三
大いなる力には大いなる責任が伴う。
逸架が幼い頃好きだったヒーロー映画の台詞だった。ヒーローは家族からそう諭されたとき、一度はそれを突っぱねる。だが失敗や痛みを経験し成長し、やがてそれを受け入れた。己の力を人のため、正義のために使うことを決めた。
逸架は十三歳の夏、高専の呪術師に呪力の強さと術式を見出された。それまで逸架は呪いとも呪術師とも無縁の生活を送っていた。視界の端にちらつく奇妙な生き物のことも皆が見えているものだと思っていた。幸か不幸か積極的にこちらを害そうとする呪霊に遭遇することはなく、奇怪な形態の呪霊に泣き怯えるほどの感受性もなく、逸架は長らくただの変わった子供であった。
それが一変したのが高専入学後のことだ。逸架の術式は特異だった。強力で不可侵、フィジカルで同期に後れを取る逸架の能力を補って余りあった。それが幸福であったかは定かではない。逸架に分担される任務は困難で重大なものになっていき、その責任も増した。逸架はそれが恐ろしかった。絶大な術式に脆弱な精神が追いつかなかった。だが急に馴染みの薄い世界に放り込まれ、十代半ばでひ弱な双肩に不釣り合いな責任を背負わされた逸架を誰が責められるだろうか。
逸架は驕り高ぶり思う儘力を振るう事も出来ず、かといって正義と平和のために力を行使する覚悟も決められなかった。逸架は周囲に求められるままに任務をこなした。宿題を終わらせていない夏休みの最終日が毎日来るような心地だった。そこに大義はない。ただ周囲の期待と厚意を裏切るのが怖かった。ここ以外に居場所がないという絶望と諦念だけが逸架を任務に駆り立て、また呪力を底上げもした。逸架はその身に大いなる力を刻み、またそれを利用し立場を得ながら、未だにそれを受け入れられないでいる。
逸架は時間を忘れてビデオが擦り切れるほど何度も観たその映画を、高専入学以降一度も観ていない。
逸架が高専の学生寮を出て職員用の宿舎に引っ越したのは夏の気配も色濃い六月の終わりの頃であった。呪霊の活動が活性化する時期で、逸架はいつまでも自室に引き籠っていられなくなった。もはや学生ではない逸架のことを逸架に替わり慮り守ってくれる人間はいない。いることにはいるが、それに頼るのは自分で判断が出来なくなったときだと肝に銘じた。逸架が現場に戻るよう指示を受けたことに一部懇意の教師や術師は難色を示した。まだもう少し休んでいてもいいと言われたが、逸架は仕事に戻ることを決めた。任務をこなさぬ己に価値はない。いつまでも膿んだ傷を舐めているよりは、いつもの仕事をしているほうが気が紛れるだろうと思った。
それにあたり逸架は部屋に並んだ空の酒瓶を一人で全て捨てた。八割方残った瓶の中身も流しに捨てた。甘く味付けした飲みやすいだけのアルコールがざあざあとシンクを流れていく。フルーツ香料の香りが優しく鼻を撫でていく。惜しいという気持ちもあったが、部屋を漂う酒気にうんざりもした。
当然ながら学生寮は成人も含めて全面飲酒厳禁となっていて、逸架は酒瓶を何日かに分けてビンごみ捨て場の奥の方に人目から隠れながら少しずつ捨てた。幾人かの教員や用務員はそれに気が付いていたが、見て見ぬふりをした。逸架がそうまでしたのは七海が逸架の引っ越しを手伝うと申し出たからであった。七海にしてみれば親切心であるが、逸架は未成年の七海に酒瓶のごみ捨てを手伝わせるのだけは嫌だった。それを恥だと思う程度の理性は残っていた。散々七海に迷惑と手間をかけさせておきながらも、一応逸架にとってはそれが越えてはならない一線だった。
呪霊を祓うのには慣れた。その過程で仲間を失うことにも、慣れはしないが折り合いをつけるように心がけてきた。だが逸架は呪詛師となった後輩を追うことに耐えられなかった。見つけたら交戦になるだろうか。そのとき己は後輩を傷付けずに捕縛することが出来るだろうか。出来たところで後輩はどうなる。そういうことを考えていると逸架はだんだんと眠れなくなっていった。何もすることのない時間を埋めるように酒量が増えた。だが逸架は多少飲んだところで気分が高揚することも正体を無くすことも酩酊することもなく、少し飲みすぎればすぐ目を回して眠ってしまう。逸架が酒を飲むのは何かから逃げたいときは酒を飲むのだという安い通念と寮を抜け出しコンビニで酒を買う陳腐なメランコリーのためで、そこに己の意思も欲望もありはしなかった。体にも心にも悪いことを承知で、快楽も恍惚もなく、それでも酒を飲み続けた理由は、そうすれば辛いことを忘れられるような気がしたからだ。
部屋のどこかで携帯電話が鳴った。逸架は音の出どころを探して荷物を纏めた室内をうろつき、ダンボール箱の間から携帯を見つけ出した。液晶に表示された七海建人の名前を確認し、通話ボタンを押し込む。
「――はい」
「七海です。逸架さん今どこですか」
「自室です」
「そうですか、今からそちらに行きますので。引っ越し手伝います。忘れていませんよね」
「……忘れてないです。ありがとうございます」
「今から風呂に入らないでください」
