五
呪術師としての逸架は間違いなく天賦の才を持っている。強力な術式、それを駆動させる呪力量、低空飛行だが安定した精神。ともすれば速度干渉に留まりかねない術式を逸架の莫大な呪力と破格の才覚が希有なものへと押し上げた。時間を捻じ曲げる程の速度で常識の枠を歪めるかわりに、発生する身体への負担と周囲への衝撃を絶えず呪力で相殺し続けなければならない。五条をして狂気の沙汰と言わしめた呪力の運用は、果たして逸架以外がその術式を持っていても達成されたかは定かではない。
だが一方で、それを逸架が望んだかとなれば、答えは否であった。逸架は気質として大義に邁進することに向いていなかった。逸架が呪術師としてあり続けるのは、周囲にそれを求められるからであり、またそれ以外に生きる術がないからだ。そういう人物であるので、実力はあっても覇気に欠ける。一目置かれてはいるが、カリスマ性は無きに等しい。逸架は傍から見ている分には「すごい人」で、為人を知ると「大丈夫かこの人」となり、よく知れば「色々大変な人」と、不可思議な三段活用に他者を陥らせる。
逸架は徹頭徹尾己の術式に振り回されている。術式を魂から切り離し他者に分け与えることが出来たなら、逸架は喜んでそうした。
上着の中で携帯が鳴動し、逸架はどのポケットに入れたのだったかと体をぱたぱたと叩いた。右の内ポケットから出したそれを確認すると、小さな液晶に七海建人の字が並んでいた。周囲に一言断り電話に出る。
「少しいいですか」
短い言葉が耳を打ち、逸架はふっと気分が高揚する。七海から連絡があるのは久しぶりだった。七海は受験勉強中で、無闇に己が連絡しては迷惑だろうと判断した。仕事が忙しいこともあり、校内で会ったときに言葉を交わす以外の交流はほとんどなくなっていた。
「今は仕事で――」
「ああ、そうでしたか。お忙しいところすみません。実は勉強に飽きて苛ついて馬鹿げた量の肉を調理してしまったので、お裾分け先を探していたんです」
「肉……?」
「はい、馬鹿げた量の」
「七海が言うなら大変な量なんだろうね」
逸架は電話口で眉をひそめた。大袈裟な言葉を無闇に使わない七海がそう言うのであるから、本当に馬鹿げた量なのだろう。
「仕事中でしたら難しいですね。他をあたります。怪我をなさらないように気をつけてください。まあ、逸架さんには釈迦に説法ですが」
すっと声が遠くなるので逸架は慌てて「あの、」と声をかける。はい、と返事があった。
「今から帰ろうとは思っていたので、そのとき頂いてもいいかな」
「助かります。今どちらに?」
「交番」
「はい?」
「交番に……」
スピーカーからざらざらした音が聞こえたのは、おそらく七海の溜息の音だった。
「……何を壊したんですか」
「誤解です」
逸架もがたつくパイプ椅子に座ったまま溜息をつく。
東京近郊山中の呪霊討伐からの帰路、逸架は山奥の駅で帰りの電車を待っていた。時間の経過があやふやであるので、どこかで時間を潰すわけにもいかない。ホームにぼーっと座って電車が来るのを待つほか無い。
事情を知らぬ者にしてみれば、電車も来ない駅のホームで思い詰めた顔をしてじっと線路を見つめる一人ぼっちの若い女である。あれはちょっと危ないのでは、という近隣住民の訴えがあったかどうかは定かではないが、逸架は妙に物腰の優しい駐在に「ちょっといいかな」と交番に連れて行かれ、膝掛けと温かい飲み物を与えられていた。
優しく「どうしてこんなところに?」と聞かれ、誤解を生んでいるというのはすぐに分かった。とはいえ山奥の呪霊祓除に来た呪術師ですと名乗るわけにもいかない。逸架は目を逸らし俯きながら「……ダムを見に」と答えるしかない。嘘ではなかった。現場はダムだった。自殺の名所である。
駐在の顔色がさっと変わるのを見て逸架はしまったと思ったが吐いた言葉は飲み込めない。ちがうんです、あの、仕事で、と言葉を重ねながら顔面蒼白になり冷や汗をかき一層疑惑を塗り重ねる逸架のもとに飛び込んできたのが七海の電話であった。
「誰からの電話? おともだち?」
駐在に問われ、逸架は言葉を濁す。事情を聞いた七海の声が溜息交じりに「かわってください」と逸架に要求する。
「かわるって、おまわりさんに?」
「そうです。逸架さんは自分にその場を切り抜ける機転と話術がないことをご存知でしょう」
「そんな大袈裟な……本当のことをきちんと説明すれば……」
