How'd I get here, sitting next you (下)
アラーム音で目を覚ました七海は寝起きの頭を振りながらベッドを抜け出した。リビングのカーテンを開け陽光を招き入れ、洗面所で顔を洗い、キッチンに立つ。コーヒーを淹れている間にダイニングに名刺が一枚置いてあることに気が付いた。手に取ると呪術界隈とは到底無縁そうな企業の代表取締役の名刺であった。モダンなデザインの名刺はいかにも新進気鋭の企業を思わせた。
コーヒーを飲みながらそれを裏返し表返ししながら眺めていると、逸架が部屋から出てくる。七海を見て少し眠たげにしながら「おはようございます」と会釈した。逸架は七海の部屋に間借りしていることを、いまだに毎朝申し訳なさそうな顔をする。
「なんですか、これ」
名刺を見ながら七海が言うと、逸架はケトルに水を入れながら七海の手元を覗き込んだ。
「名刺」
「……見れば分かりますけど。どこでもらったんですか」
「昨日、深夜までやってる喫茶店でパフェを食べていて――あ、パフェの写真見る?」
部屋に戻りスマートフォンを手にした逸架が七海に画像を見せた。小ぶりなグラスに盛られたパフェが映っている。可愛らしい盛り付けだった。
「夜しかやってないんだって。今度一緒に行きませんか」
逸架は沸いた湯をカップに注ぎながら言う。七海はいいですねと言ったあと名刺をひらひらさせながら「喫茶店と名刺に何の関係が?」と眉をひそめた。
「そこで隣の席に座っていた人がくれた」
「名刺を?」
「そう、仕事の話になって」
「え、それ逸架さんは自分の職業をなんて答えたんですか」
「……団体職員」
嘘はついてない、と逸架は神妙な顔をする。確かに嘘ではない。七海は今後対外的に職業を明らかにしなくてはならないときはそう言おうと思った。
「その人の話、面白かったよ。学生時代に起業して、今その会社やってるんだって」
「逸架さんも似たようなものじゃないですか」
「……たしかに」
逸架はわずかに目を見開いた。煮出されたティーバッグをカップから取り出し、ゴミ箱に捨てる。カップに口を付ける逸架を横目に七海は名刺をまた眺める。いい紙を使っている。名刺の持ち主に下心があったのだとしたら、終電間際に帰られてしまいさぞ臍を噛んだだろう。
逸架の眠たげな目が七海を見上げた。
「呪術師続けられなくなったら、大学行ってもいいなって思った」
七海はしばらくコーヒーの水面を見下ろしたあと「いいんじゃないですか」と答える。逸架にではなく、己自身にだった。逸架は眉根を寄せる。
「でも若い子に混ざって講義受けるの浮いちゃうかな」
「私が在学中にもそういう人がいましたよ」
「年上の?」
「ええ、その方は四十歳くらいだったと思います」
そう、と言ったきり逸架は何か考え込み始める。七海はコーヒーを飲み終えると自室でスーツに着替えた。出がけに「行ってきます」と言うと、逸架は寝間着のままキッチンから顔を覗かせ「いってらっしゃい」と言う。家を出て補助監督の運転する車に乗り込み、七海は昨晩のあれが夢であったのか逸架に問い質すのを忘れていたことを思い出した。忘れなければ帰宅した後に聞いてみようと思った。
七海が五条からの着信に気が付いたのは任務を終えた昼過ぎのことであった。スマートフォンのロック画面に着信の履歴が残っていることに気が付き、気分は乗らなかったが折り返す。数回のコール音の後「なーなみ、どうしたの? 僕が恋しくなっちゃった?」と調子外れに明るい声が耳朶を打つ。七海はそれを黙殺した。「アナタがかけてきたんでしょう」とさえ言わなかった。苛立ちの滲む声で「なんですか」とだけ言うと五条は「逸架ちゃんの術式を奪った呪詛師、死んだよ」と呆気なく言い放った。
「死んだ? 捕えたのではなく?」
「そう、死んだ。奪った術式を使える術師だったみたい。逸架ちゃんさんの術式を生兵法で使ったもんだから速度に体が耐えきれなくてバーン、ってね。レンチンミスったメンチカツみたいになっちゃった。報告用に画像撮ったけど送ろうか?」
