郵便受けに放り込まれていた素っ気ない茶封筒を見て肋骨の内側で心臓が調子外れに震えた。封を開けるために鋏を探し、見当たらないので封筒の縁を丁寧に裂いていく。白いコピー用紙が一枚三つ折りで入っていた。七海は内容を改め、細く溜息をつく。
 前髪を掻き上げ、白い紙を封筒に戻し、携帯電話を探す。履歴から逸架の名前を探し、発信した。しばらくコール音が続き、七海は出ないのかと諦めかけていた。
「――はい、逸架です」
 突然コール音が切れ、逸架の声が聞こえる。七海は耳から離しかけていた電話を慌てて握り直した。
「逸架さん、今大丈夫ですか」
「うん、大丈夫」
 ばちん、と逸架の言葉をかき消すような大きな音がした。七海が「逸架さん?」と電話の向こうに声を掛けると「ごめん、携帯落とした」と返ってきた。七海は何から言うか迷い、とりあえず事実だけを伝える。
「編入試験合格しました」
 スピーカーがしばらく沈黙した。七海はまた「逸架さん?」と呼びかける。
「そっか、おめでとうございます」
「ありがとうございます。ご心配おかけしました」
「いや、あんまり心配してなかったよ、七海だし」
 逸架の電話口は随分と騒がしい。駅の雑踏にでもいるのだろうか。
「逸架さん」
「はい」
「お祝いしてください」
「します」
「あと、先日二十歳になりました」
 七海が言うと電話口で逸架は「ああ」とも「うう」ともつかぬ声を漏らした。
「二十歳? 本当に? 重ねておめでとうございます。……七海が、成人? そっか、ええ、なんか……すみません、まだ十代半ばのような気がしていて」
「親戚のおばさんみたいなこと言わないでください」
 何者かの喚き声が七海の鼓膜を刺す。次いで激しい破裂音が響いた。携帯電話のスピーカーがきんきんと震える。七海はもしやと眉をひそめる。
「逸架さん、まさか仕事中ですか」
「……いえ」
「本当に?」
「今終わったところです」
 それを聞いた七海は溜息をつく。何か言おうかと思ったが、それは憚られたので七海は溜息を聞かせるに留めた。
「なので、お酒奢ってください」
 七海が言うと、電話の向こうで逸架が一瞬緊張したのが分かった。逸架はあれ以降お酒からは意図して離れているようだった。少なくとも七海の前で酒を口にすることはなく、酒の話をすることもなかった。
「うん、いいよ」
 だが逸架はゆっくりとそう言った。七海は礼を言い、挨拶をし、電話を切る。立ち尽くしぼんやりと数ヶ月前から捲ることを忘れたままのカレンダーを眺めた。
 それからのろのろと担任に、それから親に、大学に入学手続きを、と頭の中で連絡しなければならない相手をリストアップする。志望校に合格した喜びより試験勉強が無駄にならなかった安堵が勝り、それら全てを言いようのない虚脱感が押し流していく。七海は合格通知を手に取り、また置き、ベッドに沈む。小論文対策に購入し、ほとんど読んでいないまま枕元に放置していた本を手に取り、ぱらぱらとめくり、ゴミ箱に放り投げた。


 *


 七海が選んだ店は繁華街の少し路地に入った場所にあった。大きなガラス窓から温かいオレンジ色の光が漏れている。学生が大騒ぎをするような店ではなく、格式張って敷居が高い店というわけでもない。食事が美味しそうで、お酒のラインナップは気が利いていて、手頃だが猥雑ではなく居心地がいい。
 行き先すら告げられぬまま仕事帰りに捕まり引っ張られてきた逸架は、ほとんど無体といってもいい七海からの仕打ちに小言のひとつも言わなかった。我慢しているというわけではなくあまり気にしていないようで、七海は己の行いながらも逸架が少し心配になる。逸架は店先に置かれたメニューの黒板を見ながら「美味しそう」などと暢気に言っていた。
 店員にテーブルとカウンターどちらになさいますか、と聞かれ、七海はカウンターを選んだ。お互い声を張る方ではないので、少し賑やかな店内ではカウンターの方が会話がしやすい。それに七海は蕎麦屋で気が付いた。大抵の店で応用が利く気付きであった。
 逸架は緊張した手付きでドリンクメニューを取り、上からずらりと眺めていく。途中、逸架は両手で顔を覆った。やはり疲れていたところを無理に連れてきてしまっただろうか、と七海は逸架の顔を覗き込む。逸架は常の恬淡とした表情のまま「まさか七海とお酒を飲む日が来るなんて」と呻いた。それを聞いた七海はなんとなく気恥ずかしさに眉を寄せた。
「親戚のおじさんみたいなこと言わないでください」