「いいから、かわってください、今、すぐ」
噛んで含めるように諭され、逸架は渋々携帯電話を駐在に手渡した。駐在は電話を受け取るとしばらく何事か話していた。はじめは深刻気であった口調が徐々にほどけて笑声が混じり始める。逸架はそれを胡乱な目で見ながら身を小さくしていた。やがて駐在は電話を切り、端末を逸架に返した。
「お兄さんが迎えに来てくれるって。ダム見学が趣味なんだって? 最近の若い子の間で流行ってるって。ごめんねえ、そういうの疎くて、ほら、思い詰めておかしな考えで来ちゃったのかと勘違いしちゃったよ」
ははは、と笑う駐在に逸架も作り笑いをした。逸架に兄はいない。
駐在は逸架を警察車両に乗せると、駅まで送ってくれた。最寄りの無人駅ではなく、少し車を走らせる必要がある駅だった。車内で駐在は明るく「ダムが好きなの? どこを見るの?」などと話しかけてくるので逸架は困惑し「……水面?」と答えるなどしていた。ダムを好きだと思ったことはなかった。
小さな駅のロータリーに警察車両が停まる。駅前に立っていた目立つ長身が真っ直ぐ車の方に歩いてくるので、逸架は座席の下に隠れたくなる。常の仏頂面で窓をノックされ、逸架は観念してくっと目を閉じた。
「あの……兄、です」
「あ、ああー、え?」
人の良さそうな駐在の視線が素早く逸架の顔と窓越しの七海の顔を行ったり来たりした。似ていないな、と口で言わずとも目が雄弁に語っている。駐在は車を下り、外から逸架の座る座席側のドアを開けた。項垂れ降車しながら、逸架はニュース番組で流れる犯人連行の絵面を思い出していた。
制服ではなくシャツにカーディガンを着た七海が逸架を呆れたように一瞥し、駐在に深く頭を下げる。
「妹が大変ご迷惑をおかけいたしました」
「いえいえ、こちらが勝手に早とちりしてしまって、引き留めてしまって申し訳ないです」
駐在は逸架に穏やかな視線を向け「今度はお兄さんと一緒に見においでね」と笑った。逸架は目を泳がせながら「はあ、すみません、ありがとうございます」と答えるほか無かった。
小さくなっていく警察車両に向かって一礼し、逸架は「……兄?」と七海の横顔に向かって呟く。七海は眉一つ動かさず「父がよかったですか」と答えた。
「せめて弟が……そもそも七海と私は家族に見えないのでは……」
「家族が血縁とは限らないでしょう。再婚した両親の連れ子同士ということで」
七海に淡々と言われ、逸架はそれもそうかと思いかけたのだが、別にそんな綿密な設定はいらない。
「友達って言えばよかったのに」
「自殺未遂で男友達に迎えに来させる女、考え得る限り最悪の女ですが、それでいいんですか」
いやだな、と逸架は思い、口をへの字にして七海を見上げる。「いやでしょう」と七海は言うとさっさと改札の方に向かっていく。逸架は小走りにその背を追う。追いながら「自殺未遂はしていない」と思ったが、口にするほどでもなかったので訂正はしなかった。
「七海、すみません、ありがとうございます。忙しいのにごめん」
「いいです、行き詰まって飽き飽きしていたんで丁度良かったです。パトカーで連行される逸架さんも見られましたし」
「……連行されてません」
七海はそれに答えなかった。駅のホームの自動販売機の前で、七海は逸架に「何か飲みますか」と問う。逸架は首を横に振った。交番で熱いほうじ茶をもらっている。
「彼氏は?」
逸架が思いついたままにそう尋ねると、七海は怪訝な顔をした。
「いませんが」
「有無を聞いたわけでは」
七海は「ああ」と自動販売機でお茶を買いながら合点のいった顔をした。
「そうすると私が恋人を自殺に追い込んだ男だと思われるので嫌です」
「追い込まれてないって、誤解だって」
「もうよくないですか、この話」
「兄はちょっと……」
「しつこいですね」
ぱきん、と七海の手がペットボトルの蓋を開けた。同時にホームに電車が滑り込み、開いたドアからぽつぽつと人が降りてくる。七海が乗車するのに倣い、逸架も電車に乗り込んだ。それほど混んでいない車内の、布張りの椅子に並んで座る。今日は明るいうちに帰れるな、と浮き足立っていたが、車窓から望む太陽は暮れかけていた。
逸架は目を伏せる。七海の靴の爪先をぼんやりと見た。
「本当にごめん」
「謝られるようなことは何も」
「迎えに来てもらって」
「勝手に来ただけです」
「すみません……」
