How'd I get here, sitting next you (中)



 逸架が術式を失い三週間、時間の感覚を取り戻して二週間あまりが経過していた。逸架は無意味に電子レンジや録画機能をいじり回すことはしなくなった。そのかわり調理にのめり込み、タイムテーブルを作ってはその通りに調理をしていた。パスタを茹で温めたパスタソースをかけるのを皮切りに、最近は七海の帰宅にあわせて一汁三菜を並行で作るようになっており、七海の部屋の三口コンロは初めてその機能をフルに発揮することになった。七海はそれを見ながら「この人は術式さえなければ案外なんでも出来るんだな」と思った。
 術式があっても逸架は几帳面ではあった。時間感覚がなくてさえ、遅れがちとはいえ任務の報告書を自身で仕上げ提出しており、滅茶苦茶な経路を辿りながら単独で任務にも赴いていた。素の能力も高く、努力もしていた。これだけ色々出来る人がたった一つの能力が欠けているがために手足を縛られていたのかと思うと七海はやるせなくなる。
 どうかこのまま時間の感覚を再び失わないでくれぬかと七海は願っている。そのためなら術式が戻らなくてもいい。上層部の思惑も五条の目論見も七海には知ったことではない。十年に近い歳月、七海が願ってきたのは逸架の平穏だった。

 任務の合間に七海がスマートフォンを見ると、逸架から「帰りは遅くなります。心配しないでください」というメッセージが入っていた。近頃逸架は行動範囲が広がっている。期間限定のポップアップショップを見に行ったり、予約の必要な観光施設を訪れたり、ランチタイムだけの数量限定ランチを食べに行く。逸架にとっては得られる物質よりもその行為自体に意味があった。逸架の痩せ窶れていた頬には丸みと血の気が戻った。逸架は控えめだが楽しそうに毎日外出し、帰宅すると翌日何時にどこに出かけるか計画を立てる。生まれて初めて買ったとはにかみながら見せられたスケジュール帳には、売れっ子芸能人より多忙な分刻みのスケジュールが几帳面な字で書き込まれていた。
 逸架は行った場所、見たもの、食べたものを律儀に記録しては七海に報告する。七海はそれを喜ばしくも思ったが、同時に恐ろしくもあった。逸架は他者と一切の時間感覚を共有できないが故に、己が何が出来ていないのかも完全に理解し得なかった。時間感覚の喪失が己に、周囲にどれだけの影響を及ぼしているのか、七海は逸架にあまり詳細に知ってほしくなかった。知れば逸架はきっと傷付くだろう。人に気を遣いすぎる逸架は己を責めさえする。そのうえで逸架が再び時間感覚を失うことなど、七海はあまり考えたくなかった。だがそうなるのであればなお、逸架に今だけは只人と変わらぬ喜びを享受してほしい気持ちもある。七海は引き裂かれるような思いを抱えながら逸架を見送り、送られてくる画像を見て、翌日の予定を立てる逸架の話を聞く。
 七海が帰宅したのは夜の八時を回っていた。まだ逸架は帰っておらず、ダイニングはしんと静まり返っている。七海は照明と空調のスイッチを入れると上着を脱いだ。リビングのテーブルの上に置時計とキッチンタイマーが並べて置いたままである。七海は置時計を玄関のサイドボードに、キッチンタイマーをキッチンに戻しておいた。
 部屋着に着替えている間に玄関ドアのロックが開く音がした。着替えを終えた七海が自室を出ると、逸架が上着を脱いでいるところに行き会う。七海を見るなり逸架は少し気まずそうな顔をし「ただいま」と言った。おかえりなさい、と七海は応える。
 逸架は以前買ったきり袖を通していなかった薄手のブラウスを着ていた。思いのほか襟ぐりが大きく開いていて、術式のために肌を出す事を好まない逸架はそれを着るのをやめていた。布をたっぷり使った袖がふわふわと揺れている。
「遅くなりました。……これ、おみやげ」
 逸架は七海にキッチンカウンターに置かれた白いポリ袋を指さした。七海は袋の中を見る。乾物や海苔の袋と銀色の保冷バッグが入っていた。保冷バッグの中に生のホタテが入っていて、七海は「いったいどこに何をしに行っていたんだ」と訝しむ。