「いりません」
「逸架ちゃん先輩の術式は人類にはちょっと早すぎた」
七海はアイウェアを外し胸ポケットにしまう。電話口に思わず溜息を吐きかけると、五条の声音がふと真剣なものになった。
「逸架は? そこにいる?」
「いません、出先です」
「そうか、逸架の術式はこのまま消滅したかもしれないし、逸架に戻るかもしれない」
七海はぐと眉根を寄せる。肋骨の内側で心臓が低く鳴った。七海は己がどれを望んでいるか自問し、答えを出すのはやめた。
「僕から伝えてもいいし、事務方から伝えてもいい。それとも七海から言う?」
七海は「私が伝えます」と答える。スピーカーからわかったと五条の声がするのを他人事のように聞いていた。
七海は五条の電話を切るなり逸架に電話をかける。しばらくコール音を鳴らしたが出る気配がない。通話をやめ、メッセージを送る。術式を奪った呪詛師が死亡しました、まで打ち込んだ七海はそれを全て消去し、電話ください、とだけ送った。
午後に一件現場をこなし、メッセージを確認するが既読になっていなかった。もう一度電話を鳴らすが、久しぶりに「おかけになった電話は――」のアナウンスを聞き七海は盛大に舌打ちをする。運転席の補助監督が萎縮したようにバックミラー越しに七海を見たので、七海は「失礼」と唸った。
高専で事務処理を終え、帰宅する頃にはすでに日は暮れていた。家路につきながら音沙汰のないメッセージアプリを眺める。外出先で携帯を確認していないのかもしれない。先日言っていたように昼寝をしているのかもしれない。連絡を忘れるほど何かに没頭しているなら、それはそれでよかった。そうであってほしかった。
自室に帰った七海はキッチンに照明がついているのを見て安堵する。また何か手のこんだものを作るのに熱中していたのかもしれない。だがキッチンには人の気配がなくしんとしていて、カウンターにカップラーメンが取り残されていた。
湯を注がれてからどれだけ放置されていたのか、麺がポリエチレンのカップのふちまで膨れ上がっている。七海はそれを見て眉根を寄せた。溜息さえつけずに細く震える息を吐く。
リビングで逸架はソファにもたれかかり本を読んでいた。七海は彼女の隣に座る。逸架はついと目を上げ「おかえり」と言った。常と変わらぬ陰鬱にさえ見える温度の低い目だった。七海は掠れる声で「大丈夫ですか」と尋ねる。逸架は壁の時計を、次いで七海の腕時計を見ると、目を伏せた。
「昼寝しておけばよかった」
逸架はそれだけ言うとすうと自室に引っ込んでしまった。七海は腕時計を外し上着を脱ぎ所定の場所に戻す。キッチンカウンターで冷たくなったカップラーメンをゴミ箱に捨てた。誰にも聞こえないよう小さく悪態をつき、ゴミ箱の蓋を閉めた。
*
地方のさらに郊外のローカル線鈍行列車に揺られながら、七海はずっと黙り込んでいた。右から左へ流れていく車窓の景色を楽しむ気分にもならなかった。
逸架に術式が戻ってから三日で突然振り分けられた仕事は、復帰早々にしては重すぎた。地方の寂れた漁師町まで足を運ばされ、呪霊の等級も高い。
地方の呪霊は都市部の呪霊とは質が違う。それは良い意味でも、悪い意味でもだ。土地に染みつき血縁に絡みつき、慢性疾患のように人間と共存するふりをして蝕んでいく。都市部の呪霊に忙殺される呪術師に感知される頃には、手の付けられないほど根を伸ばし人心に溶け込み輪郭を失い理を取り落とし現象として保存されている。人はそれを神、妖、怪談、信仰、習俗、習慣と、好きな名前で呼んだ。さらに厄介なのは、その手の呪霊は一度祓ったとて何度も発生することだった。人の更新が鈍い地方では恐怖や畏怖の記憶も薄れにくい。それらは再び呪いを産む。そこまで手が回らないというのが本音でもあった。
