Eau Duelle (中)
研究室で小耳に挟んだ噂によれば、国木田を先頭に肝試しに向かった一行はどうやら「怖い目」に遭ったらしかった。それがどういう目に遭ったのかまでは七海は詮索しなかった。肝試しの件から十日ほど経ち、そろそろ後期の講義が始まるという頃、国木田が研究室に顔を出した。顔色は悪く、痩せ、だがへらへらと笑って「俺幽霊見ちゃったよ」などと言いながら現れた国木田を後輩が囲って話を聞き出そうとしていた。
七海は机上の資料を片付け、そのまま飲み会になだれ込もうとする面々から距離を置く。国木田からうっすらと、江口からしたのと同じにおいがした。甘い腐肉が焦げた苦いにおいだ。残穢の気配だった。
やはり江口が纏っていた残穢は肝試し由来のものであったらしい。同期の女性を尋ねた際に染みついたものであろうか。七海は努めてそれ以上を考えないようにする。
国木田が入ってきたドアは開け放たれたままであった。そこに白いものが落ちている。人の手首から先だった。脱ぎ捨てられた生白い手袋のように、ぽつりとそこに落ちている。七海は胸ポケットにお守りのように入れていた色付きレンズの眼鏡をかけ、素知らぬふりをした。それはぴくりとも動かなかった。死んでいる。もしくは抜け殻だ。もとからそう強い呪霊ではなかったのだろう。国木田に取り憑いたはいいものの、産まれた場所を離れたせいか、国木田の明朗な性質のせいか、或いは他の理由か、薄れ崩れ消え行こうとしている。
「七海、なんで室内でサングラスしてんだよ」
国木田が七海に目を留め、そう言った。七海は眼鏡のツルに指を掛ける。
「ずっと液晶を見ていると目が疲れるので」
国木田は「ふうん」と気のない返事をした。そうしているうちにも場違いに床に転がる手首は徐々に気配を薄れさせていく。
「七海も来ればよかったのに、あれはやっぱ、人生観変わるよ、マジで」
国木田は腕を組み何度も頷きながら言う。周囲を囲んでいた後輩が興味深そうな、小馬鹿にするような、畏怖するような、交々の視線を向けていた。七海はバッグに書籍を詰めながら「怖がりなので」と短く答えた。国木田が声を上げて笑った。
「まさかえぐっちゃんが霊感あるなんて知らなかったわ。七海、弟子入りしたら?」
突然出てきた別の研究室の先輩の名前に、七海は眉をひそめた。国木田は得意げに周囲に語る。
「俺さ、変な、手みたいなのが見えるようになって参ってたんだけど、えぐっちゃんがユカちゃんといっしょに俺の部屋に塩まいてくれてさ、そうしたら何もなくなった。俺も自分で塩まいたりしたけど全然駄目だったんだよなあ」
へえ、と囲いがざわめく。江口は淡くだが呪いを知覚できる。だが祓えるかといえばそれは別の話だ。呪いは呪いでしか祓えない。呪霊が減衰するタイミングと江口が訪ねるタイミングが偶然合致したか、お祓いの真似事で気分が良くなった国木田が呪霊を気にしなくなったか、どちらかだろう。
七海は発泡酒の缶を開ける音を背中で聞きながら研究室を後にする。さりげなく国木田が入ってきたドアとは別のドアを使って廊下に出た。残暑で熱せられた湿気った空気が空調で冷やされた頬をぬるく滑っていく。
七海は研究棟の古びた廊下を歩く。各々の研究室が好き勝手に荷物を置いた廊下は雑然としている。廊下の突き当たりの窓から入る強い西日で濃い長い影が廊下に落ちている。階段を下りる七海の足がふと止まった。
踊り場で立ち止まる七海の視線の先に、白い何かが落ちている。ぶよぶよと生気の無い皮膚に淡い朱の光が差す。くったりと力なく横たわっているのは、人間の肘から先であった。その青白い表面には影の一つも出来なかった。まるで切って貼り付けたように階段の半ばに落ちている。七海はじっとそれを見下ろす。