逸架は両手で顔を覆う。ただでさえ時間関連で高専関係者に多大な迷惑をかけ続けている逸架は、それ以外で誰かに迷惑をかけるのは本当にいやだった。己が情けなくて泣けてくる。
溜息をつきながら「七海が卒業したら……やっていけるかな、だめかも」と呟くと、七海は冷ややかに「やっていくしかないでしょう」と言った。
逸架は小さく頷きながら体を起こす。線路の上を車両が跳ねる音が低い耳鳴りのようだった。二人とも声を張る方ではないので、電車内ではいつもほとんど会話はない。逸架は七海と何度も出張に行ったことを思い出す。あらゆる場所にあらゆる人間と行かされたが、七海との出張が一番楽しかった。別に何をするわけでもない。現地に行って、仕事をして、地元の旬のものを食べて、帰ってくる。それだけだ。
思い出すと己が七海に迷惑をかけ呆れさせたことばかり浮かんでくるので、逸架はそれ以上思い出に浸るのはやめた。降ります、と言われ、逸架は諾々とそれに従う。七海の後について電車を降り、高専の最寄り駅にたどり着く路線に乗り換えた。
高専に着く頃には、秋の日はすっかり暮れていた。薄青の影を見ながら逸架は「久しぶりに高専に帰ってきた気がする」と呻いた。
「忙しかったんですか」
七海に問われ、逸架は「多少は」と言いかけ口を噤む。眉根を寄せ、言葉を選ぶ。
「それもあったけど……あまり、帰りたくなかった」
七海は何も言わずに逸架の顔をじっと見る。それ以上言うべきことも無いので逸架も黙って肩を竦めた。
もとから高専のしがらみは好きではなかった。遠方の仕事を転々とし、なるべく距離を置いてきた。寮に帰るのはサボテンが枯れない程度の頻度だった。しばらく高専に頻繁に寄りついていたのは、多分、七海がいたからだ。
七海が渡すものを取ってくると言うので途中で別れ、逸架は自室に帰りつく。ドアを開けた瞬間他人の部屋のような空気が頬を撫でた。肌寒いのを押して窓を開け換気をする。以前帰ってきたときは蝉が大合唱していたのに、今は松虫の声ばかり聞こえた。ほとんど空の冷蔵庫の中身を何するでもなく覗き込む。次いでとりあえず米を急速炊飯した。炊飯器はいい。放っておけばいつの間にか米飯が炊かれている。
風呂でも入るか、と上着を脱いだところで玄関が開けられる。紙袋を提げた七海が立っていた。逸架は上着を玄関脇にかけながら「肉?」と尋ねる。七海は紙袋を差し出しながら「肉です」と答えた。
何気なく受け取った紙袋が想定よりはるかに重く、逸架は目を丸くする。
「重い……え、肉?」
逸架が紙袋の中を覗くと、大きな紙袋の八割程までラップに包まれた鶏肉が詰められていた。肉だ、と逸架は無意味に呟く。
「作りすぎました」
あまりに堂々とそう言い張られるので、逸架は何も言えなくなる。ラップの下の白くぷりぷりした鶏肉を見下ろし、逸架はおずおずと申し出た。
「こんなにもらってもちょっと……食べきれないかな……」
またすぐ遠方の仕事が入る。最悪持って行ってもいいのだが、どの程度日持ちするものだろう。逸架の言葉に七海は「ではいくつなら消費できそうですか、残りは持って帰ります」と言う。逸架は食事の回数と紙袋の中の鶏肉の大きさを比べ、その途中で「あ」と呟く。
「今、ごはん炊いてるんですけど」
「はい」
「一緒に食べていく?」
よければですが、と逸架が言うと七海は「いただきます」とさくさく部屋に上がり込んできた。なんとなく釈然としなかったのは、全て七海の思うままであったような気が一瞬したからだ。
七海は居間に入るなり「風邪ひきますよ」と一言ぼやいて窓を閉めた。ローテーブルの傍らに置かれた座椅子との合いの子のような中途半端なソファに、七海は視線を向ける。
「こんなのありましたか?」
逸架はソファの上に投げ置きっぱなしであったバスタオルを畳んだ。
「買った、のと同時に仕事で帰宅できなくなった」
「ご愁傷さまです」
逸架は紙袋を手にキッチンに向かい、ついでにバスタオルを洗濯機に放り込む。濯いだまな板に剥き身の鶏肉を乗せ、逸架は七海に「これ切ったらそのまま食べられる?」と尋ねる。七海は逸架の背後に立ち手元を覗き込んだ。
「ハムなので、ハムっぽく切ってもらってもいいですか」
ハムっぽく、と逸架は口中で繰り返す。面倒くさくなって適当に切っている逸架の背後で七海がお湯を沸かしていた。電気ケトルが熱を持っていく。七海はキャビネットにいくつか置かれたお茶の箱から黄色い箱を選ぶ。ジンジャーの香りの、外国のハーブティーだ。
