四
逸架は時間感覚を他人と共有出来ない。彼女の術式は時の運行に手をかけるかわりに、時の運行の絶対性を剥奪する。公平で、等価で、無慈悲な裁定だ。逸架の術式の前で時間は常に相対性を帯びている。人間が矢のように過ぎ行く魔を定義し切り分け名付け縛り上げた”時間”の概念など、逸架には意味をなさなかった。
逸架は己が呪術師に向いていないことを誰よりも自覚している。現代日本で暴力で以て何かを成し遂げる行いは表立って肯定されず、またそれに向いた人間も多くはない。己の、誰かの、死に向き合いながら、死に魅入られないことは難しい。呪術師にとって最も重要な資質は何かという問いへの答えは人それぞれだ。強力な術式を持っていることと答える者も、呪霊が見えることと答える者もいる。逸架はそれに「永劫回帰の無意味な呪霊狩りの中で己の確立した意思で行動する人間である」と答える。だが結局のところそれは、みな己にないものを提示しているにすぎないのかもしれない。
逸架は一つだけ、慣れぬ嘘をついている。上層部にも、上司にも、同期にも、五条にも、七海にも、言えぬままであることが一つある。逸架は一度、呪詛師夏油傑に遭遇した。雪になりきらぬみぞれ雨の降る夜のことだった。雨の降る中で逸架の術式は精度が落ちる。無防備に高速で雨粒にぶつかると逸架の体は容易に穴だらけになるからだ。それを夏油は知っていた。
「こんばんは、逸架さん」
穏やかに笑う夏油は逸架の記憶のままであった。呪術師の夏油傑と呪詛師の夏油傑が地続きであることを、逸架は受け入れられなかった。いっそ見る影もなく変わり果てていてほしかった。夏油は不安げな二人の少女に傘をさしてやり、自身の肩は濡れそぼっている。水を含み重たげな袈裟が、ぽとぽとと水を滴らせていた。
「子連れは卑怯でしょう」
逸架が言うと夏油は眉尻を下げて苦笑した。
「逸架さんに太刀打ちできるのは子供か動物か五条くらいだ」
夏油は大きな黒い傘を二人の少女に預け、逸架の前に立つ。黒衣をまとった見上げるほどの長身は、雲の立ち込める夜の空のようだ。
「夏油くん、交戦は避けたい」
「それはこっちの台詞だ。あなたと真正面からやりあう気はない。――とはいえ素直に捕まる気もない」
濡れた制服が膚に纏わりつき不愉快だ。逸架は濡れた顔を手で拭う。夏油が言うであろうことを、逸架はなんとなく予期していた。
「私たちと一緒に来ないか」
逸架はぎゅっと目を瞑り、顔を手で覆う。晩冬の雨は冷たく、痛いほどだった。息のかかる指先が一瞬温まり、すぐに冷えていく。
「非術師を根絶やしにするために?」
夏油は静かに一度だけ頷く。尖った顎の先から水滴が落ちた。
「我々はあなたの力を必要としている。或いは高専よりもずっと。高専には五条悟がいる。高専で二番手に甘んじるくらいならば、私に力を貸してほしい」
逸架は口の端に震える笑みを浮かべた。逸架は有用でなければならない。術式のために自力で人並みの生活が送れぬ逸架は、それを補うことが出来る成果を出さねばならない。上司が、補助監督が、同期が、逸架の遅刻癖を許し、手を尽くして生活を手助けするのは、逸架の術式が稀有だからだ。逸架にしかこなせぬ任務があるから、みな手間をかけて逸架に人並みの生活を送らせる。
五条が覚醒し二番手に落ちたとき、逸架は焦燥を覚えもした。だが肩の荷が下りたような気もした。二番手でもまだ周囲の容認は得られていたからだ。
息苦しさに眉根を寄せる逸架に、夏油は滔々と語りかける。
「あなたは非術師のふりをしては生きられない。でも呪術界も――あなたには惨すぎる」
夏油の冷たい指が、逸架の頬にかかる。濡れ貼り付く髪を指先で払われた。二人の少女が夏油の背後からおずおずと近寄り、傘を差しだしてくる。
「夏油様、……おねえちゃんも、濡れちゃうよ。傘に入ろうよ」
あどけない声音に逸架の胸は締め付けられる。
「逸架、我々には大義がある。一緒に来てほしい」
夏油は長躯を折り曲げ、褪めた薄い唇を逸架の耳元に寄せた。
「賞賛と容認のために屠り続ける相手が呪霊でも人間でも大差はないだろう。あなたにとっては」
それを耳腔に捻じ込まれ、逸架はわななくように息を吸う。冷たい雨粒が飛沫となって肺に侵入する。逸架は反射的に印を組んだ。低く唸るようなノイズが空間を満たし、雨粒は宙に縫い留められる。夜景を反射する幾万の雨粒を、その向こうで微笑む夏油を、傘を差し出す少女たちを、逸架は順に眺めた。ぼんやりと視線を上に向け、暗い空に上りかけたまま硬直した白い吐息を見る。今なら誰にも邪魔されずに夏油の首に指をかけられる。少女たちはただ倒れる夏油を見るだけだ。指先を蠢かせ、無防備なまま宙を浮く雨粒に触れた。やがて息が切れたように術式が解除される。世界が音を取り戻し、縫い留められていた雨粒がいっせいに肩に落ちてくる。逸架の指先は貫かれ、爪が弾け飛び、血を流した。