さきほど見た手首から先と同種の気配がした。違うのは、みっしりと、中身が詰まっていることだ。あれはまだ生きているな、と七海は思った。七海は息をひそめ、その場で踵を返す。強い呪霊ではない。祓おうと思えば、徒手の七海でも難なく祓える。だが、一切関わる気は無かった。
七海は二階に上がると、他の階段を使って一階に下りた。
翌日、午前中に研究室に向かうと、昨日研究室に集まって酒盛りをしていた面々が椅子や床で雑魚寝していた。七海は室内に籠もった酒と食べ物のにおいに辟易し、窓を開け換気をするだけしてその場を離れようとする。図書室か自習室か、静かで涼しい場所に移動しようと思った。今の時間ならばどちらもまだ人気は少ないはずだ。
研究室を後にしかけた七海は、研究室に飛び込んでこようとする人影とぶつかりそうになる。長躯を仰け反らせる七海を息せき切って飛び込んできた江口が見上げた。
七海くん、と江口は気まずいような顔をして小さく挨拶する。七海はそれに礼を欠かさない程度に挨拶を返した。江口は七海が丁重に挨拶を返したことに安堵の表情を見せた。
「国木田さん、元気になったんだ。よかった」
後輩を枕にいびきをかく国木田を見て江口はそう言う。
「江口さんが解決したと聞きました」
七海の言葉に江口ははにかんだ。
「解決ってわけじゃ……コンビニで買ったあじしおをいやな感じがする場所にぶつけただけだよ」
あじしお、と七海は口中で反芻する。あじしおで呪霊が祓えたならばどれだけ楽だろうか。七海は何か言おうと口を開きかけ、やめた。低く息だけをつき前髪を掻き上げる。
「生兵法は怪我のもとですよ」
七海は冷ややかにそれだけ言った。江口の顔が強張る。どういうこと、と言いかけた江口の言葉を遮るように、七海は「すみません、それでは」と江口の脇をすり抜け部屋を後にした。言うべきではなかったと思った。研究棟の雑多な廊下の突き当たりに、ぽつりと腕が落ちていた。
七海はそれから新学期が始まるまで不必要に大学に足を踏み入れることをやめた。ふっと鼻先を掠めるいやなにおいが、突然現れる切断された人間の腕が、七海の神経をささくれ立たせた。その気になれば排除できる。だがそれをしてはいけないと己に言い聞かせた。
己の選択には責任を持たなければならない。国木田は曰くのある場所を冷やかしに行く選択をし、己は呪いと決別する選択をした。その報いを今受けている。国木田は得体の知れない呪いに蝕まれつつあり、己はそれを見殺しにしようとしている。
葛藤はある。彼らに何事かあれば、己は後悔するだろう。しかし彼らのために何かをしてもきっと後悔する。七海は自室で、公営の図書館で、喫茶店で、ずっとそのことを考えていた。何が正しいかなど分からない。教えを請う相手もいない。己の見ているものを他者と共有できない不安と恐怖を、七海はふつふつと思い出しつつあった。
七海は後期に新しくとった講義の教室を探していた。馴染みの薄い他の学部の建物であったので、しばらく迷った。始業前に講義室に滑り込むと、一回目であるためか室内は混み合っていた。ぐるりと講義室を見渡し、目についた空席に座る。七海くん、と声を掛けられ顔を上げると、隣席に江口が座っていた。
「この講義とってるうちの学部の人、珍しいね」
江口は口の端に強張った笑みを浮かべながら言う。以前見かけたときよりも痩せていた。愛想良く細められていることの多かった丸い目が、きょろきょろと落ち着かなく周囲を見ている。
「七海くん、あの……」
ヒ、と江口は一点を見つめながら小さく悲鳴を漏らす。みるみる蝋のように白くなる江口の横顔から七海は視線を外さないままでいた。
「なんでしょう」
「あの、あれ、あれ……」
青ざめた唇がはくはくと吐息混じりに要領を得ないことを言う。七海は江口の視線の先に、生白い腕が落ちているのを知っていた。講師の来訪を待ち開け放たれたドアの向こう、講義に遅れそうな学生が足早に通り過ぎる廊下に人間の肘から先が落ちている。