「七海、それ好き?」
「どうしてですか」
「いつもそれを選ぶから」
「いつもというほど来てないです」
そうだったかな、と逸架は首を傾げながら切った鶏ハムを皿に盛った。あたためる? と聞くとそのままでと返された。冷たい皿を居間のテーブルに置く。なんとなく物寂しい気がして逸架は観もしないテレビをつけた。小説家とその飼い猫のドキュメンタリーが放送されていたので、それを流しっぱなしにしておく。湯気をあげるマグカップを二つ手に七海が居間に戻ってくる。
「せっかくだから座ってほしい」
逸架がソファを指すと七海はカップをテーブルに置きながら首を横に振った。
「家主を差し置いて座るわけにもいかないので」
「そんな……お客さんを差し置いて座れない……」
ソファを挟んで睨み合い、結局二人とも以前と変わらず床に直接座った。座るなり七海がカップ片手に逸架に視線を向ける。
「逸架さん、私が二年生のときかなり長い間共同任務に行かされたのを覚えていますよね。あれ逸架さんが申し出たんですか」
唐突な問いかけに逸架は目を丸くした。何と答えたらいいか分からず視線を移ろわせる。七海の口振りは責めているようではなかった。なので逸架はおずおずと「はい」と首肯した。確かに逸架はそれを申し出た。普段唯々諾々と割り振られた任務をこなすだけの逸架の急な要求に高専は理由を問わなかった。それに逸架は感謝している。
「どうしてですか」
どうして、と逸架は呟きながら箸で鶏ハムを摘んだ。口に運びかけ、やはり皿に戻す。ぼんやりと視線をテレビに向けた。縞模様の猫があくびをしている。
「灰原くんが亡くなったのが、本当に、つらくて……」
ぽつり、とそれが口からこぼれる。己の口から出た言葉を聞いて逸架はああそうだと急激にその時の心情を思い出していた。その頃の逸架はすでに幾人かの仲間を失っていたが、皆年上の術師であった。後輩の、それもまだ二年生の灰原が亡くなったことに逸架は耐えられなかった。特段深い親交があったわけではない。何かの折に何度か任務が共になっただけだ。灰原は、どちらかといえば人見知りをする逸架に明るく声をかけてくれた。高専で見かけると元気よく挨拶をしてくれた。いい人だった。
三歳しか違わないとはいえ、まだ十六、七の灰原が逸架には本当に幼く見えていた。訃報を受けたときは俄かには信じられなかったことを覚えている。補助監督に無理を言って参加した葬儀の最中、逸架は灰原の遺体と対面した。少年らしい丸みと男性らしい筋のどちらも見える頬が、すっかり青褪めていた。死化粧の上からでもうっすらと見える顔の大きな傷が痛々しかった。逸架は穏やかに目を閉じる灰原の顔が目に焼き付いて離れなくなった。
その直後に、逸架は七海と同じ任務に当てられた。いやだった。灰原の顔が何度も脳裏を過る。七海は大人びてはいたが、やはり逸架にとっては後輩だった。まだ背が伸び続けているような少年が訓練の名目で実戦に投入されていることが、逸架には耐え難かった。それが数年前の己となんら変わらないと分かっていてさえ。しかしそれは逸架のエゴイズムにすぎず、他人に押し付ける気はなかった。逸架がついぞ持てないままでいる覚悟と信念をもって任務にあたっている相手に、逸架が偉そうに言えるものなど何一つない。
だが七海は「呪術師を続けるか悩んでいる」と言った。
「――続けるか悩んでいる呪術師の仕事で死ぬの、馬鹿々々しいんじゃないかって、思って」
途切れ途切れに逸架が言うと、七海はじっと逸架の顔を見た。
「私のためですか」
「……いや、自分のためだよ」
誰かのためであるならば、逸架がすべきはただ一つだ。全ての呪霊を祓うこと。もしくは呪霊が発生しないようにすること。逸架は、夏油の考えが全て間違っているとは思わない。それをせずにちまちまと七海の任務について歩いたのは、安っぽい感傷に過ぎなかった。
「自分の仕事に加えて、私の任務についてきてくださっていたんですか」
「そうかな、そうかも……でも私は七海がいないと仕事をしている時間より迷子になっているか途方に暮れてる時間の方が長かったから、まあプラマイゼロかな……」
「少しは恩に着せてください」
逸架は苦笑する。
「一つ、気が付いたことがあって。聞いてくれますか」
