顔も上げない。七海は逸架の気の済むまで放っておくことにした。冷めた昼食にはラップをかけておき、七海は読みかけの本に手を伸ばした。
出版されるのを楽しみにしていた本であったはずなのに、ページをめくる手は遅い。内容が頭に入ってこず、何度も同じ文章を目で辿る。
逸架の部屋のドアが開く音がし、七海は廊下に顔を覗かせる。逸架が玄関ドアに手を掛けているところであった。
「どこへ――」
「本屋」
七海の顔さえ見ずに逸架は部屋を飛び出していく。オートロックが冷たい音と共に閉まり、ドアの向こうからエレベーターのドアが開く音が小さく聞こえた。
一時間ほどして戻ってきた逸架は両手に大きな紙袋を提げていた。紙袋には近場で最も規模の大きい書店のロゴが印刷されている。書店は距離的にはさほど離れていないが数回の乗り換えが必要な立地にあり、逸架が一人でそこに行くことはなかった。
書店でこれほど大きな紙袋を用意しているんだな、と思わされるほどに大きな紙袋を二つ提げ、逸架は玄関先まで出迎えに来た七海を見上げる。何か言いかけ唇を薄く開けたが、震える息が漏れるだけだった。
両手から紙袋がずるりと落ちる。大きな書店であるだけ掻き集めてきたであろう子供向けの学習ドリルが倒れた紙袋から滑り出る。重い紙袋を持ち続け赤く跡のついた手で逸架は顔を覆い、その場に屈み込んだ。
「七海、これ、こんな、どうしよう、どうして」
切れ切れと嗚咽を漏らす逸架を、七海は見下ろしているしか出来なかった。あのときみたいだ、とぼんやりと考えた。
七海は無言で散乱したテキストを拾い上げ紙袋に詰め直した。冊子を満載した紙袋は男の七海の手にさえずっしりと重かった。
「お茶でも淹れましょう」
七海が言うと、逸架は深い息を数回繰り返し首を横に振った。七海の手から紙袋を取ると「ごめん、大丈夫、大丈夫だから」と繰り返しふらふらと自室に戻っていく。七海は紙袋を一つ取り部屋まで運んでやる。逸架は疲れ切った掠れ声で「ありがとうございます」と呻いた。
逸架は部屋に閉じこもり、黙々と子供向けのドリルを解いていた。七海は手が空くと、記入を終え用済みとばかりに積み上げられた問題集を回収して採点する。逸架が解くのは時間に関する問題だけだった。時計の読み方、速さ、時間、道のり、忘れ物をした弟を自転車で追う兄、懐かしさを覚えるような問題ばかりであった。そしてそれら全てに逸架は正答していた。
逸架は時間を忘れたように没頭し、夜の九時になると突然「寝ます、お休みなさい」と言うなりベッドに潜り込んだ。七海は何を差し置いても風呂の時間を優先する逸架がシャワーさえ浴びずに眠ってしまったことに驚いたが、すぐに納得する。幼児向けのテキストにカラフルなイラストに時計の図が添えられ、イラストの内容に合致した時計の時間を選択するパズルがあった。朝起きるのは七時、お昼ご飯は十二時、おやつは三時、そして眠る時間は九時だった。
七海は乱雑な虫食いのように解かれたテキストの山を見下ろし、逸架に聞こえないよう細く溜息をつく。術式を失った逸架には、時間の感覚が返還された。考えてみれば当然のことであったが、七海は逸架の術式が奪われたことを知ったとき以上に動揺した。それがなぜか自分自身でさえよく分からなかった。
七海が逸架の身に起きたことを五条に報告すると、五条はまず「え、オマエら同棲してたの」と言った。それを聞いた七海はぴたりと動きが止まる。隠していたわけではないが、七海も逸架も双方自身のことを好んで話すタイプではない。だが書類手続きの関係上、二人の住所が同じことを知っている人間はそれなりにいる。補助監督などは二人が仕事上がりに同じマンションへ帰ることに気が付かないわけがない。それでも五条の耳に入っていなかったのは、それを知る人間が逸架の事情を知った上で「五条にだけは教えてはならない」と判断したためだ。示し合わせたわけでもないのに見事な結束である。
七海はどうすべきか考えを巡らせ、五条の問いを無視することにした。
「どういう制約の下で術式が奪われたのかは不明ですが――」
「待て待て七海、先輩無視しちゃだめだろ」
「逸架さんは気にしませんけど」
「いやん、他の女と比べないで」
「――術式が戻っても時間の感覚を保持したままであることが可能か検討の余地はあります」
「自分の言いたいことだけ言う男は嫌われるよ」
七海は若干かちんときたので唇を引き結ぶ。アナタにだけは言われる筋合いがない、と言いそうになるのをぐっと堪えて先を続ける。
「それが無理なら、逸架さんから剥ぎ取られた術式を逸架さんに戻さないという選択肢も視野に入れたい」
「すっげー、完無視。僕そろそろ泣いちゃいそう」
五条は口元に笑みを浮かべたまま隠した目元にわざとらしく手を添える。それから「まあいいや」と鼻を鳴らした。