「どうする、逸架」
夏油はゆるりと目を細めた。袈裟の袖に少女たちが縋りつく。逸架の指先から薄赤の水滴がたつたつと流れるのを見た少女が小さな悲鳴を上げた。逸架は首を横に振る。
「私には、夏油くんが正しいのか分からない」
「そうか、残念だ。では私たちを殺すかい」
逸架はまた首を横に振る。
「間違っているかも分からない」
夏油はふと笑う。安堵したようにも見えたし、それを見越していたようにも見えた。
「……夏油くんは殺せない。その子たちも」
俯く逸架に夏油は笑みかけた。
「殺せないんじゃない、殺さないんだ。逸架、殺せたはずだ。でもそうしなかった。不可抗力のような言い方をするが、それはあなたの選択だ」
夏油は逸架の青褪めた頬を両手で包む。針の先のような瞳孔が、逸架の目を覗き込む。逸らそうとした顔を無理矢理上向かせられた。顔を冷たい雨が打つ。雨よりも冷ややかな目が逸架を見下ろした。
「忘れるな、目を逸らすな、覚えていろ。あなたが私たちを生かす選択をしたことを。その結果何が生じるかを。――そして、私たちがいつでもあなたを受け入れる準備が出来ていることを」
夏油はそう囁くと踵を返した。いくよ、と夏油は幼い二人に優しく声をかける。小さな手で傘を持っていた子が心配そうに逸架を仰ぎ見た。
「あの人は来ないの?」
夏油はその子の髪を指先で梳き「今はね」と答えると逸架に向けて「風邪ひかないでくださいね」と笑った。
忘れられるわけがなかった。逸架はそれを、いつでも先刻起きたことのように思い起こせた。霜天から落ちる雨のにおいまで思い描くことができる。それは記憶の痛烈さゆえかも知れず、術式のせいかも知れない。
逸架はベッドで仰向けになったまま、窓辺で冬の白い日差しを浴びるサボテンを指先でつつく。鋭い、だが柔らかい針が指の腹を引っ掻いた。あくびを噛み殺し目を擦りながらぼうっとしていると枕元で携帯が着信音を鳴らした。任務中にとうとう壊れてしまったものを七海が見咎めその足で買い直したものだった。何の理由もなく壊れかけの携帯をだらだらと使っていたが、最新機種は液晶も美しく動きも滑らかで勝手に電源も切れない。もっと早く替えていればよかった、と逸架は思った。
逸架は毛布の合間からまだ新しいつるつるとした黒い機体に手を伸ばす。まだ慣れない通話ボタンを指先で探す。携帯を耳に当てるなり「今どこですか」と声がした。あまりに頻繁に逸架に電話をかける七海はいつの頃からか名乗る事すらやめた。逸架も仕事のこと以外で電話をかけてくるのは七海くらいなので、それほど不便はない。液晶に発信者も表示される。
「――自室です」
「寝起きですか」
「……寝てます」
正直に答えてから正直に答えなくてもよかったのではないかと逸架は思った。電話の向こうの七海が溜息をついたからだ。
「致し方がないと分かっていても腹が立ちますね」
七海が言い放つのを聞いて逸架は電話口で恐縮する。七海は以前、話があると逸架と約束を取り付けていた。逸架はそれは覚えている。それが今からなのだろう。それはどう努力しても分からない。
「今から部屋に行きます」
今から、と逸架は呻く。もそもそと毛布から這い出ると、冷気が腹を撫でる。
「今からは……無理です。布団の中なので」
「では六百秒後」
七海の提案を聞きながら逸架は洗面所で湯を溜める。水音を電話越しに聞いた七海が「え、まさか風呂に入ってないですよね」と語調をやや荒くするので逸架は誤解を生む前に「洗顔です」と即答した。
「本当に今ひどい状態なので……顔洗って、歯磨いて、髪直して、化粧して、着替えて、あ、あとサボテンに水やってごみ出し――すると、どのくらい時間がかかると思いますか」
逸架が尋ねると七海は一瞬黙り込んだ後「知りませんよ、なんで私が女性の身仕度の時間に詳しいと思ったんですか」と一蹴した。ごもっともです、と逸架は電話に向かって項垂れる。
「よく分かりませんが一時間――三千六百秒くらいじゃないですか。でも逸架さんは放っておくと一工程ごとにぼうっとするんでその三倍はかかります。なので千八百秒後くらいに部屋に行きます。それでは――」
「七海、二千七百」