 自室で着替えて戻ってきた逸架が「七海、夕飯は食べた?」と聞いてくるので、七海は「いいえ、今帰ってきたばかりなので」と答える。大ぶりなホタテを指で示し「これ、どうしたんですか」と尋ねると、逸架は「買ってきた」と言う。それはそうだろう、と七海は眉を寄せた。
「どこでですか?」
「八食センター」
「……どこですかそれ」
「八戸、青森」
「青森? 青森県ですか?」
 うん、と逸架が頷くので七海は絶句した。東京から青森へ日帰りは無理ではないが、七海はしようとは思わない。せっかく行くなら一泊か二泊でもしてゆっくり温泉にでも浸かってきたい。
「何をしに?」
 七海の問いに逸架はついと天井を見た。
「別に何って程では……ホタテを食べに?」
「ホタテを食べに?」
 七海は思わず逸架の言葉を復唱する。ホタテなら近所のスーパーにも売っているが、それを言うのも野暮だろう。逸架は嬉々としてホタテをまな板の上に広げた。殻が小さくゆっくりと開閉している。
「網で焼いてバターと醤油を垂らすと美味しいって教えてもらった」
「うちに七輪なんてありませんけど」
「フライパンでもいいって」
 シンク下からフライパンを引っ張り出し逸架はコンロで火にかける。七海は冷蔵庫に手をかけ「赤? 白?」と尋ねる。逸架は間髪入れず「白」と答えた。七海は冷蔵庫から白ワインのボトルを出しグラスに注ぐ。逸架は「ありがとうございます」とグラスを受け取り一口含んだ。
 熱したフライパンに並べられたホタテがくつくついう頃、逸架は飲みかけの白ワインを殻の内側に垂らした。華やかな香りがキッチンに広がる。逸架はフライパンに蓋をし蒸し焼きにしながら、七海を見上げる。
「お昼は生のホタテ食べた。だから今度は焼きで」
「私も生のホタテ食べたかったんですが」
 七海が言うと、逸架はふと笑った。
「七海はいつでも食べられるでしょう」
 不意にかけられた言葉の冷たさと痛々しさに七海は何も言えなくなる。それを言った逸架にも、言わせた己にも腹が立った。七海は無言で年末に買ったまま飲めずにいた日本酒の封を切る。そのランクの酒にふさわしくない簡素なグラスになみなみと注ぎ、喉奥に流し込む。贅沢な酒香が呆気なく胃の腑に滑り落ちていった。逸架はそれを呆然と見て「もったいない……」と呟いた。
 逸架は蒸しあがったホタテに調味料を回しかけ皿に取りダイニングテーブルに並べる。焦げた醤油ととろけたバターの香りがした。席に着き、逸架は皿の前で丁寧に手を合わせる。箸でホタテの身を殻から引き剥がしながら、遠慮がちな視線が七海に向けられる。
「青森って、一日で行って帰ってこられるんですね」
 ぽつりとそう言われ、七海はホタテの身を切っていた手を止めた。手持無沙汰に日本酒に口を付け曖昧に「そうですね」と答える。
「知らなかった」
 逸架は言いながらスマートフォンを取り出した。画像フォルダを表示し、七海にいくつも写真を見せる。食べたものや景色の写真に時折時刻表や電光掲示板の写真が混ざるのが、七海に逸架の興味と関心を伺わせて切なくなる。逸架は市場の写真を見せながら目を細めた。切り取られた鮫の頭と逸架のツーショットを見せられ、七海は顔をしかめる。
 逸架はホタテを口にし咀嚼し嚥下する。グラスに口を付け水面を舐め、七海の顔を覗き込んだ。
「美味しい?」
「美味しいです」
「よかった」
 逸架はほっとしたように目を伏せ、ポリ袋から乾物の包装を取り出す。これは勧められて、これは試食が美味しかった、こっちは七海が好きそうだから、と一つ一つ説明する逸架を、七海はぼんやりと眺めていた。
「――逸架さんは、」
 七海の言葉に逸架は手を止め、七海の方を見る。七海は言うべきか迷い、堪えきれずに先を続ける。
「術式が戻らなかったら、どうしますか」
 逸架は一瞬苦いものを顔に浮かべ、きゅっと目を閉じ細く息を吐く。しばらくそのまま何も言わなくなったので、七海はホタテと日本酒を交互に口にしていた。食べ終えた頃に、七海は箸を置きながら首を横に振った。
「すみません、美味しいものを食べながら聞く話題ではありませんでした」