面倒で難易度は高いが緊急性はそれほどない任務を病み上がりの――という表現のしかたが適切かは分からないが――逸架に割り振る上層部のやり方が、七海にはどうにも気に食わなかった。あてつけめいてもいたし、見せしめめいてもいる。逸架がどういう感情を抱きながら己の術式に向き合ってきたか、多くの術師は知らない。知ろうともしない。逸架も詳らかにしない。
当の本人があまり気にした様子もなく電車の座席でみかんを口に運んでいるのもなんとなく腹が立った。そのみかんは乗換駅で電車の行き先を尋ねてきた老婦人に逸架が礼として手渡されたものであった。結局老婦人の問いに答えたのは七海ではあったのだが。
誰もいない車両に、みかんの甘酸っぱい香りが広がる。逸架さん、と言うと逸架は膝の上に載せていたもう一つのみかんをそっと差し出してきた。
「いえ、みかんはいいです」
みかんがほしくて声をかけたわけではない。
「でも答えたのは七海だし」
「声をかけられたのは逸架さんです」
七海が言うと逸架は肩を竦めた。
電車内では言葉を交わすことが少ないのが常であるし、今の今まで黙り込んでいたというのに、七海は急に沈黙に耐えられなくなった。車両に他の乗客がいないのをいいことに、この仕事の采配が如何に非人道的で非効率的かを恨み言半分で滔々と説く。逸架はみかんの最後の一房についた白い筋を剥がしながら時折小さく相槌を打っていた。七海がひとしきり言いたいことを吐き出すと、逸架はつるつるになったみかんの房を口に入れた。飲み込んだ後、七海に視線を向ける。
「人のいない現場だと多少被害が出てもごまかしがききやすいから、調子が戻っているか念入りに確認してこいってことかと思ってた」
「その受け取り方はお人好しすぎませんか」
「……良い部分に目を向けた方が楽なこともある」
逸架はゆっくりとそう言った。珍しく皮肉の類いを口にしたのかと思ったが、そういうわけでもないようだった。七海は「逸架さんってたまに年寄りじみたことを言いますよね」と答えた。
逸架はじっと七海を見た。
「だから……術式がしばらくの間なくなったことも、悪くはなかったとは思ってるよ。楽しかったし」
やりたいことはもっとあったけど、と逸架は膝の上に敷いたティッシュペーパーの上でみかんの皮を細かく千切りながら言った。
「楽しかったですか」
「楽しかった」
みかんの皮の苦い香りが鼻先を掠める。
「戻ってしまって、残念でした」
七海が言うと逸架はしばらく黙り込み「そうでもない」と膝に向かって呟いた。
「術式がない間は七海の機嫌が悪かった」
逸架にそう言われ、七海はぎょっとした。即座に反論できない程度には心当たりがあったが、逸架に気取られているとは思っていなかった。身勝手な葛藤は押し隠して後援者に徹していたつもりだった。
「……そんなことはありません」
七海はシャツの下でじっとりと汗をかきながらそう呻く。そっか、と逸架は頷いた。
「言い方が悪かったかもしれないけど……機嫌が悪いというか、その、迷惑と心配をかけていたなって、言いたくて……」
逸架は言葉を重ねる。七海はむっつりと黙り込んだ。車内にアナウンスが響き、間もなく目的の駅に到着することを告げる。逸架はティッシュペーパーを丸めてポケットにしまうと、足下に下ろしていたバックパックを担ぎ上げた。七海も席を立ちながら逸架を見下ろす。
「機嫌を悪くした覚えはないです」
「……ごめん、私の思い過ごしだったかも」
「子供じゃないんですから」
「そうだね」
言い募る七海に律儀に返事をしながら逸架は電車を下りていく。ホームにはかつて漁師町と観光地として栄えた名残が色褪せた看板として残っていた。冷たい潮風が吹きさらしのホームを抜けていく。うっすらと磯の香りがした。
指定の場所に向かいながら七海が「そういう風に思っていたんですか」と問うと逸架は困惑気に眉を寄せた。
「思っていたというか……ごめんね、そんなに気にすると思わなくて」
「気にしているわけではありません」
「……そう」
七海は指定された現場のGPS座標を地図アプリに打ち込む。
「逸架さんこそ、人の気も知らないではしゃいでいたじゃないですか」
