Eau Duelle (上)
七海建人は現在大学三年生であるが、かつては呪術師として闇夜に蠢く異形を人知れず討つことを使命としていた。十代にありがちな夢想でなく、診察を必要とする妄想でもなく、それは単なる事実だ。持って生まれた性質のために七海は一度その道を志し、そして挫折した。華々しい思い出かと問われれば、七海は否と答える。思い起こせば苦い記憶の方が多い。悪意、悲嘆、嫉妬、憎悪、別離、喪失、そういうものが絶えず付きまとう業界であった。
いい思い出もある。良き師に、良き仲間に恵まれた。良い出会いも多かった。感謝も、やりがいも、多く得られた。だが喪失の痛みを覆すことは出来なかった。果たして己の行いと仲間の犠牲に意味はあるのかという疑問に、七海は自分自身で答えが出せなくなった。だから、辞めた。
途中編入した大学に慣れるのは多少時間がかかった。十五歳から五年間、ある意味俗世から隔絶されていた七海にとって普通の大学生活は馴染みの薄いものであった。同期の名簿がA4の書類で数枚続いていたときには目眩を感じた。世の中にはこれほど学生がいるのかとたじろぎさえした。
七海にとって同窓は片手で数えられる程度の人数で、徐々に欠けていくものだった。その分結束は固く、互いのことをよく知り合い信頼し合っていた。七海はその名簿の全員と親交を深める必要はなく、そもそも顔を合わせる機会もないであろうことを知り安堵した。
命を懸ける覚悟など必要は無く、懸案することといえば課題の提出と試験のことが上限の生活は心地よくもあり、薄味で輪郭の曖昧な気もしていた。
大学のいいところの一つは、望まなければ他者と深く関わらずに済むところだ。途中編入した七海は他の同期に紹介されることさえなかった。課程の異なる様々な人間の入り混じる講義室では編入の七海を気にする者はそれほどいない。はじめのうちこそ物珍しいものに向けるような視線も受けたが、それもじきに無くなった。幾度か飲み会の誘いを受け、儀礼的に応じたが数回だけだった。
講義のことについて言葉を交わす顔見知りは数人いたが、それ以上踏み込む気にはならなかった。もとよりそれほど賑やかな場を好む質ではなく、疲れてもいた。必要がなければあまり他者と関わらず心静かに過ごしたかった。
大学生活初めての夏休みが始まる前に、七海は研究室への配属が決まった。それなりに人気のある研究室で助手や院生も多い。研究室にはいつも誰かがいた。人の気配とゆるやかな連帯に慣れ心地よさを感じるようになった晩夏、夏休みが終わる頃のことである。
少しずつ短くなった日が暮れかけるのを見て、大学図書館にいた七海は資料を書架に戻した。教授がいれば少し話をしていこうと研究室に向かう。研究棟の二階の端は薄暗いが、研究室から漏れ出る光が廊下に伸びていた。誰がいるのかと研究室を覗くと、学生が四、五人集まって飲み会をしていた。長机に寄せ集めの椅子を並べ、酒とつまみを並べている。
七海の姿を見るなり、大学院生でムードメーカーの国木田という男が歓声を上げた。大きく手招きされ、七海が「いや、私は――」と言い終える前に折りたたみ椅子に座らされ紙コップを手渡される。大きな瓶からどぼどぼと清酒を注がれた。透明な飛沫が跳ねて七海のズボンにぽつぽつと染みを作った。
「まあとりあえず飲めって」
肩を叩かれ七海は渋々紙コップに口を付けた。不味くはないが美味くもない。紙コップに並々と押しつけられる酒には味わう余裕もなかった。一口分水位が下がった紙コップに、誰かがすかさず酒を足した。
大学に編入して強く思ったのは、初めて一緒に酒を飲んだのがあの先輩でよかったということだった。あの先輩――逸架は七海が五年通った高専で最も世話になった先輩であり、最も世話を焼いた先輩でもある。七海が「先輩」と言えば大抵は逸架のことを指す。