「駄目です、二千」
「に、にせんごひゃく」
数字を互いに口にしているのは別に競りをしているわけではない。時間感覚がバグっている――というのは七海が使う言葉で、逸架はその言い方が気に入っているので最近自分でもよく使っている――逸架は、待ち合わせも時間の指定も締め切りを守ることも不可能だが、唯一秒数だけは術式を使った直後でなければある程度の感覚が掴める。七海に指摘され、逸架は初めてそれを意識した。このねじくれた時間の感覚は生来のものであり逸架自身にはその特性を比較検討しようもなかった。その発見は些細だが画期的で、補助監督と共有することで逸架の遅刻癖はある程度緩和された。時刻に間に合うかは別の話だが。
「二千百です。飲めないなら今すぐ部屋に行きます」
「二千百でお願いします」
逸架は電話を切るなり大急ぎで顔を洗いだした。歯を磨き、寝癖を直し、化粧を終えたところで自室の扉が開けられる音がした。施錠はしてあるが、七海は逸架の部屋の合鍵を持っている。共同任務のたびに部屋の前に立ち尽くし逸架が起きるまでドアをノックする七海に申し訳なく、逸架が寝室以外なら勝手に入っていいということで預けた。そうはいってもきちんとした七海であるので濫用はしないだろうという信頼あってこそである。七海は濫用こそせずともきっちり活用はしてきた。寝室には入ってこないが、そこまでは戸惑いなく入ってきて容赦なく逸架を起こしてくる。バグのせいで延々と眠り続けることもある逸架とはいえ、そこまでされればさすがに冷や汗とともに跳ね起きた。
寝室の前から「逸架さん」と声をかけられる。逸架は寝間着のスウェットパンツを半分脱ぎかけた状態で「はい」と答える。
「起きてますか」
「……はい」
「準備は」
「七割方」
「クリティカルですね」
「ん? ――ふふ」
「笑ってないで急いでください」
「すみません」
逸架は慌ただしくクローゼットを開ける。部屋の外に「七海、外寒い?」と声をかけるが返事がない。適当に寒さをしのげそうな格好をして室外に顔を覗かせると、七海はキッチンで湯を沸かしていた。何をしているんだろう、とぼんやりそれを眺めていると、七海は茶を淹れてそれに口を付ける。カップ越しに七海と目が合った。
「三割は?」
「……進行中です」
「私には突っ立っているようにしか見えませんが」
逸架は一度寝室に戻り、上着とマフラーを手に七海の横に立つ。七海にもらったお茶の詰め合わせは飲み終えていたが、それ以降逸架は切らさないようお茶を買い足している。
「これどこのお茶ですか」
ふ、とジンジャーが香る。逸架はキャビネットに置かれたお茶の箱を取る。この黄色い箱はどこか輸入雑貨店で購入したはずだ。
「マレーシアだったかな」
「いいですねこれ」
七海の大きな手が指先を温めるようにカップを包み込む。私にも、と言いかけるとそれを遮るように「ごみはまとめておきました」と言われる。
「もう出られますか。寝室の暖房は切りましたか」
「はい」
「忘れ物は。携帯は」
逸架は無言でポケットから携帯を出す。このままでは「ハンカチとちり紙は」と聞かれそうな気がして、逸架は肩を落とす。
「七海、心配してくれるのはありがたいけど、私がバグってるのは時間の感覚だけだよ。もう行ける」
「サボテンに水」
「……やってきます」
格好がつかないまま逸架はコップに水を汲みまた寝室に戻った。窓辺に佇むサボテンの培土に水を注ぎ入れる。サボテンのいいところはそれほど小まめに手間をかける必要がないところだ。毎日決まった時間に水やりの出来ない逸架には合っていた。
「それ、窓から離さないと寒いんじゃないですか」
部屋の外から声をかけられ、逸架はサボテンを窓辺から枕元に移動させた。
「お待たせしました。もう行けます」
玄関先で上着を羽織りながら言うと、七海は「ごみ」と言いながら袋を持ち上げる。逸架はまた「すみません」と呻いた。
七海に連れられるまま、逸架は喫茶店に足を踏み入れる。コーヒーの香りが店内に柔らかく漂っている。それほど客のいない店内を指して店員が「お好きな席へどうぞ」と言う。七海が逸架を振り返り「窓辺と奥、どちらがいいですか」と尋ねるので、逸架は奥まった席を指さした。
メニューにはずらりとコーヒーの銘柄と産地が書き連ねられている。逸架はコーヒーには全く詳しくない。こだわりもない。苦いか、甘いか、牛乳が入っているかだ。店員が水の入ったグラスをテーブルに置いた。次いでコピー用紙に印刷された期間限定メニューを置いていく。インクジェットプリントの滲んだ紙面を、逸架は指先でなぞった。
