二
高専五年の逸架は呪術界でも屈指の実力者であるが、それを笠に着た傍若無人な振る舞いが目立つ。授業はサボる、任務には遅れる、気の向かない仕事からは遁走する、反省もせずそれを何度も繰り返すので「天は人に二物を与えずとはよく言ったものだ」などと諦念と畏怖を以て評される。――人の噂というものはつくづく当てにならぬと言うことを、七海はこの一ヶ月足らずでいやと言うほど思い知らされた。
実際の逸架は正直の上に馬鹿が付き、真面目の上に糞がつく朴念仁である。四角四面で面白みに欠けそれが一周回ってむしろ滑稽という難儀な性質の持ち主だ。謙虚で深慮だがそれが度を過ぎて著しく自信に欠ける。口数が少ないのは無用に他者を傷付けぬため――と言えば聞こえもいいが、実のところ小心者で他者を傷付ける己を極端に忌避しているだけである。心根は優しいが、それは轢かれた犬を見かけ一日落ち込むような面倒くささと隣り合わせだ。七海は心中で彼女のそういう面を繊細オバケと呼んでいる。
しかし同時に正気を疑うほど大雑把で杜撰かつ時間にルーズであり、日に三度は取り返しのつかないミスを犯す。補助監督は彼女の任務を遅刻と迷子前提に予定立てするほどだった。そしてミスのたびに逸架は本気で落ち込む。本気で落ち込み、人でも殺めたかのような真摯さで謝罪するのであるが、一向に改善される様子はない。
それだけ落ち込むのに何故改めぬのだ、と七海は思う。いっそのこと開き直ってしまえばいいのでは、とさえ思っている。逸架の実力があればその程度の瑕瑾には皆目を瞑る。五条とまでは言わぬが、その半分程度のふてぶてしさがあってもいいだろう。実力がある者にはそれなりの態度を取ってほしいと願うのは凡俗の我が儘だろうか。
七海は五条のことを「その術式があっても人間そうはならないだろう」と思っているが、逸架のことも「その術式がある人間がどうしてそうなる」と思っている。
なぜ二年生の七海が五年生の逸架のことをそこまで知る羽目になったかといえば、答えは至極単純である。七海は逸架と任務に行くことが増えた。この一ヶ月ほぼ毎回と言ってもよかった。そして逸架は集合時刻に間に合ったことがない。
初回の任務で一定の効果が見込めたのだろうか。逸架を七海が同行できる任務に当たらせるのは非効率的であるので、これは完全に七海の訓練、指導のためであった。そうはいっても逸架は気質的に指導者向きではなく、術式をひたすら反復練習に利用した。当代トップを争う呪術師の術式を訓練に利用できるというのも贅沢な話である。沈思黙考試行錯誤型の七海にしてみれば、あれこれ口を出さず七海が自力で目測を掴むまで何時間でも付き合ってくれる逸架と術式の存在は有り難かった。
逸架は茫洋として反応が薄いので取っつきやすい印象の人物ではないが、木で鼻を括ったような態度であるわけでも気難しいわけでもない。そういう人物だという理解さえあれば、同じ時間を過ごすのはそれほど苦でなかった。ただ気は利かないので、訓練の最中は七海が逐一「速度を上げてください」「やっぱり戻してください」と要求することになる。初めのうちこそ先輩相手に次々要求することに躊躇いもしたが、逸架自身が全く気にしていないこともありすぐに慣れた。そうなると七海は訓練中以外でも逸架に対してどんどん遠慮がなくなっていく。
逸架の遅刻癖と放浪癖に二週間あまりでほとほと愛想が尽きた七海は逸架の連絡先を巻き上げ集合時刻の前に必ず連絡を入れるようになった。「起きていますか」「準備は出来ていますか」「今どこですか」「出がけに突然風呂に入るのはやめろと言っているでしょう!」という不毛なやりとりを数日した後、七海はもはや己が逸架を捕獲しに行くのが手っ取り早いことに気が付いた。
高専敷地内を早足で通り過ぎながら七海は逸架に電話を掛ける。おかけになった電話は電波の届かないところか電源が入っておりません、というアナウンスを聞き、七海は盛大に舌打ちした。どうしてこの手の人間は携帯をこまめに充電しないのだろう。
そこに通りかかったのが五条である。逸架の自室がある女子寮を目指す七海を見かけた五条は、気忙しげな七海を珍しく思った。夏油と家入に「ちょっと七海からかってくるわ」と言い残し七海の後を追う。家入が溜息交じりに「ほどほどにな」と言った。
「七海、急いでんの?」
「汲んでくださってありがとうございます、それでは」
取り付く島もない七海の傍らに五条は並んで小走りになる。
「最近逸架と共同任務が多いんだって?」
五条にとっても逸架は先輩のはずだが、この男の横柄さには恐れ入る。五条と逸架は極めて仲が悪い、というのを七海は噂に聞いたことがあったが、噂が当てにならないことは身に沁みている。逸架が五条と火花を散らしているような場面は容易には想像できない。あの性質である。苦手に思うことはあっても、好んで誰かと争うとは思えない。逸架が五条に言及しているのも聞いたことがない。口の端に上らせるのも嫌だ、というのなら話は別だが。
そうですね、と素っ気なく答える七海に五条は芝居っぽく肩を竦める。
「俺、あの人苦手なんだよ、全然冗談通じないし」
「五条さんの冗談は笑えないからでは」
「めちゃくちゃマジレスされるし、笑いどころの解説求められるし」
どうやら五条は逸架に苦手意識を持っているらしい。いいことを聞いた、と七海は思う。