当人が酒で身を持ち崩しかけたせいか、逸架はアルコールをおもちゃにするような飲み方を絶対に七海に強要することはなかった。むしろ酒を飲んでいる最中の七海の体調を七海以上に気にかけていた。
地方出張の土産で逸架が買ってくる地酒を七海はあまり深く考えずに受け取っていたが、今思えばどれもそれなりの物だったのだろう。七海は日本酒を逸架の土産くらいでしか飲むことがなかったので、不味い日本酒というものを大学の飲み会で初めて飲んだ。安い飲み屋の飲み放題――飲み放題という制度も、七海はこのとき初めて利用した――で供された蔵元も分からない日本酒の味とにおいと衝撃を七海は今でも忘れられないでいる。それを思い出すたびに、七海は己が逸架にどれほど大切にされ可愛がられ甘やかされていたかを思い知る。
時折、七海は逸架のことを思い出した。七海が思い出すのは、逸架の術式によって時間が停止した世界に放り込まれたときの感覚だ。極端に間延びした時間の狭間にぽとりと落とされる孤独と、もう二度と通常の運行に戻れぬのではないかという不安と、音すら拡散できぬ凍り付いた世界で背後から囁かれる淡々とした声音の安堵。それが少しずつ感覚として薄れていき記憶という情報として保存されるのを自覚するたび、七海は僅かに胸が痛んだ。
まだ日も落ちたばかりだというのにすっかり出来上がっているらしい国木田は、七海の肩に寄りかかる。気が付くと国木田と反対側に一学年上の女性が座っていた。
「七海くんって彼女いるの?」
女性は同じ研究室に所属していたが、それほど親しく話したことはなかった。宴席の定番の話題と分かっていても、不躾に踏み込まれると身構えてしまう。
「いないです」
七海が短く答えると嘘だろと国木田が七海の胸のあたりを小突いた。
「なんで? 編入前に別れた?」
女性は酔って赤みを帯びた顔を七海に寄せた。七海は溜息混じりに首を横に振る。国木田は七海ごしに女性を押しのけた。
「ばか、あれだぞ、七海はお坊さんになるとこだったんだぞ」
宗教系専門学校に通っていたという建前がどういう伝言ゲームでそうなったかは知らないが、研究室で七海はそういうことになっている。進んで訂正しようとは思わなかったので、それを信じている人間は多い。
「え、男子校?」
女性は目を丸くした。
「……いえ、女性もいました」
「尼さんだった? 女の子も坊主なの?」
七海が否定するのを誰も聞いていなかった。女性の言葉にどっと宴席が湧いたからだ。女性は首を巡らせると、長机の端に座っていた同学年の女性に「えぐっちゃん良かったね、七海くんフリーだって!」と酔ってふやけた大きな声をかけた。声をかけられた江口はぱっと顔を上げ、苦笑いすると肩をすくめた。
「えぐっちゃん、七海くんがウチに配属されたときからずっと七海くんの話してるよ」
七海はそれに何と答えるのが適切か分からず「そうですか」とだけ答えた。七海は江口を研究室で見かけたことはない。女性の知り合いなのだろうか、別の研究室なのかもしれない。
「七海くんお坊さんなら、今日一緒に来てもらえばいいじゃん」
女性がそう言って七海の肩に手を置く。七海はさりげなく紙コップをテーブルに戻した。宴席で七海が最も嫌いなのは、無遠慮に注がれる日本酒だ。それから適温を逃したビールとブドウの味がしないワインと雑に飲まれるハードリカーと煮詰まった鍋。
国木田が「あ、それもいいな!」と七海の肩を抱く。
「俺ら今から心霊スポットいくんだよ。七海も来るか?」
早い時間から宴も闌となっていたのは肝試しの景気づけであったらしい。七海は「遠慮します」と答え席を立ちかける。それを国木田が無理矢理座らせた。
「そんなこと言わず。俺らにお経あげてくれよ」
それは最悪の事態が起きた後の話では、と七海は思ったが、酔っ払い相手にまともに取り合うのも馬鹿々々しかった。
「すみません、用事があるので」
そういう七海に次は女性が席に戻した。
「じゃあ好きな女の子のタイプ教えてよ。教えてくれたら帰っていいよ」