「それは……もう洗面用具も片付けてしまったので」
「片付けてなかったら入ったんですか」
どうだろうか。逸架が考えている間に携帯の向こうで七海が「それでは首を洗って待っていてください」と言って電話を切った。逸架は立ち尽くし、携帯電話をポケットに放り込み、荷物を全て運び出し掃除を終えた洗面台でとりあえず首に水をかけた。ぼんやりと鏡に目をやると、顔色の悪い女が見つめ返してくる。ひどい顔だな、と逸架は思う。逸架は洗面台で顔を洗う。その後でタオルの類をもう片付けてしまったことを思い出し狼狽えた。
ドアをノックされ、逸架は慌ててTシャツの襟ぐりを伸ばして顔を拭く。ドアを開けると七海が冷ややかな仏頂面で逸架を見下ろした。
「どうして濡れてるんですか」
逸架の顔を見るなり七海は言う。逸架は鼻の先から滴る水を指先で拭った。
「顔を洗ったけどタオルがなかった」
七海はいくつか言いたいことが浮かんだが、そんなことを言っている暇もないので黙って手に提げていた紙袋を差し出した。
「引っ越し祝いです」
逸架はそれを受け取る。
「ありがとうございます。……学生寮から職員宿舎に移るだけなのに」
「それでも引っ越しは引っ越しです――何から運びますか」
逸架は事前に借りていた台車に載せていた荷物と、載り切らなかったダンボール箱と紙袋を示す。五年と少しこの部屋に住んだにしては乏しい荷物だった。食事は食堂で取るので調理器具も食器も多くない。家具も寝具も寮の貸与品である。定期購読している雑誌の類もなく、着替えもほとんど制服で事足りた。趣味らしい趣味といえば怪談本の蒐集くらいだが、それもたかが知れている。不用品はすでにごみに出したので、運び出すのは細々とした日用雑貨ばかりだ。
七海は何も言わずに箱と紙袋を抱え上げた。半年ぶりに見た彼は少し背が伸びていた。しっかりして見えても七海はまだ背が伸び続けているような十代の少年で、逸架はそれを目の当たりにすると己の不甲斐なさに目眩がした。
「……力あるね」
逸架が呟くと「逸架さんよりは」と七海は素っ気なく答える。七海は言葉短く切れ味鋭くときに人に威圧感を与えがちだ。同じく口数少なく他者を無視していると捉えられることもある逸架は、あまり七海のそれを気にしたことはなかった。遠慮のない意見も忠告も苦言もありがたい。ただ逸架にあまりにずばずばと物を言う七海を見て七海の後輩が怯えるので、七海はあまり表立ってはそういうことを言わなくなった。そのかわり二人のときは他の生徒の持っている印象の三倍は、逸架は七海に色々言われている。
「逸架さん、荷物少なすぎませんか」
「いらないものとか捨てちゃったしね」
「もっと人間らしい生活をしてください」
「に、にんげんらしいせいかつ」
「こっちが不安になるので」
すみません、と逸架は項垂れる。女子寮から出ると外は小雨がちらついていた。梅雨の名残が頬を撫でる。湿気った空気が肺を満たす。逸架は質量を感じるような湿度を浴びながら、突然嫌な記憶を思い出し溜息をつく。おずおずと七海の名を呼ぶと、七海は眉根を寄せながら「なんですか」と言う。
「先日はお見苦しいところをお見せして、本当に申し訳ない」
それだけ言うと七海は大方を察してああと呻いた。
「こんなこと言いたくないですけど、酒に溺れている人間は本当に見苦しいです」
「は、はい……」
いえ溺れているという程では、と反駁しかけ逸架はそれを飲み込んだ。
「私に飲むなと言う権利はありませんが――」
「いや、言って……言ってほしい……」
荷台のハンドルを強く握りしめる逸架の手を見下ろし、七海は呆れたように肩を竦める。
「言いませんよ。いい大人に何で私がそんなこと言わないとならないんですか」
「……返す言葉もないです」
「飲むなら楽しく飲んでください」
恥ずかしいやら情けないやらで逸架は頬を打つ雨に混ざり変な汗をかき始めた。七海は真っ直ぐ前を向いたまま「でも少し安心もしました。逸架さんがやめたいと思うくらいなら、私が呪術師をやめたいと思っても何ら恥ずかしくない」と呟く。細かな雨の音に似た声音だった。逸架もしばらく前を向いたままでいたあと、静かに「そんな大層なものでは」とだけ答えた。
体調は、と七海が短く問う。逸架は浅く首肯した。良好というわけではないが、最悪ではなかった。
「部屋にお酒がありませんでしたけど――」
「はい……七海に見られたのがショックで」
「そうですか、押し入った甲斐があった」
七海は平然と皮肉めいた言葉を口にする。逸架は何と答えるべきか分からず口を噤んだ。霧のような雨音が耳に障り、逸架は何を話すかはっきりと定まらないまま「多分ね」と口を開いた。ぽつぽつとたどたどしく先を続ける。
「お酒、あんまり向いてなかったと思う。体質的になのかな、わからないけど」
「でも結構飲んでましたよ」
「いや本当に……お恥ずかしい……」
逸架は肩を落とす。夏油の一件以降心身のバランスを崩した逸架を誰もが腫れ物のように扱う。弛んだ心身に七海の遠慮のない言葉は厳しく痛く、だが心地よかった。七海にあの惨状を見られなければ、逸架はあのままずるずると駄目になっていたかもしれない。羞恥と悔恨が逸架に鞭を入れた。
