Eau Duelle (下)
どこにいても視界の端に生白いものが映る。動きは遅い。しかし確実に距離を詰めてきている。七海は講義を受けながら、演台の傍らに転がる胴体から極力意識を逸らした。投げ出された右腕の手のひらが無感情に天井に向いている。
いやな気分であった。だが清々もした。他者の命を天秤にかける気にはならない。しかし己の命なら、いくらでも天秤にかけてきた。
他者の生死が己次第であるから七海は葛藤した。呪力で以て他者に干渉することと、目の前の誰かを見殺しにすることの狭間で苦しみもした。だがこれが己のことならば、七海には迷う理由がなかった。
講義が終わるのと同時に、非常口の近くの席に座っていた江口が戸惑いがちに七海に声を掛けてくる。
「七海くん、あの、……あれのことなんだけど」
はい、と七海は教科書をしまいながら答えた。
「いなくなったの。見えなくなって、変な感じもしなくなって……」
「そうですか、何よりです」
芋虫のような指が己の話をしていることを喜ぶように蠢く。その場を離れようとする七海の左手首を江口がぱっと掴んだ。
「もし……勘違いだったらごめん、あれ、今度は、七海くんのところに……」
七海は黙って右手の人差し指を唇の前に翳す。江口は口を噤んでせわしなくきょろきょろした。
「七海くん――」
「言ったでしょう、生兵法は怪我のもとだ」
江口にというよりも、己に言い聞かせるように七海は呻いた。江口は眉尻を下げ、今にも泣き出しそうな顔をする。
江口は自身のバッグから赤い蓋の小瓶を取り出し、おずおずと七海に差し出した。塩の結晶が瓶の中でさらさらと滑る。
「ごめん……ごめんね、これ、効くか分からないけど、一応」
七海は鼻白んでそれを見下ろしたが、無下にするのも忍びないので断りはしなかった。小瓶を受け取り「ありがとうございます」とバッグにしまいこむ。塩の瓶を受け取った七海を見て、江口はほっとしたように表情を緩めた。
「私も……あれが何か調べてみる。国木田さんにも聞いてみて、何か撃退方法があれば……」
七海は江口の必死な表情を眺める。あまり話したことはないが、いい人なのだろうと思った。自業自得といえばそれまでの国木田たちのために奔走し、今また己のために何事かをなそうとしている。そういう善人に禍が降りかからなくて良かった、と七海は思う。
短く挨拶をし踵を返す七海の背中に江口は「きっと大丈夫だから!」と震える声を掛けた。七海は振り返り「はい、ありがとうございます」と答えた。
研究室に寄りつく気にもならず、自室のベッドに横になりながら七海はぼんやりと天井を眺めていた。
七海は江口の「あれに追いつかれたら、どうなるんだろう」という言葉を思い出す。確証はないが、死ぬか、それに近い状態にはなるのだろう。可視化され近付いてくる死は、やはり恐ろしかった。
壁に向かって寝返りを打ち、溜息をつく。ふと灰原のことが思い出され、縁起でもないので逸架のことを思い出す。あの人は今頃何をしているのだろうか。相変わらず忙しくあちこちを飛び回っているし、遅刻もしているのだろう。
この半年あまり、努めて高専のことは思い出さないようにしてきた。思い出したくないことも、覚えていたいことも、なるべく蓋をした。やっと乾いた瘡蓋のようになっていた感情が湿り気を帯びる。電話越しにでいいから、あの妙に丁重な語り口を聞きたくなった。現状を伝えたら逸架はどういう反応をするだろうか。七海が選んだ道だから受け入れるしかない、と言われる気もしたし、一も二もなくとんでくる気もした。だがどちらであれ逸架は、きっと「七海はどうしたい」と聞いてくれる。
高専時代の連絡先は逸架をはじめほとんど消去したが、五条のものだけは残している。何かあれば正規の手順で高専にコンタクトを取るより五条を介した方が早いことは分かっていたし、五条相手ならば気持ちが揺らいでつい連絡を取ってしまうこともない。