「クリスマスシーズン限定」
文字をそのまま読み上げると、七海はメニューを捲りながら「キリストの誕生日です」と答える。逸架は「それは知ってます」と答えた。
「十二月二十五日です」
七海は続けた。一、二、二、五、逸架の脳内で無意味な数字の列が浮かび、ほどけ、とろけていく。
「それはちょっと分からない」
「今日です」
「あ、そうなんだ」
そういえば家を出てからも華やかな飾りが目についた。逸架は携帯の液晶を確認する。確かに同じ数列が表示されている。
「すみません、わざわざクリスマスに呼び出して。他に予定が合わず」
七海の言葉に逸架は首を横に振る。スケジュール管理という概念のない逸架のせいで補助監督に問い合わせてまで予定を合わせてくれた七海に不平を言う気など欠片もない。
「日付はあまり……私には関係ないので」
「それもそうでした」
七海はあっさりとそう口にするとメニューに視線を戻す。逸架はメニューの一番上に記された店名を冠したブレンドコーヒーと、期間限定メニューからクグロフケーキを選ぶ。季節ものをその日に食べられることは逸架には得難い経験である。
コーヒーが届く間、逸架は正面に座る七海を眺める。彼は今三年生で、季節は冬だった。進路の二文字が逸架の脳裏に浮かぶ。逸架が同期に「高専をやめる」と打ち明けられた日も寒く、逸架は今日と同じ上着を着ていた。
「先日、進路面談があって」
七海が口火を切る。予想とたがわぬ内容で、逸架は黙って頷いた。
「――卒業後、四年制大学への編入を希望しました」
「そっか……頑張って」
逸架はそれ以外にかける言葉を持たない。同期にも同じ言葉をかけた。寂しいとは思う。だが止める権利を逸架は持たない。
「大変だね、今から受験勉強か……」
「そうですね、とりあえず一年は高校内容の復習です」
高専は一般教養も履修させるが、進学には不十分だ。逸架は遅刻癖のせいでその授業も碌に受けられていない。逸架はこれからの七海の苦労を思い眉を寄せる。
「でも七海なら大丈夫だよ。頭がいいし、効率もいいし、理論立ってるし」
店員がテーブルにカップを置く。揃いの菓子皿に小さなケーキが乗っている。断面から零れ落ちそうなほどドライフルーツが練りこまれている。逸架は胸の前で手を合わせ「いただきます」と唱えるフォークを手に取る。どこをとっても色とりどりのフルーツの詰まったケーキをどこから崩すか迷った。
「指導していただいたのに、申し訳ありません」
七海はカップに手を付けないまま、逸架に頭を下げる。逸架は面食らい、戸惑い、首を横に振る。
「私は何もしてない。七海の努力で、七海の選択だから」
七海の灰色を帯びた瞳に見つめられ、逸架は居心地の悪さにフォークを置いた。
「もし七海が――私に負い目を感じるなら……私こそ七海を色々振り回してごめん。大変だったと思う」
「ものすごく大変でした」
「……はい、大変お世話になりました」
逸架が椅子の上で小さくなると、七海はふと表情を和らげカップをソーサーから持ち上げる。コーヒーに口を付け、静かにカップを戻した。
「それでも、逸架さんにお会いできてよかったと思います。一緒に任務に出られたのもいい経験になりました」
「それほどのことは――」
「おかげで呪術師がいかに非人道的な扱いをされる、割に合わない職業かがよく理解できたので」
「あ、ああ……」
一言の弁明も出来ず、逸架は頷き「その通りだと思います」と答えるほかなかった。逸架はケーキをフォークで切り分け、口に運ぶ。甘く口の中でほどけていく。
「逸架さん」
呼ばれ、逸架は視線を上げる。
「逸架さんは、呪術師を続けるんですか」
逸架は天井でゆっくりと回り続けるファンをしばらく眺め、それから首肯する。
「続けるよ」
七海が視界の端で眉をひそめるのが分かった。逸架はなるべく印象の軽い言葉を選ぶ。
「仕事は嫌でも、飯は食わないとならないので」
だがそれはあまり効果的ではなかったようで、七海はさらに眉根を寄せた。七海は何事かを言うのを迷うように視線を移ろわせる。
「これは一つの選択肢としてですが、福祉を頼るという手もあります」
逸架は首を傾げ、先を促す。
「しかるべき医療機関にかかれば、逸架さんにはなんらかの診断が下るはずです。治療も訓練も無意味だとは思いますが、必要な介助や補助は受けられます」
ああ、と逸架は呻く。七海がそれを熟考の末提案したことが、逸架には痛いほど分かる。