「たくさんお酒を飲めば嫌なことを忘れられるかと思った。よくそういうの聞くから」
「忘れられましたか」
「全然忘れられなかった」
きっぱりと逸架が答えると七海はやや表情を和らげた。
「逸架さん、お酒に逃げる才能までないんですね」
「良いのか悪いのか……」
職員用の寄宿舎につき、逸架は濡れた荷台の車輪を申し訳ばかりマットで拭った。総務から渡された茶封筒から鍵を取り出しタグと部屋番号を見比べる。古びたディスクシリンダーキーを指定された部屋番の鍵穴に入れると、多少引っかかりがあり錠が開いた。
学生寮より年季の入った建物だが、そもそもそれほど使われていないのか目立った汚れはない。逸架はダンボール箱と七海から受け取った紙袋を荷台から下ろした。七海は荷物を解く逸架を横目に部屋の照明とガス、水道を確認していた。どれも問題なく使用できることを確認してから逸架の荷物に手をかける。
「これ開けますよ」
逸架はそれを制止した。
「いやそこまでしてもらうわけには……」
「ここまで手伝ったんですから最後まで付き合います。開けても大丈夫ですか」
逸架は迷い、視線を泳がせ、黙って頷く。すみません、と小さく囁いた。七海は箱の中身が食器と簡単な調理器具であることを確認し、それを手狭なキッチンに運んだ。逸架はその後ろ姿を見送りながら、すかすかの衣装ケースから制服と少ない私服を取り出し作り付けのクローゼットに放り込んでいく。もう制服を着る機会もない。私服も仕事着も買い揃えねばならない。逸架は見て見ぬふりをしてきたやるべきことが突然目の前に山積し溜息をついた。
「七海、私の制服いる? もう着ないから」
逸架が言うと七海は思い切り顔をしかめてキッチンへ続く戸から顔を覗かせる。
「いりません。腕も通らないです」
「同級生に欲しい子いないかな。捨てるのももったいなくて」
「無償支給される制服をわざわざお古で欲しい人もいないでしょう。素直に捨ててください」
逸架の制服、となれば憧憬と験担ぎから欲しがる人間もいそうだが、それを言い始めると面倒ごとになるので七海はそう切り捨てた。
「そっか……でももったいないな、上着くらいは壊れるまで着ようかな」
「コスプレですよそれ」
七海が言うと逸架は茫洋とした表情のまま「ああ」と呟き、制服をごみ袋に詰めた。キッチン用品の荷解きを終えた七海がダンボール箱を解体しながらリビングに戻ってくる。ばらしたダンボールを部屋の隅に置きながら次の箱に手を伸ばした。自身が手に抱えて持ってきた箱を覗く。ベッド周りの雑貨のようであった。後回しにするか、と思ったが箱の隅に手のひらに乗るほどの植木鉢が入っていることに気が付き、それだけ取り出す。ガラスの鉢に植えられた、小さなサボテンだった。七海はあまり逸架らしくないそれをしげしげと眺め、逸架に「これ、どこに置きます」と尋ねる。逸架は七海の手の中の鉢を見ると怪談本を本棚に並べる作業を中断した。
「明るいところに置かないと」
逸架の手が七海の手から鉢を取る。逸架はそれを窓辺に置いた。
「サボテン好きなんですか」
「もらいものだよ」
誰に、と七海は問いかけ、だがそれはあまり意味のない問いであったので口の端に上らせる前に飲み込んだ。だが逸架は運ぶ途中に乱れた白い砂を指で均しながら「同期にもらった」と言った。
「誕生日プレゼントだったかな、クリスマスだったかも」
「サボテンを?」
「……私には気にかける存在があった方がいいって」
逸架はサボテンの柔らかな白い針を撫でる。七海は「なるほど」と答えた。
「その人は――」
「四年に上がる頃に高専辞めた。歯科衛生士の専門学校に入学した」
逸架は本を棚に納める作業に戻る。七海の視線が背中に刺さる気配がする。逸架がゆるゆると背後を振り返ると、目が合った七海が気まずそうに目を逸らした。
「やめる人、多いんですね」
逸架は黙って頷く。七海が「呪術師を続けるか迷っている」と言ったときにさほど驚かない程度には多かった。
「逸架さんは、やめないんですか」
逸架はまた頷く。七海は眉根を寄せた。
「やめたいのに?」
「……やめたいよ」
逸架は俯き、前髪を掻き上げる。やめたい。だが己の食い扶持は稼がねばならない。七海の冷ややかにさえ聞こえる声音がうなじに降ってくる。
「いっしょにやめませんか、と言ったら、聞いてくれますか」
逸架の心臓が妙な感じに跳ねた。逸架は縋るように七海を見上げ、常と変わらぬように見える七海の顔が強張っているのを目にした。逸架はしばらく考え、首を横に振る。
「聞くことは聞くかも。でも、やめないと思う、ごめんなさい」
「――そうですか」
痛いほどの沈黙の予感がして、逸架は慌てて別の話題を振る。
「七海」
「はい」
「引っ越し祝い開けてもいい?」
「どうぞ」
逸架は片付け途中の本を放り出し、玄関先に置きっぱなしであった紙袋を手にとる。中身は色とりどりのお茶の詰め合わせだった。
「酒よりはマシでしょう」