「再婚した両親の連れ子の兄妹なので」
「まだ根に持ってます?」
「そういうわけでは」
 ではどういう、と七海が言うと逸架は黙り込んでしまった。はじめは無視されているのかと思いもしたその沈黙が今は心地よくもある。だが先が気になり焦れったくもある。
 七海は身を乗り出しメニューを覗き込んだ。
「何かおすすめはありますか」
 何気なく問うと、逸架は難しい顔をした。細い指先がメニューの上をうろうろする。
「おすすめできるほど詳しくないよ」
 七海は逸架の横顔を見た。暖色の照明を受けてさえ白っぽい頬を眺める。
「逸架さんってお酒飲むんですか」
 逸架は横顔を強張らせ、おそるおそるといったように七海の顔を見る。
「……たまに。付き合いくらい。一人では飲みません」
 顔色を伺うようにそう言われる。飲むんだ、と七海は思う。完全に断っているのかと思っていた。逸架の丸い爪が所在なさげにメニューの端を引っ掻いている。
「七海の言ったことは、ちゃんと守ってる。楽しいときしか飲まない」
 逸架は言うが、七海はそれが何のことを指しているのかぴんとこなかった。そういうことを言っただろうか。言ったような気もした。言った本人さえ忘れた発言を律儀に守っているのが逸架らしかった。じゃあ今日は飲めますね、と言うと逸架は頷き、それから首を横に振る。
「どうかな、寂しくなって飲みすぎるかも」
 そう呟く逸架は冗談めかしているのでも茶化しているのでもなく、本気でそれを懸念しているらしかった。やっぱり飲まないと言われても嫌なので、七海はメニューに視線を戻した。
「実は今日まで本当にお酒を飲んだことがなかったんです」
 七海が言うと、逸架は意外そうな目を上げる。
「まあ、寮は飲酒厳禁だしね」
「受験勉強中に酒を飲む気にもなりませんでしたし、それに酒に溺れる逸架さんを目の当たりにしていたので」
 む、と逸架は唸った。物言いたげな目が七海の上を滑っていく。だが逸架は結局何も言わず「不甲斐ない先輩で申し訳ないです」と呻いた。
「だから、初めてお酒を飲むなら逸架さんと、と決めていました」
 七海が言うと、逸架は一瞬嬉しそうな顔をしたがすぐに心配そうに表情を歪める。
「大丈夫かな? 不吉じゃない?」
「逆に縁起がいいのでは」
「……そういうものでしょうか」
 釈然としない様子で逸架は首を捻った。逸架が気に懸けているのは、もしも七海がお酒に弱い体質で眠り込んでしまったときに果たして己はこの長躯を抱えて帰ることが出来るのか、ということだった。そしておそらくそれはかなり厳しい。五条あたりに付き合ってもらえばよかった、と逸架はふと思った。
「アルコール度数が弱いものからがいいかも」
 逸架は甘く飲みやすいカクテルのあたりを指で示す。七海は真剣な顔でそのあたりを目で追った。
「せっかくはじめてお酒を飲むのにジュースで薄めたものというのも腑に落ちなくないですか」
「……人によるかな」
 メニューを覗き込み、ああでもないこうでもないと最初の一杯も注文せずに議論を続ける二人に痺れを切らした店員が「お飲み物は何になさいますか」と声をかけてきた。逸架はすみませんまだと言おうとし、それを思い直す。
「彼が二十歳の誕生日で初めてお酒を飲むんですけど、何か飲みやすくて美味しくてジュースで割らないものをお願いします」
 逸架が尋ねると店員は眉を上げにこにこ笑った。おめでとうございます、と声をかけられ、七海は「ありがとうございます」と小さく応える。いくつか食事の注文も取り戻っていく店員の背中を見ながら七海は逸架に「誕生日ではないです」と小声で言った。逸架は「伝え方を間違えた」と言いながらメニューを戻す。
 そう待たぬうちに店員がカウンターに華奢なフルートグラスを置いた。淡い金色の液体が注がれていて、ふつふつと小さな泡が上っている。
「シードルです。リンゴのお酒で飲みやすいので。もし気分が悪くなったら無理しちゃ駄目ですよ。お誕生日おめでとうございます」
 また店員に祝われてしまい、七海は横目に逸架を睨んだ。逸架は唇の動きだけで「ごめん」と伝えてくる。
 逸架は指先で割れそうに華奢なグラスを持ち上げた。
「合格おめでとう。それと、成人も」
「――ありがとうございます」
 七海もグラスを持ち上げ、薄いグラスの縁に唇をつけた。酒気とともに甘酸っぱいリンゴの香りとわずかな苦みが口の中に広がる。はらはらと成り行きを見守っていた逸架が「どうですか」と七海の顔色を見る。七海はもう一口それを口に含んだ。淡い黄金色の液面を見下ろす。