「正直その程度では驚かなくなってきたな。同棲というか寮生活の延長戦って感じ。介護つき高齢者用集合住宅の呪術師版でもいいけど」
実態はそれに近いが五条に指摘されるのは面白くない。じっとりと黙り込む七海に五条が「これだけははっきりさせて」と神妙な声音で言った。
「同じベッドで寝てるの?」
「そんなわけないでしょう。寝室は別です。お互いのプライバシーは尊重しています」
「なーんだ、つまんない」
つまらなくて結構、と七海は冷ややかに吐き捨てた。
七海は術式によって逸架が現状に縛られていることを知っている。安穏から閉め出され、細い神経をすり減らし、容認のためだけに呪術師であり続けている。逸架がまっとうな生活を選べないのは術式のせいで、逸架が呪術師であることを諦めきれないのも術式のせいだった。術式さえなければと思っていたのは、七海よりも逸架の方だろう。
「それで、逸架ちゃんの様子はどうなの?」
「動揺していますし、おそらくパニックにもなっています」
とにかく時間が分かることに混乱していて、キッチンタイマーを片手にカップラーメンを作り続けていた。食べきれないのにラーメンを作るのは如何なものかと苦言を呈すと、今度は観もしないテレビ番組の録画予約を始め、白飯を何度も電子レンジにかけ、地図アプリで自宅からあらゆる場所への移動にかかる時間を調べていた。それを言うと五条は面白そうに笑う。
「それもそうだ。いきなり自身の行動を規定する要素が一つ増えるんだろ、僕たちが今から四次元で生活しろと言われるようなものだよ」
分かるようで分からない五条のたとえ話に七海は曖昧に頷く。五条がへらへら笑いながら「あ、今ので分かった? 僕は分かんなかった。てきとー言っちゃった」と言うのでもうまともに相手をするのはやめた。
五条は笑ったまま、七海に向かって身を乗り出す。
「個人的には、逸架には術式を持っていてもらいたい。故意に術式を回復させない選択肢はない」
それを聞いた七海は眉をひそめる。七海が反駁する前に五条の人差し指が七海の唇の前に翳された。
「どうしたの、七海らしくもない。現実は事実を以てのみ判断されるべきだ。逸架の術式が呪詛師に奪われ、悪用の可能性が高く、僕がそれを追っている。それだけだ。優先すべきは呪詛師の確保、それ以外のことは今以て不確定――希望を持つなとは言わないけど、余計な期待を持つことは勧めない。つらいだけだよ、七海も、逸架も」
薄笑いを浮かべながら軽薄な声音で吐き出されたそれは、一分の隙も無く正しかった。思わずうるせえと言いたくなるのを堪える七海に五条は軽やかに言い募った。
「まあ可愛い後輩の頼みなら僕だって考えるよ。出来る限り七海の希望に沿うよう努力してもいい。でもさあ、七海、本当にそれでいいかよく考えな」
五条の言葉に七海は何も言い返すことが出来なかった。その場で五条と別れ、七海は任務に向かう。五条の言葉が脳裏から離れなかった。
仕事を終え移動中の七海は乗用車の後部座席でスマートフォンをチェックする。数時間前に逸架からメッセージを受信していた。今日の帰りは何時頃になりますか、という簡素なメッセージが表示される。当然ながら、そういう問いを直接でもメッセージでも逸架から受けるのは初めてのことだった。七海はそれに「今から帰るので一時間ほどで帰宅します」と返事をする。一時間、と入力するとき、頭では分かっていても指が迷った。間を置かずに返答が既読になる。待ち構えていたのかと思うほどの早さだった。OK! と書かれた看板を持つキャラクターのスタンプが送られてきて、それ以降七海が何を送っても既読がつかなくなった。
自室に帰りついた七海は逸架がキッチンに立っているのを見て「また白飯を電子レンジにかけたり冷ましたりを繰り返しているのか」と思った。だが逸架は大きな鍋に湯を沸かしていた。キッチンタイマーを穴の開くほど見つめている。
「八分、七海、八分」
七海の顔を見るなり逸架は言う。おかえりすら言わずぶつぶつと呟く逸架に七海は思わず「なんですか」と顔をしかめた。
「パスタのゆで時間は八分」
逸架は真剣な目で七海を見上げる。七海は何と答えるべきか迷い「そうですね」とだけ答えた。
「でもそっちのパスタは九分」
逸架はカウンターに置かれた二つの袋のうち、封の切られていない方を指さす。
「パスタソースのあたため時間は四分三十秒」
なんでもない市販品のパスタソースのパウチを手にし、次いで壁の時計を指さす。
「七海が帰るまでは一時間」
逸架はぎゅっと眉根を寄せる。
「細かいし、考えることが多い。混乱する。みんなこんなに時間について色々考えながら生きているんだね……大変だ……」
七海にしてみればそのどれもが分からなかった逸架の方が大変に思える。
「もっと早く作り終えられるかと思ってた。でも水を沸騰させるのって……思いの外時間がかかる?」