逸架が言うと七海は眦に波打つ感情を滲ませながら「なんですか」と唸る。
「七海がナビしてくれて仕事が早く終わるようになって、余暇が増えるかと思ったら、空いた時間にさらに仕事を入れられた」
「……ブラックですね」
「それを思うと、迷子と遅刻でぶらぶらしている時間も私には必要だったかも」
「待たされる身にもなってください」
七海にぴしゃりと言われ、逸架はごめんと項垂れる。何か言いかけた七海は炊飯器の報知音のために口を閉ざした。七海は溜息をつき立ち上がりながら「逸架さん、もっと器用に生きられないんですか」とだけ言った。逸架は七海を追いながら「これでも頑張っているんです」と呟いた。
七海は食器棚から茶碗を取り、二人分のご飯をよそう。逸架は出来ることもなくご飯をよそう七海の後ろをうろうろしていた。そのまま七海に倣いうろうろと席に戻る。全く意味のない往復をしてしまった。
「余計なお世話だったかも、ごめん」
逸架が言うと、膳の前で手を合わせたまま七海は逸架を睨んだ。手を解き、箸を取り、ハムを食う。
「そういうわけではないです」
逸架も安堵しながら箸をとる。
「そっか、よかった」
「ありがとうございます」
逸架は「お礼を言われるようなことは何も」と言いかけ、口を閉じる。何もしていないわけではなかったので、逸架は嘘にならないよう丁寧に言葉を選ぶ。
「それで、七海に……ちゃんと色々考える時間が出来たなら、私は……よかったと思う。すごく嬉しい」
言葉を選びながらぽつぽつと吐き出されたそれに、七海は一瞬瞠目し「ば、」と言ったきり黙り込んでしまう。逸架は白米を口に入れながら怪訝な目を七海に向けた。
「かじゃないですか」
「――えっ、はい、すみません」
予期せぬ罵倒に逸架は目を白黒させる。
「馬鹿正直」
「は、はい」
「糞真面目」
「はい……」
「ありがとうございます」
「……うん」
「鶏ハム、あんまり白米に合わないですね」
「そうかな、美味しいよ」
「逸架さんはなんでも無理矢理白米で食べますから」
そんなことないよ、と逸架は箸を進めた。七海は「これ多分パンの方が合いますよ」と言った。フランスパンにレタスかキュウリと一緒に挟んで、という七海の言葉を聞いて逸架はそれを思い描く。
「美味しそう」
「米よりいいです」
「パン買いに行こうかな」
「今からですか?」
「やめたほうがいい?」
「どこも開いてない時間だとは思います」
「じゃあやめよう」
逸架は上げかけた腰を下ろした。食べ始めて気が付いたが、食べても食べても全く減らない。逸架は皿の上の減ったハムの量と、己の腹具合と、紙袋の中に残っているハムの量を比較して表情を曇らせる。ご飯を炊く必要はなかったのではないか。
「七海、ちょっと……多いな、やっぱり」
「それは本当にすみません」
「誰か他の人には? 五条くんとか家入さんは?」
「いきなり手作りのハムを渡すほど仲良くありません」
「ハムは……まあ確かにそうか」
逸架とて突然電話口で肉の話をされて戸惑った。
「でも五条くんは受け取ってくれそう」
「図々しいですからねあの人、逸架さんは見習ったほうがいいですよ」
逸架は頷く。
「そう……それはね、本当にそう思う」
逸架が言うと七海は自分が言い出したことにも関わらず心底嫌そうな顔をする。
「やめてください」
「五条くんは……すごい人だよ。色々考えてるし、行動するし、すっと人の内側に入れるし」
「不法侵入なんですよ五条さんの場合」
「まあ、うん、そういう面もあるけど」
逸架は箸を置いた。七海も箸を置き「私は?」と言う。逸架は何のことか分からずに首を傾げた。七海は重ねて「私のことはどう思っていますか」と尋ねた。
「七海のこと?」
「はい」
逸架はしばらく考え込んだ。七海はその間にテーブルの上を片付け、使った食器を洗う。逸架は手持ち無沙汰に居間とキッチンをうろうろした。皿を洗い終えた七海に、逸架は言う。
「七海は優れた術師で、頼れる後輩で、優しい人」
「あとは?」
「あとは――大切に思っています」
「それを疑うほど恩知らずではないです。というか逸架さんは私を甘やかしすぎです。もっと毅然としてください」
逸架は七海の顔を見上げ「そんなことは、」と呻いた。