「七海、あの人の術式に巻き込まれたことあるか? 俺おもいっきりゲロったんだよなあ。相性悪いんだよ」
五条はべえと舌を出す。七海は逸架の言葉を思い出していた。稀に車酔いのようになる人間がいると言っていたが、五条のことだったらしい。
「相性なんかあるんですか」
「俺の術式は無限だけど、あの人の術式は無限を否定して成り立ってるかんね」
七海は何度か逸架の術式について尋ねたことがあったが、さっぱり理解出来なかったのでもう諦めている。どういうことですか、と尋ねかけた七海は女子寮の方から逸架が歩いてくるのを見て眉を上げた。
「逸架さん」
七海が声をかけると逸架は小さく会釈する。五条が「逸架ちゃん先輩ちぃーっす」と気の抜けた挨拶をした。逸架は五条にも会釈し「どうも」と囁く。
「逸架ちゃんさん今日も遅刻?」
にやにや笑う五条に七海が「いえ、まだ時間前です」と答える。信じられないとは思いますが、と七海は付け加えた。
「え、風邪でもひいた!? 明日地球滅ぶんじゃねえ?」
五条は半ばわざと、半ば本気でそう驚く。逸架は慌ただしく部屋を出るときに掴んできた上着を羽織った。
「五条くん、その、敬称を重ねるのって……何か意味があるの? 流行ってる?」
五条はポケットに手を突っ込み半笑いで「いや、べつに」と答える。
「なんでそんなこと聞くんだよ」
「なんとなく、気になったから。意味がないなら別にいい」
「いいんだ……」
五条がやりにくそうに表情を歪めるのを見て、七海はなるほどと思った。
「逸架」
いきなり敬称を省略されても逸架はさして気にした風もなく五条に視線を向ける。
「マジレス禁止」
「……マジレス禁止?」
逸架は五条の言葉を繰り返しながら首を傾げた。埒が明かないので七海は二人の会話に割って入る。
「逸架さんが時間より早く出てくるなんて珍しいですね」
七海の言葉に逸架は黒い瞳を泳がせた。ああ、いや、その、と口籠る。そんな狼狽えるような理由があるのかと七海は訝しむ。
「目覚まし時計でも買い換えたんですか」
「……七海くんの、怒っている気配がして……これは、マズいな、と……思って……」
急いで部屋を出ました……、と逸架は消え入りそうな声で呟くと項垂れた。七海の背後で破裂したように五条が笑い出す。五条は息が出来ないほど笑いながらばしばしと七海の背中を叩いた。
「七海、感情の制御がなってねえよ! しっかりしろ!」
七海は無言で五条の手を振り払う。
「逸架さん、私は遅刻には怒っていません」
もう諦めている。
「携帯電話、どうして充電しないんですか。連絡を取りたいときに取れないのは本当に困ります」
逸架は制服のポケットに手を入れる。取り出した携帯は古いタイプの機種で、二つ折りのための蝶番が緩んでぐらぐらしている。逸架は携帯を見下ろし「あれ」と声を上げる。
「充電はしてたのに電源切れてる……」
逸架は言いながら携帯を再起動した。今は社名が変更された通信会社のロゴが、黄ばんだ液晶に明るく明滅する。七海は「古いんですよ、買い換えたらいいんじゃないですか」と溜息をついた。
現場は中国地方の某所である。新幹線で中心駅まで移動し、その後レンタカーで現地へ。取り壊し予定のショッピングモールに巣食った呪霊の祓除、その後山間の旧家に御守として保管されていた呪物の回収。後泊、のち帰着。その日程を見て七海は眉根を寄せた。
「逸架さん、これ日程間違えていませんか? レンタカー?」
新幹線の二人掛け席の隣に座っていた逸架は読んでいた文庫本から七海の手元の資料に視線を移した。 身を乗り出す逸架からふとシャンプーの香りがする。また出がけに風呂に入っていたのか、と七海は呆れた。懲りないな、と思う。今日は時間に間に合ったので何も言わないが。
「……間違っていないと思うけど、どうして?」
「レンタカーって……誰が運転するんです。現地で補助監督と集合するんですか?」
逸架は資料を見下ろし、窓の外を見、七海に視線を戻す。
「私がする」
えっ? と思いのほか大きな声が出てしまい、隣席のサラリーマンがうるさそうにちらと七海の方を見た。七海は声量を落としもう一度「え?」と言う。
「逸架さん、免許を持っていたんですか?」
「……一応十八ですぐ取りました」
「運転出来るんですか?」
乗るのか、今から自分は、この人の運転する車に、と七海は不躾に逸架の顔を見つめてしまう。別に逸架を侮っているわけではない。彼女は優れた術師で良き先輩である。基本的には真面目で几帳面で慎重なのでそれほど常軌を逸した行動はしない。だが、時折ぽっかりと何かが抜け落ちたかのような下手を打つ。自動車が呪力で駆動し術式で操作する物なら逸架はレーサーよりも正確な運転をするだろうが、如何せんガソリンエンジンで駆動し手足で操作するとなればその限りではない。七海はおそるおそる尋ねる。
「自動車学校は不正なしで卒業したんですか」
逸架は眉根を寄せて何事か考えこむので七海は気が気ではない。
「講習のたびに補助監督が教習所まで時間通りに連れて行ってくれたのが不正でなければ、正規のルートで免許を取ってると思う」
それはおそらくセーフだろう。七海は胸を撫で下ろす。自動車の運転は逸架の生真面目さがいい方向に発揮されるスキルであったようだ。