「リンゴジュースです」
「美味しい?」
「美味しいです、リンゴジュースなので」
「体調は?」
「今のところは平気です」
 よかった、と胸を撫で下ろす逸架に七海はありがたい気もしたし心配しすぎの気もした。それを指摘すると逸架は真顔で「お酒は怖い」と応じた。含蓄がありすぎて七海は何も言えなくなった。七海が勧めると逸架もグラスに口をつける。薄い唇にアルコールが流れ込んでいくのを見て、七海はうっすらと「うわ」と思った。何がうわなのか自分でもよく分からなかった。
「……リンゴジュースだ」
 逸架も飲むなりそう呟いた。サーブされたボトルのリンゴが描かれたラベルを眺める。容量も大したことのないほっそりとしたグラスの中身を早々に飲み干した七海を見て、逸架は「もう少しゆっくり飲んだほうが……」とおろおろした。わかりました、と七海が答えると逸架は七海の空のグラスにボトルの中身を注ぐ。
 ぽつぽつと運ばれてくる食事を摘みながら、他愛もない話をする。七海が水を向けても逸架は任務の話をしなかった。逸架は呪術師をやめた同期とは連絡を取っていない。表向き推奨されていないとはいえ個人的に細々と連絡を取り合っている人間も多い中、一切の連絡を絶つ逸架はオールドファッションであり珍しいほうだった。逸架は己がけじめと区切りを強く持っていないとあちこちに影響され流されかねないことを承知していた。逸架の強さは己の弱さを知っていることだった。
 逸架は七海に目を掛け可愛がっている。呪術師をやめ、大学に進学し、呪いと無縁の生活を送ることを応援している。それを快く思っていないということなどあり得ない。だが、七海が卒業すれば逸架はもう二度と会わないだろう。七海はそれを、尋ねずとも分かっていた。
 二杯目を飲んでいると、目の奥がふわふわしてくる。初めて口にしたアルコールが全身を巡るのを感じる。変な感じだな、と七海は思った。逸架はメニューを見ながら次のドリンクを決めているところだった。指先が舌を噛みそうな酒の名前を辿る。
「これ、飲んだことある。美味しかったな。これにしようかな」
「どこで飲んだんですか」
 七海が聞くと逸架は「どこだったろう」と首を捻る。いずれにせよ飲んだということは楽しい酒席だったのだろう。逸架はそれを頼み、提供されたグラスに一口だけ口をつけた。
 逸架さん、と七海は逸架の横顔に声をかける。うん? と逸架は七海を見た。
「酔っ払いの戯れ言だと思われる前に真面目な話をしていいですか」
 七海が言うと、逸架は「いいよ」と囁きグラスを置く。緊張した面持ちで逸架は七海を見た。そんなに緊張されると七海まで緊張するのでやめてほしかった。
「私は呪術師としての逸架さんを心から尊敬しています。逸架さんは――優れた術師です。持って生まれた術式だけでなく、努力も、判断力も、誠意も、本物です」
 突然褒められ、逸架は酒のせいでなく顔を赤くした。ありがとうございます、と消え入るような声で呟き、薄い肩を縮こまらせる。七海は逸架の顔を見つめながら、リンゴの香りの纏わり付く息を細く吸う。
「そのうえで、私は逸架さんに呪術師を続けてほしくありません」
 嬉しそうに力の抜けていた逸架の表情が凍り付いた。
「七海――」
「向いていないということは、逸架さんが一番ご存知でしょう。呪術師であるには、逸架さんは……真面目で優しすぎる」
 逸架の双眸が暗く沈む。七海は逸架にそんな顔をさせたいわけではなかった。だが何を言っても逸架を傷付けてしまう気がした。
「呪術師であれば逸架さんは大勢を救えます。でも逸架さんは……逸架さんのことは誰が救ってくれるんですか。私は逸架さんに、誰かよりも自分を大切にしてほしい。いけませんか」
 逸架は黙ってそれを聞いていたが、最後の問いにだけ「いけなくないよ」と答えた。七海の耳朶をその言葉が上滑りしていく。逸架は目を伏せ、通りかかった店員に水を頼んだ。
「逸架さんが一人では……上手く生きていけないことは分かっています。福祉を頼る気がないことも、誰かに必要とされたいことも」
 うん、と逸架は小さく首肯する。ごめん、と謝られ、七海は奥歯を噛んだ。謝らせたいのでもなかった。
「なので、これは一つの合理的な提案として聞いてください」
 七海は上着のポケットから小さな箱を取り出す。蓋を開けて、逸架に差し出す。逸架が受け取らないのでカウンターテーブルに置いた。中身はゴールドのペアリングだった。