結局ハムは食べきれず、逸架は五条に電話した。幸運にも出張中ではなかった五条は逸架の話を聞いてひとしきり笑い、二つ返事でハムを引き取りに来た。からかわれるのを厭うた七海は居間の奥で息をひそめていたが、五条は玄関の靴を目敏く見とめ玄関から部屋の奥に「ななみありがとねー」とやたら大きな声で叫ぶ。観念した七海は居間から顔を出し苦虫を噛み潰したような顔で「もらって頂いて助かります」と唸った。
五条は後輩に配ると言ってハムを紙袋ごと引き取っていった。七海はありがたいやらなんとなく腹立たしいやらで無口になる。ハムがなくなればやることもないので、七海は帰り支度をはじめた。腹が膨れた逸架はそれをとろとろと見送りながら「ありがと、美味しかった」と七海の背中に声をかけた。
「こちらこそ助かりました、ありがとうございます――ああ、そうだ、これ返し忘れていました」
玄関で靴を履いていた七海がポケットから何かを取り出し、逸架の方に差し出す。逸架が小さなそれに目を凝らすと鍵であったので、なんの鍵だと考えを巡らせる。己が預けた自室の合鍵だと思い至りそれを受け取りかけ、手を下ろした。
「まだ持っててほしい」
七海はそれを受け鍵を握り「わかりました」と答えた。逸架は目を細め「おやすみなさい」と七海に手を振る。七海はわずかに眉根を寄せたが、ゆらゆらと腹のあたりで手を振った。鉈を振り続けて厚くなった手のひらの皮膚が、以前より薄くなっていた。かわりに骨張った指にペン胼胝が目立った。逸架はそれが少しだけ寂しかった。だがほっともした。
*
春の陽気は爽やかでも七海の心はあまり晴れなかった。一人で黙々と取り組む試験勉強にも飽きてきたうえ、進級してから始まった小論文演習が好きになれない。勉強の進捗を確認し合い励まし合う相手も、息抜きに誘う相手もいない。その日七海は午前中からパウンドケーキを焼いていて、オーブンレンジの中で膨らんでいく生地をぼうっと眺めながら「こんなことをしている場合ではない」と思っては溜息をついていた。だが勉強に戻る気にもならなかった。
七海は特に料理が趣味なわけでもお菓子作りが好きなわけでもないが、なんとなく無心に小麦粉をこね回したくなる瞬間はあった。たとえば、朝からやる気が起きずだらだらしているうちに朝食も食べ損ね日が上っていくのをベッドの上で眺めながら焦燥感を抱きつつもやるべきことをやる気にならないときがそうだ。オーブンの中からは香ばしい甘い香りがするが、あまり食欲もわかなかった。
誰かに譲るか、と思うが五年になった同期のうち高専に残った者は生憎出払っていた。傷みやすいものでもないし少しずつ食べるしかないと覚悟を決めたところで携帯電話が鳴った。小さな液晶に逸架の名前が表示されていて、七海はぎょっとする。逸架が仕事の連絡以外を電話ですることは滅多にない。少なくとも七海は逸架から私用の電話を受けたことはなかった。電話をかけても無遠慮でない時間帯か判別をつけられない逸架は電話よりメールを多用した。しかしメールも文面を考えるのに呆れるほど時間をかけるので自然と連絡無精になっていく。そういう逸架から電話が来たので、七海はあまりいい予感を抱かなかった。少しの間迷い、電話を取る。
「お疲れ様です逸架です。いつも大変お世話になっております」
電話の向こうの逸架が神妙な声音で堅苦しい挨拶をした。七海は面食らい釣られて「お世話になっております」と返事をする。この人こういう感じで電話をするんだな、と考えもした。
「今、電話大丈夫ですか」
「はい、どうしましたか」
七海が先を促すと、逸架は黙り込んでしまう。七海はオーブンを覗き込んだ。頬を熱気が撫でていく。
「……実は、七海にお願いがあって、電話をしました」
「なんですか」
「七海が忙しいのは分かってるんだけど、七海が、卒業しちゃう前にどうしてもお願いしたいことがあって」
卒業、と言われ七海の腹の奥をつんとした寂しさがよぎる。それを無視しながら七海はちょうどいいとばかりに電話の向こうに捲し立てる。
「逸架さん、実は私も逸架さんに渡したいものがあります。今どこですか」
「自室です」
「お邪魔しても大丈夫ですか」
七海は言いながらちらとオーブンの残り時間表示に目をやる。
「千二百秒くらいあとで」
逸架が了承したので七海は挨拶を交わし電話を切ると、部屋着を着替えるためにクローゼットを開けた。身支度をしている間にオーブンが止まっていたので、ケーキを型ごとカウンターに放る。百円ショップで適当に買った紙製のケーキ型は生地が膨らむのに合わせて変形し不格好な出来だった。まあいいか、とそのままラップでぐるぐる巻きにし紙袋に入れて部屋を出た。