「七海くん、あれ……う、」
腕が、と言いかけた江口を七海は制止した。江口はひゅうと息を飲み口を閉ざす。
七海はあれが、国木田をはじめとした肝試しグループについているものだと思っていた。だがどうやら今は江口に執着しているらしい。空調が効いている室内で、江口のこめかみにびっしりと汗が浮いている。
七海は黙って己の眼鏡を差し出す。江口は差し出されたそれを怯えた目で見下ろす。
「見ない方がいい。気になるなら、これをかけていてください。度は入っていません」
震える手が眼鏡を摘まみ上げる。江口は不慣れな手付きでそれをかけると長机に向かって俯いた。垂らされた髪が横顔を覆う。そうしていれば呪霊が視線に気が付くこともないだろう。
「七海くん……見えてるんだね」
「いいえ、何も」
七海は素っ気なく答える。江口は机の下で手を握った。
「あれ、」
「何も言わないでください」
七海の声音に苛立ちが滲む。江口は肩を震わせいっそう小さくなった。やがて講師が現れ、初回ガイダンスが始まる。七海はそれをほとんど聞き流していた。
遊び半分で危険な場所に行った報いは受けるべきだ。だが江口の咎はいったい何だ。窮地にある友人を、自分なりに救おうとしたことへの報いがこれか。七海はそこまで考え、それもまた因果の回収のしかたなのだろうとも思った。善良な行動が良い結末を生むとは限らない。そんなこと、この五年でいやという程思い知ってきたはずであった。
しかしそれを否定したいと願いもした。そういう不条理を厭い呪術師を辞めた。今ここでその不条理を見逃しても良いのだろうか。七海はガイダンスの時間、ずっとそういうことをぐるぐると考え続けた。答えは出なかった。
七海は、ふと「逸架ならばどうしただろうか」と思う。屈指の実力を持ちながら誰よりも呪術師に向かず、苦役のように己の力を振るい続けてきた人だ。己の出来ることをすべきか、すべきでないかというときに、どういう判断をするだろうか。
優しい人であった。他者の痛みに過敏なほど心を寄せ、自身さえ傷付くような人であった。だが思慮深く、己に厳しい人でもあった。それは、己を厳しく律さねばすぐに崩れ落ちる脆い人であったからだ。
仮に彼女が呪術と決別した後で力を求められたとしたら――
七海はその仮定の惨さに自分で顔をしかめた。七海が顔を上げると、初回ガイダンスは講義時間を全て使うことなく終了していた。他の学生達が廊下へ出て行く。雑踏の中に覗き見えるぶよぶよとした腕は、誰にも気が付かれず、誰にも踏まれていなかった。ガイダンスが始まる前には廊下にあったそれは、今確かにドアのこちら側にある。
「七海くん、どうしよう」
江口は俯いたまま呻く。七海は「さあ」と短く答える。
「ずっと、追われてる」
「そうですか」
「少しずつ近付いてくるの。ゆっくりだけど……でも気が付くと近付いてる」
「はい」
「だんだん速くなってる気がする」
七海は江口の青ざめた顔を見る。江口は縋るように七海を見上げた。
「追いつかれたら、どうなるんだろう」
震える声音が涙で滲む。七海は輪郭の曖昧な罪悪感を飲み下した。さあ、私には分かりません、と七海は低く答える。江口は俯き「そうだよね、ごめんね」と呟いた。七海は溜息をこぼし、講義室の後ろの非常口を指さした。江口は色付きレンズの向こうで視線を七海が示す先に向ける。
「あそこから出たらいいのでは。距離はとれます」
「え、でも……」
「鍵は私が閉めておきます」
七海が言うと、江口は震えるように頷き席を立つ。机の上の荷物を掻き集め、非常口の鍵を開けると「ごめんね、ありがとう」と何度も言いながら非常階段を駆け下りていった。金属製の外階段を控えめなヒールで駆け下りるかんかんかんかんという足音が遠ざかっていく。七海はその音が聞こえなくなったのを確認して非常扉を施錠した。