七海が八つ当たり気味にそう言うと、逸架は改札を抜けながら目を伏せ神妙な顔つきになる。
「そうかも、ごめん」
七海は言葉を詰まらせ、溜息をつく。
「すみません、今のは八つ当たりです」
逸架は少し困った顔をして「でも、七海の気持ちも考えるべきだった」と言った。七海はこんな言いがかりさえ真に受ける逸架にうんざりもした。
目的地まで歩きながら、逸架は「でも、いずれは戻ってしまうんだろうなとは思ってた」とぽつんと言った。
「そうですか――逸架さん、その看板を右です」
雨の降り出しそうな曇り空であった。「手早く終わらせて帰りましょう」と鬱蒼と樹木の生い茂る岸壁を七海は指さす。逸架は「ああ、あれ」とその場所に視線を向けた。
道中には呪霊の気配に引き寄せられたのか蠅頭や低級の呪霊がふわふわと漂っている。二人はそれらを出来る限り祓いながら進んだ。逸架が指で弾いたBB弾が呪霊を木っ端微塵にし張り出した木の枝を砕き土を捲れ上がらせたのを見て、七海は鉈を振るう手を止めた。
「……逸架さん」
「はい」
「苛ついてます?」
「そういうわけでは」
よかった、と七海は返した。七海の八つ当たりに逸架もああ言いながら腹を立てているのかと思った。逸架はその場で手を握ったり開いたりする。
「やっぱり少し……変な感じはします」
「平気ですか」
やはり段階を踏んで慣らした方がよかったのではないかと眉をひそめる七海を横目に逸架はボトルからBB弾を手のひらの上に出した。
「公共の場のトイレで、前の人の体温が残った便座に座ったような感じ」
逸架が真面目な顔でそう言うので、七海は蠅頭を叩き切りながら「……そうですか、平気そうでよかった」と答えた。
数日前の雨で土砂崩れが発生したということにして、周囲一帯には地元の人間も入れないようになっていた。もっとも心霊スポットであり自殺の名所であり信仰の対象でもあった海崖には地元民は滅多に近寄らないらしい。崖上に向かう一本道には三角コーンでロープが張られている。ロープに掲げられた雨風にさらされごわごわになった貼り紙にには「噂は本当です 入らないでください 地元民より」と太いペンで書き殴られていた。
逸架は屈んでそれを見ると、丁寧にテープを剥がしてそれを回収する。
「祓ってもすぐに次がありそうですね」
「おかげで私は高専に戻らなくても怒られなかった」
貼り紙を畳んでバックパックにしまい込むと逸架はそう言った。実体の曖昧な呪霊の相手は逸架の術式が得意としている。高専はそういう任務を優先的に逸架に振り、出張先から逸架が滅多に戻らないことにもある程度目をつぶっていた。
逸架はバックパックを木の根元に置いた。
「ロープからこっちに入るときは気をつけてください。戻ってこなかったらよろしく願いします」
逸架は何も持たずに暗く細い道に分け入っていった。がさ、ぱき、と下草を踏み分ける音が遠くなっていく。七海は帰りの電車の時間を確認した後、腕時計の秒針が規則正しく時間を刻むのを見下ろしていた。
ず、と腹の奥が震えるような違和感があった。視線を上げると、景色はほとんど変わらないが雰囲気が変わっている。木立は遷移が進み、かろうじて整えられていた小道が埋もれ、三角コーンは色褪せひび割れ崩れかけている。
いっそう歩きにくくなった小道を逸架は藪を漕ぐようにしながら戻ってきた。髪の毛に小枝や草の実をつけている。逸架は七海を見つけ息をつく。
「……やりすぎました」
「ここまでしなくてよかったのでは」
「一応動作確認をね、しようと、思って」
逸架はばたばたと上着を払った。七海は後襟についた草の実を外してやる。それを見た逸架は「なにかちくちくすると思った」と顔をしかめた。
「つかれた」
そう呻くと逸架はバックパックを担ぎ上げる。七海は腕時計を見た。
「逸架さん、少し急ぐと待たずに帰りの電車に乗れそうです。どうしますか」
逸架はそれを聞き髪に指を通した。急ぎましょう、と言う声音が疲れ切っていた。