出てから逸架が何を頼みたいのか聞くのを忘れていたことに気が付いた。しかし逸架がそれほど常識に外れた要求を他人にするとも思えず、精々蛍光灯を取り替えるのを手伝ってほしいとかその程度だろうと七海は逸架の部屋に向かった。途中、敷地内で真新しい制服を着た生徒とすれ違う。新入生だろうか、彼らは金髪で長身で年嵩の七海を見て怖気づきながら目礼をしてきた。七海はそれに軽く会釈してその場を後にした。
七海は逸架の部屋の玄関を開け中に入る、奥から姿を現した逸架が「お久しぶりです」と小さく頭を下げる。七海はそれに応えるなり袋の中からラップで包んだパウンドケーキを取り出し逸架に差し出す。逸架は怪訝な顔をしながらそれを受け取り、熱いと呻きながらそれを両手の上で転がした。粗熱が取り切れていない。
「ケーキを焼いたので、逸架さんに差し上げます」
七海が素っ気なく言うと、逸架はラップを剥がしながら「え、七海が」と言う。ラップの内側に蒸気がついて湿っていた。
「ケーキまで作れるんだ、すごいね、いいにおい、おいしそう」
紙製の型は膨れ、粗熱を取り切らなかったせいで湿気ってぶよぶよになっている。それでも逸架が手放しに褒めるので、七海は「この人結構適当なところあるよな」と内心で思った。どうぞ上がってください、と言われ七海は靴を脱ぐ。
「それで、頼みというのは」
逸架はラップを広げケーキをキッチンに置いた。きゅ、と眉根が寄る。
「あの、本当に、そんな大したことではないんですけど」
「大したことを頼まれても困ります」
それはそうなんだけど、と逸架は肩を竦める。キャビネットに手を伸ばし、カップ麺を取る。七海は眉をひそめた。何の変哲もないカップ麺だ。期間限定でもなく、無闇に分量が多いわけでも辛みが強いわけでもない。それがなんだ、と怪訝に思う七海に逸架はそろそろとカップ麺を差し出す。
「七海に手伝っていただきたくて……」
それだけで七海はおおよそを察した。
「想像よりずっと大したことなくて拍子抜けです」
電球替えてほしいと言われるかと思っていました、と言いながら七海はケトルのスイッチを入れる。逸架は「電球は自分で替えられるから」と呟く。それもそうか、と七海は思った。湯が沸くのを待つ間、七海はキッチンのカウンターに寄りかかり溜息をつく。
「勉強したくない……」
それを聞いた逸架は神妙な顔で「分かるよ」と頷く。
「私も仕事したくない」
いつか血を吐くように溢された「呪術師やめたい」より軽やかに、だが苦みと痛みを帯びて逸架は言う。七海はそれを聞き、言葉を重ねる。
「何もしたくないです」
「ああ、分かる……分かります……」
「一生遊んで暮らしたい」
「本当に」
でも飯は食わねばならないので、と逸架は手にしたカップ麺を振った。かしゃかしゃと乾燥した音がする。
七海は逸架を見下ろす。逸架は七海が進学を選んだことに何も言わず「頑張って」とだけ七海を励ました。人の選択に無闇に口を出さず、ただ黙って出来うる限り考える時間を与えてくれる。逸架はそういう人だった。優しい人だと思う。だが時折怖くなるのは、逸架が何を考え何を願っているのか分からないことだった。彼女の真意はいったいどこにあるのだろう。
「逸架さんは、私がやっぱり呪術師を続けると言ったらどうしますか」
七海はままならなさの八つ当たりのように逸架に意地の悪い問いかけをする。逸架は少し考え、七海に黒々とした目を向ける。
「――七海がそうしたいなら、応援する」
「そうとう鈍ってますよ。勘を取り戻すのに付き合ってくれますか」
「うん、いいよ。私でいいならだけど」
恬淡とした横顔を七海は睨んだ。七海は己が相当に軽薄で失礼なことを言っているのは承知であり、わざとでもあった。それを咎めない逸架に身勝手な憤りを募らせる。
「逸架さんって、本当は何を考えているんですか」
七海の言葉に逸架はふと怯えた目をした。七海はその目をずっと見ていた。逸架の目が逸らされ、何もない床を眺める。そのうちケトルのスイッチがぱちんと切れた。七海は逸架の手からカップ麺を取り上げ、フィルムを切り蓋を開ける。お湯を注いで時間を確認した。
逸架はついと七海を見る。傷付いた目をしていた。七海の理不尽な怒りは急激に凪ぎ、罪悪感ばかりが腹の底で淀む。