「でも逸架さん、方向音痴ですよね。目的地に到着できるんですか」
「方向音痴ってほどではないけど」
「いえ方向音痴です」
間髪入れずに七海が言うと、逸架は物言いたげに七海の顔を見た。
「…………はい」
だが結局、素直にそれを受け入れるほかなかった。逸架の遅刻癖については上層部も把握し対処しているが、七海は最近逸架がそれに加えて方向音痴の気があることにも気が付いた。そっちは遅刻癖ほど深刻ではないのだが、逸架の常軌を逸した遅刻癖と組み合わさると時に凶悪な結果をもたらす。
「ナビが付いていればどうにでもなる」
逸架の言葉を聞いて、七海は一瞬それが己のことを言っているのかと思った。七海は最近、己が補助監督にも逸架のタイムキーパー兼リマインダー兼ナビゲーターとして便利に使われている気がする。文句の一つも言いかけ、それがカーナビのことだと気が付き苦言を飲み込む。言ったところで逸架は気分を害しはしないだろう。だが気も効かないので「今のは七海くんのことじゃなくて、車についているナビのことだよ。紛らわしい言い方をしてごめんね。私は七海くんのことをそんな風に思っていないよ」と丁寧に訂正されるだろう。それも屈辱的な気がした。その程度のことが分かるくらいには、七海と逸架は打ち解けている。
そう思いながら七海は逸架の茫洋とした横顔を盗み見「……打ち解けているのか?」と急に自信を喪失した。移動時間が長いので雑談こそ多いが、実際のところはどうなのだろうか。七海は逸架が運転免許を持っていることさえ知らなかった。
七海はこの一か月で口数が少なく、ときには他者を無視していると見られることもある逸架が、実は返答を考えるうちに黙り込んでしまうだけだということを知った。テンポの悪さに耐えていればいずれ何かしらの返答はある。四角四面かと思えば案外ゆるいユーモアも備えている。それほど頻繁には口にしないし、したところで「あれ今の冗談だったのか」という分かりにくさだが。初対面の時の印象が強く食が細いのかと思っていたが、意外とよく食べる。七海にとって逸架は遥か彼方遠い場所にいる呪術師であったが、今はその身に強力な術式を刻んでいるだけの同じ人間なのだと理解している。
逸架はまた手の内の文庫本に視線を落とした。七海は何気なくその紙面を覗き見、踊る文言に眉をひそめた。
「……逸架さん、何を読んでいるんですか?」
逸架は黙って文庫本のカバーを外し、タイトルを七海に見せる。「最恐! 実録怪談! 第七夜 中国地方編」という血飛沫の舞うタイトルを見て、七海は己の予想が外れていないことに落胆した。
「逸架さん、呪術師ですよね」
七海が言うと逸架は恐縮したように肩を竦める。
「はい、一応やらせていただいております」
逸架の口振りは自信に欠けるが、彼女は生半可な術師ではない。逸架を知れば知るほど、七海は逸架が最強の一角であることを忘れそうになるのだが。
「呪霊が見えて、祓えて、怪談話が面白いですか」
七海が尋ねると、逸架は視線を七海に、次いで窓の外に向ける。しばらく沈黙があり、逸架は小作りな唇を開いた。
「仕事の情報収集も兼ねて読んでる」
たしかに呪霊が発生するのはいわゆる心霊スポットが多かった。だが情報の収集は窓や補助監督が独自の調査や情報筋を頼りに行うものだ。面白おかしく書きたてられた真偽も出処も発生日時も不明な巷説など、頼りにはしない。というよりも、参考にしてはいけない類の情報だった。不確かな情報による予断と先入観は予期せぬトラブルを産む。もの言いたげな七海の視線に逸架はきゅっと唇を引き結ぶ。
「任務に影響はさせない」
「任務のことで逸架さんの心配をしたことはないです」
呪術に関することで、逸架は天賦の才を持っていた。稀な術式、呪力の総量、情動のコントロールの妙、駆け引きの巧みさ。持って生まれた天分が八割方物を言う呪術界において、逸架は誰もが口を揃えて「才能がある」と称した。それは最上級の賛辞であった。七海もそれを疑ったことだけはない。
逸架は目を丸くし、自身の頬を手のひらで撫でる。
「ありがとうございます」
この程度の賛辞は受け慣れているだろうに、いちいち恐縮し礼を言う逸架は奇妙にさえ思えた。七海は小さく溜息をつく。
「単純に面白くないでしょう。馬鹿々々しい話ばかりで」
「結構興味深いよ。この本は五、六巻の出来が悪くて続刊の購入を迷ってたんだけど、七巻で盛り返した。七海くんも興味があるなら、このシリーズの東京編か「眠らぬ街のコワい場所 東京百物語」から読むといいと思う」
結構なヘビーユーザーなのではないか。本当に任務のために読んでいるのか。七海は胡乱げな視線を逸架に向けるが、逸架の顔は至極真面目そのものだった。
「怪談話で怪異に遭遇した人間が正気を失う筋書きがあるけど、それは呪霊の生得領域に侵入した影響について言及している部分が少なからずあるんじゃないかと思ってる」
「考えすぎです。単純にそのほうが話として面白いからでしょう」
「……そうかな、そうかも」
逸架がしょんぼりと肩を落とすので、七海は「まあそういう部分もあるかもしれませんが」と付け加えた。
逸架は文庫本を閉じると目を緩く閉じる。それから真剣な面持ちで七海を見上げた。
「あの実は七海くんに折り入ってお願いがありまして」