女性の発言を国木田が囃し立て、宴席が湧く。七海は息を吐き、前髪を掻き上げる。
「長い時間を一緒に過ごすなら、穏やかで思いやりがあって思慮深い人です」
おおお、と茶化すような声が上がる。女性が「私じゃだめだぁ!」と悲鳴をあげ、皆が大声で笑った。
夏を惜しむような宴席を見かけてから一週間ほど経った頃、研究室のデスクで本を読んでいた七海は「七海くん」と声をかけられ顔を上げる。研究室のドアを細く開け、江口が室内を覗いていた。江口は不安そうに服の裾をいじっていた。
「あの、変なこと聞くんだけど、あの肝試しの日から先輩たちに会った?」
そう言われ、七海は本を置き記憶を手繰る。夏季休暇中とはいえ暇を持て余した学生や論文を書く学生の出入りはある。だが、国木田たちは見かけていない。
「見かけていませんが……何か用事ですか」
そういうわけじゃないんだけど、と江口は言い淀む。七海は眉をひそめて「どうかしましたか」と尋ねた。
「あの日からユカと連絡取れなくて……なんか心配で……」
肝試しの後に姿を見かけないというのも出来すぎている。まるで出来の悪い怪談の冒頭のようだ。だがそれが一層不安を煽るのも分かる。不安は不安を呼び膨らませ、恐怖と猜疑は心を曇らせ呪いを産む。七海はそこまで考え、眉をひそめてゆるく首を振った。
「そうですか、それは心配ですね。怪我なんかしていなければいいのですが」
七海が不安に同調すると、江口は少しほっとしたように表情を緩める。
「そうだよね、やっぱり家に行ってみようかな。風邪とかひいてたら何か買っていってあげないと」
江口はそう言うと「勉強中にごめんね」と言ってドアを閉めた。七海はデスクに置いていた本を取り上げ、続きを読み始める。だがその日はなんとなく集中できず研究室を後にした。行く当てもなく街をぶらつき、映画館で一本映画を観て帰った。
翌日、研究室にいた七海のもとに再び江口が尋ねてきた。江口は昨日よりいっそう不安そうな顔をしていて、顔色は悪く眉根を寄せていた。いかにも何事かあったようで、七海は一瞬「面倒なことになった」と思った。
「昨日、ユカの家に行ったんだけど……」
七海が先を促す前に江口は溢れるように話し始める。ところどころ要領を得ないところを頭の中で整理しながら七海はそれを聞いていた。
江口がユカの部屋を訪れインターホンを押したが、しばらく返事がなかった。何度か押した後、ドアが細く開いてユカが顔を出した。短期間でやつれた様子のユカはひどく怯えた様子でドアの隙間から江口を見上げた。ぎょろぎょろと忙しなく動く目が江口の背後に警戒するように視線をやる。錯乱したユカは「あいつが来る」「隠れなきゃ」と何度も繰り返していた、と江口は言った。
「怪談みたいですね」
七海は深刻になりすぎないよう、突き放しすぎないように言葉を選ぶ。江口はぎゅっと眉眉根を寄せた。
「……七海くん、一緒にユカのところに行ってくれない?」
江口の言葉に、七海は誤解を解いておかなかったことを後悔した。七海は溜息混じりに首を横に振る。
「江口さん、私は別に僧侶を目指していたわけではありません。それは人が勝手に言っているだけです。経もあげられないし、幽霊退治なんてできるわけがない」
七海が言うと、江口は俯いた。小さな手が戸惑いがちに握られている。彼女から、ふっと腐肉の焦げるようなにおいがする。淡い残穢の気配だった。七海はそれに気付かぬふりをする。
江口は遠慮がちに七海を見上げた。
「あのね……私、少しだけ変なものが分かるの。別に霊感とかそいいうわけではないんだけど」
はっきりと見えるわけではない。見てはいけないものや、良くない場所の気配がうっすらと分かる。江口の言葉に七海は眉をひそめた。術師になれるほどではないが、呪いの気配に敏感な気質なのかもしれない。
「七海くんも、そうだよね」