逸架は誰にも言わずにアルバイトの面接に申し込んだことがあった。同期がやめる前か、後か、どちらであっただろうか。飲食店の皿洗いで、勤務時間にそれほど厳しくないことからそれを選んだ。緊張しながら電話で面接を申し込み、そして結局逸架は指定された時間に店に行くことが出来なかった。電話で事情を話し、もう一度面談の場を設けてくれないかと頼み込んだが、一顧だにされなかった。逸架は術式のない己の価値を嫌というほど思い知った。
「――私、小学生の頃ひまわり学級にいたんだけど」
逸架の唐突な言葉に七海は「なんですかそれ」と怪訝な顔をする。
「ひまわり学級って……他の学校では言わないのかな。授業についていけない子が入れられる」
逸架が説明を加えると、七海は腑に落ちた顔をし、それから「逸架さんがですか?」と不可解そうに眉根を寄せた。逸架は苦く笑う。
「小学校一年生って、算数で時計の読み方をやるから。あれが全く駄目だった」
「それは――」
「あと授業にもまともに出られないし。当然といえば当然の処置というか……でも、すごく嫌だったな。今もたまに夢に見る」
その能力だけが欠けていることを理解されず、実力を遥かに下回ることを反復させられる。みなと違う教室に閉じ込められ己でやっていてつまらぬことをやるだけで、大袈裟に芝居がかって褒められる。幼いながらに逸架の自尊心は傷つけられた。
「私は、人よりも誰かに認められたい気持ちが強いのかもしれない。――でも、多分、飯だけじゃ腹は膨れない、誰かの役に立っている実感が、私には必要なんだと思う」
逸架が訥々と囁くと、七海は平静を装った顔に怒りを滲ませる。
「理想を言っている場合ではないのでは。このままでは早晩逸架さんは駄目になると思いますが」
逸架は黙って頷き、コーヒーに口を付ける。ソーサーにカップを戻す音が、妙に耳に障った。だが己の出来ることをしないでいても、逸架は己が己を許せないことを理解していた。七海は溜息をつく。
「理解しかねます」
「……七海はしっかりしてるから。自分を持っているからね」
七海が何か言う前に、逸架はケーキの皿を差し出す。七海はぐっと唇をひき結んだままスプーンでケーキを切り分けた。スプーンが触れた皿がかちかちと硬い音を立てる。七海は切り分けた一切れを指で摘まみ上げ口に放り込む。美味しいです、と腹立たし気に一言溢すのを聞いて、逸架は苦笑した。
七海は甘いケーキを飲み込みながら、表情を歪める。
「逸架さんは破滅願望が強いのでは」
逸架はその言葉を聞いて首を傾げた。
「いやあ、そんなことはないと思いますが」
「もっと慎重になってください」
「気を付けます」
逸架はもう一度皿を差し出す。七海は手でケーキの端を摘まんで千切った。
「逸架さん」
「はい」
「ケーキで私を黙らせようとしないでください」
「いや……あの……見逃してください……」
七海は呆れたような顔をし、黙ってケーキを口に入れた。逸架はぬるくなったコーヒーを一口含む。香ばしい香りと苦みが喉を滑り落ちていった。
逸架の携帯にメールが届く。内容を確認すると補助監督からで、急な仕事が入ったということだった。逸架は七海に断り席を立ち店外で電話をする。喫茶店の場所を伝えると、すぐに車でピックアップに向かうということだった。逸架はそれを了承し席に戻る。
「仕事ですか」
逸架は小さく頷きカップを手にする。
「車で来てくれるって」
「クリスマスにお疲れ様です」
「日付はあまり……あ、だから私に振られたのかな」
「それは違うと思いますが」
逸架は七海と共同の任務でなくなっているのが少し寂しい。進学を選んだ七海には今後それほど困難な任務は割り振られないだろう。逸架はスプーンで無意味にコーヒーをかき回した。
しばらく七海と現場が遠方である話と、そのあたりの美味しいお店の話をする。逸架が「やっぱり出張は七海と行きたい」とぼやくと七海は嫌そうな顔をした。再び電話が鳴り、逸架は上着を羽織り席を立つ。伝票を取りレジに向かいかけ、途中でテーブルに戻る。
「忘れ物ですか」
「いや、メリークリスマス」
「は? あ、はい、メリークリスマス」
「良いお年を」
「それは気が早くありませんか」
そう言いながら七海は良いお年をと応えてくれた。
*
四年生に進級した七海は任務に赴くことが少なくなった。あっても東京近郊の簡単な任務がほとんどだった。己の選択を悔いてはいない。だが逸架と道をたがえたことは、少し心残りだった。体調も恢復した逸架は絶えず任務に引き回されている。以前同様高専ではほとんど見かけなくなった。思えば、七海に付き合って高専周辺をふらふらしている時期の方が逸架にとってはイレギュラーだったのだろう。