逸架がそういうような言い方をするのは初めてだった。七海は少なからず緊張しながら背筋を伸ばす。
「なんでしょうか」
「お昼ご飯は魚がいいです」
「は?」
「お昼ご飯は魚がいいです」
「いや聞こえてます」
「……ごめん、魚は苦手だった?」
「ちがいます」
七海は腕時計に視線を落とす。出張先で食事をする店を決めるのは七海だった。地元の美味しい店を探すのは得意だし、好む方である。全く苦にはならなかった。逸架は好き嫌いがなく、どこに連れて行っても美味しいと喜ぶならなおさら。だがこのタイミングで、このテンションで、そんな話をされるとは思っていなかった。
「そうはいっても到着後レンタカーを借りて現場二か所となると時間がないです。昼はコンビニになると思います」
「…………そんな」
瀬戸内海の魚……、と逸架は呻く。七海は携帯で素早くホテル周辺の飲食店を調べる。
「ホテルの近くに鮮魚店直営の大衆居酒屋はあります」
「未成年と居酒屋は、ちょっと……」
「早い時間にアルコール無しなら問題ないでしょう」
「ないかなあ」
逸架はしばらく逡巡していたが、旺盛な食欲には勝てなかったらしい。頑張って仕事終わらせて絶対魚食べよう、と逸架は誰に言うでもなく決意表明した。
*
いくら七海と逸架が遠慮のない関係になろうと訓練の苛烈さは変わらない。郊外のショッピングモールに発生した呪霊は二級程度だが数が多い。補助監督はどうやらその手の任務を優先的に七海に振っているらしかった。
何体目か忘れるほどの呪霊を蹴散らし、七海は背後の逸架に声をかける。
「逸架さん、速さを緩めてもらっていいですか」
「無理です」
なぜ、と怪訝な目を逸架に向ける七海に逸架は廃墟の薄暗さも相俟って鬱々として見える顔を上げた。
「もう術式を発動していないので」
「――はい?」
「今までのは七海くんの実力です。おめでとうございます」
淡々とした賛辞に七海は喜ぶ前に愕然とした。九月には入っても残暑が厳しい。滲む汗を手のひらで拭う。
「え、いったいいつから」
「前回の共同任務の後半から」
想定していたよりすっと前だった。七海は何か言いかけ口を開け、面倒くさくなり天を仰ぎ額を押さえてその場に屈みこむ。
「……ありがとうございます」
「私は何も。七海くんの努力の成果です」
七海は指の間から逸架を睨み上げる。
「ということは、今回の任務は逸架さんがいなくてもどうにかなったということですよね」
多忙なはずの逸架がどうして七海一人で事足りる任務にわざわざ同行したのか。七海がじっと逸架を見ると逸架は伏せられがちな目を泳がせる。
「……違うんです、七海くん、聞いてください」
「聞きます」
「私は一人だと飲食店に入れないんです」
深刻気に吐き出された言葉が本当にどうしようもなく、七海は溜息とともに項垂れる。七海の予想通り逸架は七海の選ぶ地元の名物目当てに今回の任務に同行したらしい。そんなに瀬戸内海の魚が魅力的だろうか。
「今時女性一人客なんて珍しくないでしょう」
「いえ、あの……一人で店に行くと、なんでか閉まってるんです……」
七海は一瞬眉を寄せ、その理由に思い至り思い切り顔をしかめた。
「店の営業時間にまで遅刻するんですか」
「……面目ない」
逸架の背後から踊りかかってくる呪霊を七海は一太刀で斬り捨てる。二級呪霊は七対三に分断され、その場に転げ落ち塵になって消えた。これだけの判断力が一か月半前の己にあれば、灰原を死なせずに済んだだろうか。逸架は七海の思惑をよそに肩に降りかかる塵を手で払う。
「七海くんとの任務は好きです。七海くんは私を、私の知り得なかった場所に連れて行ってくれるので」
七海は続けざまにもう一体の呪霊を斬って捨てた。それは逸架の遅刻癖に次ぐ悪癖だった。数回任務を共にしただけの後輩に思い入れを持つべきではない。七海は己が誰かの死に鈍感になれるとは思わない。だが逸架はなるべきだと思う。強力な呪術師として幾多の死線を潜り、仲間にもそれを強要せざるを得ない立場にありながら、逸架はあまりに繊細過ぎた。
七海はいつ死ぬかも分からない。だが七海が死ねば逸架はきっと食欲が失せるほど悲嘆に暮れ、心に大きな傷を残すのだろう。
「大袈裟です」
七海は逸架の言葉をそう切り捨てた。多少の会話をする余裕も七海には生まれていた。逸架は滑るように七海の背後に回る。逸架は大抵七海の動きを邪魔しないように背後の付かず離れずの位置に控えていた。抑揚の少ない声だけが七海の背中に投げかけられる。
「でも私はそう思っています――それに、瀬戸内の魚の魅力には抗いがたい」
七海の目の前で埃をかぶったクレーンゲームの筐体が弾き飛ばされる。握り合い絡み合った大量の手が百足のように七海に襲い掛かる。呪力の気配は二級のものを凌駕している。辛うじて準一級に分類されるだろう。七海は逸架の言葉が冗談か本気か吟味する時間も与えられず、背後に飛び退る。
「ちょうどいいのでこれで七海くんの卒業検定ということにしましょう」
逸架の言葉は途中から呪霊の咆哮にかき消されよく聞こえなくなった。
山中の悪路は木の根でアスファルトがひび割れめくれ上がり、その上を走るたびにレンタカーは大きく跳ねた。逸架の運転は丁寧であったが、七海は車が揺れるたびに助手席で呻いた。そのたびに逸架が「ごめん、大丈夫?」と声をかけてくる。七海は怠い体を引き起こし「平気です。前を見ていてください」と答えた。