「……いや、いいよ。大丈夫」
 逸架は言うと、力なく七海を見上げた。
「術式がなければ、呪術師は続けないと思う。……それ以外のことはまだ分からない」
 ごめん、と逸架は俯く。そうだろうな、と七海はそれを聞いていた。術式を失い時間感覚を取り戻した逸架に呪術師を続ける理由はない。それは逸架にとっては幸福かもしれない。七海は重くなった雰囲気を打破するために「私明日仕事ないんですけど」と告げる。それを聞いた逸架はぱっと顔を上げた。
「――あ、お休み……私、あの、七海にお願いしたいことがあって……。もし明日、時間があれば」
 おずおずと遠慮がちに、だが熱っぽく言葉を重ねる逸架を七海は手のひらで制止する。逸架は口を噤み、七海は「お願いが何かによります」と言った。逸架は神妙な面持ちで背筋を伸ばし、多額の借金を申し込むような深刻さで「お願い」を口にする。その内容があまりにささやかで七海は思わず「はあ?」と言ってしまった。逸架は「馬鹿々々しいよね本当に」と呻いて肩を落とす。
 七海は溜息混じりに「いいですよ」と答える。逸架は歓喜よりも安堵を顔に浮かべ「ありがとう」と言った。言うなりグラスの酒を飲み干し、皿をシンクに戻す。
「明日の準備をします。今日は早く寝ないと」
「……早いですよ」
「早い? ……いや、早くない」
 逸架は風呂の給湯スイッチを入れ、皿を洗い出す。七海はグラスを片手に逸架の背後に立つ。いいんですか私で、と七海が言うと、逸架は手についた泡を流しながら「他に誰が」と眉根を寄せた。七海が何も答えず飲みかけのグラスを差し出すと、逸架はそれを手に取り口を付けた。
「あ、美味しい」
 逸架はグラスを惜しそうに七海に返した。七海はそれを受け取り軽く頷く。
「大事に取っておかずに飲んでいればよかった」
「そうだね。それホタテと一緒に飲みたかった――すみません、もう一口もらってもいいですか」
 七海の手から逸架がグラスを取る。湿った指先が手の甲に触れた。飲みながら逸架は「これ、どこのお酒?」と尋ねる。七海は「教えません」と答えた。逸架は飲んでいる酒が急に酢にかわったような顔をした。
「教えたら逸架さんは明日にでも現地に買いに行きそうで怖いので」
「……しないよ、そんなこと」
「本当に?」
 七海に問い質され、逸架は難しい顔をし黙り込む。逸架は黙ったまま七海の手にグラスを返した。やがて給湯完了の報知音が鳴り、逸架は軽い足取りで風呂場に向かう。脱衣所から「皿は洗っておくからそのままでいいよ」と声がする。七海はそれに「皿洗いくらいできます」と返した。


 *


 翌朝、七海は部屋に逸架がいないことに気が付き戸惑ったが、それも逸架の昨晩の頼み事に関係していると気が付き溜息をついた。
 時計は八時を少し回った時刻を指している。七海は時間に比較的余裕があることを確認し、コーヒーを淹れ、新聞を流し見、身支度をする。何を着るか迷い、無難にシャツとスラックスを合わせた。
 マンションのエントランスを出て駅前に向かう途中、隣家の軒先で猫が午前の日差しを浴びて寝転んでいた。七海はそれをぼんやりと横目に見ながら通り過ぎたが、思い直し数歩戻って腹を出す猫の写真を撮った。
 平日の十時前の駅前はそれほど人通りが多くはない。駅前にある全国チェーンの喫茶店にもそれなりに客はいたが、さっと店内を見回せば空席がいくつか見つけられる程度には空いていた。七海はカウンターでコーヒーを買い、店内を幾度か見渡す。何度か確認したはずの席に逸架の姿を不意に現れたように見つける。そう広くはない店内で逸架の姿を見つけられなかったのは、逸架がいつものような格好をしていなかったからだ。
 いつ仕事に呼び出されるか分からない逸架は、任務のない日も動きやすい服装ばかりしていた。制服を着なくなった頃から外出時に丈夫なジャケットとパンツ、ワークブーツ以外を身に着けている逸架を七海でさえそれほど見たことがない。逸架は釘をひっかければ破けそうな生地のワンピースを着ていた。組んだ脚の先に華奢なパンプスを引っかけている。