七海に言われ、逸架は恐縮し項垂れる。
「何から何までお手間をおかけしております……」
逸架は七海が片付けてくれたキッチンで電気ケトルに水を入れた。ケトルのスイッチを入れ、茶葉を物色する逸架に七海が「今飲むんですか」と呆れ声を上げる。
「七海は何にする」
「逸架さんと同じものでいいです」
逸架は箱の中から赤い小袋を二つ摘まみ上げた。色柄の違うマグカップを二つ取り並べる。ティーバッグの包装を手で切りながら、逸架は同封されていたお茶の産地の紹介パンフレットを眺めている。
「ディンブラ産の高級茶葉……ディンブラってどこ」
「スリランカじゃありませんでしたか」
「スリランカ……」
「…………インドの南です」
七海は言うが、逸架はいまひとつぴんと来ていないようだった。やがて湯が沸き、逸架はマグカップに湯を注ぐ。華やかな香りが殺風景なキッチンに広がる。水が鮮やかな赤色に染まっていく。逸架はマグカップをひとつ七海に差し出し、七海はそれを両手で受け取る。湿度の高いこの季節に熱いお茶にはそそられなかった。だが逸架はキッチンで立ったまま水面に息を吹きかけカップに口をつける。視線は異国の抜けるような青空の下で茶摘みをする様子の写真に向けられている。
「きれいなところだね」
「広告写真ですから」
短く答える七海に逸架は構わずパンフレットのページをめくった。写真から感じられる空気すら乾燥しているような高地の写真が続く。切り立った崖も、茶葉の深い緑も、からりとした青い空も、目に痛いほど美しい。
「行ってみたいな」
「スリランカにですか?」
「どこでもいいよ、遠いところ」
逸架はカップから取り除いたティーバッグをシンクに落とす。染み出た赤い液体が細く排水溝に流れていった。
「行けばいいじゃないですか」
七海もティーバッグをシンクに置いた。
「呪術師をやめなくても、休みをとればいい。仕事で行くこともあるかも」
逸架はシンクでくしゃくしゃになったティーバッグを見下ろし、ついで七海の顔を見上げる。七海はマグカップに口をつけ、カップ越しに逸架を見ていた。
「スリランカの呪霊ってよく分からないけど強そう」
逸架が言ったとたん、七海はマグカップの中で茶に噎せた。床にぽつぽつと茶の飛沫が落ちる。逸架は唖然としてそれを見ているしかなく、七海は常と変わらぬ仏頂面で「すみません、拭くものありますか」と悔し気に呻いた。
「ご、ごめん、変なこと言ったつもりはなかったんだけど……」
「いいです、分かってます。布巾あります?」
「どこに入れたかな」
ダンボール箱の中身を漁りに行こうとした逸架の背後で玄関ドアがノックされる。逸架が「はい」と言うと勝手にドアが押し開けられた。
「逸架ちゃん先輩現場復帰アンド引っ越しおめでとー、ちょっと入っていい? 学生寮と違って宿舎は男子禁制じゃないから助かるう」
ドアの隙間から差し入れられた銀髪の頭を見て、逸架は一瞬固まる。現れた五条はキッチンで立ったままマグカップを手にする七海を見つけてサングラスの奥で眉を上げた。
「おっと邪魔しちゃった? でもここからはオトナの話だから七海はちょっと外してもらっていい?」
「邪魔なことは邪魔ですが五条さんが邪推するようなことはないです、お気になさらず」
七海が慇懃無礼に答えると五条は肩を揺らして笑った。逸架は殺風景な部屋を見回し首を横に振る。
「今ちょっと……人を入れられる状況じゃないかな」
「七海入ってんじゃん。七海、人じゃなかった?」
「七海は人だよ」
「僕も人だよ。おじゃましまーす」
我が物顔で上がりこんでくる五条に戸惑うが、こうなると何を言っても聞かないのは承知であったので逸架は諦めてお茶の詰め合わせを五条に示す。
「五条くんも何か飲む? 七海からだけど」
「この暑いのによく熱いお茶飲めんね」
五条は言いながら手に提げたポリ袋から清涼飲料水のボトルを出して見せた。逸架は肩を竦めてお茶の箱をしまう。途中、ふと手を止め五条に視線を向けた。一人暮らしには十分な広さの部屋だが、長身の男が二人もいると手狭に感じる。
「ティッシュ持ってる?」
逸架に問われ、五条は制服のポケットから広告入りのティッシュを取り出す。いつから入れっぱなしにしていたのか中身の偏ったそれを「ん」と逸架に示す。
「ごめん、これもらってもいい?」
「どうぞ」
逸架は受け取ったそれをそのまま七海に横流しする。七海はそれを心底いやそうな顔をして受け取った。濡れた制服の胸元と床の水滴を拭う。
「七海、今度お礼するから。今日はありがとう」
「別にいいです。いらないダンボール持っていきます。帰りがけに捨てるんで」
丁寧に腰を折る逸架をよそに七海はリビングのダンボール箱を回収した。ついでに制服の入ったごみ袋も取り上げる。逸架がありがとうでもいいよ自分でやる、と言う前に七海はさっさと出て行ってしまった。閉ざされたドアを呆然と見る逸架に五条が「逸架、それはもう介護じゃん」と笑った。
「もう七海には頭が上がりません」
「マジ? 七海すげーね」