ごとり、と薄い玄関戸に何かぶつかる音がする。ぶわぶわと不定型な妙な気配を扉の向こうに感じる。七海はのろのろとベッドから起き上がる。
ここで己が死ねば江口は罪悪感に駆られるだろう。たとえば彼女が卒業し縁が切れるまでこれから距離を置き続けることも考えたが、シンプルに面倒だ。祓うか、消えるのを待つか、或いは他者になすりつけるか。七海はベッドに腰掛け、膝に肘をつき、じっと玄関の方を睨む。ずず、ず、と何かが擦れる音がした。
*
補助監督が運転する車内で逸架は手の内のBB弾をつるつると両手のひらに滑らせている。冥冥はそれを見留め「大丈夫かい」と声を掛ける。逸架はひくりと動きを止め、一拍おいて冥冥に視線を向けた。
「……少し動揺しています」
「だろうね。自覚しているだけ上等さ」
すみません、と逸架は呻く。逸架はもともと術式の苛烈さに相反するように精神的な脆さを抱えている。通常であれば全く呪術師には向いていない精神性と称して構わない。だが術式の反作用が、呪術界が、逸架を呪術師に縛り付けている。
最近は多少諸々に折り合いを付けられるようになったようだ、と冥冥は思っていたが、そういうわけでもないらしい。或いはその態度は、可愛い後輩を前にした虚勢であったろうか。
「シュレーディンガーの猫です、冥冥さん」
逸架の手の内でBB弾が奇妙な加速をする。
「順を追って話してくれ」
逸架の物言いはときに奇妙だ。口数の多くない逸架の発言は単に言葉足らずなこともあるし、彼女なりの不可思議な不文律によって発されることもある。誰しも縛られる時間の流れを逸脱した逸架の感性は、やはりときに只人から逸脱する。冥冥にはそれを逸架に突きつけてやる気はなかった。無意味だし、哀れだ。
「私は……七海が死んでさえいなければいいんです。私が観測しなければ、知らなければ、生きている七海と死んでいる七海がずっと重ね合わさっている」
「そう」
「――と、私は思うのですが、いかがでしょうか」
不意に弱気に逸架は眉根を寄せた。冥冥はそれには答えず「いいよ、続けて」と先を促す。逸架の右の手のひらに落とされた小さな球がひしゃげ、ぴちんと軽い音を立てて割れた。
「だから……動揺しています。七海のことは、なるべくなら知りたくなかったです」
ひゅ、と逸架は痙攣のように息をした。
「私はあまり……いい先輩ではありません」
「さあね、難しいことを考えるのはやめたほうがいい。君はそれほどメンタルが強くない」
冥冥の身も蓋もない忠告に、逸架は青ざめた顔で首肯する。
「悩むくらいなら手を差し伸べてやればいい。優先して安否を確認すればいい。なぜそうしない?」
冥冥の言葉に逸架はぐっと目を閉じる。うんざりするほどの沈黙の後、逸架は薄く唇を開き掠れる声で囁く。
「七海は、一般人です。特別扱いはしません」
必要であれば救援はする。しかし七海は被呪者としては日が浅い。他の被呪者に優先する理由はない。逸架の硬い声音が揃えた膝に落ちいていく。
「真面目だな。愚直と呼ぶには頑迷すぎる」
冥冥は鬱々と膝に視線をやる逸架の頬を指の背で撫でる。
「少し力を抜きなさい」
強張る頬で逸架は息を吐き、小刻みに頷く。
「すみません、ありがとうございます」
「逸架、歌姫が君に紹介したい人がいると言っていたよ」
目を細めて顔を覗き込まれ、逸架は一瞬呆気にとられた顔をした。
「それは……」
「悪いことは言わないから少し遊ぶといい」
「あ、やっぱりそういう……」
「時給次第では私が遊んであげよう。報酬なりに尽くすタイプだ」
唇の端を上げながら冥冥が言う。冗談であるのか、本気の雇用の話をしているのか捉えあぐね、逸架は「はあ」と曖昧な返事をした。