踵を返すと講義室に一つしかないドアの前にごろりと肘の先が転がっている。七海はそれに気付かぬふりをしながら講義机に置きっ放しであったバッグを取り上げ、廊下に出ようとした。視界の端で目測を計りながら、それを跨いで乗り越えようとする。
ずぶり、と廊下の床に足をついた瞬間妙な感覚がした。足首までぬかるみに嵌まったような不愉快さに七海は総毛立つ。足の指の間をぬるつく何かが形を変えながら纏わり付いた。堪えてその場をやり過ごし、廊下の半ばで講義室の方を振り返る。開け放たれたドアの前に肘から先が落ちている。だがすでにそれは空だった。消えるのを待てそこに影のようにあるだけだ。七海は自身の靴を見下ろす。踏んでしまったのだろうか。そういうつもりはなかった。
七海は顔を上げる。曇った大きなガラス窓の向こうに手入れの行き届かない中庭がある。雑草の繁茂に押されこじんまりと枝を伸ばす生け垣の根元に、白い何かが落ちている。ぶよぶよと生気の無い皮膚の、人間の胴体だった。袈裟に切り取られた胸から上に、右腕だけが繋がっている。
七海は靴底を床に擦りつけながら「クソ」と小さく悪態をついた。
*
某所、高専が所有する物件の一つに冥冥と逸架は足を運んだ。メゾンリバーサイドとおそらくは日本で最もありふれた賃貸物件名を冠した二階建ての建物は何の変哲もないアパートに見える。二階の角部屋、金属製のドアにはWelcomeと金色の筆記体で書かれた可愛らしいウサギ柄のプレートがかかっていた。
そのドアの前に、生白い人間の脚が落ちていた。外階段を上がるなり冥冥はそれを見て笑う。
「ひどい光景だ。私はまだ酔っているのかな」
逸架は冥冥に気遣わしげな視線をやった。
「宿酔いですか?」
「そんなわけないだろう、冗談だよ」
すみません、と逸架が肩を竦めるのを見て冥冥は鼻を鳴らした。
「不用意に近付いてはいけないよ、君は歌姫より呪力がある」
「はい――」
言うなり逸架の姿が消える。一拍遅れてガツンと金属製のドアが叩き付けられる音がする。Welcomeボードがきいきいと揺れる。冥冥の鼻先を靴底が焼け付き焦げるにおいが掠めた。
呪霊に気取られることなく室内に侵入した逸架を、しばらく軟禁されていた歌姫が迎えた。ドアが開いた気配もないまま、ドアを閉める音とともに現れた逸架に歌姫は瞠目し呆気にとられていた。
「……ノックくらいしてよ」
「すみません」
暇そうに横になっていたところを見られた歌姫は気まずげに言いながらベッドから体を起こした。この一見何の変哲も無いワンルームは、外界に対して強力な結界が張られている。今日日見かけないファンシーなドア飾りは、あれで一応れっきとした呪具であった。
被呪者となった歌姫はここで保護されていた。歌姫も高専で教鞭をとる優れた術師である。そうとてドアの前の呪霊をどうにも出来ぬ理由があった。
歌姫は逸架に胡乱げな目を向ける。
「というか、あんたが出張ってくるのね」
「外に冥冥さんも」
「マジ? ……オオゴトじゃない」
歌姫は溜息混じりに逸架の肩に腕を回す。
「あー、でもあんたでよかった。助っ人が五条だったらキレてこの部屋飛び出してたかも」
逸架は苦笑する。歌姫と五条の不仲ぶりはその手の話に疎い逸架でさえ知っている。「そうはいっても、五条くんはいい人だと思います……」と逸架が一度だけ何気なく歌姫に言ったところ、本気の説教を食らったのでそれ以来あまり触れないようにしていた。
「お元気そうで何よりです」
「体は元気。腸は煮えくりかえってる。教職ともあろうものが、本当に情けない」
「生徒の呪いを肩代わりされたと伺っています。教師の鑑じゃないですか」
「やっぱりあんたが来てくれてよかった! もう一回言って!」
「……教師の鑑」
「報われたわ」
はあ、と歌姫は長く息を吐く。軟禁生活でだいぶ参っているようだ。