五条はひとしきり笑うと軽薄な表情を削ぎ落し、真剣な顔で逸架を見た。透けるような美しい青の瞳にじっと見下ろされ、逸架は居心地悪さに目を伏せる。
「夏油の件、僕が受けるべきだった。本当に申し訳ない」
五条はそう言い、深く頭を下げた。あの一件以降半年ぶりに会った五条はだいぶ印象が変わっていた。居丈高で棘のある言動は鳴りを潜め、飄然として人当たりのいい振る舞いを選ぶようになった。彼にどういう心境の変化があったのか、逸架には分からない。だが夏油のことは呪術界にも高専にも五条にも逸架にも深い爪跡を残していた。
逸架は「ああ」と囁き、次いで首を横に振る。
「五条くんが行くのだけは、だめだよ」
逸架は夏油とは幾度か同じ任務についたことがある。真面目で思いやりがあり、聡明な人だった。逸架は夏油の凶行には何か理由があることを半ば確信していた。そう願っていただけかもしれない。だがそれを深く知ろうとは思わなかった。知れば同調してしまう気がした。
「同窓のケツは同窓が拭くべきだった」
逸架はまた黙って首を振る。
「結局見つけられなかった。だれが追っても結果は変わらなかったと思うよ」
「本当に、見つけられなかった?」
五条は穏やかな口調で言う。逸架は目を伏せ「見つけられなかった、幸か不幸か」と呟いた。五条の青い目で見つめられると、腹の底まで見透かされている気がした。五条は「そうか」と言ったきり黙り込む。窓の外の雨の音がだんだんと強くなっていた。
「逸架、教師になる気はない?」
突然そう言われ、逸架は怪訝な目を五条に向ける。五条は口元に微笑を浮かべて逸架を見下ろした。逸架は溜息混じりに首を振る。
「まさか、私には無理だよ」
「そう? 七海はかなり成長したと思うけど」
「それは七海の努力で、私は何もしてない」
五条が一歩距離を詰めてくるので、逸架は後ずさる。
「僕ね、今の呪術界にはうんざりなんだよ。逸架もそうじゃないの? いいように利用されて、そろそろキレてもいい頃だよ」
いいように利用されている、と言われ逸架は眉根を寄せる。それでも逸架は現体制に一定の恩義を感じてはいる。少なくとも生計と生きる意味は与えられた。
「五条くんのやることに反対はしない。協力できることがあるならするよ。でも、私は教師にはならない。他人の人生に責任は持てない」
「持ちたくない、の間違いでしょ」
五条の言葉が逸架の胸に杭のように刺さる。指先が冷え、震えた。逸架は目を閉じ、首肯する。
「そう……そうだよ、ごめん」
「中途半端に手を出して責任を持たないより、何もしないほうがご立派かもね。でもアンタの力は強すぎて、望むと望まざるとも他者に影響を与える。なら自分で選ぶべきだ」
「――何を」
「どういう影響を人に与えたいか」
逸架は薄曇りの窓の外を眺めた。アルミサッシを細かい雨粒が叩く。窓辺のサボテンが陽光を待ちわびるようだ。それをぼんやりと見ていると、五条が痺れを切らしたように「逸架」と声を上げる。逸架はゆるゆると首を横に振った。
「ないよ、そんなもの。なるべく人に関わらず、波風立てず、呪霊を祓って、祓って、祓って、いつかしくじって死ぬ」
「それで何が得られる」
「感謝とやりがい」
「いきなりブラック企業みたいなこと言うじゃん。本気で言ってんの?」
逸架はただ頷いた。苛立ち何か続けかけた五条を逸架は手で制止する。
「くだらないと思う? それでもいいよ。五条くん、人間誰もがきみみたいに強くあれるわけじゃない」
五条はぎゅっと眉間に皺を寄せた。美しいばかりの瞳に険が宿る。低い声音に怒りが滲む。
「そっか、ちょっとがっかりだな。逸架ちゃん先輩はもっと骨があると思ってた。僕の見込み違いか」
五条の言葉は全て逸架の胸を刺す。逸架は俯き、震える手を握り、緩め、首肯した。
「五条くん、怒らせて本音を引き出すのはあまり……有効じゃないと思う。不誠実だし。それに、今のは全部本音だよ。ごめん。五条くんに見込まれるほど、私は強くない」
逸架が言うと、五条は寄せていた眉根からふっと力を抜いた。
「逸架ちゃん先輩さあ、そういうとこ、マジでやりにくい」
「…………ごめんなさい」
「いいけど」
あーあ、と五条は伸びをする。指先が天井に着きそうだった。
「でもさっき協力できることはなんでもするって言ったよね?」
五条の双眸が色ガラスの向こうでにんまりと弧を描く。逸架はぎょっとして自身の発言を振り返った。できることはすると言ったが、なんでもとは言っていない。いや言っただろうか。自信がなくなってきた。
「…………言った?」
「言ったよ、僕ちゃんと聞いたもん」
「……なんでもっていうのは無しで」
えー、と五条はわざとらしく唇を尖らせる。
「でも逸架はさ、可愛い後輩のお願いは断れないでしょ、お人好しだからね」
五条に指先で頬をつつかれ、逸架は目を細めてそれから逃れる。そんなことないよ、と囁いた。お人好しではない。世話焼きでもない。ただ己は誰かに頼られると断れない。縋られた手を払えない。正義ではない。優しさでもない。それはただ、己で認められない己自身を誰かに認めてほしいからだ。