「七海が選んだことは尊重したい。七海がよく考えて選んだことなら、どんな道でも応援するよ」
悪いことでなければ、と逸架は付け加える。
「そのうえで、……あくまでそのうえでね、私は七海が呪術師でなくなったら寂しいと思う。ごめんなさい。でも、七海が呪術師を辞めることを決めてくれて、安心もしてる。……ごめん、わけわかんないね」
ごめん、とまた逸架は囁いた。
「こうしてほしいとか、ないんですか」
七海が言うと、逸架は「七海に?」と首を傾げた。はい、と七海は頷く。
「そうだな――思うようにしてほしいかな」
それを七海が知る限り最も何もかも思うようにならない人間が言うので、七海はそれ以上何も言えなくなった。
「逸架さん」
「うん」
「三分です」
「もう? 早いね、だからいつもカップ麺びちゃびちゃにしちゃうんだ」
逸架はカップ麺と箸を取り、居間に向かう。七海はそれを追った。逸架はテーブルに着き、手を合わせる。麺を啜り始めた逸架に、七海は「すみません」と頭を下げた。
「八つ当たりでした。本当にすみません」
逸架はゆっくりと口の中のものを咀嚼嚥下する。インスタントラーメンをこれほど丁寧に食べる人間を七海は初めて見た。
「いや、七海の言うことももっともなので……七海といると、本当にいつも、色々気が付くよ……」
七海は逸架の言い分に顔をしかめる。
「逸架さん、怒っていいんですよ。むしろ怒ってください。私の尻の据わりが悪いので」
「いやそんな」
「逸架さんって怒ることあるんですか」
「……あるよ、今がそのときでないだけで」
「今でなければいつなんですか」
「しかるべきときに……」
「それが今では」
逸架は黙り込みカップ麺を食べることで返答を誤魔化した。七海は逸架の名前を呼ぶ。逸架は目だけ上げた。
「私の分は?」
七海が言うと、逸架は途端に狼狽え、無言で手にしたカップを差し出してきた。七海はカップ麺の中身を見下ろす。
「冗談です。私は自分で作れるので――怒りましたか?」
逸架はやはり茫洋とした表情のまま「いや、――いややっぱりちょっと怒ったかも」と言う。七海は「よかった」と返した。
気の遠くなるような時間を掛けてカップ麺を完食した逸架は七海に「急にすみませんでした、ありがとうございます」と頭を下げた。七海は「他の誰かに頼めばいいのに」と思ったが、周囲に異常に気を遣う逸架がおいそれと他人に頼み事が出来ないのも承知していた。逸架が自発的に迷惑をかける相手が己だけであることが、七海は少しだけ嬉しい。だが彼女にもっと頼れる人間が増えてほしいとも思う。
「中学生になって初めての定期テストで、十六点を取ったって話したっけ?」
突然そう言われ、七海は面食らう。首を横に振りながら「なんの話ですか」と問うと、逸架はぽつぽつと先を続ける。
「なんの話かというと、……まあ、大抵の人間は私より勉強に向いてるっていう、話、です」
語尾が力なく小さくなっていく。はあ、と七海は相槌を打つ。七海は逸架を四角四面で融通が利かないうえ要領も悪いとは思っているが、決して馬鹿でないことは知っていた。
「聞いてもいいですか、教科はなんだったんですか? 数学?」
なので時計の件のように何らかの能力が著しく欠けていてそういう結果を引き起こしたのかと思いそう尋ねる。逸架はぎゅっと目を閉じた。
「…………五教科です」
「…………えっ、合計ですか」
「……はい」
七海はかける言葉が見当たらず逸架の顔を見つめる。
「時間が分からないから、問題文を読んでる間に試験時間終わっちゃって……テンパって頭真っ白になって気が付いたら五教科終わってた」
「……で、五百点満点中十六点?」
「うん、元気出た?」
「今の話のどこに元気出る要素ありました?」
むしろ逸架の生きにくさに涙が出そうになるのだが。逸架は残念そうな顔をした。
「五条くんは何度話しても大爆笑してくれるよ。定期テストの前後にいつもこの話をねだられてた」
「あの人、人の心がないんですか」
さすがに今度一言言ってやろうか、と七海は思う。
「だから、あの、私の分までというわけではないんですけど――」
言いよどむ逸架に先を続けさせないよう七海は雑に頷く。
「ちゃんと勉強します」
逸架はぎこちない笑みを浮かべて「がんばって」と囁いた。七海は不器用な横顔に「逸架さんも仕事頑張ってください」と言おうとし、どうしても言えなくて口を噤んだ。