「私に頼るというのはいかがでしょう。私が、逸架さんを必要とするというのは」
 七海の祈るような掠れ声に、逸架は黒々とした目を向ける。茫洋とした瞳は感情を窺わせない。七海はそれを目の当たりにするたび逸架が己より遥かに格上の術師であることを思い知らされる。
 店員がカウンターに水のグラスを置く。テーブルの上に無造作に置かれたペアリングの箱を見て何か言いかけた店員は、射殺しそうな目で逸架を睨む七海と、無感動な青白い顔で七海の視線を受ける逸架を順に見て、足早にバックヤードに戻っていった。
「ごめん、水飲んでいい?」
 逸架が言う。七海は短くどうぞと促した。逸架がグラスに口をつける。細い喉が上下した。グラスを置いた逸架は胸の前で手を握り、ほどき、指を一本立てた。
「一つだけ確認させて。……七海と私って、あの、つまり、交際してた?」
「していません」
 間髪入れずに七海が否定すると、逸架は「よかった……いや、よくはないか」と呻く。狂っているのは時間感覚だけで十分だった。己の記憶や認識まで狂い始めたのかと逸架は冷や汗をかいた。
 逸架は静かに息をしながら、目を閉じる。七海は間が持たずに逸架の酒を飲んでいた。シードルより濃いアルコールが鼻を抜けていく。過ぎる時間が寒い部屋で滴る蜂蜜よりも遅く感じる。七海は逸架もこういう時間感覚の中で生きているのだろうかとふと思った。
「もちろん私も最低あと二年は学生なのですぐに十分なサポートが出来るわけではありません。それは念頭においてください」
 グラスにかけられるだけの逸架の指が、綺麗に磨かれた飲み口をゆるゆるとなぞる。
「逸架さんが交際にこだわるならそれを挟んでもいいし、触れられたくないというなら指一本触れません。逸架さんが誰かと付き合っても気にしません。気にする義理もありませんし。呪術師をやめたうえで私と決別する選択をするなら、それでもいいです」
 低く鳴る心臓が、血と不安とアルコールを全身に押し流す。頭がぐらぐらするのが酒のせいか緊張と恐怖のせいか、七海には分からなくなっていた。
「逸架さん、このまま閉店時間まで粘るつもりですか」
 焦れた七海が急かす。逸架は陰鬱な顔をゆるりとカウンターの向こうに向けた。凪いだ横顔は是と言ってくれる気もしたし、否と言う気もした。逸架さん、と七海はもう一度名前を呼ぶ。つ、と逸架の黒い目が七海を見た。
「ごめんなさい、気持ちは本当に嬉しい。七海がすごく考えてそう言ってくれていることは分かる。七海は適当な気持ちでこんなことを言わない。――でも……私は呪術師をやめられない」
 七海は白っぽい逸架の腹立たしいほど淡々とした横顔を見た。そうだろうな、と思った。そう言われるのは、心のどこかで分かっていた。それでも請わずにいられなかった。はく、と七海は引き攣るように息をする。吸った息が喉のあたりで言いたいことと絡まり合いどうにもならなくなる。
「逸架さん、こんな場所に残したくない」
「七海、」
「いっしょに呪いと無関係なふりをしてください。一人では難しくても二人ならどうにでもなる」
「七海、聞いて」
「逸架さんが私を守ってくれたように、私も逸架さんを守りたい」
「七海、今から少しひどいことを言うよ」
「駄目です。言わないで。呪術師なんかクソ食らえだ。やめてから色々考えたっていい」
「もし私にこの術式がなくても、七海はそこまで私に何かしてくれようとした?」
 逸架が本当にひどいことを言うので、七海の心臓はすうと冷えた。冷たい血が指先を震わせる。なんでそんなこと、と七海が呻くと、逸架は自身の発言に打ちのめされたような顔で「ごめん」と項垂れた。
「……しましたよ」
 絞り出すように言うと、逸架はぎゅっと眉根を寄せて「うん、そうだね、七海はするね。ごめん」と囁く。だが、七海は本当にそうと言い切る自信がなかった。術式のない逸架とは、そもそも邂逅の機会さえなかった。ともに仕事をすることも、集合場所に現れない逸架を探し回ることも、分かりにくい優しさを受けることもなかっただろう。
「これが……本当に切り離せるならそうしたと思う」
 これ、と逸架は己の胸を指で示す。
「でもこれがあるから七海に会えたし、多少七海の役に立て――立てていたら嬉しいです。無視して生きていくには、影響力が強い。良くも、悪くもね。無視しても、多分ずっとつらいんだと思う。七海、私は、これはこういうもので、己の一部で、不可分だと……受け入れるしかない」