「冥冥さんは交際されている方はいらっしゃらないんですか……あ、不躾ですみません。答えたくないときは気にしないでください」
「恋人は作らない主義だ。金以外の関係は億劫でね」
「……さすがです」
逸架は本心からそう言いながら砕けたBB弾を上着のポケットに流し込んだ。
到着したのは郊外の廃墟であった。山中に埋もれるように建った生活の気配を感じない建造物は乾いて冷たい空気を纏っている。ガラスの嵌まらない窓がぽっかりと口を開け、剥き出しのコンクリートが寒々しい。
この廃墟はかつて感染症患者の隔離施設であったとまことしやかに噂されている。感染症への差別や職員による患者の虐待、果ては人体実験まで行われていたと言われている。この地方では有名な心霊スポットである。
逸架は以前この場所の記事を読んだことがあったので、補助監督の報告により正しい経歴を聞いて落胆した。
この建造物は感染症隔離病棟などではない。もとはリゾート施設の建造のために切り拓かれた土地であったが、着工を待たずにバブル崩壊と共に手放され、他県の高齢者介護施設グループ企業に買い取られた。大型の高級老人ホームが建築されるはずが、建設工事途中に企業が倒産。工事を続けることも取り壊すことも出来ずに放棄され今に至る。窓がないのも、鉄筋が剥き出しであるのも、経年劣化ではなく、もとからそうであるらしい。
曰く付きと言えばその通りであるが、決して陰惨な歴史があるわけではない。だが多くの人間がそう信じ、恐れ、話の種にし、持て囃してきた。ぞんぶんに祟る。
まだ日も高いというのにあたりは薄暗く、噎せ返るような濃い呪霊の気配に満ちている。逸架は車から降りながら眉をひそめた。窓からの連絡受けていた補助監督が電話を切り、冥冥と逸架に視線を向ける。
「建物内部に一般人が二名残っているようです。どうしますか」
それを聞いた冥冥が烏を飛ばす。烏は暗く開いた窓から建物の中に滑り込んでいった。どこかからおかしくて堪らないとでもいうような笑声がわんわんと響く。いつの間にか車の向こう側に立っていた生白い下半身が、笑声に合わせるように地団駄を踏む。補助監督はそれを不気味そうに横目に見ながら報告を続けた。
「中にいるのは――被呪者の学生二名です」
含みのある補助監督の言い方に逸架はおおよそを察して暗く溜息をつく。
「私が先行します。冥冥さんは外部待機で烏で何か見つけたら連絡ください。水野さんは学生が自力で避難した場合の対応をお願いします。必要なら帳を」
言うなり逸架はBB弾の破片をばたばたと地面を踏む下半身に向けて弾いた。
「ついでにこれも返してきましょう」
腰から下が地面に倒れた。その向こうに人間のぬっぺりとした胸から下が立っている。それはぶよぶよした腹を震わせおかしそうに身をくねらせた。
逸架は己に降り掛かった呪いに一瞥もくれずにバックパックをその場に下ろし、ジャケットのジッパーを首元まで上げ、グローブの手首のスナップを閉じた。逸架は困惑したような怒ったような安堵したような悲しんだような喜んだような複雑な泣き笑いのような顔をして「まったく先輩甲斐のある後輩で、」と小さく囁く。
逸架の姿が消える。手入れのされていない草地が小さく焦げていた。
*
ぼんやりと玄関戸を眺めていた七海の意識を携帯電話の着信音が引き戻した。七海は音の出所に意識を巡らせ、バッグに手を入れる。鳴動する携帯電話の小さな液晶に江口の名前が表示されている。
七海は一瞬迷ったがその電話を取った。ふつん、と通話が繋がる音とともに電話口から「あ、七海くん」と江口の声がする。
「……国木田さんに肝試しの場所を聞いて、今そこに来てるの」
江口の言葉に七海は「なんですか」と呻いた。空元気のような江口の声がでスピーカーから響く。
「肝試しスポットにはなってるけど、本当はなんにもない廃墟なんだって。でも何か手がかりがあるかもしれないから……もし何か分かったらまた連絡するね。だから……諦めないでね」