七海は準一級相手に一撃とはいかず幾度もの攻撃を重ねることになったが、それでも呪霊を祓除した。さすがに疲弊し呪力も尽きかけふらふらの七海を助手席に乗せ、逸架は二件目の現場に急行した。普段なら七海を気遣い休憩を入れるのだが、今日は急いでいる。加えてレンタカーの助手席なら十分休息になるだろうと逸架は判断した。うとうとしかけると跳ね上げられ叩き起こされる道中が休息になるかと問われれば七海は否と答えるが。
「あとは旧家に保管されていた呪物の回収でしたか」
「そう、呪物は封印されていて本当についでのおつかい」
朽ちた旧家ではあるが忌まわしい因縁があるわけではない。かつては地方の豪農であったが、事業に成功し一族は都会に居を移している。山中に残っているのは巨大な邸宅と蔵とガラクタだけだ。そこに旧家の護符として保管されていた呪物が取り残されているという情報を得て学生が派遣されることになった。
「実はさっき読んでいた本にその家のことが載っていたんだよ。このへんじゃ有名な心霊スポットらしい」
「呪物による魔除けがあるんですから、蠅頭の類も寄り付かないはずでしょう」
七海は文庫本のわざとらしいほどおどろおどろしい表紙を思い出しながら素っ気なく答えた。
「不思議な話だね。封印されていても入った人間が何かしらの気配を感じるのかもしれない」
「雰囲気があって車で行きやすい廃墟だというだけです」
「この家に関する怪談話なんだけど、いくつかパターンがあって」
パターンがある時点で真偽の程度は下がるのではないかと七海は思ったが、逸架が自ら話題を提供するのは珍しいので黙って聞いておく。
「でも大きな流れは決まっている。この家でなんらかの撮影が行われる。撮影の内容には諸説あって、ドラマの撮影とか、大学の映研の制作とか、あとなぜか一番多いのが――」
逸架はそこでふと言葉を区切る。七海は夕日に照らされる逸架の横顔に視線をやる。ここ最近で日がかなり短くなっていた。
「えーぶ、あ、あだるとびでおの撮影なんですけど」
「そうですか」
そう恥じ入られると七海まで照れてしまうのでやめてほしい。
「とにかく何かの撮影があって、その筋立てがミステリー仕立てなんだって。誰かが死んだり殺されたり。で、何の曰くもない屋敷で撮影の筋書き通り死んだ人間の幽霊が出る」
「はい」
「……そういう話です」
逸架に怪談の才能が欠けていることが分かったところで七海は日の落ちかけた山間の平地に黒々と聳え立つ木造の豪邸を見つけた。逸架さんあれ、と指さすと、逸架は門の前に車を横付けする。七海は屋敷の規模を窓越しに見て「探すだけでも骨が折れそうですね」と溜息交じりに言った。封印されているとしたら、おそらく気配も辿れまい。逸架は端の見えないような長く続く朽ちかけた土塀と、塀の向こうにいくつも見える瓦葺の屋根を見てわずかに表情を曇らせた。
「七海くん……探し物は得意?」
「得意ではありません。そもそも物を失くさないように心がけているので」
「そっか、じゃあ車内で待ってて」
そう言い残し逸架が運転席を降りるので、七海は慌ててその後を追った。任務の担当者は逸架になっているが、内容は明らかに二年生の七海に向けたものだ。それを先輩の逸架に丸投げするというわけにもいかない。
「疲れているようだから車で待っていても……」
「そういうわけにはいきません。それに失せ物探しのおつかいくらいできます」
七海が言うと、逸架はしばらく何かを考えていたが「それでは、よろしくお願いします」と七海に会釈した。
崩れかけた門扉をこじ開け中に入り込む。土塀が朽ちかけている割に中はそれほど傷んでいない。広大な敷地には大きな母屋、蔵が二棟、離れが見えるだけで一棟ある。七海は途方もない探し物が始まる気がして溜息をつきかけそれを飲み込んだ。
「御守を置くのにまさか蔵もないだろうし……」
「家人がガラクタだと思って蔵に放り込んだ可能性もあります」
七海が言うと逸架も口をへの字にしてこめかみのあたりを指先で掻く。
「とりあえず外周を回って祠か社のようなものが無かったら母屋で仏間を探します。それでなかったら蔵も視野に入れて考え直しましょうか」
七海はそれに同意し、二人連れ立って芯材がむき出しになった土塀に沿うように敷地を一周する。途中稲荷の社のようなものを見つけたが中は空だった。これで終わっていたら話は早かったのだが、と七海も逸架も落胆する。
母屋の玄関前に立ち、おそらくは肝試しに来た誰かによって外された戸板を乗り越え中に入る。雨戸が締め切られ、当然照明もない屋内は薄暗い。七海は「懐中電灯を取ってきます」と一度その場を離れた。車内から懐中電灯を二つ取り、母屋の前に戻る。西日が淡く入り込む玄関先に、逸架と灰原が立っていた。
「七海、遅いぞ! 迷子になったかと思った」
灰原が笑いながら七海から一つ懐中電灯を受け取る。七海は「逸架さんじゃあるまいし」と答える。逸架は「さすがにこの距離では迷いません」と呟く。灰原が「七海失礼だな」と茶化した。
「懐中電灯は二つ?」
逸架は首を傾げる。灰原が建物の奥を照らしながら「逸架さん言ってくれたら俺照らしますよ」と歯切れよく宣言する。逸架は手持無沙汰そうに手をぶらぶらさせ、頷いた。