*
心身の不調により一時現場から退いていた逸架は復帰しても最初から普段通りの仕事とはいかなかった。準一級、ときには二級の現場から段階的に勘を取り戻していく。逸架は早々に現場に戻されることに不平を言わず、交換条件というわけではないが相方に七海を指名した。七海はそれを聞いたとき驚き逸架に理由を尋ねた。逸架は言いにくそうに「遅刻して他の人に迷惑をかけてしまうから」と答えた。七海が思わず「私には迷惑をかけてもいいんですか」と問い詰めると、逸架は「あれ、たしかにそうだ……」と言うなり二時間ほど何も言わなくなってしまったので七海は呆れて「いいですよ、もう諦めてます」と黙り込む逸架に声をかけるしかなかった。全方位に異常に気を遣う逸架が唯一気を許しているのが七海だった。それを思えば、七海は彼女の多少の要求を飲むことはやぶさかでなかった。
逸架は初めのうちこそ本調子でないのが七海にも分かったが、徐々に勘を取り戻していった。秋にはほとんど休暇前の仕事量に戻っていた。一級や特級に纏わる任務に七海は否応なく参加させられた。補助とはいえそれなりに窮地もあり、七海は呪術師を続けることを悩んでいるというのに実力だけは付けざるを得なかった。最近はそれらに類しない機密性の高い任務が逸架に割り振られることもあり、七海が同行させられない任務も増え、初夏の頃ほど毎回同じ任務ということもなくなった。
七海は呪霊を斬り捨て、鉈を握り直す。遥か彼方で逸架の呪力の気配がし、まばたきの後には七海の背後で逸架が「別館は何もいない」と呟いた。廃ホテルで人知れず数を増やしていた呪霊の討伐任務であった。急務であるのは先行の呪術師と補助監督が行方不明になっているからだ。
「早いですね」
「こういうときは便利な術式です」
謙遜にも皮肉にも聞こえるが、逸架に限っては明らかに前者だ。七海は呪霊にとどめを刺しながら背後の逸架に「今何時ですか」と尋ねた。ホテルに突入してからどれくらい時間が経っているか気になった。返事がないのを訝しみ、七海は「逸架さん?」と声をかける。逸架は携帯電話の液晶に視線を落としたまま固まっていた。
「逸架さん、どうしましたか」
「いや……ちょっと、ごめん、分からない」
分からない? と七海は復唱する。逸架は液晶を見下ろしたまま「調子が悪いので」と答えた。七海は逸架の手元を覗き込む。小さな液晶には問題なく四つの数字が並んでいた。入ったときから体感の経過時間とも大きな齟齬はない。七海は変色しかけた液晶を見て「それは携帯がですか? それとも逸架さんが?」と問う。逸架はしばらく眉根を寄せていたが観念したように「私です」と答えた。七海は溜息をつく。
「任務が終わったら理由を聞きます」
「いや、そんな大した話ではなくて……」
「聞きます」
「――はい」
言うなり逸架は姿を消す。逃げたな、と七海は思ったが、廊下の向こうから呪霊の気配がしたのでひとまずそれは忘れることにした。
その後、逸架がホテル内に閉じ込められた先行隊を確保、七海が二人を救助している間に逸架が呪霊を殲滅した。呪術師、補助監督は衰弱こそしていたが怪我はなく念のため現地の病院で一晩様子を見ることになった。七海はその旨を本部に連絡すると、病院の待合室の椅子に座ってうとうとする逸架を揺り起こした。
「夕食、どうしますか」
「食べる」
逸架は即答した。食欲があるということは体調も精神状況も最悪ではないのだろう。七海は少し安堵した。一度ホテルに戻り、ロビーで七海は「十五分後にここに集合でいいですか」と提案する。それほど難しいことを言ったつもりはないのだが、逸架は眉根を寄せた。
「やめたほうがいいかも」
逸架の口振りに、七海は逸架を睨んだ。
「逸架さん」
「はい」
「一度部屋に戻って荷物を置き必要なら着替えて手を洗ったらその他のことを一切せずこの場に戻ってきてください」
「……シャワーくらい」
「だめです」
七海が断言すると逸架は恨みがまし気な顔はしたが文句を言わずにのろのろとエレベーターに消えていった。七海も一度部屋に戻り、上着を脱いでロビーに戻った。すでに逸架がソファに座っている。七海は逸架の傍らに近寄るとまた「早いですね」と言った。逸架はやや不服そうに「七海より遅れたら悪いかと思って」と肩を竦める。
「別に常識の範囲内であれば何も言いません。逸架さん、ハンバーグが美味しいお店と中華、どっちがいいですか」
「中華」
「少し歩きます」
七海が踵を返すと、逸架は立ち上がりいつもと変わらぬ足取りで七海の後をついてきた。日中は陽気でも、日が落ちると肌寒い季節になってきた。七海は上着を置いてくるべきではなかった、と思いながらあらかじめ調べていた道を歩く。七海は店に着いたら何から逸架に聞くべきかと考えていて、逸架は一言も言葉を発しなかった。調べた限りでは少し距離があるように見えた中華料理屋までがあっという間に感じたのは、聞くべきことが定まらないままであったからかもしれない。