 七海はそれを聞き、何か反駁しようとし、結局諦めた。
「――断られると思っていました」
 それは半ば真実で、半ば虚勢だった。空虚な七海の言葉に、逸架は苦く微笑む。
「七海は最終的に力技で押し通してくるところが……いや、悪いというわけではないんですけど……ちょっと、ありますよね」
「いけませんか」
「いけなくは、」
 七海はテーブルの上に忘れられたペアリングの小さい方を手に取り、同じくテーブルに所在なさげに置かれた逸架の左手首を握った。逸架は虚を突かれたように七海を見、七海が何をしようとしているのか理解し左手を強く握る。
「七海、諦めてください」
「力技で押し通します」
 七海は無理矢理逸架の手を開かせようとする。男女の力の差があっても握った手を広げさせるのは難しかった。二人はカウンターの上で静かに攻防を繰り広げる。逸架の肘が当たったグラスが音をたてる。
「心変わりしてください」
「しません、七海、ちょっと……」
「してください」
「七海、こら」
 ぺちん、と右手で手を叩かれ、七海は逸架の小指の隙間に捻じ込んでいた手を渋々引っ込めた。グラスが割れる、と逸架は言った。そんなもの、と七海は思った。七海は小さなリングをテーブルの上に置いた。ことん、と音がして、磨かれた表面が暖色の照明で淡く光る。
「気持ちは、本当に嬉しいです。本当に。ありがとう七海」
 逸架は一言一言噛みしめるように言う。七海はふてくされたように頷いた。
「ただ……まあ、私は七海が人生懸けるほどのことはしていないので」
「それは私が決める事です」
「それもそうなんですけど……でも、人生長いし色々あるから。それに七海のご両親に顔向けできませんよこんなの」
 七海はメニューを取り「何か頼んでいいですか」と言う。逸架は疲れた顔で「温かいものが食べたい」と呻いた。逸架が先ほど注文し、ほとんど手を付けないまま七海が飲んでしまったドリンクを七海はもう一度注文する。ほどなく提供されたグラスに口を付ける七海に逸架は温度の低い優しい目を向ける。
「七海、もしよければ、その指輪もらってもいい?」
 テーブルに投げ出されたそれを逸架は指さす。七海は指輪を見下ろし、顔をしかめた。
「いいですよ、使いませんし」
 女性ものの指輪は七海のどの指にも入らない。他の誰かに渡す予定も今のところはない。
「呪術師はやめられないけど、七海の気持ちは……私の支えになるから」
 逸架の指先が指輪を摘まみ上げ、左手の薬指にはめる。
「それに、結婚は多分無理だし、左手の薬指が一生何もないというのも寂し――」
 逸架の言葉がぶつりと途切れ、眉が怪訝そうにひそめられる。
「サイズがぴったりで、七海、これは……ちょっと怖いな……」
 あるべきもののようにそこにぴったりとはまり込む指輪を見て、逸架はやや顔色を曇らせた。七海は鼻を鳴らす。
「私に正確な目測を叩きこんだのは逸架さんです」
「え? ああ、そういう使い方も……」
 本当は逸架がうたた寝をしている間に勝手に測ったが、それを言うと呆れられる気がしたので黙っていた。だがこんな稚拙な言い訳を真に受ける逸架もどうかと思う。
「差し上げますけど、それ本当に結婚指輪なので結構しますよ。大事にしてください」
 七海の言葉に逸架は顔を引き攣らせた。雑貨屋か何かで買ったペアリングだと思っていた。七海は逸架に指輪の値段を耳打ちする。逸架は一瞬天井を仰ぎ、カウンターに肘をつき額を押さえた。逸架のそういう反応を見られただけでその金額を出した価値はあったと七海は思う。
「……買い取ります」
「いいです、私が勝手にしたことなので」
「七海、その、思い切りの良さは買うけど……これはちょっと……断られることは当然見越しておくべきだったと思うよ……」
「不退転の覚悟だったので」
 逸架は薬指のそれをなんともいえない顔で見下ろす。
「七海、それに、こういうときは結婚指輪ではなく婚約指輪ではないでしょうか」
「そのワンクッション無駄じゃないですか。別に本当に結婚したいわけではないですし」
 まあ確かに、と逸架は指輪を居心地悪そうに付けたり外したりする。
「でも、婚約指輪なら違う人に使えたのに」
「……今逸架さん結構な外道発言をしましたよ。私を婚約指輪を使いまわす奴だと思っていたんですか」
「そういうわけでは」
 夜も更けてきて店内は徐々に陽気な声が聞こえるようになっていた。七海は浮かれる気分にもならず、カウンターに肘をつき、顔を手で覆う。