逸架に急遽持ち込まれた任務は、感染性の呪霊に纏わるものであった。人から人へ宿主を変える呪霊はそれほど珍しくない。だがこの呪霊の厄介な点は、今の宿主よりもより呪力の強い人間に祓われたときにだけ感染することだ。そして被呪者自身で呪霊を祓うことは出来なくなる。
被呪者を放っておけば死に至る。祓ったとて矛先が変わるだけに加えて、強力な宿主を得た呪霊は強化される。さらにいやらしいのが、呪霊自身が己の特性を理解しより呪力の強い人間の攻撃を進んで受けにいくことだ。ぼうっとしていると勝手に祓われた呪霊に呪われる羽目になる。高位の術師の揃った高専に属する歌姫は、自身を守るためにも周囲の術師を守るためにもこの部屋での蟄居を余儀なくされている。
「状況は悪いの?」
歌姫は逸架の肩から腕を下ろすと、仕事の顔をして逸架に向き直った。逸架はバックパックから資料を取り出す。
「よくはないです。呪力のある人間は多くないのでそういう意味でパンデミックは防がれていますが、これが高専内部に入り込んだらと思うとぞっとしません」
被呪者の名前と呪霊に追いつかれるまでのおよその日数を記した名簿を見せられた歌姫は眉をひそめる。その最後尾に「庵歌姫 結界内待機」の文字列を見つけいっそう顔をしかめた。
「これ全員を祓って回るわけじゃないんでしょう?」
「感染源を冥冥さんの烏が見つけてくださったので、そちらに向かう予定です」
「よかった、急いでくれると助かる。そろそろ気が狂いそう」
歌姫は焦がれるように窓の外に視線を向ける。逸架はドアの向こうの呪霊の気配に意識を向ける。結界があっても気配は漏れる。ここに何日も留め置かれては堪らないだろう。
「必要であれば肩代わりします」
親切心からおずおずと申し出た逸架を歌姫は一蹴した。
「馬鹿言わないでよ、たまには先輩らしいことさせて。私のことは気にせずさっさと仕事してきなさい」
でもその前にコンビニでプリン買ってきて! と歌姫は逸架に泣きつく。逸架は神妙に頷き手帳に「歌姫先輩にプリン」と書き込んだ。
がちゃん、と硬い音がして金属製の玄関ドアが外から開けられる。歌姫はぎょっとして身構え、逸架は歌姫の前に立ち塞がる。ドアの隙間から室内を覗き込んできたのは冥冥で、二人は揃って安堵の息を吐いた。
「どうしてみんなノックしないんですか!」
声を荒げる歌姫に冥冥は「すまない」と苦笑する。逸架は首を傾げて「冥冥さん、呪霊は……」と呟いた。冥冥が逸架を指さした。
「悪いね、足下をすくわれた」
冥冥がドアを大きく開け放つ。新鮮な空気がワンルームの籠もった空気を押し流していく。ドアの前に転がっていた腿の半ばから下が、ぐずぐずと崩れつつある。それを止まり木代わりにしている烏が申し訳なさそうにカアと一声鳴いた。ああ、と歌姫が呻く。
逸架はドアに取り付き、冥冥の肩越しに外を見る。外階段の手すりの向こう、アスファルトの狭い道路に人間の下半身だけがすうと立っている。それを見た逸架はこめかみを抑えて天井を仰いだ。
「……急ぎましょう」
「次は君に憑こうとするはずだ、十分に気をつけた方がいい。私が言えた義理でもないが」
冷静にそう言う冥冥に逸架は尊敬の念を抱くが、冥冥がしれっと「何、駄目そうになったら君に全部押しつけて逃げるさ」と言うので口をへの字にした。
それと、と冥冥は封筒を逸架に差し出す。烏が運んだものだ。
「新たな資料だ。感染者の名簿追加だからどうということはないが……君は目を通しておいた方がいい」
含みのある口振りに逸架は怪訝な顔をする。封筒の中身を改めA4のコピー用紙に目を通し、名簿の最後に連なった名前を見て逸架は息を詰まらせた。歌姫が逸架の手元を覗き込み目を丸くする。
「七海建人……東京校の子じゃない。呪術師にはならなかったって聞いていたけど……」