真っ直ぐに顔を見ながらそう言われ、七海はくっと目頭に力が入る。こめかみのあたりからとくとくと脈打つ音がした。
「……さあ、怪談話は嫌いではありませんけど、幽霊を見たことはありません」
江口の表情に落胆が浮かぶ。七海は苦い罪悪感を飲み下した。
「江口さんは肝試しに行かなかったんですか」
「私は……怖がりだから」
「賢明だと思います」
人は誰しも己の行いの責を負う。いわくのある場所に出かけ、得体の知れない何かに付きまとわれているのならば、たとえそれが無思慮の果てであってさえ、その報いは受け入れなければならない。
呪いは強弱こそあれど巷にありふれている。己にはそれを知覚し排除する能力がある。だが、七海はそれと決別した。責任を負わず憐れみをかけた相手を手慰みのように救う半端な真似をする気はない。七海は呪いと無縁の生活を送ると決めた。そしてその行いの責を負う覚悟も決めた。
「でも、七海くん……」
「私は霊能者でも医者でもありません」
七海が素っ気なく言うと、江口は「そうだね、ごめんね」と項垂れた。その萎れぶりが哀れを誘い、七海は「申し訳ありませんけど」と付け足した。
とぼとぼと帰っていく江口の背中を見送りながら、七海はこれでいいと己に言い聞かせた。
*
某県某所、山間の温泉街は規模こそ大きくないが泉質に優れ隠れた名湯と知られている。そこに宿を取ったと冥冥に言われたとき、逸架は「どうしてそんな場所に」と思った。指示された現場への交通の便が良いとはいえない。出張の前泊なら、もっといい宿泊施設がいくらでもある。とはいえ宿の手配の一切を冥冥に任せきりの逸架は文句の言えようはずもない。
冥冥が宿泊の手続きをしている間、逸架は古びているが広く豪奢で手入れの行き届いたロビーで呆然と待ちぼうけていた。赤い天鵞絨張りの椅子に勧められるままに座ると、何も言わずとも抹茶と干菓子が出された。逸架はそれに口を付けながら洒落たロビーを眺めた。
逸架はあまり宿にこだわりがない。出張先の宿は補助監督に手配を頼むか、ネットで最安値のホテルをとる。最悪当日飛び込みで宿泊する。逸架が宿に求めるのは時間にうるさくないことだけだ。朝食夕食の時間を指定されるこの手の旅館はまず避ける。
そもそもこれほど贅沢な宿は如何に一級呪術師の冥冥とはいえ経費が下りないのではないだろうか、と逸架は訝しむ。
怪訝に思いながらも部屋に案内された逸架はまた呆気にとられた。離れにある二間続きの和室は大きな窓から石造りの露天風呂が見える。バックパックを抱えたまま部屋の充実ぶりに目を丸くする逸架に冥冥はゆるりと背後の窓を肩越しに親指で指し示した。
「ご覧よ、我々でひとりじめだ」
「すごいですね、すごいですけど……」
これ経理さんに怒られませんか、と逸架がおずおずと冥冥を見る。冥冥はふっと笑って何も答えなかった。やはり怒られるのではないかと逸架は青くなる。逸架は荷物もそのままに脱衣所と洗面所を兼ねた露天風呂への出入り口をうろうろしていた。豊富なアメニティを手にとっては戻す。
荷解きを終えた冥冥が四合瓶片手に脱衣所に入ってきた。
「夕食前にひと風呂浴びるだろう?」
「……そうですね、そうします。せっかくなので」
逸架がぽそぽそと答える間に冥冥はさっさと着ているものを脱ぎ捨て露天風呂に向かう。逸架はそれを見送り、和室に戻り荷解きし仕事の資料に軽く目を通してから浴場に向かった。
湯煙が昼光を受け乳白色にきらめく。かけ湯をした逸架は水面に爪先を浸した。部屋についているものとはいえ岩風呂はちょっとした大浴場施設の露天風呂ほどの広さがある。逸架は一泊の価格を推定しようとし、やめた。絶対に経費で落とさせようとする冥冥と、絶対に経費で落とさせまいとする経理事務員のバトルを高みの見物するしかない。逸架はすでにある程度手出しがあるだろうなと諦めていた。
冥冥は手近な岩に酒瓶と硝子の酒器を置き飲み始めている。髪を纏め露わになった肩に、湯雫が伝っていた。