時折見かけても短く言葉を交わす程度で、補助監督に「こんなところにいたんですか!」と連れ去られていく。ときには他の呪術師と連れ立っていることもあり、七海はほんの数か月前にはそこに己が立っていたことに妙な気分になることもあった。
メールも電話もそれほどしない。二人ともプライベートでそういうやりとりをする性質ではなかった。出張であれほど長い時間を共有したというのに、思い起こすと何を話して時間を潰していたか分からなかった。逸架は黙っている時間の方が長かったような気もする。逸架は任務の話は一切七海に振らなくなった。それは逸架なりのけじめであり、呪いと関わりのない生活を選択し努力している七海への思いやりでもあった。それを承知の上で、やはり七海は寂しくは思った。薄情な人だと憤ってみたりもした。だがやはり逸架は馬鹿みたいに真面目なだけなのだ。
気が付けば季節は夏の盛りになっていた。高専は緑の多い郊外にあり、だがそれでも暑さは耐え難かった。もう耳に馴染んでしまい音とすら感じられなくなった蝉の声が夏の空気の濃度を上げていた。寮の自室から冷房の効いた高専の図書館に移動する途中、七海は五条に声をかけられた。ただでさえ暑くて苛々しているのに面倒くさい男に見つかった、と七海は露骨に歩調を早めた。五条はそれを一切意に介さず広い歩幅で悠々とついてくる。
「七海進学するんだって? 残念だな、僕七海には結構期待してたんだけど」
どこまで本気か分からないそれを、七海は軽く流した。五条の口調は本心からそれを言っているようでもあったし、誰にでも言っているようでもあった。七海は図書室のドアを開ける。空調の効いた室温が頬を撫でる。高専の図書室は出入口の周辺だけ申し訳ばかりに高校の図書館らしい本が並んでいる。あまり触れられた形跡のない百科事典や文豪の全集がカモフラージュのように並んだ本棚の隣には、触れれば朽ちそうな墨文字の書物が膨大な量保管されている。
七海がテーブルに着くと、五条は何の断りもなく七海の向かいに座った。椅子を大きく引き、無遠慮に脚を投げ出す。
「聞いてよ七海、僕逸架ちゃんさんパイセンとお見合いさせられたんだけど」
「――はい?」
無視を決め込んでいた七海は思わず顔を上げてしまった。五条のにやけた顔を見て、七海はやられたと唇を噛む。苦虫を噛み潰したような七海の顔を見て、五条は降参とばかりに手のひらを七海に向ける。
「嘘じゃないって。まあ七海は知らなくてもしょうがないけどさ、あの人あの術式だろ、御三家がこぞって自分とこの血筋にあれを入れたがってるよ」
もう水面下でバッチバチの睨み合い、と五条はけらけらと笑う。
「呪術師家系同士なら御家の意向と政治的駆け引きでどうにでもなるから話は簡単なんだけど逸架は非術師家系だし。それにどこの馬の骨とも知れない逸架ちゃんを本気で引き入れたい態度を見せるのはやっぱり癪なんだろね、爺どもはプライドばっかり高いからさ。どこかの家が抜け駆けして表立って逸架に圧をかけたら、他の二家が黙っちゃいない。――で、どうなるかというと、あくまで自由恋愛の範疇で逸架ちゃんをオトさなきゃならないってわけ」
七海は眉をひそめる。聞いていて気持ちのいい話ではなかった。逸架を俗世から引き剥がし苦行を強いる術式が、まるで値札が付けられたかのように扱われている。七海の不快感を気にも留めず、五条は先を続ける。
「ウチとしては当然僕と掛け合わせたいわけ。年の頃も近いし、術式の性質も似ていなくはない。どっちの術式が遺伝しても御の字。あと僕イケメンだし」
「それは無関係でしょう」
「まあそろそろ新しい血を入れないとヤバいってのもあるね、ウチは」
時代にそぐわぬ生々しい事情を暴露され、七海は顔をしかめた。
「禪院は見境なしだな。とにかく老若男女誰でもいいから引っかけてこいって感じ。いっぺん身内に入れちまえば中で誰にでも番わせりゃいいとでも思ってそうで怖いよね、あそこは。嫁一人で次代当主のお父上の可能性があるっていうんで部屋住や術式なしの奴らが血眼になってる。一番エグいのは加茂かな、受精卵だけ寄越せってスタンス。ま、やたら力を持った外様の嫁さんなんかいらないから血だけ寄越せっていうのはどの家も本音だとは思うよ」
七海はそれを聞きながら、生臭い嫌悪感を噛みしめる。
「それ、逸架さんは知っているんですか」