「ではお願いします。私が先行するので二人はついてきてください」
「りょーかいです! 後ろは任せてください!」
「あと順路も覚えておいてもらえると本当に助かります」
「それも任せてください!」
憧れの先輩に背中を託され力の入る灰原の返答を聞きながら、七海は懐中電灯のスイッチを入れる、舞い上がった埃が照らされきらめく。逸架はかなり足早に建物の内部に侵入していく。心霊スポットとなってからのこの建物に、これほど躊躇のない足取りで入っていったのは逸架が初めてだろう。七海は置いていかれぬように後を追った。
「雰囲気満点ですね」
灰原が場に似つかわしくない明るい声でいう。それはいつものことだった。逸架は「さすがこのあたりで一番怖いと言われているだけある」とひとりごちる。緊張感に欠ける二人に七海は溜息をついた。
逸架はがたつく襖や障子戸を次々開けていく。生活感はなく、家財のほとんどが持ち出されていた。空の部屋をいくつか念のために確認しながら三人は建物の奥に向かっていく。
「これは蔵に放り込まれている説が濃厚かもしれません」
どこを開けても伽藍洞の室内を見渡しながら逸架が言った。灰原が何もない室内と暗い天井を懐中電灯で照らす。あまりに忙しなくあちこちを照らすので、室内がちかちかと明滅した。
「逸架さん、自分と七海で先に蔵の方見てきましょうか」
灰原の提案に逸架はしばらく考えるそぶりを見せたが首を横に振る。
「別行動はやめましょう」
高専では複数人での任務の場合、特別な事情が無ければ別行動は推奨されない。このような簡単な任務でさえセオリーを遵守する逸架は生真面目で慎重ともいえたし、融通が利かず臆病とも取れる。
「逸架さん慎重ですね。でも探し物任務で、呪霊もいないしいいんじゃないですか」
腹も減ったし、と灰原はぼやく。逸架はやはり頑なに首を縦に振らなかった。灰原は苦笑気味に逸架の後を追う。
「自分も呪術師ですよ。逸架さんの露払いくらいできます」
「信用してないわけじゃないんです。ただ……私は灰原くんより九千五百万秒は長く生きているので」
「――ので?」
灰原が首を傾げる。しばらく沈黙が下りた。逸架が次々襖を開ける音だけが響く。
「何かあれば、灰原くんを守る責任が、あるのかなと」
それを聞いて七海は鼻を鳴らす。
「逆ですよ。何かあれば、私たちは逸架さんだけは生かさないとならない。アナタの死は人間にとっての損失です」
灰原が「七海ぃ」と咎めるような声を上げる。逸架は特に気分を害した様子もなく開け放った襖を丁寧に閉じた。
「高専と私にとってはそうかもしれませんが、七海くんと灰原くんと私には……また違う話です」
傷んだ床板がぎしぎしと鳴った。
「あ、じゃあ二手に分かれて仏間探すのはどうですか? 見つけたら自分めちゃくちゃ大声で逸架さん呼ぶんで。というかなんで仏間?」
「古い家は大抵大切なものを仏間に置きませんか」
あ、なるほど、と灰原は大きく頷く。逸架は襖を開けようとするが、建付けが悪く上手く開かない。襖に手をかけたまま右往左往する逸架の背後から灰原が襖に手をかける。少しの引っかかりの後、襖が細く開けられる。隙間から埃が漏れ出し、他の部屋と同じ砂壁に光るものが並んでいるのが見える。
「遺影?」
七海が眉をひそめ呟く。老若男女の白黒写真が三人をじっと見下ろしていた。
「なぜ遺影だけ置いていったのでしょう」
七海の問いに逸架は首を横に振った。分からないの意だった。灰原が懐中電灯を片手に室内に入り込む。遺影を順に照らしていく。据え付けられ移動が出来なかったであろう仏壇は綺麗に片付けられ部屋の隅に鎮座している。位牌や仏像が無いところを見ると手順に沿った魂抜きが行われている。
逸架は仏壇を照らすよう灰原に指示する。灰原は仏壇を照らした。仏具も片付けられ豪勢な箱でしかない仏壇に、手のひらに乗るほどの小さな箱が取り残されていた。箱は幾重もの呪符で封印が施されている。逸架はそれを手に取り、じっと見下ろした。
「任務完了ですね!」
明るい灰原の声が響く。逸架は指先でこつこつと箱の表面を叩き、蓋を呪符ごとこじ開けた。
「逸架さん!?」
七海は思わず驚愕の声を上げる。封印が、と言いかけた七海の目の前で封印の呪符がぼろぼろと腐り床に落ちる。箱の中身は空だった。途端、灰原の首が破裂する。七海の頬に温い血が噴きかかった。それは間違いなく逸架の術式が行使された気配を纏っていた。七海は逸架の気でも違ったのかと呆然とする。逸架は素早く印を結び頽れる最中の灰原の胸を手で押す。激しく押し出された灰原の胴体が吹き飛び、襖と雨戸に風穴を開ける。一瞬、目を眩ませるような西日が室内に差し込んだ。
「走れ七海!」
逸架が鋭く叫ぶ。七海ははっとして光の方向に走り出そうとするが、一瞬躊躇している間に破壊された建具が増殖する細胞のように修復されていく。七海の背後に暗く冷たく底の知れぬ悪意が這い寄る。大量の冷や汗を噴き出し立ち尽くす七海の背後で逸架の呪力が瞬くように爆ぜる。七海の足元にぼとぼとと何かの破片が落ちた。
みしみしと建物全体が軋み、空間が捩れ歪む。大勢の人間の笑い声と悔し気な唸り声が耳を打つ。
「なにが――」
「灰原くんは死んだ」