「逸架さん、私逸架さんで一回だけ抜きました」
 七海が言うことの意味が掴めず、逸架は七海の耳のあたりを見る。ようやくその意味を飲み込み、逸架は「はい?」とやや上擦った声を上げた。
「すみません」
「いいけど……言わないで欲しかったかな」
 七海は指の隙間から逸架を睨んだ。
「いいんですか」
「……内心の自由の範疇ではないでしょうか。でも面と向かって伝えられるのは……ちょっと……」
 自慰を憲法で保証される日が来るとは思いもしなかった。
「会ったばかりのときに――あと、受験勉強で死ぬほど暇だったとき」
「七海、言わなくていい……それにそれは、二回だな……」
「逸架さん初対面で全裸だったの、よく考えなくても頭おかしいんですよ。そうなるでしょう、こっちは十代男子ですよ。だってまだ逸架さんがこんな人だって知らなかったし、いや知ってましたけど」
「声が……声が大きい七海……」
 酔ってる? と逸架は心配そうな顔をする。多少酔ってはいたが、正体をなくすほどではない。七海は低く溜息をつく。
「悔しかったのでもう二度としません」
 くやしい? と逸架は鸚鵡返しに呟いた。表情はひたすら困惑気だった。それもそうだろう、と七海は思う。
 年齢相応に逸架の肌に触れたいと思ったことはあった。だが逸架はそれより深く、温く、柔いところに触れさせてくれる。静かに注がれるぬるま湯のような優しさを、それを向けられる喜びを、溺れる心地よさを、七海は知ってしまった。
「この歳で不能になったらどうするんですか」
「……泌尿器科かな」
「マジレス禁止です」
 逸架は納得のいかない顔はしたが「すみません」と肩を竦めた。
「逸架さんに何かしてほしいわけじゃない」
 七海は己の手のひらに吐き出す。逸架の顔が見られなかった。
「ただ――優しい人には、優しい場所にいてほしい。本当にそれだけです」
 それは祈りであり通すべき義理だった。愛だと言い換えたいならそれでもいい。七海はただひたすらに、逸架に心穏やかでいてほしい。誰も失ってほしくないし、傷つかないでほしい。それを黙って聞いていた逸架は「うん、ありがとう」と囁き、目を細める。
「わかってる、ありがとう。でも七海、私は優しくないし、この世に優しい場所もない」
 七海の喉が引き攣った。逸架は水を口に含む。瞳が空の皿に落とされた。
「七海が隠しておくべきことを言ったから、私も言ってしまうね。夏油くんに会った。一緒に来ないかって言われた」
 七海はぎょっとして上体を起こした。選ぶ話題の重さに差がありすぎて目が回る。正気かこの人、と七海は久しぶりに何度目かそう思った。ふわふわと心地よかった酔いも一度に醒める。
「それは……本当に言っては駄目なやつでは」
「七海も相当だった」
「比べ物になりません」
 酔ってます? と七海は逸架の顔を覗き込む。逸架は少し笑った。逸架は夏油の「容認と賞賛のため屠るのは呪霊でも人間でも変わらない」という言葉をずっと考えていた。それは全くその通りで、もしかすると逸架は何かの拍子にその道を選んだかもしれない。逸架がそう言うと、七海は目を閉じ眉を寄せる。
「……それ、最後まで聞いて大丈夫なやつですか、もろとも処分されたりしませんか」
 逸架は神妙な顔で口を噤む。七海は「いいです、どうせやめるんで墓場まで持っていきます。話してください」と先を促す。逸架は迷うようにぽつぽつと言葉を継いだ。
「七海が呪術師をやめるなら、私は七海に呪いが降りかからないように、呪霊を祓う側でいたいと思った」
「……予想より遥かに重くてもう誰かに話して楽になりたいです」
 七海が言うと逸架は困り果てた顔をしたが、そんな顔をしたいのは七海の方だった。己は逸架に呪いから離れてほしいと願ったが、その願いがむしろ強く逸架を彼岸に縛り付けたのかもしれない。
「私は優しいわけじゃない。誰かのためには頑張れない、……でも七海のためなら多少は耐えられる、多分」
 それでいいですか、と逸架は指輪をくるくると回す。七海はばかじゃないんですかとだけ答えた。
「やっぱり逸架さん呪術師向いていませんよ。今すぐやめたほうがいい」
「……いやそれは、」
「呪術師なんてやめてくれって泣き喚いて縋ればよかった」
 七海に甘い逸架は、そうすれば己の意思を曲げて呪術師をやめてくれたかもしれない。逸架は想像したのか口をへの字にする。
「それは……押し切られそうで怖いので、やめてください……」