迷いながらそう言う江口の声を、金属をひっかくような笑い声が覆い隠した。悪意に満ちた嘲笑は通話が途切れてもしばらく七海の耳朶にこびりついていた。江口さん、と七海は電話の向こうに声を掛けるが当然答えはない。七海は通話履歴から江口に電話をかけ直す。おかけになった電話は、のアナウンスを聞き、七海は顔を両手で覆う。
どうすべきか、考える前に体が動く。七海は前髪を掻き上げ唇を噛むとベッドから立ち上がった。己を救いたいと願い行動を起こす人間が死にゆくのをそれも運命だと見捨てるほど達観は出来ていない。そんなことが出来るなら、まだ呪術師を続けている。七海はバッグを掴むと玄関から靴を取りベランダで履く。避難ばしごを滑り降り、大学の研究室に向かうと国木田から肝試しの行き先を聞き出した。ついでに車も国木田から強奪した。七海の剣幕に国木田は黙ってキーを差し出した。
教えられたとおり辿り着いた山中の廃墟には、ひらけた場所におそらく江口が乗ってきた白い軽自動車が停められている。七海は車内の誰もいないことを確認する。昼日中だというのにあたりは暗い。呪霊の気配がそこら中に立ちこめ、どこに何が居るかも分からない。視界の端で胴体がごろりと転がった。胸が激しく上下している。笑っているのだろうか。苛立たしいので蹴りの一発も入れてやろうかと思ったがそんな時間はないのでやめておく。そしておそらくそれは無駄だという直感もあった。被呪者につきまとうものは呪霊の一部にすぎない。それはこの場所に来てあたりに充満する呪いの気配のために確信めいたものに変わっていた。
分身に人間を狩らせるかわりに、本体は産まれた場所を動かないタイプの呪霊だ。呪力を使う気はない。江口を見つけ、この場所から逃がす。成功すれば己が死ぬ。失敗すれば江口と己が死ぬ。七海は不意に逸架の「七海は最終的に力技で押し通してくるところがちょっとある」という言葉を思い出した。
七海は廃墟の入り口の前に立つ。ドアはなく、朽ちかけ色褪せたブルーシートとロープが張ってある。七海はそれを乗り越えた。建物内部の剥き出しのコンクリートの床を踏んだ瞬間、胃の腑が裏返されたような眩暈がした。背後を見ると入り口は消え、遥か彼方まで病院の廊下のような無機質なドアが並んでいる。領域か、と七海は舌打ちする。これほどの気配を漏出する呪霊だ。その程度の覚悟はしていた。
七海は早足に廊下を渡りながらあたりに意識を巡らせる。ドアを次々蹴破りながら江口の気配を探ろうとした。腐敗臭の中からチョコレートを一粒嗅ぎ分けるようなものだ。簡単ではない。
「江口さん!」
七海は江口の名を呼ぶ。行く先に落ちていた胴体がおかしそうに胸を上下させる。それを跨いで追い越し、七海は次のドアを開ける。呪霊は江口を捕食しようとするはずだ。ならば追うべきは江口そのものの気配ではなく呪霊の気配だ。七海は呪霊の気配の濃い方に向かって駆ける。両開きのドアを蹴破ると風景が変わる。同時に気配が質量を持ったかのように七海の足を鈍らせた。
広く天井が高い部屋だ。天井が血煙のように濁ってよく見えない。壁に小さなドアが並んでいる。霊安室だ、と七海は思った。灰原の死に顔を思い出しそうになり、それを振り払う。閉め切られ黙々と並ぶだけのドアの中、床から七、八番目の高さのドアだけが開いている。そこに壁から生えた生白い腕が江口を押し込もうとしていた。必死に抵抗する江口は、腰のあたりまで壁に納められようとしている。
ドアを蹴破る音に江口は七海の方に目を向ける。七海くん! と叫ぶのと同時に抵抗していた両腕がドアの縁から滑って外れた。七海は地面を蹴り、呪力なしで逃げ切るにはどうにかしてあのドアが閉まる前に江口を引きずり出さねばと思案した。だが、どうやっても間に合いそうにない。