噛んで含めるように、逸架は掠れる声で呻く。あはははは、と灰原の明るい笑い声が仏間を揺らす。七海は突然それを思い出す。霊安室で冷たく眠る灰原の顔が強烈に脳裏に浮かぶ。青白い逸架の頬に伝い落ちていくのが涙なのか汗なのか七海には分からなかった。黒く濡れたように静かな双眸に、青白い怒りが湛えられている。
クソ、と七海は力なく吐き出す。
「七海、順路は」
「はい」
「退避」
「――はい」
襖戸を開け放った七海の目の前には来た道の廊下ではなく砂壁が立ちはだかる。蹈鞴を踏む七海の鼻先で砂壁が轟音とともに吹き飛んだ。
「止まるな!」
「はい!」
七海は心身に鞭打ちひたすら出口を目指して走る。背後から怨嗟の声と楽し気な喚き声が追いかけてくる。激しい破壊音は逸架の術式によるものだった。大勢の人間の悲鳴が鼓膜を劈く。時折それが灰原の声に聞こえて、七海の足は止まりそうになる。そのたび背後から逸架が「七海!」と叫んだ。
その先に玄関があるであろう角を曲がったところで七海は足を止める。広く立派な三和土があるはずのそこが、板間の袋小路になっている。
「逸架さん行き止まりです!」
七海が言うと逸架は七海の背中を砂壁に向かって押した。それほど強い力ではなかったが、七海は勢いよく弾き出され壁ごと吹き飛ばされる。残暑の熱を帯びた玉砂利に体を打ち付け、七海は息が出来なくなる。痛みを堪え跳ね起き自分が吹き飛ばされたほうを見るが、破れた玄関戸が倒れているだけだった。
「逸架さん!」
名を呼ぶ。返答はない。あたりは恐ろしいほどに静まり返っている。玄関をくぐり中に入ろうとするが思いとどまる。いったい己に何が出来る。己はただここで何も出来ずに立ち尽くしているほかない。
ず、と奇妙な感覚が七海の腹の底を震わせた。建物全体が大きく膨れ上がり歪んだような違和の後、目の前の玄関戸がみるみる腐り黒ずみ朽ちていく。見れば建物全体が急に経年劣化したように傾いでいた。暗い廊下の向こうから、さらに暗い影がゆらゆらとこちらに向かって歩いてきた。逸架だった。逸架さん、と七海が声をかけると、逸架はいつもと変わらぬ陰鬱な顔のまま七海に細長い木の枝のような物を見せた。萎び、ひねこびた人間の指だった。
「呪霊が取り込んでた」
「……窓も、補助監督も、そんなことは一言も」
「記憶を改竄してくる呪霊はたまにいる」
逸架はそれだけ言うと目を閉じ「つかれた」と囁いた。
*
回収すべき呪物の封印が解かれ、呪霊に取り込まれていたことを連絡すると高専は騒動になった。後日帰着の予定であったが封印を施されていない呪物を長距離移動させることは憚られるため、封印術に長けた術師が派遣されるまで現地待機と指示が出た。
呪物は逸架により簡単に封印されたが、まさかそれを持って夕食を食べに外出するわけにもいかない。部屋に置いていくのはさらに現実的ではなかった。逸架は結局あれほど楽しみにしていた魚も食べられず、ホテルの自室に引き籠っている。
まさか七海も自分だけ夕食を楽しむ気分にもならず、逸架の部屋のドアをノックする。少しの間のあと、オートロックのドアが中から細く開けられた。洗い髪の逸架が顔を覗かせる。
「……こんなときでも風呂は入るんですね」
「呪物と一緒に入った」
冗談かとも思ったが、おそらく本気だった。七海は黙ってポリ袋を差し出す。逸架は怪訝な顔をし、袋を見下ろす。
「昼に言っていた魚屋で惣菜だけ買ってきました。刺身と煮付けとご飯です。どうぞ」
特売シールが貼られたものですけど、と七海は言う。逸架は目を丸くし、それから「ありがとう」と囁いた。差し出した袋を受け取らないので七海が訝しく思うと、逸架はおずおずと七海を見上げる。
「良ければ一緒に食べない? いやならいいんだけど……ごめん」
呆気にとられながら七海が首肯すると、逸架は「入って」と七海を部屋に招き入れた。部屋の作りは七海の部屋と変わらない。室内には浴室から漏れ出した湿気がうっすらと漂っていた。
逸架は「開けていい?」と袋を手にする。どうぞ、と七海は答えた。ビジネスホテルのシングルルームには複数人で食事をとるような設備はない。逸架は狭いベッドサイドテーブルにパックを置き、置き切れない分を壁際のデスクに並べた。七海ももう片方の手に提げていた自分用の惣菜を広げる。中身はほとんど一緒だった。
座る場所もないので使用感のないベッドに並んで座る。逸架はきちりと手を合わせいただきますと呟く。七海は彼女のその仕草が好きだった。なので最近は努めて真似るようにしている。七海も手を合わせいただきますと繰り返した。
空調の音だけが唸る部屋にぱきんと割り箸を割る音が響く。やっと日常に戻った気がした。
逸架はトレーに直接醤油を垂らし、青魚の刺身を箸で摘まむ。すみませんそれしか残っていませんでした、と七海が言うと「青魚好きだよ」と短く答えた。
「美味しい。ありがとう。気を遣わせてすみません」
言葉と裏腹に逸架の顔色は青褪めている。七海は「よかったです」と煮付けを口に運ぶ。冷めているが柔らかく美味しかった。しばらく二人とも何も言わず黙々とトレーを空ける。海藻とじゃこの混ぜご飯のおにぎりを食べ終えると、逸架はふと視線を上げた。あの、という言葉を二人同時に口にする。七海が言うより前に逸架が「ごめん、先にいいよ」と口を閉ざした。
七海は煮付けのほぐされた白い身を眺めた後、口を開く。