「君も飲むかい」
「一応仕事中なので遠慮させてください」
「相変わらず固いな。仕事だよ、飲まずにやっていらない」
冥冥の軽口に逸架は肩まで湯に浸かりながら苦笑する。
「日の高いうちから可愛い後輩と温泉で美味い酒、浮世の澱を雪ぐのにこれ以上はない」
「……光栄です」
「なに気にしなくていいさ、誉め言葉はタダだ」
逸架は湯の中で手足を伸ばす。指の先から温度が染み込み緊張をほぐしていく。誰かと組んでの任務は久しぶりであった。逸架は単独任務が多い。それは歪んだ時間感覚のせいでもあり、逸架の実力がパートナーを必要としないからであり、逸架自身が誰かが傍にいるとそれに気を取られ十全の力を発揮できない性質であるためだ。
冥冥は湯の中をざぶざぶと逸架の傍らまで進んだ。隣に座り、半分ほど中身の残った酒器を逸架に勧める。逸架は頭をわずかに仰け反らせた。
「すみません、本当に……」
「逸架、仕事は明後日だよ。だからこれは出張じゃない、ただの小旅行だ」
私のおごりでね、と冥冥は目を細めた。は、と逸架は短く声を漏らす。
「いい宿だろう?」
「……はい。ああ、いや、え? どうして?」
「君の時間の感覚はどうにもならないようだね」
「ええ、それは……すみません」
「謝らなくていい。手玉に取りやすくて実に結構なことだ」
冥冥の言い分に逸架ははあと呻いて項垂れる。そうであるから勧められるままに酒に手を付けられるかといえば、それは別の話だ。守銭奴と名高い冥冥のおごり、それもこれほど贅沢な温泉宿とは、裏がないわけがない。
逸架は傍らの冥冥に視線を向ける。
「何か御用事ですか」
「さすが話が早くて助かる」
冥冥はふと笑った。
「独立を考えている。聞いているかもしれないけど」
冥冥は単刀直入に言う。逸架は浅く頷いた。情報通とは言い難い逸架はそれを今初めて知ったが、特に驚きはない。呪術師としての研鑽の果てに何を求めるかは呪術師次第だ。力、名誉、賞賛、家名――冥冥は金だ。冥冥はそれを公言して憚らない。冥冥ほどの実力があれば個人への依頼は引きも切らない。独立すれば依頼の選り好みも出来、何より協会に上前をはねられることもない。
そうですか、と短く答える逸架に冥冥は湯面を揺らして笑う。
「素っ気ないな、はなむけの言葉はないのかい。少しは惜しんでくれてもいいだろう」
「すみませんそういうつもりでは……惜しくはあります。寂しくも思います。ですが、冥冥さんの決めたことですから。……ますますのご活躍をお祈りします。ご武運を」
逸架の言葉に冥冥は唇の端を上げて会釈した。細い、だが大斧をたやすく振り回す長い指が逸架の額に張り付いた髪を払った。
「君は相変わらずだな」
「そう……そうですか?」
冥冥の手のひらが逸架の額を撫でる。
「どうだい、私と独立しないか」
それを聞き逸架は体を強張らせた。協会に、高専に、思うところがないわけではない。だが救われてもいる。恩義もある。何より身一つで放り出された逸架は赤子より無力だ。独立すれば依頼者とのやりとりも、情報収集も、各方面との取引も書類手続きも収支の計算も事務も税務も居住地の確保も全て自身で行わなければならない。それは逸架にとって強大な呪霊を相手取るより遥かに困難だ。それら全てを冥冥に頼り切ることは出来ない。
逸架は目を伏せ濁った湯を見つめる。両の手のひらでそれを掬い、落とすのを何度もした後、俯いたまま首を横に振った。
「そうおっしゃって頂いたことは……嬉しいです。とても。ありがとうございます。でも私には――」
「だろうね、いいさ、聞いてみただけだ」
逸架は依頼を選ぶことが出来ない。己の選択一つで誰かの行く先を決めてしまうのが恐ろしい。依頼者の為人も知りたくはない。経過も耳に入れたくない。今のまま割り振られた仕事を機械的にこなしていく方が負担が少ない。それを冥冥は承知していた。