 七海は逸架がついた席のテーブルにカップを置き、椅子を引くと向かいに座った。
「誰かと思いました、素敵ですね」
 七海が言うと、逸架は読んでいた文庫本から視線を上げた。逸架は細い指先で胸元の生地をつまみ「いいでしょう。気に入ってる」と答える。逸架は七海の腕時計を覗き込んだ。
「……十時に待ち合わせをすると、本当に十時に人が来るんだね」
 ぽつ、と逸架は言った。
 逸架が心底申し訳なさそうに七海に頼んだのは「自分と待ち合わせをしてほしい」というそれだけであった。駅前の喫茶店に十時、という約束を果たした七海は今日二杯目のコーヒーに口をつける。
「そうですね、人にもよりますけど」
「七海は時間通りに来る?」
「大抵は」
「来ない人もいるんだね」
「五条さんなんか、いつも少し遅れてきますよ」
 七海が五条の行いを思い出し鼻を鳴らしながらそう言うと逸架は神妙な面持ちで頷く。
「五条くんは時間が分かるのにね」
 七海はそれに何と答えたらいいか分からず「まあ」と曖昧な返事をした。逸架のカップは空だった。いつからここで待っていたのだろうか。
「それで、この後はどうするんですか」
 七海が尋ねると、逸架は怪訝な顔をした。この後? と鸚鵡返しにされ、七海は眉をひそめる。
「予定もないのに待ち合わせはしないでしょう」
 七海が言うと逸架はのろのろと視線を移ろわせる。
「……それもそうか」
 眉根を寄せて黙り込み、何か考え出した逸架を名案身はしばらく眺めていた。ふ、と逸架の双眸が七海に向けられる。
「私は広島に行こうと思ってた」
「……はい?」
 思わず聞き返してしまった七海に逸架はゆっくりと「ひろしまけん」と言った。別に聞き取れなかったわけではない。
「なぜ」
「別に用事は無いけど……牡蠣を食べに?」
「牡蠣を食べに?」
 七海は逸架の言葉を聞いて溜息をつく。まるで電車好きの子供のようだ。なまじ金と時間があるので手に負えない。
「私は明日仕事なので――」
「うん、一人で行くから平気。帰りは遅くなります」
 七海は絶句し、カップを取り落としそうになる。また日帰り強行軍を敢行するつもりであったらしい。今から行くならほぼ半日だ。観光の時間はおろか食事もままならないのではないだろうか。昨日は青森県で、今日は広島県とは、これほどの早さで日本を反復横跳びする人間もそうはいないだろう。どうして仕事に忙殺されていた頃より、今の方が過密なスケジュールで動いているのだろうか。
「今日くらい時間を忘れてゆっくりすごしてはどうですか」
 七海の提案に逸架は不思議そうに「時間が分かるのに?」と呟く。七海はそれ以上の言い募るのはやめ、スマートフォンで数駅電車を乗った先にある映画館の上映時間を調べる。その画面を見せると、時間がずらりと並んだページに逸架は身を乗り出した。
「映画は」
 逸架は「いいね」とだけ言って七海のスマートフォンに両手を掛けた。七海は端末をテーブルに置く。
「今から移動して昼食をとって、と考えると――」
 画面をスワイプしながら午後から始まる映画をいくつかピックアップしようとする七海を逸架が制止した。
「私が決めたい。……いいですか?」
 七海は「どうぞ」とスマートフォンから手を離す。逸架は手帳を取り出し観たい映画と開始時刻、そこまでの所要時間を書き出していく。七海は几帳面に記される字を見ていた。コーヒーを飲み終える頃に、逸架は三つ比較していた案の内二つにバツ印をつけた。
「これにします」
 逸架は七海にスマートフォンの画面に表示された映画のタイトルを指さす。
「でも今から行くには少し時間がある。どうしたらいいと思う?」
 逸架は眉尻を下げ七海に意見を求めた。見れば昼食をゆっくりとったとしても一時間程度の余裕がありそうだ。
「そのへんで時間でも潰しますか」
「時間を潰す」
 七海の言葉を聞いた逸架は脚が無数に生えた虫を素手で捕まえろと言われたような顔をした。
「そんな、」
「店を冷やかすなり、天気もいいですし街をぶらぶらしていてもいいです。映画館の入っている建物の中にも、何かしら見るべきものはあると思いますけど」