「さあね、知らされてはいないけど。――でも逸架ちゃんはあほで抜けてるし堅物のスットコドッコイだけど馬鹿じゃない。自分の置かれている状況は理解してるんじゃないの」
七海は逸架の内心を思い吐き気を催した。あの繊細過ぎるほどに繊細な人が、そういう扱いに耐えられるとは思えなかった。術式を盾に要求を通し旧家でのし上がり強権を振るうような強かさは、逸架にはなかった。逸架の心身は苛烈すぎる術式を載せることですでに許容量を超えている。
「逸架ちゃんは男ならよかったのにね、気楽に各家に種まいてオシマイ」
「逸架さんは男性であってもそんな無責任なことが出来る人じゃないですよ」
七海は苦々しくそう吐き捨てた。逸架にそのくらいの不遜さがあれば、七海はこれほど彼女に心を砕きはしなかった。たしかにね、と五条は笑った。
「五条さんの二乗に逸架さんの三乗をかけて、五条さんで割ってそのうえで六で割ったらちょうどいいくらいです」
「いや僕成分うっすいな、それほぼ逸架じゃん」
「ちょうどいいです」
五条はどうでもよさそうに笑いながら脚を組んだ。組んだ足に肘をつき、七海を見る。
「七海、逸架ちゃん先輩のことどう思ってる? 好きなの?」
七海は五条の完全に面白がっている顔を一瞥した。
「優れた術師で、良き先輩で、優しい人です。尊敬しています。当然好きですし、もっと周囲に愛され尊重されるべき方だと思っています。それがどうかしましたか」
七海が一息に即答すると、五条は珍しく呆気にとられた。
「うわびっくりした。急にヨーロピアン感出してくるじゃん。え、七海おじいちゃんイタリア人だった? フランス人だっけ? てぃあも、じゅてーむ、あんしゃんて?」
「デンマークです」
五条は七海の心底うんざりした顔に見向きもせず「もっと思春期っぽい反応してほしかった」とつまらなそうに手足をぶらつかせた。一歳しか違わないだろう、と七海は心中で五条を罵倒する。
「血筋のために逸架さんと結婚しなければならないとは、呪術師の名門も大変ですね。心中お察しします。同情を禁じ得ません」
「舌の根も乾かぬうちに前言と矛盾してんね。尊敬してるんじゃなかったの」
「皮肉です」
「いや本気の目でしょ今のは」
七海はルーズリーフに向かいペンを握り、吐息とともに手放す。テーブルの上でペンがからからと鳴った。
「逸架ちゃん意外と守ってあげたいタイプだからああいうの好きな奴もいるよ」
「守ってあげたい? 介護の間違いでは?」
「七海ぃ、尊敬尊敬! 自分で言ったことは守ろ?」
なぜか諭され、七海は苛立つ。白紙のルーズリーフの上に投げ出されたペンを何をするでもなく睨んだ。
「三年のとき同期と付き合ってたし」
知ってた? と眉を上げて五条は尋ねる。七海が高専に入学する前であるから知る由もなかった。逸架はぺらぺらと自分のことを喧伝するタイプでもない。聞けば教えてくれたのだろうが、別に聞こうとも思わなかった。
「隠してたっぽいけど、僕の目は誤魔化せないよね」
「六眼の無駄遣いですか」
「有効活用と言ってよ」
五条は軽薄な笑みを唇の端に浮かべたまま身を乗り出す。
「結婚なんて少しも甘い話じゃないんだよね、どの家の家畜になるのかって話でさ」
七海は露悪的な物言いをする五条から目を逸らす。逸架の誰かの役に立っていたいという願いには、こうして人格を無視され術式に値札がかけられることも含まれていただろうか。
「そういう事情でお見合いになったんだけど、さすが逸架ちゃん先輩普通にすっぽかした。信じられる? 五条家の御曹司のこの僕との見合いだよ? 笑っちゃうよねえ。僕はわなわなする爺とおろおろする秘書を余興にタダで美味いメシ食えてラッキーって感じ。うちの爺を相当怒らせたからあの人今死ぬほど忙しいんだよ」
逸架が一か月ほど自室にも帰ってこられていないことを思い出し、七海は上層部の狭量さを鼻で笑った。
「そんでもって会ったこともないような従兄弟? 又従兄弟? とにかく親戚から逸架の好きなタイプを教えろってメール来たから家入って返信しといた」
「どうなりました」
「着拒された」
それはちょっと面白かった。七海の気分もわずかに晴れる。
「呪術師、揃いも揃ってクソですね」
それでも逸架が縋らざるを得ない立場を腐すのは抵抗があったが、舌の上に乗せると思いのほかすっきりした。五条はへらへらと「そうだよ、僕以外ね」と宣う。七海はそれを黙殺した。
五条は周囲を窺い、声をひそめ、七海にもっと近寄れと指先で指示する。七海は訝しみながら身を乗り出した。七海の耳元に五条の唇が寄せられる。