七海は店内の奥まった位置にあるテーブルを選んだ。店の中は適度にざわついていて、誰も店の隅で五目あんかけ焼きそばをつつく人間の話す内容に興味を持つことはなさそうだった。七海は注文を済ませるなり、話を切り出す。色々考えたが、真正面から聞き出すことにした。
「逸架さんの遅刻癖は、術式が影響したものですか」
七海の言葉に、逸架は首肯した。
「そうだよ。いつから気が付いてた?」
あっさりと肯定され、七海は調子が狂う。隠しているのだから、隠したいのかと思っていた。或いは術式に関する何らかの縛りならば、開示する相手と時機は見極めなければならない。
「まあ……はっきり言って常軌を逸した遅刻癖だったので、結構前から薄々そうなのかとは思っていました。半ば確信したのは今日ですが」
逸架は時刻の表示された液晶を見ながら「今が何時か分からない」と言った。それは遅刻癖がどうとか、時間にルーズであるとか、そういう域を遥かに越えている。逸架はコップの水に口をつけながら申し訳なさそうに小さくなる。
「遅刻の件は本当にごめん……でも最近は改善されたと思うんですが……」
「私が逐一連絡しているからです」
「はい、お世話になっております」
逸架は深々と頭を下げた。七海は店の壁にかけられたアナログ時計を指さす。
「今何時か分かりますか」
逸架は「眼鏡をはずした人に指何本か聞くやつみたい……」とぼやいた。七海はそれを黙殺し答えを促す。逸架は時計を一瞥し、七海に視線を戻した。
「分からない」
「時計が読めないんですか」
「普段は時計が指してる数字くらいはわかるよ。今は、多分任務続きだったから調子が悪い」
どういうことですか、と七海が眉をひそめると、逸架はこめかみを指先で撫でた。逸架が口を開きかけたところで、店員が炒め物の皿をテーブルに置いた。七海は皿の中身を見てぎょっとする。
「なんですかそれ」
「鳥の足だって」
はっきりと五指が分かるそれを逸架は箸で摘まむ。グロテスクだな、と七海は思った。
「美味しいんですか」
「初めて食べる」
意外とこういうところでは好奇心旺盛だ。七海は鳥の足を咀嚼する逸架に「それで、どういうことなんですか」と重ねて問うた。逸架は心配になるほど長い時間をかけて口の中のものを嚥下した。
「数字は分かるけど、それがどういう時間か分からない。――ごめん、上手く説明できなくて……分かる?」
「全く分かりません」
「そうだよね、自分にないものを説明するのって難しい。だから、つまり……基本的に時間感覚が共有できないので、何時集合と言われてもちょっとピンとこないし、十五分と言われても見当がつかないし、月日も基本的にあんまりよく分かってない」
七海はそれを聞き、飲み込み切れずに「は?」とだけ答えた。
「……時計を見ればいいのでは」
「見ても分からない」
「分からないって……何が分からないんですか」
「時計の針が指している数字が何を表しているか分からない」
「時間でしょう」
「それ、それが分からないので……すみません」
七海はテーブルに置かれた焼きそばに手を付ける気にもならず、言いたいことも思うことも諸々もどうにもならず、苛立ちに似た感情がただ溜息になって口から吐き出された。逸架は居心地悪そうに木製の椅子の上で身動ぎする。
「今までどうやって集合場所への時間を計っていたんですか」
「勘かな、全然あてにならないんだけど。あと、補助監督の人は事情を把握してくれてる人が多いから、まめに連絡くれたり……でも時間感覚が狂ってるから普通に準備したつもりでもすごく時間がかかってたりして結局遅れる」
逸架も七海の顔色を見て箸を置いてしまう。七海は今まで逸架の遅刻についてかなり厳しい言葉をかけてきたことを思い出していた。それが無精やだらしなさゆえではなく、術式の影響によるものだと知っていたら、七海はあれほど配慮に欠けた言葉をかけはしなかった。表情を険しくする七海に逸架はテーブルの上で細い指先を絡め合わせた。
「どうして言わないんですか」
七海が言うと、逸架は目を伏せる。七海は割り箸を取り、焼きそばをすすった。経験上これは長くなると思ったからだ。七海がやきそばの四分の三を食べ終えたあたりで逸架はぽつりと呟く。店内の喧騒で掻き消えそうな声だった。
「――どちらでも違いはないので」
七海は水を飲み、ぎゅっと眉根を寄せる。テーブルに置かれるコップの音がいつもよりわずかにだけ高くなった。
「ないわけがないでしょう。そういう事情なら、私だって多少配慮はしました」
「いや、七海にこれ以上してもらうわけには……」
逸架はふつと言葉を切ると、黒い目を七海に向けた。濡れたような美しい瞳だ。逸架がそういう目を七海に向けるのは、大概が面倒くさいことを考えているときだった。
「何が原因でも、人に迷惑をかけていることには変わらない。術式が原因なら許されて、その他の理由が原因なら許されないなんてことはないよ」
七海は反駁しかけ、それを飲み込む。確かに己は逸架の遅刻癖に振り回されていて、腹を立てることもある。それが術式によるものであると知っていれば、多少は納得は出来ただろうか。仕方がないと思うことが出来ただろうか。術式が原因の遅刻と他が原因の遅刻は等価ではないのか。七海は残りの焼きそばを黙々と口に運ぶ。