 七海が言うと逸架は視線を彷徨わせ、消え入りそうな声で「本屋、とか、どうでしょう」と呟いた。七海が「いいんじゃないですか」と答えると逸架はよかったと呻く。別に正解などはないが逸架には手探りだ。
 逸架は緊張した面持ちで席を立つ。ワンピースの裾がゆらゆらと揺れた。

 七海は先を行く逸架の姿を少し後ろからついて歩いた。逸架は自分のスマートフォンで何度も路線と電車の発車時刻と現在時刻を確認していた。パンプスに慣れていないのは逸架なのか、それとも七海自身か、逸架の足元はどうにも不安気に見えた。平日の昼間の電車は空いていて、座席には並んで座ることが出来た。七海は緊張した様子の逸架に今朝撮ったばかりの猫の写真を見せる。逸架はそれを横目に見ながら生返事を返した。
「七海、映画の予約が出来るらしいですよ」
「ええ、しますか」
「しようかな……」
 逸架は背を丸めスマートフォンに集中する。じゅうよじじゅうごふん、じゅうよじじゅうごふん、と逸架は映画の開始時間を小さく口にし続けていた。
 七海はその姿を見て、どうにもならない気持ちになる。水を与えられた草木のように急速に色々なことが出来るようになる逸架を見ていると、喜びと同時に苦いものが迸る。それは尊敬出来る先輩への哀惜だった。つまり何事も自身でこなせるようになったかわりに何者でもなくなった逸架を七海が今まで通り敬愛できるかということで、抱くべき疑問でないことは重々承知していた。七海は逸架の不器用だが深い優しさを愛していた。痛々しいほどの繊細さも、内省的すぎるほどの思慮深さも。呪術師に向かぬ性質を備えた彼女にはどうか呪いとは関係のないところで平穏であってほしい。だが同時にそれと同じだけ、頼れる呪術師の先達としての逸架も七海には必要だった。
 七海はあの頃から少しだけ大人になり、誰かに必要とされたいという逸架の願いをうっすらと理解した。同時にそれを力任せに奪おうとした己の残酷さを悔いた。七海の軽挙を誤魔化さず正面から諫めた逸架の優しさも誠実さもやっと身に沁みてきて、そのうえで七海は逸架が術式を失い安堵もしたし悔しくもあった。どうして今だろうか。どうしてあのときではなかっただろうか。七海は社会常識を身に付け礼節を弁え冷静さを得て逸架の切望への理解を深めたかわりに、逸架の指に無理矢理指輪を捻じ込もうとした向こう見ずさを失った。
 七海はそんなことを、電車の座席に座りながら、昼食をとりながら、ずっと考えていた。本屋に行くと言っていたはずの逸架は雑貨屋で足を止めた。ずらりと並んだ時計に目を止める。ラックに鈴生りに陳列された色とりどりの時計は二十も半ばを超えた女性が持つような代物ではない。どこかで見たようなデザインの腕時計や、キャラクターをかたどったキーホルダー型の時計は、子供向けのファンシーグッズだ。「本屋はいいんですか」という七海に逸架は「本屋は後で」と答えた。
 逸架は映画の上映までの時間を全て使ってそこで時計を物色していた。猫が時計盤を抱えたキーホルダーを何度も手に取っていたので買うのかと思ったが、逸架はそれらを全て手放すと「あ、ごめん。もう映画始まっちゃうね」と肩を竦めた。
「待たせてすみません、先に行っててもらえばよかった」
「子供に混ざって時計を見てる逸架さんは面白かったので大丈夫です」
 七海の本気とも皮肉ともつかぬ口振りに逸架は少し迷い「そっか、よかった」と答えた。
「買わないんですか」
 七海の言葉に逸架は前を向いたまま「まだやめておく」と言う。七海はそれ以上追究しなかった。
 逸架は映画館で予約していた座席のチケットを発券できたことに長い感嘆の息をついていた。二人は並んだ座席で映画を観て、エンドロールの終わった薄暗い館内で二言三言感想を言い交わした。二人とも映画の内容にはさして興味がなかった。だが、面白いとは思った。
 映画館の入った商業施設のガラス張りの壁から日の傾きつつある空を見上げ、逸架は「やってみたいことがあるので、ここで一回解散していいですか」と言った。
「なんですか?」
「……いや、たいしたことじゃないから」
「必要なら付き合いますけど」