急ぎ足に来た道を戻り駅に飛び込みホームに滑り込んできた電車に乗り込んだ。往路同様車両はがら空きで、逸架は席に着くなりぐったりと窓に寄りかかった。
「だいぶお疲れですね」
七海の言葉にも溜息混じりに首肯を返すだけだ。ねむい、とだけ小さく呟く。七海は着いたら起こしますよと何の気なしに言いかけ、それを飲み込む。
七海が黙って隣に座ると、逸架は「十年前なら迷わず辞めてた」と言った。七海は逸架の横顔を見る。逸架は両手で顔を覆う。
「今は……迷ったよ。すごく迷った。このまま戻らなければいいと思ったし、大学にも行ってみたかった」
するりと顔を撫でて逸架の手が膝の上に落ちていった。
「でも、七海を残していくのは……やっぱり違うんじゃないかとも思った」
眠気を堪えるように逸架はぐるぐると足首を回した。七海は呆然と俯き爪先を見る横顔を見つめた。
「術式が戻らなければいいとも思ったけど、戻って……少しほっともしてる。――心配してくれていたのに、ごめん」
逸架は膝の上に載せたバックパックを抱きしめ、頬を寄せる。七海はそれを聞いて緊張の糸がほどけたようだった。相反する思いを抱え、どうしようもなく思っていたのが己だけでなくて、心底安堵した。七海は上着のポケットからハンカチを取り出し、逸架の顔にそっとかけた。逸架はしばらくそのままでいたが、ハンカチを指先で摘まんで持ち上げ怪訝そうな目で七海を見る。
「え、なに?」
「お疲れならならどうぞ寝てください。起こしますので」
「いや……いいよ、大丈夫」
「絶対に昼は眠らないわけではないんでしょう?」
「まあ……生理現象ですし……」
「必ず起こしますよ。起きなければおぶって運びます。機嫌が直ったので」
七海が言うと逸架は何か言いたげな顔をした。ここで余計なことを言って刺激しなければ逸架がわざわざ「やっぱり機嫌が悪かったのでは」というようなことを言わないと七海は知っているので、それに気が付かないふりをした。逸架は顔の上にハンカチを戻し「よかった」と眠たげに答えた。
「補助監督とか、考えた」
逸架はハンカチの下で呟く。喋るたびに薄い布がふわと揺れた。七海はそれを聞き、無茶だと思った。前線に立ってさえ救えぬ仲間に心を砕く逸架が、自分よりはるかに年下の子供たちを戦場に送ることが出来るとは思えなかった。それを割り切り自分のやるべき仕事を遂行できるほど逸架は強くはない。無理でしょうと素気無く言えば、逸架はそう思うと短く答えた。
「七海が心配だった」
「そんな心配をされるほど弱くも子供でもありません。心配されるべきはどう考えても逸架さんでしょう」
「でも、七海はね、大切な後輩だから」
ハンカチごしに逸架があくびを噛み殺す気配がした。
「大切にさせてください」
深く息を吸い、長く細く吐く音がする。逸架は背後の窓にごつんと後頭部を当てた。七海は逸架がどういう顔でそれを言ったのか分からないままであった。ハンカチのチェック模様をいくら見つめてもその奥が見えることはない。
「いいですよ」
七海がぞんざいに言うと、逸架はふと笑った気がした。ななみ、とやわらかな声は車両が線路の上を滑る音にかき消されそうになる。
「なんですか」
「七海、長生きしてください」
それに分かりましたと答えられるほど呪術師は手緩くはなく、七海は無責任ではない。答えあぐねる七海に逸架は言葉を重ねる。
「私は七海より先に死ぬので」
七海は逸架のなめらかな頬をかたどる薄い布を眺めた。どうして、と七海は呻く。それが冗談にならない程度には、死にほど近い仕事を生業にしてしまった。
「……たえがたいから」
逸架の口調はいよいよ夢うつつになる。譫言のようなそれは、だがきっと偽らざる本心だった。七海の返答を待たずに、逸架はすうすうと寝息を漏らし始める。七海はしばらく流れゆく景色を眺めた後、窓に寄りかかる逸架の耳の上のあたりをそっと指先で梳いた。逸架の肩に草の実が落ちる。七海は「努力します」と低く呟いた。返事はなかった。