逸架の術式は特異だ。効果そのものは単純明快だが、制限が振り切れている。それを顕現し完全に制御できる逸架の在りよう自体が稀有だ。逸架の術式があれば仕事の幅は大きく広がると冥冥は踏んでいた。他者に借りを作ることを厭う冥冥が雇用関係を結ぼうとする程度には逸架の能力を買っている。もっともそれは彼女の体質のフォローもすれば借り以上の貸しを逸架に作ることが出来るという打算もあったが。
「年俸をちらつかせたいところだが、まあそれじゃあ君の気持ちは変わらないだろうしね」
「すみません」
「君のいいところは金に靡かないところだ。悪いところは金に価値を見出さないところだ」
金に重きを置かない人間は私に分からない理由で簡単に裏切る、と冥冥は鼻を鳴らす。逸架はいっそう恐縮して肩を竦めた。
「ツバメちゃんとの蜜月で多少は丸くなったかと思ったが、そんなことはなかったね。私としては安心するやら呆れるやらだ」
冥冥の言葉に逸架は眉をひそめる。「ツバメ?」と首を傾げると冥冥は酒器に口を付ける。
「ずいぶん可愛がっていただろう、ほらあの学生の。呪術師にはならなかったようだけど」
「……七海ですか?」
「そう、その子だ」
「ツバメって……」
なんですかその言い方、と逸架は溜息をつく。湯けむりがふっと散った。
「かなり筋のいい子だった。ついでにいい男になりそうだったのに。どうして引き留めなかったんだ」
どうして、と逸架は口中で反芻する。ぼんやりと庭園に目を向けると、冥冥に顔を覗き込まれ、逸架は眉尻を下げる。
「本人が辞めると言うので」
「そこを導いてこそだろう」
黙り込んでしまう逸架を冥冥はじっと見つめた。逸架は目を伏せる。好んで他の術師と関わろうとしない逸架が七海だけは任務に連れ回した。はじめは感傷と義務感で、あとは逸架自身がそれを心地よく感じたからだ。何も選べぬ逸架には、逸架が焦がれ諦めたものを選び掴み取ろうとする七海が眩しかった。それを後押しすることで、逸架自身が少しだけ救われた。
「七海は……私の知る中で最も能力の高い人の一人だと思います」
ぽつ、と逸架が湯に向かってこぼすと、冥冥は意外そうに眉を上げる。
「高く買っているじゃないか。ますますどうして手放したのか分からないな」
逸架は湯の中で指を絡めた。
「能力のある人は自分で進む道を決められるので。私が指図することはないです。七海はどこでもやっていける」
逸架の言葉に冥冥は呆れた顔をして見せ、酒器に酒を注いだ。熱い湯煙に華やかな吟醸臭がのって漂う。
「その調子で才能ある学生を放流し続けていたら上に睨まれるよ」
「そんなことはしません……」
誰かに心を寄せるのは疲れる。必要以上に痛みに共感してしまう逸架ならばなおさらだ。もうしばらく誰かに関わるのはやめておきたいと逸架はぼんやりと考えていた。
冥冥は白濁した湯の中で手探りで逸架の手を取り、湯の上に出すと酒器を握らせる。
「逸架、金はいい。意味のある数字だからだ。救う人間も、救えなかった人間も、全部数字で換算してしまえばいい。一人救えなくても、二人救えばいい。二人失っても、それを上回る金を稼げたならそれでいい。数字はいい。割り切れる。これは私の置き土産として心に留めておきなさい」
それを聞き、逸架は神妙に頷いた。冥冥は「いい子だ」と笑った。
冥冥はざあと湯を波立たせながら立ち上がり、庭に据えられたロッキングチェアに体を横たえる。惜しげもなく晒された白い裸体から名残惜しむような湯気があがる。
「まったく、任務のたびにめそめそと泣いていた学生が今や一端の呪術師だ。時の流れとは空恐ろしいね」
「時間のことは分かりませんが……多少は」
「もう泣かないのかい?」
「はい。……いえ、泣くときは一人で」
「そうか」
冥冥の低い返答を聞きながら、逸架は酒に鼻先を近づける。甘い香りと刺すようなアルコールが鼻腔を満たす。逸架は少し迷い、口を付けずに酒器を置いた。