問われ七海は「そうかもしれません」と曖昧な返事をする。逸架が何と比較してそう言っているのか分からなかった。加えて逸架の真剣な面持ちに気圧された。
「逸架さん、夕食には少し早いのでは」
時計は四時を回ったところであった。逸架は時計を見上げ、しばらく何事か考え込んでいたが「早いね」と小さく呟くので七海は「早いですよ」と答える。逸架は遠慮がちに七海を見上げた。
「おやつは三時?」
「おやつには遅いですし、我々はすでにおやつにパスタを食べるようなわんぱくな年齢ではないです」
逸架は無言でコンロの火を消した。煮立っていた鍋の水面が凪いでいく。
「パスタ投入前で助かった……」
「あぶないところでした」
時間感覚を失っていた逸架でさえ茹でたてでないパスタの不味さは知っている。逸架は換気扇のスイッチを切るとやっと七海に「おかえり」と言った。七海は釈然としないながら「ただいま帰りました」と返す。
逸架はリビングに戻るとソファに倒れた。七海は逸架の背中を見下ろす。
「お疲れですね」
うつぶせの逸架が前髪の合間から七海を見る。少し、と溜息混じりに答えが返ってきた。ずるずると体を起こし、逸架は溜息をつく。七海は空いた席に座った。
「追われているような気がする」
それを七海は一瞬逸架の術式を奪った呪詛師の話かと思った。表情を険しくする七海に、誤解に気が付いた逸架は「時間に」と言い足した。
「私は時間が分からないことにすごく……困っているつもりだったけど、違うのかもしれない」
ぽつぽつと溢す逸架に七海は自身の膝に肘をつく。こういう口振りでものを言うときの逸架は大抵が面倒くさい。
「時間のことを考えなくていいのは、それはそれで楽だったかも」
七海は逸架を横目に睨む。
「そうですか、かわりに考えていた私はものすごく困っていたし大変でしたが」
「それは……はい、すみません」
七海は顔を伏せる逸架の耳のあたりを眺める。逸架にこのまま時間の感覚がしっかりと戻るならば、それに越したことはない。もし術式がを取り戻すことが出来なければ、逸架はどうするだろうか。術式がなくとも逸架は素の呪力だけで並の術師程度の働きは出来るだろう。後進の指導も案外悪くはないのかもしれない。七海は逸架に呪いと無縁な生活を送ってほしいと願い続けていたにもかかわらず、脳裏に浮かぶのは高専に残り細々と仕事をする逸架だ。
出会ったときから今まで、逸架は優秀な呪術師であった。逸架は呪術師であることを厭いながら死ぬまで呪術師であることを覚悟していて、七海はそういう逸架を痛々しく思うのと同時に尊敬もしていた。七海は逸架に呪術師であってほしくない。だが呪術師でない逸架も上手く思い描けない。七海は五条の言葉を軋むように思い出す。
かつて七海が呪術師を続けるか迷っていると打ち明けたとき、逸架は一晩考えて「どちらを選んでも応援する」と言った。逸架は一貫して七海の選択を尊重してきた。己が呪いから離れられない境遇にありながら、七海に対して恨み言の一つも溢さなかった。立場が逆転した今になり、七海は逸架の覚悟と痛みと優しさを思い知る。
七海はゆるく息を吸う。逸架さん、と名前を呼ぶと逸架は視線を七海に向ける。
「逸架さんが術式を失ったことは喜べませんが、時間の感覚を取り戻したことは本当に嬉しく思います」
七海が言うと逸架は眉尻を下げ少し笑った。七海は己が心変わりしないうちに言葉を継いだ。
「もし逸架さんがこれを機に呪術界から離れるなら、私はそれを後押しします。残るというなら、出来る限りサポートします」
逸架はふと瞼を上げ、それから目を伏せた。ゆっくりと頷き、噛みしめるように「ありがとう」と囁く。
七海は逸架の目を見る。沈んだ黒い瞳が、七海の目を一瞬だけ見て逸らされる。
「私は逸架さんの選択を尊重します。逸架さんは逸架さんのことだけを考えてください」
七海は言う。それは逸架に伝えるよりも、己に言い聞かせているような気分だった。逸架は疲弊し弛緩した体で姿勢を正し、眉根を寄せながら首肯する。
「はい、ありがとうございます」
丁寧に礼を口にしたあと、逸架は陰鬱に首を横に振った。
「でも、このままとは限らない。戻ってしまう可能性も高い」
「戻らない可能性もあります」
七海は体ごと逸架の方を向いた。何かを言いかけ口を開け、何を言おうとしたか分からなくなり口を閉じる。逸架がじっと七海を見ていた。七海は溜息をつく。
「進展があるまで待つしかありません。逸架さんはもう少し外に出たほうがいい。時間もわかることですし」
「でも一応自宅待機なので」
「待機していても任務があるわけでもないでしょう」
まあ、と逸架は口籠る。七海は青白い逸架の顔を見下ろした。逸架は目を伏せ、誰かから隠れるように身を縮こまらせ小さく頷く。七海はそれ以上余計なことを言わぬよう唇を引き結んだ。