「逸架さんにとっては変わらなくても、私には違います」
逸架は箸を取りながら「そうかな」と首を傾げる。七海は「そうです」と断言しようとしたが、自信がなくなり言葉を選ぶ。
「……少なくとも、心構えは出来ます」
「そっか……ごめん、言っておけばよかった」
七海は皿を空にし、もそもそと白米を口に運ぶ逸架に視線を向ける。
「術式が原因なら、もっと開き直ってください」
七海の言葉に逸架は咀嚼をしながら小さく唸る。七海は肩を竦めた。
「逸架さんには難しいんでしょうけど」
「いやそんなことは……うん、はい……」
それが出来るほど器用ならば逸架は七海に心中で繊細オバケなどと呼ばれていない。逸架の真面目さと他者への真摯さは美徳だが必ずしも逸架の生きやすさには寄与しない。七海は向かいに座る逸架の俯きがちな顔を眺めた。
「逸架さんのご両親は呪術師ではありませんでしたよね」
「そうだよ」
「高専に入る前はどうされていたんですか」
七海が問うと、逸架の手がぴたりと止まる。割り箸の先が炒め物の上をうろうろし、小さな青菜の破片を拾い上げ、落とした。
「まあ色々ありました」
逸架はそれだけ言った。時間はかかっても他者の問いには丁寧に答える逸架にしては雑な返答だった。歯切れの悪いそれを聞き、七海は彼女が以前「逃げる才能がない」と言っていたことを思い出す。共通の時間感覚を剥奪された状態では、自力で人並みの生活を送ることは難しいだろう。術式ゆえに平穏な生活から締め出され、術式ゆえに呪術界に縛り付けられている。逸架は呪術師には向かない過敏すぎる神経をすり減らしながら、呪術師として生きていくしか道のない人間だった。
七海、と小さな声で呼ばれ、七海は「はい」と答える。黒い目が七海をじっと見る。遠慮がちに、だが縋るように。七海は彼女を、よく引き合いに出される五条と比べて凡庸な瞳をしていると思っていた。だが今は逸架の沈鬱な双眸を直視できないでいる。
「理由がどうであれ、今までと同じようでいてほしいです」
「――というのは」
「遅れたら怒っていいし、小言も言ってほしいし、嫌な気分になったらそう言ってほしい。術式のせいだから仕方ないっていうのは……まあ直らないんだけど……ごめん、直らないけど――直らないから、我慢はしてほしくない」
「でも言っても直らないんでしょう」
「はい……すみません……」
七海が呪術師とは異なる選択をしても、逸架はここに留まり続けなければならない。この人を置いていっていいのか、というような気もしたし、置いていかないでくれという気分にもなった。七海はテーブルの隅に立てかけられていたお品書きを取る。油分でべたつくそれを捲りながら「逸架さん今日は奢ってください、あと餃子頼んでいいですか」と言うと答えを待たずに店員に餃子を一皿頼む。
逸架は呆気にとられたように七海の行動を眺め「ああ」と「ええ」の中間くらいの妙な返事をした。七海はお品書きを乱暴に戻す。
「私は、知っていたかったです。反省してください」
「――でも、」
七海は逸架の言葉を鋭く遮る。
「知っていればまた違う対処のしようがあったでしょう。時間感覚がバグっている人間に十五分後集合なんて馬鹿もいいところじゃないですか。私は、逸架さんの、その、妙な、こだわりで、人を振り回すところ、本当に、どうかと、思っていますから」
一言一言区切りながら七海が強い口調で言うと、逸架は目を丸くし、次いでふっと笑った。
「ごめん」
七海は鼻を鳴らす。
「杏仁豆腐も頼んでいいですか」
「なんでも頼んでください」
本当に逸架の白い顔が真っ青になるまで食べてやろうかとも思ったが、十代男子の七海といえども胃の容量には限度があるので馬鹿げた真似はやめておく。
やがて店員が餃子を運んできた。箸をとる七海を逸架が呼び止める。なんですか、と硬い声で応える七海を、逸架が心底申し訳なさそうに見上げた。
「ひとつもらってもいいですか」
「いやです」
「……はい」
「嘘です。ひとつでいいんですか」
「うん、ひとつ。ありがと」
嬉しそうに七海の皿から餃子をひとつ箸で摘まんで持っていく逸架に七海は呆れた声を出す。
「自分で払うんですからもっと強気で来てもいいのでは」
「……がんばります」
呻き、逸架は餃子を口にする。七海は「無理だろうな」と思ったが、それを咎める気はなかった。逸架は七海を見て、小さく笑う。
「七海といると時間が経つのがすごく早く感じる」
「そうですか、じゃあ集合時刻にも早めに来てください」
「……圧かな、緊張感があると早く感じるのかも」
「ではこれからもガンガン圧をかけていきます」
よろしくお願いします、と逸架は眉根を寄せた。
七海は、どうかこの優しく弱い人が少しでも生きやすくあってくれと願う。己より実力があり年齢も上の彼女にそういう思いを抱くことは侮辱なのかもしれない。それでも願わずにはいられない。七海はただ何もできない己が厭わしかった。