逸架は深く溜息をつき、冥冥を睨む。
「ご存知だったんですか?」
「まさか……知ったのは一昨日だ」
「ご存知だったんじゃないですか」
逸架は素早く報告書に視線を滑らせ経緯と現状をざっと把握していく。
「君のツバメちゃんはどうにもこちら側に縁があるのかな? それとも不用意に手を出し火傷をしてしまったか――」
冥冥の言葉に逸架は首を横に振る。七海がそういう短慮を起こすとは思えなかった。彼は呪いとは無縁の生活を送ると決めて呪術師を辞めた。七海は目についた不幸にだけ気まぐれに手をさしのべるような人間ではない。
「きっと事情があったんでしょう」
逸架が言うと、冥冥は「ならば本人に聞いてみるといい」と微笑んだ。
「上からツバメちゃんに聴取調査のち、現場に同行させよとのお達しだ」
それを聞いた逸架は眦に険を漂わせた。逸架の珍しい表情に冥冥は眉を上げる。
「不穏ですね」
ぽつりと逸架は言う。冥冥はそれを受けて首を振る。
「当然、これを機に術師に引きずり戻そうという魂胆だろうね」
「七海は優秀な呪術師でした。上がそう思うのも無理はありませんけど……」
逸架はそこで言葉を切った。冥冥は黙って先を促す。ふう、と逸架は細く息を吐き低く唸る。
「私がそれに荷担すると思われているのは――少し心外です」
逸架は両手で顔を覆うと、しばらくそのまま動かなくなる。大丈夫? と逸架の肩に手を置きかけた歌姫を冥冥が制止する。
やがて逸架はのろのろと顔から手を外した。冥冥を見上げ「現地の指揮は水野さんですか」と確認する。冥冥が肯んずると、逸架は携帯を取り出し補助監督の水野に電話を掛けた。水野が出るなり逸架は常と変わらず「いつも大変お世話になっております。逸架です。水野さんのお電話でお間違いありませんか」と丁重な前口上を述べる。
「水野さん、お願いがありまして。七海のことは……はい、そうですか。その件はなしです。一般被呪者として扱ってください。そうです、ばれないように。他の方にも周知していただけますか? はい、よろしくお願いいたします」
端的に言いたいことを伝えると逸架は電話を切った。冥冥は「いいのかい?」と片眉を上げる。はい、と逸架は陰鬱に頷く。
「七海は呪術師を辞めて、私はそれを後押ししました。このくらいのけじめはつけます」
「厳しいね。そしてツバメちゃんは随分大事にされている」
逸架は苦笑ともつかない曖昧な表情でそれを受け止め、ついで妙な表情になる。
「あの、全然関係なくて申し訳ないんですけど……ツバメちゃんってどういう意味ですか」
逸架が眉根を寄せながら言い、冥冥は意味深に笑って見せた。黙って成り行きを見ていた歌姫が「そりゃ……若いツバメでしょ」と呟くと逸架は溜息混じりに項垂れる。
「あ、やっぱりそういう……」
憔悴する逸架に冥冥は高笑いし、歌姫も「あの寵愛ぶりじゃねえ」と苦笑いする。歌姫などはかつて逸架と七海は付き合っているかで五条と賭けをし、見事に京都土産を奢らされた。
逸架は物言いたげな顔はしたが、それについてそれ以上言及しなかった。
「それは……ひとまず置いておきましょう。七海は今一般人ですので巻き込むことはしません。冥冥さん、それでいいですか」
「私は構わないよ。だが……妬けちゃうね」
冥冥に茶化され逸架は酢を飲まされたような顔をする。
「模範囚の逸架が上に逆らうほど彼を大切にしているとは」
「逆らっているわけでは……」
周囲が逸架に要求するのは、与えられた仕事を遂行することだけだ。過程を如何されることは多くない。これまでがそうであり、これからもそうだろう。
冥冥は俯きがちな逸架に顔を寄せる。
「そんなに可愛いならどうして手放したんだい」
逸架はそれに答えなかった。答えられないからではなく、聞かれた意図がよく分からないからだ。曖昧に首を捻る逸架を見て、冥冥は呆れたように溜息をついた。