断末魔に似た悲鳴が七海の耳朶を裂く。間に合ってくれと願う七海の目の前で、無数のドアごと壁が吹き飛んだ。気配すらない突然の破壊。一拍遅れての轟音。壁からドアの数と同じだけ、人間の残骸がぼとぼとと落ちてくる。瓦礫とともに落下する江口の体が、空中で不自然に落下方向を変え七海の方に落ちてくる。七海は江口と床の間に体を滑り込ませ、江口を抱きとめた。
「江口さん、大丈夫ですか!」
放心した江口は七海に肩を揺さぶられはっと息を呑むと途端にぶるぶると震えだす。
「あ、ななみくん、やばい、なにこれ、なに、やばい、やばいのが、こんなの――」
「ええそうですめちゃくちゃヤバいのが来ているので逃げます!」
縋るように江口の背後に這い寄っていた白い腕が血の詰まった水風船のように破裂する。一般人の前だぞ加減してくれ、と七海は江口の気を背後から逸らす。
「走れますか?」
「うん、でも――」
耳を塞ぎたくなるような悲鳴の方向に振り向きかけた江口の顔を七海はぐいと掴んで己の方を向かせる。
「私だけ見て走ってください」
「――わ、わかった」
七海は踵を返しドアを蹴破る。呪霊がダメージを受け領域の維持が難しくなっているのか、無機質であった廊下は捩れ歪み脈打っている。どこか領域が薄れているところから脱出して、と七海が考えるのと同時に眼前の壁が吹き飛ぶ。七海は悲鳴を上げる江口の腕を掴み抱きしめると領域の裂け目に体を捻じ込んだ。ふ、と嫌な感じの浮遊感がある。落下する方向を見ると思いのほか高さがある。七海は江口を抱えながら、呪力で体を守るか、或いは諸々を覚悟で地面に突っ込むかを思案する。だが結論が出る前に七海の体は落下の軌跡を無視して急旋回する。葉の茂った立木に突っ込み、七海は江口を庇い身を丸くする。数本の枝を折りながら落下し、七海は灌木の中に落ちる。
「七海くん!」
江口は地面に転がる七海に縋りつく。七海は江口の手を振り払うと息の出来ない体を無理矢理起こし「立って走れ早く!」とやっと呻いた。江口は震える手で七海の手を引き起こすと、よろよろと建物から離れようとする。濃厚に立ち込める気配のせいで惑わされたが、あの呪霊は建造物こそが本体だ。無数に現われる人体のパーツを破壊することに意味は無い。ならばあの人はあれをやる可能性がある。
空気が凍り付いたような感覚。内臓に手を入れられたかのような違和感。懐かしささえ感じる形容しがたい恐怖。
――領域展開 倶舎閻浮提 壊劫
耳元で聞こえたような気がしたそれは、七海の記憶の中のものであっただろうか。
ひ、と江口が声にならない悲鳴を漏らす。七海は江口の視線の先を見る。廃墟はぼうぼうに伸びた草木に覆われ飲み込まれようとしている。苔むし蔓植物が這い回る剥き出しのコンクリートは色すら失い、ひび割れ、触れれば脆く崩れそうだ。巨大な白骨死体のように佇むそれは、外観こそ異様さを増したが呪霊の気配は消え失せている。
七海はずるずるとその場に頽れる。息を深く吸うと脇の下から胸にかけて痛んだ。呆然と立ち尽くす江口に、七海は喘鳴まじりに「江口さん……運転はできそうですか。申し訳ないのですが、出来れば病院に」と呻いた。
肋骨骨折、左小指骨折、左肩脱臼、全身の打撲と擦り傷。病院で告げられた診断内容に七海は「助けるなら責任をもって助けてくれ」と思った。あのあと国木田はどうにかしてあの場所まで車を取りに行ったらしい。国木田にはそれ以来、なんとなく避けられている。七海も研究室に足を運ぶ頻度が減った。それは怪我のためでもあり、やはりささやかな居づらさを感じたからだ。
自室でぼんやりしていた七海は固定された小指を撫でる。痛みはすでにない。添木を外されるより先に、己の体にまとわりついていた強烈な残穢が消えた。それが消えぬ間、七海は五条経由で逸架に礼を伝えるべきかずっと迷っていた。だがある朝その気配がほとんど分からなくなるほど薄れていることに気が付き、携帯を片手に逡巡することをやめた。