「七海、逸架ちゃんで何回抜いた?」
深刻な声音で囁かれた内容の予想の斜め上を行く下劣さに、七海は乗り出していた体を起こす。
「全方向に無礼すぎて言葉を失います。五条さん、百歩譲って私はいいとしても、逸架さんを侮辱するのはやめてください」
「あー、逸架ちゃん本気でヘコみそうだもんね」
「五条さんの冗談は笑えないんです」
「わかってるって、逸架には言わないよ。で、何回」
七海は反省の色も見えない五条の相手をする気も起きず、黙ってテーブルの上のものを纏めると席を立った。図書室のドアに手をかけた七海を五条は呼び止める。
「逸架はああいう人だろ、呪術師を続けるためには絶対に理解者の支えが必要で――僕は七海に期待してた」
七海は今日一番真剣な声音でかけられた言葉に「私では力不足です」とだけ答えて図書室を後にした。七海は逸架に呪術師を続けてほしいわけではない。ただ平穏であってほしいのだ。
屋外は相変わらず茹だるような暑さだった。図書室を追い出されどこへ行くか、自室に戻るか、校外で涼しい場所に行くか、考えながら敷地内を歩いているとロータリに黒いセダンが停まっているのを見つけた。この暑さだというのに逸架と七海の知らぬ男が車の傍らに立ち話し込んでいる。七海は久しぶりに逸架を見かけたことに対して何かを思うよりも、五条の話を思い出してぞっとした。早足で二人に近寄り「逸架さん」と声をかける。逸架は睫毛に汗の溜まった目を七海に向けた。
「夜蛾先生が呼んでいますが――」
「あ、はい。ありがとうございます。どこですか」
「案内します」
七海が言うと、逸架は男に一礼して七海についてきた。しばらく校舎の方に歩き、七海は「すみません、夜蛾先生が呼んでいるというのは嘘です」と白状する。逸架は不思議そうに七海を見上げる。七海はなんとなく自分が辻褄の合わない行動をとっていることを自覚する。結局己は去る人間だ。逸架の選択には口を出せない。
「逸架さん、知らない人に付いていったら駄目ですよ」
「え? ……は、はい、小学生じゃないので」
「小学生より手がかかる人が何言ってるんですか」
「七海久しぶりに会えたのにどうしたの……」
逸架は最後まで言う前に七海の顔色を見て、気まずそうに目を逸らした。七海は夏空に似合わぬ鬱々とした顔を俯ける逸架を見下ろす。
「五条さんに聞きました」
七海が言うと、逸架はそれだけで七海が何を聞いたのか察したのかくっと目を閉じた。睫毛に留まっていた汗の粒が、頬を滑り落ちていく。
「五条くんか……うん、五条くんも何か考えがあって七海に伝えたんだろうとは思うけど……」
「私は、逸架さんの意思が無視されて、こんな――こんな術式の引換券みたいに扱われて、クソみたいな茶番に付き合わされていることに、心底ムカついてます」
「うん、ごめん、ありがとう」
「やめたらいいんですよ、こんなの、どこでもここよりはマシだ」
「うん……そうかもしれない」
ごめん、ありがとう、と逸架が何度も繰り返すので、七海はそれ以上何も言えなくなる。逸架の前では口に出す事も憚られるような罵倒語が、いくつもせり上がっては喉奥につっかえる。
「分かってる。大丈夫だよ。誰とも結婚しないし、好きにもならない。さっきのは補助監督の人で、そういうのはなんにも関係ない。――でも、話を切り上げてくれてありがとう」
逸架は言うと、手に提げていた袋の中身を七海に見せた。コンビニで購入したらしいアイスがいくつか入っている。
「アイスが溶けるところだった」
七海は逸架の暢気さに深い溜息をついた。逸架はふっと目を細める。
「七海も食べる?」
「……いただきます」
「歩きながらでいい? 行儀悪いけど……残りを急いで部屋の冷凍庫に入れないと」
七海は逸架の差し出したポリ袋の中からアイスの袋を一つ取り出す。すでに内側がべたつく袋を引き剥ぎ、溢す前に急いで齧り取る。熱を帯びた体に冷たい氷菓が心地よかった。爽やかなソーダの香りが鼻を抜けていく。逸架は手首に袋をかけ、カップアイスの蓋を開ける。木のスプーンでアイスの表面を削りながらふらふらと歩いている。
「逸架さん、歩き食いにカップアイスは難易度が高いのでは」
「いやそんなことは、あ」
スプーンからアイスを落とし、逸架は小さく声を上げる。七海は熱い地面に落とされ一瞬で溶けるアイスを見下ろした。
「知らない人に付いていったら駄目ですよ」
「……はい」
観念したように頷く逸架の横顔を、七海はまっすぐ見られなかった。