「あと五、六杯飲んだら出来るかもしれません」
「勘弁してください……」
 本気で怯える逸架に七海は「しませんよそんなこと」と溜息をつく。七海は逸架の意に反して、望まぬことをさせたいわけではない。そんなことをしても七海は自分自身を許せなくなるだけだ。
「そろそろ帰ろうか、それとも何か頼む?」
 冷えて固まったソースが残るだけの皿を見て、逸架は言った。



 駅から高専に向かいながら空を見る。郊外とはいえ繁華街の光がぼんやりと遠くに見える明るい空には埃のような小さな星が死にかけのように明滅している。逸架はそれを見上げながら「星のきれいなところでキャンプしたい」と言い、七海はそれに対して帰路何度言ったか忘れた「呪術師やめればいいじゃないですか」を口にした。三度目あたりから逸架は七海のその言葉を相手にしなくなっていて、今回もそのまま薄ぼんやりとした空を見ていた。
「呪術師はやめたほうがいいですけど、呪詛師にはならなくて正解です」
 七海が歩きながら言うと、逸架は七海に視線を向ける。
「人間は殺し尽くしてしまえばおしまいですけど、呪霊は人間がいる限りキリがない。逸架さんにとっては、そっちのほうが都合がいいでしょう」
 七海の不穏な言葉に逸架は声を上げて笑った。七海は逸架がそういうふうに笑うのを初めて見たので、呆気にとられてその横顔を見ていた。逸架は短く笑ったあと、七海の視線に気が付き決まり悪そうに目を逸らす。
「七海、そんな、悪役みたいな……」
 言いながらこらえきれないように笑っている。肩が震えていた。
「逸架さんはつまらないポップスの歌詞みたいなこと言ってましたけど」
「はい、すみません」
 謝りながら、逸架の口元が弛んでいる。思い出しては笑っているので、七海は顔をしかめた。この話はもうおしまいです、という態度をとれば、逸架はそれを汲んだ。七海、と淡々と名前を呼ばれ、七海は応える。
「七海は私のマクスウェルの悪魔なので」
 七海はそれを聞き、意味を咀嚼し、推測し、それが逸架の言わんとするところとおおよそ離れていないことに賭けた。
「だからといって微妙に分からないことを言うのはやめてください」
「死んでほしくない。呪いと無縁な生活を選んでくれてほっとしてる。七海が死んだら私は困る」
「そいつは一九八二年に死んでますけど」
「死ぬときは――私の知らないところで、死んでほしい。知らないままなら、死んでいないのと同じだから」
「逸架さんこそ悪役みたいなこと言い出しましたね……」
 ごめん、と逸架は俯く。
「私は破滅主義かもしれないけど、七海のためなら前向きに破滅できる」
「本当に怖いんでやめてもらえますか」
 逸架はしばらく何事か考えていたが、何かを思いついたように七海に少し得意げな顔を向ける。
「身を引く愛もある、というところで、ひとつ――いかがでしょうか」
 言葉はだんだん尻すぼみになった。七海は逸架のその発言に無性に腹が立ち、逸架の顔を睨む。後輩を使って壮大な思考実験をするのはやめてほしい。
「薬指を七対三で切り落としてやろうかと思いました」
 逸架は眉を下げ、自身の手のひらを見つめる。
「残るのは七?」
「三です」
「それは、困る」
 夜闇で指輪が鈍く光るのを、七海はぼんやりと見下ろした。
「そんなの、左手の薬指にしていたら五条さんあたりに嫌というほど揶揄われますよ」
 七海の言葉を受け、逸架は指輪を右手に付け替える。七海は肺が潰れるほど溜息をつき歩きながら逸架に寄りかかった。逸架は七海の長躯を支えられずよろよろと蛇行する。
「七海、まっすぐ歩いて……酔ってる?」
 逸架の体は生垣にめり込み、がさがさと細い枝を掻き分けている。七海は、己一人支えられぬ逸架の非力さを思いながら「どうして逸架さんばかり」と呻く。子供の駄々に似た七海の吐露に、逸架は「本当にね」とだけ答えた。
「酔ってるので寮には帰れません。泊めてください」
「いいよ、何もないけど」
 職員宿舎の生活感の薄い部屋に帰り着き、七海は真っ先にお湯を沸かす。熱い茶を淹れ、啜りながらぽつりぽつりとこれまでのことと、これからの話をする。逸架はローテーブルに肘をついてそれを聞いていた。その中で七海は四回「呪術師なんかやめればいい」と恨み言を吐き、五回目を言いかけたところで逸架に真顔で「七海、寝たら?」と言われた。