インターホンが鳴らされ、七海はベッドから立ち上がる。胸のあたりが鈍く痛んだ。ドアを開けると、江口が申し訳なさそうに顔を覗かせる。あれ以来、彼女はこうして度々七海に差し入れをしてくれていた。今日も大きなポリ袋を二つ下げている。
「七海くん、怪我は大丈夫? これ食べてね。足りないものがあったら言ってね」
ドアの隙間からポリ袋が差し出される。七海はそれを右手で受け取った。
「江口さん、もうだいぶ良くなったので平気です。買い出しも自分で行けます」
「でも……ちゃんと治るまでは、これくらいさせてほしい」
七海がそれ以上何か言う前に江口は「じゃあね、おだいじに!」と言うとドアを閉めてしまう。七海は玄関に袋を置いた。ごとん、と硬い音がする。ポリ袋の底に赤い蓋の塩の瓶が透けている。七海は少し迷い、閉められたばかりのドアを開ける。外階段を下りかけていた江口が目を丸くして七海の方を振り向く。
「お茶でも飲んでいかれませんか」
七海が言うと、江口は驚いたように眉を上げ、それから戸惑うように眉を下げ、おずおずと「お邪魔じゃなければ」とはにかんだ。
*
美味しいパフェが食べたい、と逸架が言ったので歌姫によって「パフェでもなんでも奢ってあげる」ということになった。そこにしれっと冥冥も参加している。歌姫は「冥冥さんには奢りませんよ、貯めこんでるんでしょう」と言ったが冥冥は淡く微笑んで肩をすくめるだけであった。
長いスプーンで生クリームとケーキクラムを掘削する逸架は上機嫌に歌姫には見えた。冥冥が「久しぶりにツバメちゃんの様子を見れたから機嫌がいいんだ」と歌姫に耳打ちする。それを聞いた逸架はフルーツを口に運びながら「そういうわけでは、」と眉尻を下げた。
「あ、そうなんだ、よかったじゃない。元気そうだった?」
「……肋骨は何本か駄目にしてしまったかもしれません」
「なんて?」
どういうこと、と唖然とする歌姫に冥冥は肩を揺らして笑った。笑いながら華やかなフルーツタルトにフォークを刺し、切り分ける。
「あそこまでする必要があったかい? ツバメちゃんにいいところを見せたいからってやりすぎだ。人目がない山中だからよかったものの」
冥冥の言葉に逸架はわずかに瞼を上げ、神妙な顔をする。
「そんなつもりは、いえ、でも……、動揺はしていたかもしれません。すみません」
消沈する逸架に冥冥は「軽口だよ、聞き流してくれ」と苦笑した。歌姫はティーカップに口を付けながら逸架の青褪めた顔を見る。
「まあ会えてよかったね」
「……いえ、会ってはいないです。七海は呪術師をやめているので、姿は見られないようにしました」
それを聞いた冥冥は鮮やかに塗られた爪で逸架を指し示しながら歌姫に向かって「真面目すぎるんだ、なんとかしてやってくれ」と言った。歌姫はカップをソーサーに戻し天井を仰ぐ。
「声くらいかけてやりなさいよ」
「そ――ういうわけには……」
スプーンを指先で弄びながら逸架は呻いた。
「七海も喜んだでしょうに」
逸架は肩をすくめる。喜ぶか嫌がるかは分からない。だが七海は呪術師をやめた。今の逸架はその覚悟しか守ってやれない。黙り込む逸架に歌姫は溜息混じりに「まあいいけど」と言った。すみません、と項垂れる逸架に冥冥はふと笑んで伝票をとる。
「可愛い後輩の先輩ぶりに免じて、ここは私がもってあげよう」
歌姫と逸架は顔を見合わせる。歌姫は「……宝くじでも買おうかな」と呟いた。確かに今なら当たりそうな気がする。それを聞いた冥冥は片眉を上げる。
「私は金が好きだが吝嗇ではないよ。使うべきときには使うさ。リターンが見込めるなら特にね」
冥冥はそう言って逸架の頬を伝票で撫でた。逸架は青い顔で「……ごちそうさまです」と囁いた。