「一人で大丈夫だよ」
「何をするんですか」
「いえ、その、本当になんでも……」
「なんでもないならどうして言わないんですか」
 七海に詰められ、逸架は上映中ずっと握りしめられ角のふにゃふにゃになった半券を指先で弄ぶ。
「……終電で帰りたい」
 逸架が言うので、七海は「ああ」と呻いて手のひらで口元を覆う。
「昨日言ってくれればよかったのに」
 明日は朝が早いので、と言うと逸架は首を横に振った。
「一人でいいよ。一人がいい」
 七海はそう言う逸架の横顔を盗み見る。七海は逸架を侮っているわけでも軽んじているわけでもない。だが誰にも一目置かれ畏怖さえされる逸架が七海には迷惑をかけ頼りにしていることに、少しの優越感も抱いていないと言ったらそれは嘘だった。
 七海は逸架が自力で時間を掴めることを嬉しく思う。だが寂しくも思った。
 七海は翌日に備えて早めに帰宅することにし、逸架は終電に乗ってみたいというささやかな希望を叶えるために残ることになった。七海は商業施設から駅への道を歩きながら逸架に他にやりたいことはあるんですか、と尋ねた。逸架は「たくさんあるよ」と指折り数える。
「一番やりたいことは?」
「今は……昼寝かな」
 予想外の答えに七海は逸架の顔を見る。逸架は七海の視線から逃れるように肩を竦める。
「寝ている間にどれくらい時間が経ったか分からないから明るいうちは寝ないようにしてる」
 そう言われると逸架がうたた寝をするような姿を見たことがないような気がした。七海がすればいいんじゃないですかと言えば逸架はまだ怖いと小さく答えた。
「終電まで何をしているんですか」
「本屋に行こうかな。さっき行きそびれたから。そのあとは……じかんを、つぶします」
 逸架は緊張した面持ちで言う。七海は夜遅くに屋外をうろうろしないようにだけ言い含めた。
 駅の改札前で、逸架と別れ際に七海は逸架を呼び止める。逸架さん、と名前を呼ぶと駅の雑踏の中でも逸架は七海の声に反応した。
「以前も言ったように、私は逸架さんの選択を尊重したいです」
 七海が言うと逸架は目を伏せ「ありがとう」と囁く。急ぎ足の誰かが七海の脇をすり抜けていった。七海は息を吸い、そのまま溜息として吐き出した。逸架はじっと七海の言葉を待っている。
「でも逸架さんが呪術師を辞めるのは寂しいので、そのときは一度だけ泣きます。それだけ覚悟しておいてください」
 七海の言葉に逸架は一瞬呆気にとられ「覚悟……はい、覚悟します」と頷く。七海は眼鏡を押し上げ額に落ちてきた髪の毛を掻き上げると「では、気をつけて帰ってきてください」と言い残して踵を返した。それ以上逸架の反応を見ていられなかった。



 深夜、玄関ドアのロックが解除される音を、七海は自室のベッドの中で聞いた。半覚醒のまま逸架が帰ってきたことに安堵する。壁の向こうから小さな動作で靴を脱ぐ音がする。七海は閉じた瞼ごしに弱い光が室内に差し込むのを感じた。七海は無意識に寝返りを打ち、光の差す方向に背を向ける。
 やわらかな衣擦れの音が頭の後ろでして、七海はぼんやりと逸架が部屋に入ってきたのだろうかと思った。逸架が断り無しに七海の部屋に入ることはなかった。逆もなかった。
 七海の鼻先に外気のにおいが掠める。うっすらと煙草のにおいがするのは、終電の時間まで酒場にでもいたためであろうか。だが酒のにおいはしなかった。きっと七海の別れ際の言葉が、逸架を愉快な気持ちにはさせなかったからだ。
 しばらく何も物音がしなかったので、七海は逸架がいつの間にか戻っていったのかと思った。再び意識を完全に手放しかけたとき、逸架が床に膝をつく気配がする。柔らかいものが床に落ちる音がした。七海は昼間見た揺れるワンピースの裾を思い出した。
 ふぅ、と細く息を吐く音がする。冷えた手がするりと七海の耳の上あたりに触れ、髪を梳くように撫でていく。
 勝手に人の部屋に入り、寝ている誰かに触れていくなど、全く逸架らしくなかった。なので七海はああこれは夢だとぼんやりと思った。どういう夢だ、と呆れながら七海は毛布を引き寄せとろりと再び眠りに落ちた。