 水音で目を覚ました七海はタオルケットを肩まで引き上げ、それが自分の部屋のものと全く違う香りと手触りであったので跳ね起きた。一瞬混乱し、昨晩逸架にさっさと寝ろとばかりに寝室に追いやられたことを思い出す。こんな形で逸架の寝室に入ることになるとは思わなかった。枕元のサボテンの鉢を手に取り、そっと元に戻す。
 居間に行くとローテーブルにノートパソコンが広げられていて、何気なく覗くと任務の報告書の様式が表示されていた。もうそれになじみが薄くなって久しい。肩にタオルをかけて居間に戻ってきた逸架が、さりげなくというにはぎこちなくノートパソコンを閉じた。
「おはようございます。早いですね……寝ていないんですか」
 七海が言うと逸架は不思議そうな顔をし、白い陽光が射し始めた窓の向こうに視線を向ける。
「もう朝?」
 当然というべきか、逸架の部屋には時計がなかった。七海は携帯の時計を確認する。
「そうですね」
 ああ、と逸架は呻いた。
「すみません、私が布団を使ってしまっていたので」
「眠くなかっただけだよ」
 逸架は部屋入ってもいい? と寝室を指す。七海は眠い目をこすりながら「どうぞ」と答えた。逸架が消えた寝室から慌ただしい身支度の音が聞こえる。七海はお湯を沸かし二人分のお茶を淹れながらそれを聞いていた。やがて部屋から出てきた逸架が仕事用の上着を抱えていたので、七海は出し終えたティーバッグを捨てながら「仕事ですか」と尋ねた。
「補助監督の人が、すごく、困ってる、急いでます」
 そう言いながらこの人風呂に入っていたな、と思いながら七海はうろうろと何かを探している逸架を眺めていた。
「逸架さん、部屋の鍵はテーブルの下です」
「……助かります」
 逸架は鍵を拾い上げる。七海がカップを差し出すと、躊躇したがそれを手に取った。
「申し訳ないんですけど、鍵お願いします」
「カップも洗っておくし、ごみも出しておくし、サボテンに水もやっておきます」
「いや、そこまでは……すみません」
 逸架はお茶を半分飲むと小走りで部屋を出ていった。七海はそれを見送り、サボテンに水をやるためコップに水を汲んだ。


 *


 冬の寒さが緩み春の気配がする頃、七海は高専を卒業した。
 寮の退去はもう済んでいたので、七海は卒業証書と書類を受け取るために高専に赴いた。派手な式典はないので職員室で事務手続きだけを行う。担任が「頑張れよ」と七海の背を叩いた。
 逸架とはあれから幾度か顔を合わせたが、近頃は忙しく高専に寄り付くことが出来ていないようだった。もしかするとまた誰かとの見合いをすっぽかしてお偉方を怒らせたのかもしれない。最後の日くらいは会えないか、とちらと思ったがそれを直接要求するのは気が引けた。
 なので下足入れのネームシールを爪で剥がしているところに逸架が下駄箱の裏からぬっと現れたときに、七海は声も出ないほど驚愕した。
「卒業おめでとうございます」
 常と変わらぬ調子でそう丁寧に頭を下げられ、七海は思わず無言のままそれに倣い会釈する。逸架は「すみません少し急いでいて」と七海に小さな箱を押し付ける。サイズの割に重かった。昇降口の方でスーツ姿の補助監督が腕時計に忙しなく何度も視線をやりながらこっちを窺っていた。おそらく逸架の想定の倍は時間がないのだろう。
「逸架さん、これ」
「卒業祝いと、あと、お礼です」
 逸架の右手には七海が贈り損ねた指輪が鈍く光っている。
「逸架さん」
「こんなの、もう買うことないよ」
 逸架が言うので、七海は箱を見下ろす。中身の見当はつかなかった。ごめん、それじゃあ、と足早に去ろうとする逸架に七海は声をかける。逸架は足を止め、振り返る。
「色々、ありがとうございました。逸架さんのことは忘れません」
 七海は深く頭を下げる。逸架は恥じ入り、体を縮こまらせた。それから、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「――お元気で。もう会うことがないことを願ってる」
 逸架の言葉に、七海は小さく頷いた。


 帰路、電車の座席に座り、七海は卒業祝いの包みを開ける。添え書きも何もない素っ気なさが逸架らしかった。高級感のある箱の中身は腕時計だった。こんなの買うことがない、という逸架の言葉を思い出す。そうだろうな、と七海は思った。
 七海はそれを左手首に嵌める。秒針が規則正しく時間を刻んでいた。七海はその場で携帯を取り出し、逸架の連絡先を削除する。彼女の思いを踏みにじるわけにはいかなかった。
 連絡先を削除しますか、という文言をしばらく見下ろし、削除ボタンを選択した。