「呪術師を……続けられる気がしないんです」
返答はなかった。逸架は頷いただけで一口お茶を口に含む。呪物を取り込んだ呪霊の強大さを、簡単に篭絡された己の不甲斐なさを、手も足も出なかった己の弱さを、七海は咀嚼しきれずにいた。呪霊の領域の中に逸架を残したときの暗澹とした気持ちが何度も喉奥にせり上がってくる。
「わかるよ」
絞り出すように逸架は言う。七海は暗く笑った。彼女に分かるわけがなかった。逸架は強く、誰かを守ることが出来る。
「でも逸架さんには才能がある」
それは呪術師に対して最大級の賞賛だった。そして彼女にはそれを受けるだけの実力があった。だが逸架は凪いだ視線を湯呑の水面に落とし首を振る。
「才能があるというのは、五条くんのような人を言うんだよ」
「でも逸架さんは、これからも呪術師を続けるんでしょう」
七海の言葉に逸架は黙って首肯した。部屋に下りた沈黙のせいで、隣の部屋からテレビの音声が聞こえてくる。籠った笑い声が耳に障った。
「七海は、呪術師を辞めたら何になる?」
逸架の問いに、七海はぽつぽつと答える。
「分かりません……分かりませんけど、大学に編入しようかとは思っています」
「うん……そっか……」
「一般企業に就職して、呪いとは無縁の生活を送りたい」
うん、と逸架はまた呟き、黙り込んだ。七海が逸架の顔を覗き込むと、逸架は淡々とした視線を七海に向けた。
「呪霊は純粋な悪意で、私たちの一番弱い部分を炙り出してくる。……上手く言えないけど、今日のことを七海が必要以上に気に病む必要はない。呪霊は……ああいう姿を取ったけど、それは呪霊が……うん、とにかく、七海が気にするようなことじゃない」
七海が何かを言う前に、逸架は「でも」とそれを遮る。逸架が誰かの言葉を遮るのは珍しかった。
「それでも七海が呪術師を辞めるなら、それは……いい選択だと思う」
七海は繊維のようになった魚の身を口に運ぶでもなくほぐし続ける。
「選択じゃない。逃げるだけです」
逸架は小さく頷く。
「逃げでいい。逃げるのにも力が必要なんだよ。七海、逃げられるのは、そういう才能なんだよ」
七海はその言葉を聞き「逸架さんは、」と小さく呟く。逸架は諦めたような笑みを口の端に浮かべた。
「私には才能がない」
七海がその意味を問う前に、逸架の携帯電話が鳴る。逸架はそれに手を伸ばした。はい、と電話に出た逸架がどんどん青褪めていくのを見て、七海はいい知らせではなさそうなことを予感する。電話を切ったとき、逸架の顔は死人のように白かった。
「どうしたんですか」
放心したように宙を見る逸架に問うと、逸架はぎゅっと目を瞑り、消えかけるような声で「夏油くんが、人を殺したって。大勢。そして逃げた」と吐き出した。
二〇〇七年九月、特級術師夏油傑は任務中に一般人百余人、両親を殺害し逃亡。呪詛師として手配された。そして逸架は半年あまり七海の前に姿を現さなかった。逸架から連絡はなかったが、七海はその理由を知っていた。特級術師を捕縛可能な術師は高専でも限られている。呪術界はそれを夏油の同期で親友であった五条に命じない程度には血が通っていて、人一倍神経の細い逸架に命じる程度には無情だった。
特級術師である夏油の捕縛は生死を問わない。むしろ上層部は高専に不利な証言をしかねない夏油を追跡の最中に死んでほしいと願っていたかもしれない。
逸架が高専に帰ってきたのは翌年の五月のことだった。七海は三年生に進級していて、逸架は不在のまま卒業したことになっていた。逸架は寮の自室からほとんど出なくなった。高専の規定で卒業生は寮を退去しなければならないが、逸架は退去勧告を無視し続けた。
七海は夜蛾に「逸架に声をかけてきてくれないか」と頼まれた。なぜ自分が、とも思ったし、自分でなければならない、とも思った。特別に許可を得て女子寮に入った七海はネームプレートを確認し、ドアをノックする。返事はなかった。
「逸架さん」
声をかけると、中から小さく呻くような声が返ってくる。ドアに手をかけると、鍵は掛かっていないことが分かった。
「逸架さん、入ります」
返事を待たずに部屋に押し入る。室内は七海が想像したように荒れ果ててはいなかった。逸架の印象通り綺麗に片付いていて、だが窓辺に淡いグリーンの酒瓶が折り目正しく夥しい量並んでいる。尋常でない酒量と、丁寧に洗われラベルを揃えて陳列される瓶の整然とした様子のアンバランスが狂気じみていた。
「飲みすぎでは」
七海は開口一番そう言った。ベッドに腰かけていた逸架はぎゅっと眉根を寄せ「女子寮だよ」と呻く。だが七海同様に逸架にもここにいる資格はなかった。逸架は記憶より痩せていた。顔色も輪をかけて悪い。七海は逸架の言葉を無視して逸架に近寄る。酒気が七海の鼻先を撫でていった。
七海はスウェット姿の逸架の裸足の足元に膝をつく。ベッドの脇に大量の求人情報誌があったが、全てビニール紐で括られ捨てられるのを待つだけになっていた。
「これが逸架さんの選択ですか」
七海が静かに言うと、逸架は一瞬喉を詰まらせた。それから崩れるように笑った。
「私には選べない」
逸架は毛布の上にずるずると体を横たえる。疲れた目が七海を見上げ、痩せた手で覆われ隠された。
「……呪術師やめたい」
逸架はそれだけ言って嗚咽を漏らした。七海はそれを見下ろしているしかなかった。